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俺のバイブル

 月曜日の朝八時すぎ。


 今日も学校嫌だな、だるいな、なんて湯がきすぎたほうれん草みたいに心をげんなりさせながらチンタラと机にリュックの中身を詰めているといいんちょーの声が横から飛んできた。


「小倉くん、何か落ちたわよ」


 いいんちょーが身をかがめて拾い上げてくれたのは近所の大手本屋チェーンのブックカバーがかけられた本。


 その中身は俺のバイブルと言っても過言ではない新台文庫から発刊されている英単語帳である『ロジカル英単語』、通称ロジ単だ。


 高校生にもなって小学生とつるんでようが、休日は家族に隠れて百合同人誌を見てようが、俺もれっきとした市内トップクラスの学力を誇る北東高生である。


 いいんちょーのようなガチのトップ層には及ばないまでも常に英単語帳を持ち歩くくらいの学習習慣は身につけているつもりだ。


「ああ、ごめんごめん。ありがとう、いいんちょー」


 ブックカバーの中身について思い返したりしながら、何の気もなしにロジ単を受け取ろうとすると、なにやらいいんちょーの様子がおかしいことに気づいた。


 というのもいいんちょーは信じられないものを見たかのようにその大きな瞳を見開いているのだ。


 一体どうしたのだろうか? と思っていると、いいんちょーが声を強張らせて訊いてきた。


「……小倉くん、これ。小倉くんの本よね?」


「そりゃまあ。だって今、俺のリュックから落ちたものだし」


 返事を聞いたいいんちょーは複雑な表情になって再度手に持っているロジ単をぺらぺらとめくる。


「どうかした、いいんちょー? 何か変な所でもある?」


 素直に不思議に思い訊いてみると、いいんちょーはなんとも言えないような顔をする。


「いや、その……。私、こういうの持っていないから、小倉くんが持っているのが意外だったというか……」


「意外って、甘く見てもらっちゃ困るな。一応俺も北東生だぞ? それくらいは持ってるって。てか北東生なら大体のやつが持ってるんじゃないか?」


「ええっ、そうなの!?」


 今度は明確に驚きを顔に浮かべるいいんちょー。


 うちの高校では代々ロジ単が一年生の初めに配られていて、俺たちのクラスも英語の初回授業で配られたはずなんだが、そんなに驚くところあるか?


 得も言われぬ疑念を抱きつつ様子を伺うと、


「北東ではこれが流行ってるの? 聞いたことないけど……男の子はこういうのが好きなのかしら?」


 とやはり意味不明なことをぼそぼそと呟いている。


 出た、いいんちょーのひとりごとモード。


 いいんちょーってたまだが、こうやって一人でブツブツと呟いて考えこむことあるんだよな。


 このモードに入ってしまったらいいんちょーは自分の中できちんと納得し、目の前で起こっていることを自分の胸にストンと落とし込むまで中々戻ってこない。


 しかもこの中々という時間の幅がかなり広いのもちょっと厄介なところだ。


 想像の斜め上を行くことくらいだったら十秒くらいで戻ってきてくれるのだが、想像の範疇から逸脱したこと、と捉えるとそれこそ一分くらいは平気で考え込んでいるからな。


 さて、今日はどちらだろうか。てか早くロジ単返してほしいな。


 なんて気楽に考えているとなんと珍しい。


 どうやら今回は自己完結では終わらずにさらに質問を重ねてきた。


「小倉くんはなんでこれを読もうと思ったの?」


 改めて聞かれると返答に窮しそうになるものの。


 ありていに言えば英語は大学入試の必須科目だし、世界中のどこでも使える言語だし、習得できれば損などあるはずもない。


 つまりまとめるとこういうことになるな。


「だってそれを完全習得できたらめちゃくちゃ実用的じゃん?」


「実用的!!?」


 突然椅子にダイナマイトでも仕込まれていたかのように勢いよく椅子から立ち上がるいいんちょー。


「何をそんなに驚いてんの? なんか変なこと言った?」


「それをどこで使うのよ!?」


 まるでこちらの声を聞いちゃいない。


 はやるいいんちょーとは対照的に俺は努めて冷静に答える。


「どこって、世界中あらゆる場所ででしょ」


「世界中あらゆる場所で!!?」


 だからなんでそんなに驚くんだよ。


 いいんちょーが大声を発するあまり周りから好奇のまなざしを向けられてしまっているので、一旦いいんちょーを座らせてから尋ねた。


「いいんちょーさっきからどうした? 大きな声出して」


「それはだって! こんな本を見れば声も大きくなってしまうわよ!」


 そうしていいんちょーが真っ赤な顔で俺にロジ単を押し付けてきたので、何事かと思いブックカバーの中身を覗くとそこには衝撃のタイトルが記されていた。


『俺と従妹の新婚××生活 ~もうガマンできないので朝まで妻(従妹)とハッスルします~』


「……は?」


 ロジ単のロの字もないラノベのタイトルと相当きわどいラインまで色々見えてしまっているイラストに対し、もはや驚愕を通り越して声すら出ない。


 えっと、どういうことだ?


 俺が今、ブックカバーをつけてかつ学校に持ってきている本なんてロジ単しかないはずなのに……。


 それにそもそも俺はこんなラノベは持っていないし、記憶が正しければこれを買った覚えもない。


 ではなぜこのような代物が英単語帳の代わりにリュックに入っていて、ご丁寧にブックカバーまでかけられているのか。


 一度呼吸を整え、あらゆる可能性を考慮してみるが、皆目見当もつかない。 

 

 そのまま動揺の海へと誘われ、その深海へと沈んでいこうとしていたが、突如として昨日のある出来事を思い出した。


 そういえば昨日、従妹の穂香ほのかが来てそれであいつ、俺の机の周りでなにやら怪し気な動きをしていたような?


 いやでもさすがに穂香でもそんなことは、と思いたいところだったが、あいつならやりかねんな。


 前回の謎の黒パンツの一件もそうだし、それ以外にも数々の前科が俺の脳裏をよぎっていく。


 うん、ほぼ確実にあいつのせいで決まりだ。


 ということはだ。


 今のこの状況を簡潔にまとめると、昨日穂香がブックカバーの中身をロジ単からこのいかがわしいラノベへとすり替えて、それを知らずに俺が学校へと持ってきてしまったというわけだ。


 なるほど。


 ……なるほど?


 ちょっと納得しかねる経緯ではあるのだが、そうとしか考えられないためもうそういうことにしておこう。


 しょうがない。穂香だもんな、と半ば強引に自分を納得させよう俺は勤めていたのだが、その最中に隣から悲壮を通り越して慈愛に満ちた声がかけられた。


「小倉くん、何か悩みがあるのなら言って。私、小倉くんがどんな性癖を持っていたとしても受け止めてあげるから。だから……話してくれる?」


「……確かに今、色々と悩んでるな。どうやっていいんちょーの誤解を解くかを」


 その後、いいんちょーの誤解を解くまでに丸一日かかった。

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