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混ぜるな危険? 葵といいんちょー その4

 現代人は戦い続けている。


 勉学や仕事に忙殺される現実。


 多様な問題を内包しながら複雑化する社会。


 正解のない人間関係によるしがらみ。


 現代に生きる人々は様々な困難に直面しつつも、前を向き、くじけることもなく、必死に毎日を生き続け、戦い続けているのである。


 しかし、それだけが正義なのだろうか。


 そこに安らぎはないのだろうか。


 そんな時、人は何に救いを求めればいいのだろうか。

 

 人々は救いを求めた。


 厳しい現実を忘れさせてくれる、非現実に。

 

 そこにあるのはまるで物語の世界にいるかのような圧倒的映像美。


 耳に届くのは場の雰囲気を盛り上げる音楽。


 心を震わせるのはその二つに裏付けされた感動的なストーリー。


 それらを全て味わい尽くせ、厳しい現実にも立ち向かう勇気と気力を与えてくれる、現代人の特権。

 

 それが映画なのである。

 

 そして、俺はその偉大さを改めて実感することとなった。


 というのもなんということか、つい数分前まで限界まで空気を入れた風船のように張りつめていた空気が落ち着いているからだ。


 上映が始まった直後は不穏な空気がまだ尾を引いていて臨界点を超えた葵が暴走でも始めたらどうしようか、と映画の導入部分を見るどころではなかったが、始まってしまえばそれは杞憂に終わった。

 

 葵のやつ、結構これを楽しみにしていたようですっかりスクリーンに釘付けになってしまっている。


 対するいいんちょーも中々に真剣な、凛々しい表情で前だけを見つめている。


 どうやら最悪の事態だけは回避できたようだ。


 休戦状態に落ち着いた半径三メートル以内の空間に俺はホッと胸をなでおろす。


 ここからは、ゆっくりと、穏やかに映画を楽しめそうだな。




 というのが一時間半前くらいの出来事なのだが、そんなに現実は甘くなかったようだ。


 俺はスクリーンを見つめてはいたが、内容は全くと言っていいほど入ってこず、頭はやってきた試練のことでいっぱいになってしまった。


 すぐに解決する必要はあるが、中々実行に移せない。


 そんなもどかしくも難しい映画の最中の困難と言えば。


 やっべー、めちゃくちゃトイレ行きたい。


 尿意である。


 そういえば映画見る前にトイレ行くの忘れてたし、ドリンクもアイスコーヒーを頼んでしまった上に、色々と緊張して喉が渇いてしまったせいでがぶがぶ飲んじゃったからな。


 トイレに行きたくなるのは必然だった。


 ちなみに映画はクライマックスを迎えており、街に降りかかる悲劇と戦っていた主人公の男子高校生とヒロインの女子高校生がなんやかんやで離れ離れになりそうになっているところだ。


 終盤だから終わるまで我慢しよう、と膀胱に相談を持ち掛けてみたものの、即座にノーが突きつけられた。


 この分からず屋め!


 俺だってできるなら最後まで見るつもりだったし、通路に抜け出そうと前を通ったら他の人にも迷惑がかかるのでそうしたくはなかったのだが、致し方ない。


 多少の迷惑をかけることと、映画館の一角を水浸しにすることを心の天秤にかけると、もちろん前者の方が百倍マシである。


 申し訳ないが抜け出させてもらおう。


 決意を固めて漏らさぬようにゆっくりと腰を上げかけたその時。


 ひじ掛けに置いていた右手に隣から指が絡められて恋人つなぎのようになったかと思ったら、ガシッと拘束されてしまったのだ。


 いきなりなんだ!?


 というかそんなことを言っている暇すらない。


 右隣に座っているのは葵のため声を潜めつつ呼びかける。


「ごめん、葵。ちょっとトイレ行きたいから手離して――」


 言いつつ何の気なしに葵の方を見ると、その頬にキラリと光る一筋の滴が伝っていた。


 さらにその瞳には大粒の涙が今にもこぼれそうなほど溜まっている。


「……ぐすん」とは、葵のしゃくりあげる声。


 えぇ……そんな顔されたらなんかめちゃくちゃ声かけ辛いじゃん……。


 声をかけるのを躊躇していると館内に主人公の熱いセリフが響き渡った。


『絶対に君を離さないからな!』


 同時に右手がさらに固く握りしめられる。


 うん、今すぐにでも離してくれ。頼むから。


 そう願ってみるものの、葵の左手の力はますます強くなっていくばかり。


 マズイ、状況がどんどん悪化しているぞ!


 俺は葵への申し訳なさを断ち切るとともに決死の覚悟を決め、左手で葵の肩を揺すろうとしたが、次の瞬間!


『私も……絶対にこの手を離さない!』


 ヒロインが主人公と一緒に戦う覚悟を示したかと思ったら、俺の左手がギュッと結ばれてしまったのだ。


「は?」


 小さく疑問の声をあげて左側に顔を向けると、感動的な音楽とともに瞳を濡らしたいいんちょーの顔が目に飛び込んできた。


「……ぐすっ」


 おいおいおい、いいんちょーもかよ!!! 嘘だろ!?


 緊急事態にも関わらず両手を拘束されてしまったがために現状の理解が追い付かず、スクリーンなんかに目もくれず左右を見回すが、


 右 葵 泣いている


 左 いいんちょー 泣いている


 結論 どうすればいい?


 そうこうしているうちに膀胱からタイムリミットが迫っているとの緊急通知が入る。


 ヤバいヤバい、もうなりふり構っていられない!!!


「葵……葵!」


 悲痛に顔をゆがめながら絞り出すように声をかけると、葵は少し驚いたように、


「へっ? ど、どうしたの、おにいちゃん」


「ごめん、トイレ行きたくて。手離してくれないか?」


「手? あっ、ごめん。つい集中してて」


 葵はそれだけ言うと、パッとすぐに手を離してくれた。


 まずは第一段階、完了。


 ホッと胸をなでおろしたい場面だが、力を抜くと決壊する可能性があるので油断は禁物だ。


 俺はすぐさま俊敏に左に顔を回す。


「いいんちょー」


 その声にいいんちょーは潤んだ瞳で俺を見つめた。


「小倉くん、どうしたの?」


「ごめん、ちょっとトイレ行きたいからさ、手離してくれないか?」


 言うと、いいんちょーの視線も下に降りていって自分の右手と俺の左手を三秒ほど凝視したあと、


「あっ! ご、ごめんなさい! 私ったらつい……」


「いや、大丈夫――はうっ!」


 返事をしつついいんちょーが手を離してくれた瞬間に、膀胱に洪水警報が発令された。


 あああああ、一刻も早くトイレへ!


「そ、それじゃあ……ちょっと前を失礼させてもらいます」


 なんとか決壊寸前のダムをせき止めつつ、いいんちょーの前を失礼しようとしたその刹那。


『行かないで!!!』


 ヒロインの心からの叫びが会場を覆いつくし、再び右手がガシッと掴まれた。


 俺は見る。右を。


 目に映る泣いている葵の姿。


 その左手は俺の右手、握ってる。


「…………」


 頼むからトイレ行かせてぇぇ!!!??


 


 「おにいちゃん、映画どうだった?」


 葵が満足げな表情でそう聞いてくる。


 結局俺はスタッフロールが流れ終わり次第、おそらく人生最高速度でトイレに駆け込み、なんとか窮地を脱することに成功した。


 いや……マジで危なかったぞ、あれ。


 あと十秒遅れていたら大惨事の確定演出に入るところだった。


「あ、ああ……。すごいドキドキしたな……特にあの主人公とヒロインが手つないでるシーン……」


 そんなことを思い出しながら葵の問いにげっそりとした表情で答える。


 すると、


「「そう(だ)よね!」」


 葵といいんちょーの声が見事にシンクロしたのだ。


 葵は俺の左隣から勢いよくいいんちょーの方に顔を向けると、鼻息を荒くしながら興奮した口調で問うた。


「いいんちょーさんもそう思いました!?」


「ええ、主人公がヒロインに思いを伝えてヒロインの子もそれに答えて二人で困難に立ち向かっていく……すごく心に残ったわ」


 いいんちょーは落ち着きながらもどこか感慨深そうな口調で答える。


「分かります! あのシーン、最高でしたよね! 他にもよかったところありますか!?」


「もちろん。あのクライマックスもよかったけど、序盤の二人が出会うシーンものちの伏線になっていて――」


 と、二人して俺の存在を忘れたかのように夢中になって映画の感想を語り合い始めた。


 葵はいつもの愛想のいい笑みを取り戻し、いいんちょーも楽しそうに微笑んでいる。


 ついさっきまでいがみ合っていたのが嘘のようだな。


「なんだ、二人とも仲いいじゃんか」


「「あ……」」


 俺の言葉に我に返ったようにさっと離れ、静かに俯く二人。


 名状しがたい沈黙が時を止める。


 ……ヤバい、なんか余計なこと言っちゃったか?


 せっかくいい感じだったのに、と後悔に苛まれつつも何か気の利いたことを言おうと画策していると、葵が突然いいんちょーに対して上目遣いを向けて、


「……あの、いいんちょーさん。いいんちょーさんって映画好きなんですか?」


 いいんちょーは驚いた表情を見せると、指に髪を巻き付けながら少し遠慮がちに、


「えっと……結構好きな方だと思うのだけど……」


「なら、その……今度うちで一緒に映画見ませんか? 私のおすすめ紹介したいので……どうでしょう?」


 葵のお誘いにいいんちょーは一瞬固まったのち、ニコリと微笑みを見せた。


「ええ、もちろん。嬉しいわ」


 その言葉に葵は一等星のように明るい笑顔を見せた。

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