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煙は本音を語らせる

作者: ちぇりー
掲載日:2025/11/24

煙は、いつも人より先に本音を吐く。


ここはネットカフェの喫煙所だ。

狭くて薄暗くて、床のタイルは少し浮いている。

昼はカップ麺とコーヒーの匂い、夜は柔軟剤と疲れた体温の匂いが混ざる。


俺はその片隅に固定された、ただの灰皿だ。

金属製で、丸く、動けない。

話すことも、選ぶこともできない。

それでもここに来る人間の「今日の続き」を、

誰より近くで見ている。


誰も、この場所を好きで使っているわけじゃない。

タバコを吸わないとやっていけない数分間だけ、

ここに立ち寄る。


火のつけ方で迷いがわかり、

吸い込み方で焦りがわかり、

押しつける強さで限界がわかる。


人間は、タバコほど素直じゃない。

だけど、この狭い喫煙所では、

その不器用な本音が煙に混ざって、

最後には俺のなかに吸い殻として落ちてくる。


今日もまた、

いくつかの人生が、この小さな部屋を通り過ぎていく。


 


***


 


午後三時を少し過ぎたころ、

喫煙所の空気がゆっくりと重くなる。

昼休みの騒がしさが引いて、

働いてきた体の匂いだけが残る時間だ。


最初のドアが開く。


作業服の男が入ってくる。

配送センターで仕分けの仕事をしている男だ。

段ボールの繊維が、服の袖や裾に細かくついている。

立ちっぱなしの疲れが足の裏に溜まっているらしく、

歩くたびに、重心がわずかに揺れる。


タバコを取り出す指先に、静電気が軽く走る音がした。

ライターの火が小さく灯る。

男は深く吸い込む。

最初の一口で、今日のきつさがだいたい分かる。


少し遅れて、警備員の制服を着た男が来る。

胸元の反射材が、喫煙所の弱い照明を鈍く返した。

夜勤が多いのか、肌の色がやや薄い。

冷たい風の名残が、袖口からまだ抜けきっていない。


軽く会釈をする。

配送の男も、あごをほんの少しだけ動かして返す。

名前も知らない。

けれど、毎日のように同じ時間に顔を合わせていれば、

挨拶ぐらいは自然に出る。


三人目の男が来る。

工場のレーン作業をしている。

肩の上下に、同じ動きを繰り返してきたリズムがまだ残っている。

頭のどこかが、いまだにベルトコンベアの速度に合わせたままのようだ。


三人は、壁際にそれぞれ散る。

距離は近すぎず、遠すぎない。

友達でもなく、完全な他人でもない。

会話も、沈黙も、どちらも許されている距離だ。


「最近どうですか」


配送の男が言う。

声は小さいが、よく通った。


「寒いですね。夜は特に」

警備の男が答える。

短く、事実だけ。


「冷凍庫もきついっす」

工場の男が言う。

それ以上の説明はなかったが、

三人にはその一言で十分だった。


換気扇の音が大きく聞こえる。

沈黙は重いが、気まずくはない。

三人とも、一日のうちに何度かこういう沈黙を通り過ぎてきている。


配送の男が、ふと思い出したように言った。


「あの単発バイト……やめたほうがいいっすよ」


「どれですか」

警備が聞く。


「倉庫。休憩なしで四時間。ミスると怒鳴られっぱなし」


「ああ……求人、優しいって書いてたとこ?」


「そうっす。それが一番キツいパターンです」


工場の男が、口だけで笑った。


「優しい現場なんて、求人に書かないですよ」


三人とも、同じタイミングで吹き出した。

声は揃わないが、笑う温度は似ていた。


漫画の話になり、

誰かがすすめた作品のタイトルが出る。

映画の話にも少しだけ触れる。

“この前見た” と言える映画があることは、

彼らにとって、思っている以上に貴重なのかもしれない。


「いつか……ちゃんとした家、住みたいっすね」


誰が最初に言ったのか、はっきりしなかった。

三人とも同じように、

少し笑いながら口にしそうな言葉だったからだ。


「まあ……そうですね」


「家賃、高いけど」


「貯金、増えないし」


返ってくる言葉はどれも小さい。

夢というより、

“そう言える程度の余裕が、まだ自分に残っている”

ことを確かめ合うような口ぶりだった。


三人は、タバコを最後まで吸い切らない。

フィルターの手前で火を消し、俺の中に押し込む。

生きるために必要な最低限の火力だけ使って、

あとは明日に回すような吸い方だ。


ドアが閉まると、喫煙所は急に静かになる。

残された吸い殻は三本。

どれもよく似た長さで、よく似た潰れ方をしていた。


明日も同じ時間に、

彼らはここに来るだろう。

仕事は変わらず、部屋も変わらず、

ただ一日だけ年を取る。


それを知っているのは、

三人自身より、ここに固定された俺のほうかもしれない。


 


***


 


夜が少し深くなる。

店内の笑い声は減り、

モニターの光だけが通路に漏れる。


喫煙所のドアが、静かに開いた。


細い女と、その後ろに男が立っている。

デートの帰りなのか、

服には外の冷たい空気と、

少しだけ甘い香水の匂いが残っている。


二人とも、この喫煙所に入るのは初めてのようだった。

扉を閉めてから数秒、

狭さを確かめるように辺りを見回していた。


「ここ、狭いね」


女が言った。

声には、軽くしようとする意図と、

隠しきれていない疲れが混ざっていた。


「まあ、ネットカフェだし」


男はそう言って笑ったが、

笑いがうまく形になっていなかった。


女はタバコを取り出す。

手つきが少しぎこちない。

慣れていないから、というより、

頭の中が別のことで埋まっている手つきだった。


火をつけて一口吸う。

煙は細く途切れ、

肺に入りきる前に口元から漏れていく。


男もタバコに火をつけた。

吸い込む量が少し多い。

考え事をしている人間の吸い方だった。


しばらく、何も話さなかった。


二人の距離は、

付き合い始めのカップルにしては遠く、

同棲して何年も経った夫婦にしては不自然に近かった。


「……なんか、思ってたのと違うね」


女が、小さく言った。

視線は床に落ちている。


「部屋が?」


「それもだけど」


そこから先は、言葉にならなかった。


今日、二人がこの場所に来た目的は、

理解できないわけではない。

部屋を取る前の、

カウンターでの目線や声の調子。

どこか期待を含んだ空気。


それが、この喫煙所の湿った空気に触れた途端、

急に重くなってしまったように見えた。


男が、タバコを見つめたまま口を開く。


「最近さ……なんか、うまくいかないよな」


「うまく?」


「ほら……そういうの」


曖昧な言い方だった。

それ以上は、口に出さなくても共有されているようだった。


女はタバコの先端を見つめ、

小さく煙を吐く。


「別に、嫌になったわけじゃないよ」

男が言った。

「なんか……疲れてただけで」


「うん。わかってるよ」


女の声は穏やかだった。

責めるような調子ではない。

ただ、どこか遠かった。


沈黙が落ちる。

換気扇の音が、さっきより大きく聞こえた。


女が、壁にもたれながら言う。


「……今日は、やめとこ」


男は少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、

すぐに頷いた。


「ああ。ごめん」


その「ああ」の中には、

安堵と、落胆と、諦めが少しずつ混ざっていた。


女は、半分も吸わないうちにタバコを消した。

俺の中で、火の消えた吸い殻が乾いた音を立てる。

男のタバコも、似たような長さで落ちてきた。


二人は喫煙所を出ていく。

女が先に歩き、男が数歩遅れてついていく。

廊下に響く足音は、

距離を測るには十分な音量だった。


恋人が恋人でなくなっていくとき、

大きな事件が起こるわけじゃない。

ただ、こういう短い沈黙と、

「今日はやめよう」という小さな選択が、

何度も重なるだけだ。


燃え残ったタバコの長さを見ながら、

俺はそんなことを考える。


 


***


 


夜九時前。

喫煙所の空気が、また少し入れ替わる。


ダーツの音と笑い声が遠くから聞こえていた。

その音が途切れたと思ったら、

ドアが開く。


ジャケットを着た男と、パーカー姿の男。

大学生だ。

服装のラフさと、

どこかまだ“自分が若い”と信じている足取りで分かる。


「今日マジ当たんねえ」


ジャケットの男が笑いながら言う。


「途中から的ぼやけてきたわ」

パーカーの男が返す。


二人は壁際に散り、それぞれタバコに火をつけた。

さっきまでの騒がしさは少しだけ削られ、

声のトーンが少し低くなっている。


「就活、どうよ」


ジャケットの男が聞く。


「……エントリー、三つ」

パーカーの男が言う。


「少な…もっと出せよ。みんな十とか言ってるぞ」


「わかってるよ」


その「わかってる」は、

分かっているのに動けない人間の口ぶりだった。


自己PRが書けないこと、

やりたいことがはっきりしないこと、

周りの進捗だけが目に入ること。

そういう話が続く。


「グループディスカッションとかマジ無理なんだけど」


「聞いてますアピールと、発言してますアピールのやつでしょ」


「そう。それ。

 それを就活のために練習してるの、何なんだろうな」


煙が少しずつ溜まる。

狭い空間の中で、

彼らの不安が増えるたびに、

タバコの火も大きくなるように見えた。


そこへ、ドアがもう一度開く。


配送センターの男が入ってきた。

さっきと同じ作業服のまま。

軽く会釈をして、空いている壁際に立つ。


「あ、どうも」


ジャケットの男が、反射的に頭を下げる。

配送の男は、短く頷くだけだった。


三人が揃うと、

喫煙所の空気の温度がわずかに変わった。


大学生二人は小声になる。


「この人たち、ここ住んでるよな、多分」

パーカーの男が囁く。


「いつもいるしな」

ジャケットの男が答える。


配送の男は、何も言わない。

聞こえているのかいないのか分からない。

ただ、タバコを吸って、煙を吐いている。


「俺、ああはなりたくねえな」


パーカーの男が言った。

その言い方には、

バカにするというより、

自分を守るための線を引いているような響きがあった。


「ちゃんと就活して、

 どっか入って、

 普通の家借りて、

 普通に暮らしたいわ」


「普通に、ね」


ジャケットの男が繰り返す。


配送の男はタバコを吸い終え、

吸い殻を俺の中に落とした。

燃え残りは短く、

今日だけで何本も吸ってきたタバコの一本、

という感じがしていた。


彼は何も言わずに喫煙所を出た。


扉が閉まり、

残された大学生二人は数秒黙り込む。


「……ちゃんとやろうぜ、就活」


ジャケットの男が言う。


「ああ。ああはなりたくないし」


二人はそれぞれの“ああ”を頭に浮かべながら、

タバコを途中で消した。

俺の中に落ちた吸い殻は、

日雇い三人のものより少しだけ長かった。


まだ燃やせるものが残っている、

とも言えるし、

燃やしきる前に別の場所に行くつもり、

とも言える。


どちらが正しいかは、

きっと明日以降の話だ。


 


***


 


深夜が近づいてくると、

人の声はさらに減る。


ガラッ、とドアが開いた。


くたびれたスーツの男が入ってくる。

ネクタイが緩んでいて、

シャツのボタンがひとつ余計に外れている。

袖口にはインクの染みのような跡があった。


男は無言でタバコを取り出し、火をつけた。

吸い込む息が、途中で少し引っかかる。


「……はぁ」


ため息が、煙と一緒に漏れる。


しばらくすると、

ポケットの中で携帯が震えた。

男の目がわずかに強張る。


画面を見て、

小さく舌打ちを飲み込み、

通話ボタンを押す。


「……はい。

 はい、すみません」


声が急に小さくなる。

喫煙所という狭い空間が、

その小ささを余計に際立たせた。


「はい……。

 ええ……。

 申し訳ありません。

 すぐ戻ります」


聞いているのは相手の声のはずなのに、

自分を責める言葉ばかりを聞かされているような顔だった。


通話が切れると、

男は何秒かその場で固まった。


「……なんで、俺ばっか……」


誰にも届かない独り言。

床に落ちるほど小さな声。


「全部、俺に回ってくるじゃん……

 あいつのミスなのに……」


壁の一点を見つめたまま、

言葉がぽつぽつと落ちていく。


「俺が残業しなきゃ回らないとかさ……

 じゃあ給料上げろよ……」


怒鳴り声ではなかった。

怒る力すら残っていないときに出る、

水気の多い言葉だった。


タバコを、俺に押しつける。

力は強くないが、

フィルターの残りはまだ長い。

吸いきれない気持ちが残っている証拠だ。


また携帯が震える。

男は目を閉じ、

何度目か分からない深呼吸をして、

通話ボタンを押す。


「……はい。今、戻ります」


短くそう言って、

男は背筋を無理やり伸ばした。

姿勢を正すというより、

自分を無理やり再起動させるような動きだ。


ドアに手をかける瞬間、

指が少しだけ止まった。

戻りたくない気持ちが、

手の甲の筋肉を一瞬だけ固くする。


それでも、

男は喫煙所を出ていった。


残されたのは、

長く燃え残った吸い殻と、

冷えかけた空気だけだった。


 


***


 


深夜一時。

店内の音はほとんどしなくなった。

いくつかのブースから、

動画の音やキーボードの打鍵が、

細く漏れているだけだ。


喫煙所には誰もいない。

換気扇の音だけが続いている。


俺の中には、

今日一日で落とされた吸い殻が重なっている。


日雇い三人の、

同じ長さで押しつぶされた吸い殻。


セックスレスのカップルの、

燃え残りの多い二本。


就活中の大学生二人の、

焦りを多く含んだ吸い殻。


サラリーマンの、

半分以上を残して消された一本。


どれも形は少しずつ違うのに、

共通しているのは、

どれも途中で消されているということだ。


完全に燃え尽きた吸い殻は少ない。

人間は、

何かを燃やしきる前に次の場所へ移動し、

別の不安や疲れを抱え込む。


この狭い喫煙所は、

そういう“途中のまま”が

一日に何度も持ち込まれ、

何度も置き去りにされる場所だった。


俺は無機物だ。

何かを選ぶことも、

誰かに近づくこともできない。

それでも、

ここに落ちてきたものを見て、

少しだけ思うことはある。


人間は、広い場所ではうまく嘘をつける。

距離があれば、

笑顔も、冗談も、冗長な説明も使って、

ごまかすことができる。


でも、この喫煙所みたいに狭い場所では、

ごまかしが利かない。

壁の近さと、

煙の濃さと、

換気扇の音に囲まれると、

言葉より先に、

体のほうが本音を零してしまう。


タバコを持つ指の震え。

吸い込む深さ。

視線の落ちる先。

火を消すタイミング。


そういう細かいところに、

人間は自分の事情を隠し忘れていく。


それを見て、俺は何を思うか。


哀れだ、とはあまり思わない。

偉そうなことを言えるほど、

俺は人間を知らない。

ここに来るのは、

人生のごく一部分を持ち込んでいく人たちだけだ。


ただ、

「変わらないな」とは思う。


今日も、

三人の男は夢というには弱い希望を話して帰っていった。

カップルは、

“今日はやめる”という小さな決断をした。

大学生は、

誰かを下に見て自分を保とうとした。

サラリーマンは、

誰にも届かない愚痴を煙と一緒に吐き出した。


明日も、

同じようなことが繰り返されるのだろう。


配送センターは明日も忙しく、

警備は明日も寒く、

レーンは明日も速い。

カップルの沈黙は、今日より少し長くなるかもしれない。

大学生の不安は、エントリー数と一緒に増えていくだろう。

サラリーマンのため息もまた深くなる。


誰も劇的には変わらない。


でも、人間はそれでも明日を迎える。

変わらないまま、

変わらない一日を積み重ねながら、

何かが変わってしまうのをどこかで怖れている。


俺は、ただ見ているだけだ。

ここに落ちる吸い殻の数と形で、

今日がどんな日だったかを知る。


そして、

明日もまた、

誰かの本音が煙になって、

この狭い空間に落ちてくる。


煙は、いつも人より先に本音を吐く。

その本音が、

ちゃんと誰かに届くことはほとんどない。


ほとんどの場合、

それは俺の中で冷えて、

ただのゴミになる。


それでも人間は、

タバコに火をつけ続ける。


明日もきっと、ここで。

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