煙は本音を語らせる
煙は、いつも人より先に本音を吐く。
ここはネットカフェの喫煙所だ。
狭くて薄暗くて、床のタイルは少し浮いている。
昼はカップ麺とコーヒーの匂い、夜は柔軟剤と疲れた体温の匂いが混ざる。
俺はその片隅に固定された、ただの灰皿だ。
金属製で、丸く、動けない。
話すことも、選ぶこともできない。
それでもここに来る人間の「今日の続き」を、
誰より近くで見ている。
誰も、この場所を好きで使っているわけじゃない。
タバコを吸わないとやっていけない数分間だけ、
ここに立ち寄る。
火のつけ方で迷いがわかり、
吸い込み方で焦りがわかり、
押しつける強さで限界がわかる。
人間は、タバコほど素直じゃない。
だけど、この狭い喫煙所では、
その不器用な本音が煙に混ざって、
最後には俺のなかに吸い殻として落ちてくる。
今日もまた、
いくつかの人生が、この小さな部屋を通り過ぎていく。
***
午後三時を少し過ぎたころ、
喫煙所の空気がゆっくりと重くなる。
昼休みの騒がしさが引いて、
働いてきた体の匂いだけが残る時間だ。
最初のドアが開く。
作業服の男が入ってくる。
配送センターで仕分けの仕事をしている男だ。
段ボールの繊維が、服の袖や裾に細かくついている。
立ちっぱなしの疲れが足の裏に溜まっているらしく、
歩くたびに、重心がわずかに揺れる。
タバコを取り出す指先に、静電気が軽く走る音がした。
ライターの火が小さく灯る。
男は深く吸い込む。
最初の一口で、今日のきつさがだいたい分かる。
少し遅れて、警備員の制服を着た男が来る。
胸元の反射材が、喫煙所の弱い照明を鈍く返した。
夜勤が多いのか、肌の色がやや薄い。
冷たい風の名残が、袖口からまだ抜けきっていない。
軽く会釈をする。
配送の男も、あごをほんの少しだけ動かして返す。
名前も知らない。
けれど、毎日のように同じ時間に顔を合わせていれば、
挨拶ぐらいは自然に出る。
三人目の男が来る。
工場のレーン作業をしている。
肩の上下に、同じ動きを繰り返してきたリズムがまだ残っている。
頭のどこかが、いまだにベルトコンベアの速度に合わせたままのようだ。
三人は、壁際にそれぞれ散る。
距離は近すぎず、遠すぎない。
友達でもなく、完全な他人でもない。
会話も、沈黙も、どちらも許されている距離だ。
「最近どうですか」
配送の男が言う。
声は小さいが、よく通った。
「寒いですね。夜は特に」
警備の男が答える。
短く、事実だけ。
「冷凍庫もきついっす」
工場の男が言う。
それ以上の説明はなかったが、
三人にはその一言で十分だった。
換気扇の音が大きく聞こえる。
沈黙は重いが、気まずくはない。
三人とも、一日のうちに何度かこういう沈黙を通り過ぎてきている。
配送の男が、ふと思い出したように言った。
「あの単発バイト……やめたほうがいいっすよ」
「どれですか」
警備が聞く。
「倉庫。休憩なしで四時間。ミスると怒鳴られっぱなし」
「ああ……求人、優しいって書いてたとこ?」
「そうっす。それが一番キツいパターンです」
工場の男が、口だけで笑った。
「優しい現場なんて、求人に書かないですよ」
三人とも、同じタイミングで吹き出した。
声は揃わないが、笑う温度は似ていた。
漫画の話になり、
誰かがすすめた作品のタイトルが出る。
映画の話にも少しだけ触れる。
“この前見た” と言える映画があることは、
彼らにとって、思っている以上に貴重なのかもしれない。
「いつか……ちゃんとした家、住みたいっすね」
誰が最初に言ったのか、はっきりしなかった。
三人とも同じように、
少し笑いながら口にしそうな言葉だったからだ。
「まあ……そうですね」
「家賃、高いけど」
「貯金、増えないし」
返ってくる言葉はどれも小さい。
夢というより、
“そう言える程度の余裕が、まだ自分に残っている”
ことを確かめ合うような口ぶりだった。
三人は、タバコを最後まで吸い切らない。
フィルターの手前で火を消し、俺の中に押し込む。
生きるために必要な最低限の火力だけ使って、
あとは明日に回すような吸い方だ。
ドアが閉まると、喫煙所は急に静かになる。
残された吸い殻は三本。
どれもよく似た長さで、よく似た潰れ方をしていた。
明日も同じ時間に、
彼らはここに来るだろう。
仕事は変わらず、部屋も変わらず、
ただ一日だけ年を取る。
それを知っているのは、
三人自身より、ここに固定された俺のほうかもしれない。
***
夜が少し深くなる。
店内の笑い声は減り、
モニターの光だけが通路に漏れる。
喫煙所のドアが、静かに開いた。
細い女と、その後ろに男が立っている。
デートの帰りなのか、
服には外の冷たい空気と、
少しだけ甘い香水の匂いが残っている。
二人とも、この喫煙所に入るのは初めてのようだった。
扉を閉めてから数秒、
狭さを確かめるように辺りを見回していた。
「ここ、狭いね」
女が言った。
声には、軽くしようとする意図と、
隠しきれていない疲れが混ざっていた。
「まあ、ネットカフェだし」
男はそう言って笑ったが、
笑いがうまく形になっていなかった。
女はタバコを取り出す。
手つきが少しぎこちない。
慣れていないから、というより、
頭の中が別のことで埋まっている手つきだった。
火をつけて一口吸う。
煙は細く途切れ、
肺に入りきる前に口元から漏れていく。
男もタバコに火をつけた。
吸い込む量が少し多い。
考え事をしている人間の吸い方だった。
しばらく、何も話さなかった。
二人の距離は、
付き合い始めのカップルにしては遠く、
同棲して何年も経った夫婦にしては不自然に近かった。
「……なんか、思ってたのと違うね」
女が、小さく言った。
視線は床に落ちている。
「部屋が?」
「それもだけど」
そこから先は、言葉にならなかった。
今日、二人がこの場所に来た目的は、
理解できないわけではない。
部屋を取る前の、
カウンターでの目線や声の調子。
どこか期待を含んだ空気。
それが、この喫煙所の湿った空気に触れた途端、
急に重くなってしまったように見えた。
男が、タバコを見つめたまま口を開く。
「最近さ……なんか、うまくいかないよな」
「うまく?」
「ほら……そういうの」
曖昧な言い方だった。
それ以上は、口に出さなくても共有されているようだった。
女はタバコの先端を見つめ、
小さく煙を吐く。
「別に、嫌になったわけじゃないよ」
男が言った。
「なんか……疲れてただけで」
「うん。わかってるよ」
女の声は穏やかだった。
責めるような調子ではない。
ただ、どこか遠かった。
沈黙が落ちる。
換気扇の音が、さっきより大きく聞こえた。
女が、壁にもたれながら言う。
「……今日は、やめとこ」
男は少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、
すぐに頷いた。
「ああ。ごめん」
その「ああ」の中には、
安堵と、落胆と、諦めが少しずつ混ざっていた。
女は、半分も吸わないうちにタバコを消した。
俺の中で、火の消えた吸い殻が乾いた音を立てる。
男のタバコも、似たような長さで落ちてきた。
二人は喫煙所を出ていく。
女が先に歩き、男が数歩遅れてついていく。
廊下に響く足音は、
距離を測るには十分な音量だった。
恋人が恋人でなくなっていくとき、
大きな事件が起こるわけじゃない。
ただ、こういう短い沈黙と、
「今日はやめよう」という小さな選択が、
何度も重なるだけだ。
燃え残ったタバコの長さを見ながら、
俺はそんなことを考える。
***
夜九時前。
喫煙所の空気が、また少し入れ替わる。
ダーツの音と笑い声が遠くから聞こえていた。
その音が途切れたと思ったら、
ドアが開く。
ジャケットを着た男と、パーカー姿の男。
大学生だ。
服装のラフさと、
どこかまだ“自分が若い”と信じている足取りで分かる。
「今日マジ当たんねえ」
ジャケットの男が笑いながら言う。
「途中から的ぼやけてきたわ」
パーカーの男が返す。
二人は壁際に散り、それぞれタバコに火をつけた。
さっきまでの騒がしさは少しだけ削られ、
声のトーンが少し低くなっている。
「就活、どうよ」
ジャケットの男が聞く。
「……エントリー、三つ」
パーカーの男が言う。
「少な…もっと出せよ。みんな十とか言ってるぞ」
「わかってるよ」
その「わかってる」は、
分かっているのに動けない人間の口ぶりだった。
自己PRが書けないこと、
やりたいことがはっきりしないこと、
周りの進捗だけが目に入ること。
そういう話が続く。
「グループディスカッションとかマジ無理なんだけど」
「聞いてますアピールと、発言してますアピールのやつでしょ」
「そう。それ。
それを就活のために練習してるの、何なんだろうな」
煙が少しずつ溜まる。
狭い空間の中で、
彼らの不安が増えるたびに、
タバコの火も大きくなるように見えた。
そこへ、ドアがもう一度開く。
配送センターの男が入ってきた。
さっきと同じ作業服のまま。
軽く会釈をして、空いている壁際に立つ。
「あ、どうも」
ジャケットの男が、反射的に頭を下げる。
配送の男は、短く頷くだけだった。
三人が揃うと、
喫煙所の空気の温度がわずかに変わった。
大学生二人は小声になる。
「この人たち、ここ住んでるよな、多分」
パーカーの男が囁く。
「いつもいるしな」
ジャケットの男が答える。
配送の男は、何も言わない。
聞こえているのかいないのか分からない。
ただ、タバコを吸って、煙を吐いている。
「俺、ああはなりたくねえな」
パーカーの男が言った。
その言い方には、
バカにするというより、
自分を守るための線を引いているような響きがあった。
「ちゃんと就活して、
どっか入って、
普通の家借りて、
普通に暮らしたいわ」
「普通に、ね」
ジャケットの男が繰り返す。
配送の男はタバコを吸い終え、
吸い殻を俺の中に落とした。
燃え残りは短く、
今日だけで何本も吸ってきたタバコの一本、
という感じがしていた。
彼は何も言わずに喫煙所を出た。
扉が閉まり、
残された大学生二人は数秒黙り込む。
「……ちゃんとやろうぜ、就活」
ジャケットの男が言う。
「ああ。ああはなりたくないし」
二人はそれぞれの“ああ”を頭に浮かべながら、
タバコを途中で消した。
俺の中に落ちた吸い殻は、
日雇い三人のものより少しだけ長かった。
まだ燃やせるものが残っている、
とも言えるし、
燃やしきる前に別の場所に行くつもり、
とも言える。
どちらが正しいかは、
きっと明日以降の話だ。
***
深夜が近づいてくると、
人の声はさらに減る。
ガラッ、とドアが開いた。
くたびれたスーツの男が入ってくる。
ネクタイが緩んでいて、
シャツのボタンがひとつ余計に外れている。
袖口にはインクの染みのような跡があった。
男は無言でタバコを取り出し、火をつけた。
吸い込む息が、途中で少し引っかかる。
「……はぁ」
ため息が、煙と一緒に漏れる。
しばらくすると、
ポケットの中で携帯が震えた。
男の目がわずかに強張る。
画面を見て、
小さく舌打ちを飲み込み、
通話ボタンを押す。
「……はい。
はい、すみません」
声が急に小さくなる。
喫煙所という狭い空間が、
その小ささを余計に際立たせた。
「はい……。
ええ……。
申し訳ありません。
すぐ戻ります」
聞いているのは相手の声のはずなのに、
自分を責める言葉ばかりを聞かされているような顔だった。
通話が切れると、
男は何秒かその場で固まった。
「……なんで、俺ばっか……」
誰にも届かない独り言。
床に落ちるほど小さな声。
「全部、俺に回ってくるじゃん……
あいつのミスなのに……」
壁の一点を見つめたまま、
言葉がぽつぽつと落ちていく。
「俺が残業しなきゃ回らないとかさ……
じゃあ給料上げろよ……」
怒鳴り声ではなかった。
怒る力すら残っていないときに出る、
水気の多い言葉だった。
タバコを、俺に押しつける。
力は強くないが、
フィルターの残りはまだ長い。
吸いきれない気持ちが残っている証拠だ。
また携帯が震える。
男は目を閉じ、
何度目か分からない深呼吸をして、
通話ボタンを押す。
「……はい。今、戻ります」
短くそう言って、
男は背筋を無理やり伸ばした。
姿勢を正すというより、
自分を無理やり再起動させるような動きだ。
ドアに手をかける瞬間、
指が少しだけ止まった。
戻りたくない気持ちが、
手の甲の筋肉を一瞬だけ固くする。
それでも、
男は喫煙所を出ていった。
残されたのは、
長く燃え残った吸い殻と、
冷えかけた空気だけだった。
***
深夜一時。
店内の音はほとんどしなくなった。
いくつかのブースから、
動画の音やキーボードの打鍵が、
細く漏れているだけだ。
喫煙所には誰もいない。
換気扇の音だけが続いている。
俺の中には、
今日一日で落とされた吸い殻が重なっている。
日雇い三人の、
同じ長さで押しつぶされた吸い殻。
セックスレスのカップルの、
燃え残りの多い二本。
就活中の大学生二人の、
焦りを多く含んだ吸い殻。
サラリーマンの、
半分以上を残して消された一本。
どれも形は少しずつ違うのに、
共通しているのは、
どれも途中で消されているということだ。
完全に燃え尽きた吸い殻は少ない。
人間は、
何かを燃やしきる前に次の場所へ移動し、
別の不安や疲れを抱え込む。
この狭い喫煙所は、
そういう“途中のまま”が
一日に何度も持ち込まれ、
何度も置き去りにされる場所だった。
俺は無機物だ。
何かを選ぶことも、
誰かに近づくこともできない。
それでも、
ここに落ちてきたものを見て、
少しだけ思うことはある。
人間は、広い場所ではうまく嘘をつける。
距離があれば、
笑顔も、冗談も、冗長な説明も使って、
ごまかすことができる。
でも、この喫煙所みたいに狭い場所では、
ごまかしが利かない。
壁の近さと、
煙の濃さと、
換気扇の音に囲まれると、
言葉より先に、
体のほうが本音を零してしまう。
タバコを持つ指の震え。
吸い込む深さ。
視線の落ちる先。
火を消すタイミング。
そういう細かいところに、
人間は自分の事情を隠し忘れていく。
それを見て、俺は何を思うか。
哀れだ、とはあまり思わない。
偉そうなことを言えるほど、
俺は人間を知らない。
ここに来るのは、
人生のごく一部分を持ち込んでいく人たちだけだ。
ただ、
「変わらないな」とは思う。
今日も、
三人の男は夢というには弱い希望を話して帰っていった。
カップルは、
“今日はやめる”という小さな決断をした。
大学生は、
誰かを下に見て自分を保とうとした。
サラリーマンは、
誰にも届かない愚痴を煙と一緒に吐き出した。
明日も、
同じようなことが繰り返されるのだろう。
配送センターは明日も忙しく、
警備は明日も寒く、
レーンは明日も速い。
カップルの沈黙は、今日より少し長くなるかもしれない。
大学生の不安は、エントリー数と一緒に増えていくだろう。
サラリーマンのため息もまた深くなる。
誰も劇的には変わらない。
でも、人間はそれでも明日を迎える。
変わらないまま、
変わらない一日を積み重ねながら、
何かが変わってしまうのをどこかで怖れている。
俺は、ただ見ているだけだ。
ここに落ちる吸い殻の数と形で、
今日がどんな日だったかを知る。
そして、
明日もまた、
誰かの本音が煙になって、
この狭い空間に落ちてくる。
煙は、いつも人より先に本音を吐く。
その本音が、
ちゃんと誰かに届くことはほとんどない。
ほとんどの場合、
それは俺の中で冷えて、
ただのゴミになる。
それでも人間は、
タバコに火をつけ続ける。
明日もきっと、ここで。




