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怠惰ちゃん その2

 その後もイヤイヤ期の幼稚園児みたいな怠惰ちゃんと格闘していたのだが、やはり手の付けようがなく俺たちは姉ちゃんの部屋からの戦略的撤退を余儀なくされた。


 とぼとぼとリビングに舞い戻るも落ち込んでばかりはいられない。


 俺と葵は至急的速やかに第18回 小倉美夏緊急対策会議を開催するに至った。


「どうしよう、おにいちゃん」


「大丈夫だ。姉ちゃんがあんな状態になるのももう18回目。そのたびに俺と父さんはあの姉ちゃんを観察し、研究し、データを蓄積してきたんだ。これにその英知が刻まれている」


 そう言いつつ、『美夏 観察記録』と題された一冊のノートを掲げる。


 実はこの古びた大学ノートこそが小倉家VS怠惰ちゃんの歴戦の記録を事細かにつづった怠惰ちゃん対策の秘密兵器であり、俺と父さんの二人で地道に怠惰ちゃんの研究を行ってきたことを示す足跡なのだ!


「おにいちゃんとおとうさん、そんなノートつけてたの? 知らなかった……」


「ふふん、すごいだろ? 見ろ、この俺と父さんの汗と涙の結晶を!」


「うん……すごいとは思うけど……。おにいちゃんとおとうさんって、なんかちょっと……まあ、いいか」


 葵は何か言いたげな顔をしていたが、そんなことはお構いなしに大いに胸を張ってノートをパラパラとめくる。


 そこには過去の怠惰ちゃんの出現日時から怠惰ちゃんの行動、そして怠惰ちゃんの退散理由まで事細かに記されていた。


 俺はすでに過去17回分のデータはすべて完璧に記憶しているため葵にノートを手渡すと、葵は「こんなこともあったね」などと思い出すようにしてそれを眺めていた。


「えっと、このノートによると怠惰なおねえちゃんは何らかの原因、ここではそれを『トリガー』って表現してあるけど、その『トリガー』が引かれた時に元に戻るって書いてあるね」


 葵、中々目の付け所がいいじゃないか。


 姉ちゃんをもとに戻す方法は至って単純で『トリガー』というきっかけさえ怠惰ちゃんに与えてやればいいだけなのだ。


「だから今回もトリガーを引けば元の姉ちゃんに戻る可能性が高いと考えられる」


 まるである研究分野の第一人者のようにどっしりと構えてそう返すと、葵の不安が少し和らいだように見えた。


「なんだ、元に戻す方法が分かってるんだったら言ってよ。じゃあ早くトリガーを引いてお姉ちゃんを戻して――って、うん? あれ?」


 だが、すぐに葵の表情が曇りだすが、それも当然だな。


 葵は手元の観察記録を何度も見返しながら、つぶやいた。


「トリガーが毎回違う……」 


 そうなのだ、葵の言うように怠惰ちゃん退散の鍵となるトリガーというものは毎度違う内容なのである。


 例えば前回(17回目)だと怠惰ちゃんは昼前にのそのそとリビングに降りて来たかと思えばソファで昼寝を始めてぐーすかぴーと夕方まで寝息を立てていたのだが、どうやらそれがトリガーだったらしい。


 しかし前々回(16回目、両親が転勤する前だ)は、母親の作る晩ご飯の唐揚げの香りがトリガーになったと記されている。


 というわけでここまで観察と研究を重ねてきたものの、正直何がトリガーになるのかやその傾向や関係性は未だ謎に包まれたままなのである。


「じゃあ結局どうすればいいの?」


 俺は葵の疑問に胸を張って答えた。


「とりあえず様子見するしかない!」


「……このノート、意味あるのかな?」




第18回 小倉美夏対策緊急会議が閉会したのち、葵がこんなことを言いだした。


「様子見だけじゃ埒が明かないよ。なんとかしてみない?」


 ということで午前中に渡って過去のトリガーの中で効果のありそうなものを色々と試してみた。


「ほら、姉ちゃん。猫じゃらし持ってきたぞ。これで一緒に遊ぼう? な?」


「……やだ……」


 しかし効果があるどころか、ますます布団の中に引きこもってしまう怠惰ちゃん。


 午前中丸々トリガー探しに費やしてみたものの、今回のトリガーを引き当てることができず。


 俺と葵はとぼとぼと寂しげな足取りでリビングに戻って定位置の椅子にぐたりと脱力した。


「疲れた~……」


「そうだね……なんかいつもよりも疲れたような気がするような……」


「それは朝ごはん抜いてる影響もあるだろ。いや、正確には抜いてないがあれだけじゃな……」


 回顧するように口に出しつつ今日の朝ごはんである一本の魚肉ソーセージのことを思い浮かべる。


 先ほど怠惰ちゃんがご飯を作ってくれないということを言ったが厳密にはそれは正しくない。


 実はほんの少しだけ、飢え死にしない程度のご飯は出してはくれるのだ。


 それは前回、つまり両親の転勤後初めて怠惰ちゃんが出てきた時に判明したことなのだが。


 どうやら怠惰ちゃんは朝にさきほど目の前にあったように魚肉ソーセージ一本を、そして昼前に食パン一枚をテーブルに並べに来るらしく、ついさっきもキッチンの戸棚にしまってある食パンだけを並べに降りて来ていた。


 あんなに自分の部屋及びベッドラブの彼女がわざわざどうしてそれを出してくれるのかは分からないが、もしかしたら彼女の中にもわずかに姉ちゃんの俺たちのご飯を作るという使命感が残っているのかもしれない。


 だが、普段から姉ちゃんの手料理に餌付けされている俺たちがそんな既製品で量的にも質的にも満足できるはずはなく、こうして今日を生きる活力が色々な意味で不足してしまっているのだ。


「もうお昼だし何か出前でも取ろうよー。じゃないとお腹ペコペコで倒れちゃう」


 腹の虫をなだめながら葵がそう提言してくるが、俺は首を横に振る。


「ダメだ」


「なんで~」


「だってお前も見ただろ。姉ちゃんのあの顔を」


 前回の怠惰ちゃん出現に際して、昼時に俺たちはピザをデリバリーして、なんとか空腹を紛らわせたのだが、その後姉ちゃんが家計簿をつけている際に見てしまった。


 デリバリーという無駄な出費により収支が数百円赤字になってしまったことによる、姉ちゃんの悲痛な表情を。


 普段は真面目な姉ちゃんのことだ。


 自分の惰性によって俺たちに迷惑をかけたことに加え、それさえなければ黒字を確保していたであろうことをひどく後悔しているものと思われた。


 姉ちゃんのあんな表情はもう見たくないし、あんな顔にさせたくない。


 その熱い思いを語り終えると葵は強い覚悟を決めたかのような頼もしい言葉をくれる。


「……分かった。よし、そうと決まれば私とおにいちゃん、二人でこの危機を乗り切ろう!」


「そうだ、俺とお前ならきっとやれる! 姉ちゃんが元に戻るまで頑張るぞ!」



 

 その後、いつもより数段質素な昼ごはんを済ませた俺と葵は心機一転、トリガーを見つけるべく古今東西分け隔てなく様々な方法を試した。


 眠気覚ましにはコーヒーだ! とか言って怠惰ちゃんにコーヒーを作ってあげたり、先人の知恵を信じよう! とか閃いて怠惰ちゃんの耳に水を垂らしてみたり。


 アマテラスは外で踊ってたから岩から出てきたんだ! とか思い出して姉ちゃんの部屋で葵と一緒にソーラン節を踊ったりもしたが。


「どっこいしょー、どっこいしょー!」


「ソーラン、ソーラン! ソーラン節ってやってみたら意外と楽しいぞ! 姉ちゃんも出て来て一緒にやろう!」


「…………」


 待てど暮らせど怠惰ちゃんが退散してくれる気配はなく、布団に引きこもり続けるだけであり、いつの間にか日も傾いてしまっていた。


 ふと時計を眺めて針が六時を指しているということが分かった途端、腹の虫が何か食わせろとばかりにグルルと鳴いた。


「腹、減ったな……。早くなんとかしないと……葵、他にいい方法思いつく?」


 あくまで最後まで頑張るスタンスで葵に尋ねてみると、葵は深く俯いたままポツリとつぶやいた。


「……もう、ダメかもしれない。おねえちゃんは一生、あのままなのかもしれない」


「お前、何言ってんだ! 諦めたらダメだろ!」


「だってこんなに頑張ってるのにおねえちゃん元に戻ってくれないじゃん! 昔のトリガーを試してみてもダメだし、考えた方法も効果がないしどうすればいいの!?」


 その瞳はうっすらと濡れてしまっている。


「だからってな、諦めるのは論外だろ! そんな暇あるなら他の方法考えろよ!」


「だから無理だって言ってるでしょ! そもそもここまで頑張って何もできないならもう打つ手がない――」


 と、俺と葵の言い争いが本格化しようとした直前だった。


「二人とも……けんかは……だめだよ」


 その声とともに怠惰ちゃんがすみかである布団からにゅっと顔を出したのだ。


「「(お)姉ちゃん!」」


 二人ですぐさま姉ちゃんの元に駆け寄る。


「おねえちゃん、大丈夫? 話ができてるってことは元に戻ったの?」


 葵がそう呼びかけるが姉ちゃんはそれに答えることはなく、布団の中でもぞもぞとして何かを取りだした。


「これでも食べて落ち着いて……はい、今日の晩ごはん」


 意識を取り戻したかに思われた姉ちゃんが葵の眼前に置いたのは、買い置きしているカップラーメンだった。

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