ごまたん
ある日曜日の昼下がり。
リビングで掃除機をかけていると、ソファのそばに落ちていたアザラシのぬいぐるみをうっかり吸ってしまった。
ズゴゴゴゴ、と掃除機が派手な音を立てたため、慌てて掃除機の電源を切る。
「ったく、またかよ」
俺はうんざりしながら、掃除機からぬいぐるみを引き剝がす。
このぬいぐるみは葵のもので、葵が昼寝をするときにいつも抱き枕の代わりにして寝ているのだが、あいつ昼寝から起きたらいつもそのままソファに置きっぱなしにしやがる。
そしてなんらかの拍子にソファから床に落ちてしまったぬいぐるみを俺がうっかり吸ってしまう、なんてことが最近よく起きているのだ。
これまではしょうがない、と思って軽く注意するだけで見逃してやっていたが、仏の顔もなんとやらというしな。
さすがに今回は厳重注意を行う必要があるようだ。
「葵! ちょっとリビング来て!」
声を張って呼びかけると、トタトタと階段を下りる音ともに、なぜ自分が呼ばれたのか分からない、といった表情で葵はリビングに入って来た。
「どうしたの?」
「これだよ。また落ちてたぞ」
腰に手を当てながら、あえて少し不機嫌そうな態度で八十センチほどのぬいぐるみを差し出すと、葵は悪びれる様子もなくそれを受け取る。
「ありゃ、また落ちてた?」
「そうだよ。別にこいつと昼寝するのはいいけどちゃんと持って上がってくれよな」
「ごめんごめん。次から気をつけるね」
謝りはするものの、全く反省している様子はない。
「ごまたんもごめんね?」
それに引きかえ、ぬいぐるみにはまるで赤ん坊をあやす慈悲深い母親のように頭を撫でながらちゃんと謝る葵。
「ごまたんってそいつの名前か?」
「そう。ゴマフアザラシの赤ちゃんだからごまたん。ふわふわで気持ちいいんだ~」
ごまたんを抱きしめたまま頬にすりすりとして恍惚とする葵。
「おにいちゃんもどう?」
葵はごまたんを両手で抱え直しながらそう俺に勧めてきたが、
「俺はいいよ。別にその、ごまたんだっけ? に興味ないし」
あいにく、俺にはぬいぐるみを愛でる趣味はないのだ。
「ええー? それ人生半分損してるよ。こんなにふわふわでかわいいのに、ねー?」
葵はごまたんに笑いかけながらそう呼びかけるが、うむ……そんなにいいものなのだろうか?
次の日。
学校から帰ってくると、またごまたんが我が物顔で床に居座っていた。
葵め。昨日あれだけ注意したのに全然反省していないじゃないか。
「葵! いるか!?」
声をかなり張り上げて、二階に呼びかけたが数秒待つも返事なし。
コンビニにでも行っているのだろうか?
俺ははーっとため息を吐きながら仕方なしにごまたんを葵の部屋に戻そうと手を伸ばしかけたのだが、その瞬間何の前触れもなく突然、昨日の会話が脳裏をよぎった。
『ふわふわで気持ちいいんだ~』
「……………………」
葵の幸せそうなその声に突き動かされるように、俺は無意識にごまたんへと手を伸ばしてしまっていた。
葵のものに勝手に触ってもいいものか、と多少怯えながらもおそるおそる手を伸ばしてみると、瞬時にマシュマロを彷彿とさせるような柔らかく手触りのいい感触が伝わってくる。
おおお! これはなんというか、こう、すごいぞ!
と、語彙力皆無の感想を抱きながら、まず初めに昨日の葵と同じようにごまたんを抱きしめて思い切って顔をポフッとうずめてみる。
「…………なにこれヤバい」
ポカポカの春の陽気のもとで干した、洗いたての毛布と言っても過言ではない柔らかさと綿あめのようにふわふわな毛並みが優しく俺を包み込む。
そのままスーッとにおいをかぐと、まるで花畑にいると錯覚してしまうほどのフローラルな香りが鼻腔を通り過ぎて、今日一日の疲れがスッと溶けていく。
気持ち良すぎる、このまま寝たい、とぼんやりと思っているとパッとソファが視界の隅に入る。
「……ちょっとだけ」
ごまたんを両手に抱えながらそのままソファに寝っ転がってみた。
「…………はぁ~」
あまりの幸福感に思わず吐息が漏れてしまう。
ごまたんの肌触りとソファの適度な弾力のダブルパンチ……これはいかん。
絶対に人をダメにしてしまうコンビだ。
いますぐ起き上がらなければ間違いなくこのまま寝てしまう、葵が帰ってくる前に早く起きなければ、と頭では分かっていても体は全く言うことを聞かず、まぶたは重くなっていくばかり。
そして今更になって思うが、この時の俺はやはりどうかしていたのだ。
慣れない新生活で気づかないうちに心が疲れていたのか、はたまた家族にも話せないうちに秘めた思いがあったのか、もしくはごまたんの発するごまたんビームによる精神干渉を受けてしまったのかは定かではないが。
「……ごまたん」
「なにかな?」
ごまたんに話しかけるという、とんでもない愚行を演じてしまった。
こんな幼稚園児みたいなことを高校生にもなってするなんて……もし葵や姉ちゃんに見られでもしたら黒歴史確定だが、それでも口は止まらない。
俺は裏声を出して一人二役を演じ、ごまたんと会話を続ける。
「最近さ、漠然と将来に対して不安になることがあるんだ。ごまたん。俺、この先うまくやっていけるかな?」
ごまたんは大きくつぶらな瞳で俺を見つめ続けると、大きく頷いてから言った。
「春斗くんならきっと大丈夫だよ! 自信を持って!」
俺の汚い裏声はさておいて、ごまたんの励ましの言葉に思わずうるっと来てしまう。
「ごまたん……ありがとう」
ぎゅっとごまたんを抱きしめると、ごまたんも俺を受け入れるかのように小さな両手で抱きしめ返してくれたような気がする。
……ああ、ずっとこうしていたい。
ずっとこうやってごまたんの愛を一身に受け続けて、ごまたんのふわふわの毛並みとソファの心地よさを感じながら――
ピロリン。
ごまたんを抱きしめながら夢でも見ているかのような幸せな気分に浸っていたのに、携帯の機械音にその時間を邪魔をされてしまう。
「誰だよ、こんな時に」
気分を台無しにされた俺は、ため息をつきながら仕方なしにポケットに入っていたスマホを手に取る。
「ん? なんだこれ」
通知バーによればメッセージの送信主は葵らしい。
メッセージアプリのトーク画面を開くと、三十秒ほどの動画が一つ届いている。
なんだ、これ? イタズラか? とか思いながら画面をタップして動画を確認すると、
『…………なにこれヤバい』
突然流れ出した自分の声に俺はスマホを凝視したまま絶句する。
そのまま動画は再生され、俺とごまたんとの会話が流れていく。
『ごまたん、俺、この先うまくやっていけるかな?』
『春斗くんならきっと大丈夫だよ! 自信を持って!』
下手な裏声を出して、一人でごまたんと話す俺の姿がそこにはあった。
『ごまたん……ありがとう』
俺がごまたんをギュッと抱きしめたタイミングで動画は終わった。
「…………」
あああああ!!! 恥ずかしすぎる!!!
俺はスマホをソファに放り出すと、熱くなった顔をあげて、この映り方からして動画が撮られたと思われるリビングのドア付近に目を向けた。
すると予想通りそこにはニヤニヤとした笑みを浮かべてスマホを構えている葵がいた。
葵はスマホをしまいながら近づいてきてからかうように問いかけてきた。
「おにいちゃん、どう? ごまたんいいでしょ」
こいつの勝ち誇ったかのような顔がしゃくに触るが、これは認めざるを得ない。
「……最高……だった」
俺は悔しさを滲ませた声で、返事を絞り出した。
「分かればいいんだよ、分かれば。ねー、ごまたん?」
葵はその表情を一層深めながらソファの上のごまたんに笑顔で呼びかける。
すると空耳かもしれないがこう聞こえた気がした。
「うん! これからもギュッとしてね、春斗くん!」
もちろん、ごまたんの声は俺の裏声だった。
次回 サッカーボールと変質者 その1




