いいんちょーと勘違い
葵と小学生三人組に大恥をさらした翌朝。
俺は悶々としながら教室へと続く廊下を歩いていた。
昨日、アカリから聞いた言葉が頭から離れないのだ。
「高校生はみんなキスしてるよ、か……」
その言葉の意味についてじっくりと考えてみる。
言葉通りに捉えるのなら高校生は全員キスしている、という意味になるわけだが、だったら俺はどうなるのか。
これまで生きてきた中で一度もキスなんてしたことはないし(ここ重要)、彼女ができたこともないのにキスなんてできるわけがない。
自分という存在がこの言葉自体を否定しているようにも思われるが、アカリの言うように俺が高校生にもなって彼女の一人もいない特殊な人間だという可能性もあるにはある。
その場合、今、周りを歩いている高校生たちは全員学年や性別を問わずにすでに恋人がいてキスをしているということになるが……本当にそうなのか?
そんなわけないと思いつつも確たる証拠もないため否定しきれない。
そんなもどかしさを抱えながらうんうん唸っていると気が付けば教室の一番後ろ、一番左端の窓際にある自席に座っていた。
「はぁ……分かんないな……」
リュックの中身を机の引き出しに入れながら独りごちていると、右隣から清廉な声が飛んできた。
「おはよう、小倉君」
声がした方向に顔を向けると凛々しく整った顔が目に映る。
「あ、いいんちょー。おはよう」
彼女の名前は河井侑里。俺のクラスの学級委員長だ。
成績優秀でクラスメイトからの人望も厚く、責任感のあるしっかり者。
まさに委員長になるべくしてなったような生徒である。
いいんちょーは絹のように綺麗なロングヘアーをなびかせながら俺の右隣の席に座る。
「朝からしかめっ面してどうしたの? なにか悩み事?」
「悩みというか、思い悩んでいるって感じだな。昨日から考えてることがあるんだけど、全然答えが出なくて……」
そう素直に打ち明けると、いいんちょーは「そうなのね」と相槌を打って、少し逡巡したのち、
「それなら私でよければ話聞かせてくれないかしら? 力になれるかもしれないし」
「えっ、ホントに? いいの?」
驚く俺にいいんちょーは首を縦に振る。
「ええ、もちろんよ。見たところ小倉くん、結構思い詰めている感じだし、私が力になってあげられるのならそうしたいの。それに私、学級委員長ですもの。困っているクラスメイトをみすみす見過ごすわけにはいかないわ」
決して仲間を見捨てようとはしない、優しく頼りがいのあるその言葉に思わず目頭がじんわりと熱くなる。
「……いいんちょーっていい人だな。ありがとう。本当に助かる」
「お礼は悩みが解決してから言ってちょうだい。それで小倉君の悩みって何なの?」
俺は目を拭ってからいいんちょーに向き直ると、ためらうことなく質問をぶつけた。
「いいんちょー。率直に訊くけど、いいんちょーってこれまでにキスってしたことある?」
「ああ、キスね。キス……キ……へっ!?」
突然素っとん狂な声をあげるいいんちょー。
「え、ちょ……えっ!? い、いきなり何の話!? それは小倉くんの悩みと関係あるの!?」
「関係もなにも、悩み自体というか、悩みの根幹にあるものというか。これが分かれば今、俺が悩んでいることはほぼ解決したも同然だし、正直めちゃくちゃ気になってるんだよ」
「気になっ!?」
いいんちょーは頬を朱に染め上げて、口をパクパクとさせている。
なぜだ? とは一瞬思ったものの、あまりにも踏み込みすぎた質問をしてしまったせいで怒らせてしまったのか?
俺はすぐさま取り繕うように言葉を継ぐ。
「別に言いたくないなら言わなくていいよ。失礼な質問だって言うことは重々承知してるし、だから自分だけで考えてて――っていいんちょー?」
だが、その言葉が届いていないかのようにいいんちょーは俺に背を向けて、
「えぇぇぇぇ……どういうこと? なんで小倉くん、そんなこと聞いてくるのよ! 私の経験がなんで悩みの解決に……まさか! 今後の付き合いや将来を考えていくうえで私の事情を知っておこうっていうことなの!? そういうことなの!? いや、そういうことに違いないわ! だったらどう答えるべきなのかしら。したことあるって言えば経験豊富さをアピールできるし、したことないって言えば清廉さをアピールできるけど……小倉くんはどっちが好みなの? うぅぅ……分からないわ……」
ひたすらぶつぶつと何かをつぶやいている。
「あのー、いいんちょー? どうかした?」
俺の呼びかけにいいんちょーはハッと我に返ると、
「あっ! ご、ごめんなさい! その色々と考えこんでしまって。今後の付き合いのこととか、その……将来の……こととか」
「ふーん……?」
なぜ今、将来のことを考える必要があるんだ?
と、それは一旦置いておくとして、顔を赤く染めている様子を見るにこの質問に憤慨している可能性も否定できないので一応保険をかけておくことにする。
「えっと……さっきも言ったんだけど、別に答えたくないなら答えなくても――」
「ううん、答えるわ! そういうの、気になるものね! 今後のことを考えると相手の事情、知りたいものね!」
「……? ああ、まあそうかな」
節々に何か喉に引っかかった魚の小骨のような引っかかりを覚えるものの、とりあえず答えてくれるらしいことは確かなのでスルーすることにした。
それにしてもこんな突っ込んだ質問に答えてくれるなんてありがたいことこの上ないな。
これでいいんちょーの話が聞ければあの言葉の真相解明に大きく近づくはずだ。
話が聞けるという喜びにそわそわとしながら待っていると、いいんちょーはなぜかこちらの様子をちらちらと伺いながら喋り出す。
「えっと……そうね。私は……その……したこと……ない、わよ?」
「えっ、そうなの?」
驚きのあまり反射的にそう返すといいんちょーは途端に不満げな顔になる。
「なによ、その反応。私がしたことないのがそんなに意外?」
「いや、意外といえばそうなんだけど悪い意味じゃなくて。いいんちょーってモテるだろうからしててもおかしくないなって思ってたから」
「してないわよ。そもそもまだその……恋人もいないしそんなことしようがないわ。……恋人もいないし」
なぜか彼氏がいないことを二回も言ういいんちょー。
「あと私、できれば誰でもいいってわけじゃないし、高校生ではまだそういうの早いって思っているから。それにそういうのは本当に好きになった人とするべきで――って違う! 違うから!」
「え、何が?」
俺と目が合った途端にあわあわと手を左右に振るいいんちょーだが、今日なんか様子おかしくないか?
「こ、小倉くんはどうなの!? そういうこと!」
いいんちょーはまるで今の問いかけが聞こえていなかったかのように質問を無視して俺に振ってくる。
「それは俺がキスしたことあるかってこと?」
「そうよ! 私だけ答えるなんて不公平でしょ! 小倉くんも答えてよ」
えぇ……いいんちょーが自分から相談に乗るって言ったのに。
まあでも、確かに人に聞いておいて自分だけ答えないっていうのもフェアじゃないと言えばそうだしな。
俺は心のうちにため息をつくと手をひらひらとさせながら答えた。
「そんなのしたことあるわけないじゃん。俺だよ、俺。そもそも彼女もいないのにどうしろっていう感じだし」
「あっ、そうなんだ。小倉くん彼女いないんだ……」
「残念ながら」
「ふーん……」
いいんちょーはその返答を聞くや否やなぜかは知らないが髪をもじもじといじって黙り込み、俺もその反応を見て何と返せばいいのか分からずに口を開かない。
「「…………」」
場に下りる沈黙。
え、なんだこの空気。
俺、なんか変なこと言った?
いいんちょーが何か話し出すのを待とうかと思ったのだが、小心者の俺がそんな重い沈黙に耐えられるはずもなく……。
「とりあえずありがとう。いいんちょー」
思わず口を開いてしまっていた。
うわ、この後なんて言うか考えてないぞ。
ここは一旦この気まずい沈黙をどうにかするか。
「いいんちょーが答えてくれたおかげで大分気が楽になったよ。まあ、でも所詮は小学生の戯言っていうことだな。信頼性なんてあるわけないよな。ハハ」
そう気まずさを振り払うように言うといいんちょーは眉をピクリと動かした。
「……ちょっと待って。小学生の戯言ってなに?」
あれ、そういえばこれ言ってなかったっけ?
包み隠す必要もないので俺は端的にその言葉の意味を告げた。
「ああ。実は昨日、高校生がみんなキスしてるっていうのを小学生の知り合いから聞いてさ。それの真偽がずっと分からなくて悩んでたんだけど、今のいいんちょーの答えを聞いて嘘だって分かったんだよ。そりゃそうだよな。高校生みんながみんなキスしてるわけないよな」
「えっ……じゃあ小倉君が聞きたかったことって……」
みるみるうちに顔を真っ赤にしていくいいんちょー。
「どうしたんだ? 熱でもある?」
「……ううん、何でもないわ。私が一人で勘違いしてただけだから。でも……ちょっとそっとしておいてくれる?」
そう言ったっきりホームルームが始まるまで、いいんちょーは机に突っ伏したままだった。
次回 ケーキのイチゴはいつ食べる?




