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第1話 視えぬ彼女。姿なき神。

 月は静かに(みお)を見下ろしていた。

 

 陰陽寮の裏手に広がる竹林の中。

 夜風が笹を揺らし、さらさらと心地よくも物寂しい音が響く。

 (みお)は地面に散らばった、破れてしまった札を拾い集めながら、そっと息を吐いた。


 「……また式が逃げたのね」


 その声に応えるものは誰もいない。

 彼女は由緒正しい陰陽師の家系に生まれた。

 しかしながら、霊を見ることも、式を操ることもできなかった。

 そんな彼女のことを寮の者達は、陰で”無才の澪(むさいのみお)”と呼ぶ。


 それでも澪が逃げ出すことはなかった。

 才能がないなら、せめてそれに見合う努力を。

 そう自分を言い聞かせながら、今日まで竹箒(たけぼうき)を握り続けているのだ。


 けれど、その夜だけは何かが違った。


 竹林の奥で風がふと止んだ。

 静寂が耳を刺す。

 

 ーーその瞬間。


 「……泣くな」


 どこからともなく声がした。

 すぐ近く、耳のそばのような気がした。

 澪は息をのむ。


 心臓が痛いほど跳ねた。


 けれど、振り返っても誰もいない。


 「だ、誰……?」


 竹林の闇は黙して何も答えず、竹の葉だけが微かに揺れ動いた。

 それでも確かに聞こえたのだ。


 『泣くな』ーーと。


 不思議な声だった。

 知らぬ人なのに、どこか懐かしい。

 胸の奥に、温かい灯りがともるような気分だった。


 澪は思わず、両手を胸の前で握りしめた。


 「あなたは……人じゃ、ないんですか?」


 闇の向こうから、風に溶けるような声が返る。


 「ーー人の時代はもう終わった。

   それでも、こうして呼びかける者がいるとは思わなかった」


 その声音は、深い孤独を帯びていた。

 澪は、自然と胸の奥が痛くなる。


 「わたし……あなたの姿が視えません」


 「視えぬ……か。それでよい。

   視えることとは、縛られることだ」


 竹がざわりと鳴り響く。

 月光が竹の隙間を縫って差し込み、地面の白砂を照らした。

 澪の視線の先には光が集まり、淡く幻想的に揺らめいた。


 ーーそれはまるで、誰かがそこに立っているかのように。


 澪は再び息を呑んだ。


 「……名を。名を、教えてはくださいませんか?」


 闇の向こうで微かな笑い声がした。


 「わたしはーー(おぼろ)

   忘れ去られた神だ」


 その夜、澪は初めて”神の声”を聞いた。

 それが、後に都の運命を大きく変える出会いになることを、このときの彼女はまだ知らなかった。


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