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ツインレイ ー唯一無二の人ー  作者: 桜美あい
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ツイン女性

 目の前にはモクモクと湯気が立ち上がり、ニンニクの香りが食欲を引き立たせるペペロンチーノが盛られた皿。私はそれをフォークでクルクル巻き付かせながら、大きくため息を吐いた。


「もう何度も同じこと言ってるのに、昨日も作った後に飯はいらないとかラインしてくるし。作る身にもなってほしいと思わない?」

 熱々のパスタを頬張ると、向かいに腰掛ける寧々に同意を求める。

「夫婦やっていると気を許せる分おざなりにされちゃうとこあるよね。華凛のとこは毎回そのパターンじゃない? 廉悟くんて気前良くて人付き合い大事にしているから、急な誘いがあっても断れないとこがあるのかなぁ」

「まぁ、そこが廉悟の良いとこでもあるんだけどさ。もうちょっと私に対しても気遣いほしいんだけど」

「言えてるー。ありがとうとか感謝の一言でもあれば違うしね。本当結婚生活って忍耐力を試されてるよね」

 寧々の言葉に深く頷いた。

 

 夫の廉悟とは大学時代にテニスサークルで知り合った。私のニつ上にあたる先輩の廉悟は初対面でも気さくに打ち解ける親しみやすさがあり、入部したての私に対してもすぐに「華凛ちゃん」と呼んでくるぐらい距離感をあっという間に詰めてくる人だった。


 けれどそこに不快感はなく誰に対しても平等に接している廉悟は、サークル内でも皆の中心にいるお兄ちゃん的存在だった。頼れる先輩、というポジションから恋愛を意識しだしたのは、夏休みに行った一泊の合同合宿の時。


 その日の夕食メニューは野外バーベキューだったため、三台程セットしたコンロを使って各々が肉や野菜を焼いたりしながら会話を弾ませていた。途中クーラーボックスの氷が空になっていることに気づいた私は、一人コテージにある冷蔵庫へと向かう途中誰かの話し声を耳にした。


「……まだ目を覚さないのか? ああ……うん、そうなんだ……」

 気落ちしたような声の主は先輩のようだった。私は何だか聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がして、思わず息を潜めた。

「母さんもしっかり寝ろよ。俺も明日にはまた病院行くから……ああ、じゃあ何かあったら連絡して」

 会話が切れたと同時に振り返った先輩と目が合う。私はクーラーボックスを抱えながら、立ち尽くしていた。

「あっ、氷なくなっちゃったから、コテージ行こうとしてて……」

「……もしかして今の話聞こえてた?」

「ご、ごめんなさい」

「いや、華凛ちゃんが謝ることは何もないよ」


 初めて耳にする低く暗い先輩の声。辺りが暗くて表情まではハッキリと分からないけれど、重たい空気感から深刻な様子は垣間見れた。

「……何かあったんですか?」

「実は……親父が事故にあっちゃって」

「えっ」

「事故にあったのは五日前なんだけど意識が戻らなくてさ」

 その言葉を聞いた瞬間フラッシュバックするように、幼い頃の情景が目の前に浮かんできた。胸の奥に何かが詰まっているかのように息苦しい。

「このことは皆には内緒にしといてもらえるかな」

「……黙っているんですか?」

「せっかく皆楽しんでいるし、余計な心配かけたくないから」

「でも……」と言いかけてその後の言葉を口にすることはできなかった。


 ――もし意識が戻らなかったら。

 そんな考えたくもないことは私が口にしなくても、今一番頭の中を支配している恐怖だろう。けれど万が一のことが起きてしまったら、私と同じような苦しみを抱えてしまうことになる。

「……先輩無理しないで下さい」

「無理していないよ。何かあったらすぐに駆け付けられる距離だし。本当大丈夫だから……華凛ちゃんありがと」


 昨日からの先輩の言動がコマ送りのように思い返される。猛暑の中でも率先して声を上げ、場を盛り上げていた先輩。「顔色悪そうだからちょっと休んだ方がいいよ」と誰よりもいち早く後輩の顔色の悪さに気付き声をかけていた先輩。

「絶対……絶対大丈夫です! お父さん目を覚ましてくれるはずです!」

「何で華凛ちゃんが泣いているの?」


 自分でも気付かないうちに涙が溢れ出していた。小学校の頃、母と弟と手を握り締めながら、不安と恐怖で張り裂けそうになっている自分が重なったのかもしれない。私の父は仕事帰りに交通事故に遭い、丸一日意識不明の後他界した。

 だから先輩の心情は嫌という程よく分かる。なのにそんな時でも周りを気遣い明るく振る舞おうとする先輩の強さに、心が痛くなる。


 悲しみや苦しみの負の感情は溜め込んでしまう程、その想いをさらに倍増させていく。涙や声で放出してしまった方がずっと楽で、幾らか心を軽くできるはずだから。

 怖くて怖くて泣き叫びたいはずなのに。どうしようもない不安で心がかき乱されて落ち着かないはずなのに。必死でこの場を踏ん張ろうとして闘っているのに私が泣いてしまったら、先輩の悲しみは癒えるどころか余計解放できなくなるのに。

 分かっているけれど抑えられない自分は、どうしようもなく身勝手で子供だと思った。先輩はそんな子供をあやす様にポンポンと私の頭に触れる。そしてフッと笑いをこぼした。

「なんか誰にも話せずにいたから、華凛ちゃんのおかげでちょっと心が軽くなったよ」

 先輩の一言は私の心も軽いものにしてくれた。


 その後私達は氷を運ぶため、一緒にコテージまで向かった。出入り口のドアを開け、ふと壁にかかった木製の鏡に自分の顔が映ったのを目にして、私は言葉を失った。――何て酷い顔をしてるんだろう。

 マスカラは涙袋にこびり付き、崩れたアイラインのせいでパンダみたいな目になっている。ファンデーションの上から涙の跡がしっかり浮き彫りになっていて、目を背けたくなる程の悲惨さだった。こんな顔ならスッピンを見られた方がよっぽどマシだ。


「もう何この顔、最悪! 崩れまくりじゃん」

 鏡を見ながら悲鳴のような声がもれた。

「どれどれ」と鏡の奥から覗き込むような先輩が目に入り、思わず絶叫する。

「もうやだー! 見ないで下さいー」

「今頃言っても、もうずっと前から見ちゃってるよ」

「そんなー! 恥ずかしすぎる」

「なかなかお目にかかれないよね」

 先輩は含み笑いを見せた。


 とんでもなく悲惨な顔をお披露目してしまったことは、穴があったら入りたい程の恥ずかしさだったけれど、その日をきっかけにニ人の距離が縮まっていき、付き合うまでにそう時間はかからなかった。


 廉悟のお義父さんは幸い事故から一週間後に意識を取り戻し、命に別条はなかった。そのことを私に報告してくれた時、生きててくれて本当に良かった、と心から安堵したのを覚えている。

 お義父さんは後遺症により、事故後一年間程リハビリで病院に通う日々が続いた。左腕が思うように動かなかったけれど、現在に至ってはその後遺症もほとんどわからない程、日常生活を送れるようになっている。



 学生時代を懐かしく回想しながら、年月の経過と共に心の移ろいを感じた。あんなに崩れたメイクを人前で見せて恥じらいを感じていたのに、今じゃヨダレを垂らして半開きの寝顔を曝け出しているんだから。


 廉悟と結婚して今年で一六年目。交際は順調に続いていたから結婚という選択は自然の流れだった。翌年には娘の來愛も生まれ、それなりに幸せな生活を歩んできたと思う。

 全く違う価値観で違う境遇の他人同士が屋根の下一つで暮らせば、愚痴の一つニついや三つも出てくるけれど、こんなふうに誰かに話を聞いてもらうだけでその不満は和らげることができた。廉悟は我が強く自分の意見を通したい人だったから、私はそんな廉悟に割と何でも合わせて夫婦関係を維持していた。だから寧々みたいに気を許せる友達とランチを挟んで近況を話し合うひとときは、日頃の息抜きでもあり楽しみの一つでもあった。


 見渡せば私と同じように主婦らしき人が集っている昼間の飲食店。少なからずスーツ姿の男性もチラホラいるけれど、客層の八割は女性客だ。

「あ、そう言えば私の友達にネイルしたいって言ってた子いたから、インスタアカウント教えておいたよ」

「本当? ありがとう」

「最近順調じゃない? ネイルの仕事。フォロワーさんもめちゃ増えてたし」

「うーんでもまだまだだよ。お店持つまでには先が長そう。それにもっと技術磨きたいし」

「起業してるだけでも凄いよ。私そんな度胸もないから雇われでやっている方が楽だもん」


 寧々と同様、私自身起業するなんて夢にも思っていなかった。けれど数年前、行きつけの美容院でネイルアートのモニターをしたことがきっかけで、自分の中で新たな価値観が身に付いた。指先が綺麗に彩られ、キラキラ光るストーンを目にする度心が弾むような嬉しさを覚えたのだ。


 ちょうどその頃当時のパート先である派遣先で人間関係に悩んでいた時期でもあり、ネイルの存在でこんなにも気持ちが明るくなれることに希望の光を見つけた気がした。爪一つでこんなにも満足し、気持ちが上向きになる自分をこの時初めて知り、ネイルへの見方が一変した瞬間でもあった。

 そのうちデザインやパーツにもこだわりを持つようになり、自分でこんなネイルを創造したい、というアイデアが次々に湧いてきた。


 趣味で描いたネイルチップをフリマサイトに出品してみると、思いの外良い価格で購入してもらうことが増えた。しかも「凄く可愛いくて気に入りました!」とか「デートで付けるために買いました。彼氏にも可愛いって言ってもらえて嬉しい! ありがとうございます!」なんて有り難いメッセージを目にするようになったことで、自分の中で眠っていた創造性のようなものに火がついたのだ。


 もっと本格的にやっていきたい。お客さんがネイルアートをして喜ぶ顔を見ていきたい。自分が爪一つで笑顔になれたように、誰かの笑顔を増やせたら――。

 技術や知識を学ぶため資格を取ることにし、子育て、家事、派遣の仕事、ネイル取得の為のスクール通い、と目まぐるしい程の慌ただしい日々を送った。けれど自分が学びたいと思って始めた勉強は全く苦じゃなくて、寧ろ生きがいのような希望しかなく張りがある毎日だった。


 試験に合格し無事資格を取得できた後は、一年程サロンに就職し技術を磨いた。そしてその後自宅で開業し、ネイリストとしての日々を送るようになっていた。

 一つ夢を達成していったら、次はこんなことがしてみたいあんなことも憧れる、と次々に夢が広がっていった。今の目標は店舗を構えること。ネイリストとしてだけじゃなく、オーナーになって人を雇って稼いでいけるような経営者になりたい。

 けれど廉悟が良く思わないだろうと予感していて、一筋縄では進みそうにないことも分かっていた。私が自宅サロンを開きたいと言った時も、すぐには賛成してもらえなかったから――。



 食後のデザートを頬張りながら、インスタアカウントを開く。今日初めて開けたアカウントには、いつものように朔弥くんからのいいねが押されていた。ネイルなんて全く興味も関心もないだろうに、毎日私の投稿を見てくれていいねも欠かさずクリックしてくれている。


 圧倒的に女性しかいないフォロワーさんの中で、無邪気な笑顔をしている朔弥くんのアイコンが混じっていてなんだか可笑しくなる。

「華凛てば何にやついてるの?」

「えーそおかな?にやけてないけどぉ」

「けどぉ何?」

 寧々が興味深く覗き込んでくる。何を期待しているんだろうか。

「この前起業家セミナー行った時に出会った子がいるんだけどね」

「どんな子?」

「ニ三歳の今時ぽいイケメンの子。毎日欠かさずいいねしてくれるから、何だか可愛いくって」

「えーそれは眩しすぎるっ。そんな若いイケメンの子と知り合っちゃったの? 華凛にしては珍しいよね、いつも歳上としか繋がらないのに」

「ひと回り以上も年下なんだけど、不思議と違和感なく話せて年齢差も気にならなかったんだよね」

 寧々の言う通り私にしては珍しく歳下の子と縁ができて、自分でも驚いていた。振り返ってみれば、学生時代から常に歳上男性にしか興味が湧かず、廉悟を始め付き合う男性はいつも歳上だった。中学、高校の頃も目に入るのは先輩ばかり。


 結婚後、派遣の先々で色んな人と出会ってきたけれど会話が弾むのは四十代や五十代男性の方が多く、若い男性達とは挨拶する程度の接点しか持ったことがなかった。

 けれど朔弥くんとは年齢差を全く感じさせない程話が弾み、何故だかわからないけれど初めて会ったのに一緒にいるのが心地良かったのだ。


「その子と会ったりしてるの?」

「その日一回きりだよ。会うような接点もないし。輸入しているんだって。今って就職するくらい起業しようとする人も多くてびっくりしたよ。この前のセミナー、ニ十代の子が大半だったもん」

「そうなんだ。じゃあこの前話してたネイルパーツのこととか聞いてみたらいいんじゃない? 輸入しているなら詳しそうだし」

「あ、本当だ。全然気づかなかった。朔弥くんに聞いてみたらいいんだ」

 以前ネットサーフィンしていた時に可愛いパーツを見つけたが初めて目にする怪しげな海外サイトだったため、見送ったことがあった。朔弥くんなら正規ルートで安く仕入れられるサイトを知っているかもしれない。


 その日の夜、洗い物を済ませお風呂にも入って一息ついたところで朔弥くんにDMを送信した。するとチャットのやり取りかのようにリアルタイムで返信が届き、思わず吹き出してしまった。タイミング良くインスタ開けていたみたいだけど、それにしても早すぎでしょ。

「ママ怖ーい」

 ソファーに寄りかかっている來愛が鋭い視線を向けてくる。いやいや、來愛こそ私以上に一人で笑い転げている時あってホラーだよ? と突っ込みを入れたかったけれど、グッと抑えることにした。 

 朔弥くんに聞いてみると代行会社を使うと良いことを教えてもらえた。そしてやり取りの流れで、予定のない定休日に運良く直接教えてもらえることになった。



 待ち合わせ場所は私がよく行くお気に入りカフェ『LA ISLA』だった。予定より一五分程早くお店に到着したにもかかわらず、すでに朔弥くんはお店の中でパソコン画面に集中していた。お仕事モードだろうか。私がじっと見ている視線に全く気付く気配もない。こんな真剣な顔にもなるんだ。

「朔弥くん、お待たせ」

「あ、華凛さん」

 朔弥くんの真剣な表情が崩れ、パァっと満面の笑みを見せる。何そのギャップ! 反則なんだけれど。可愛いすぎるでしょ。

 その後私がイケメンて言葉を口にしたら、耳まで茹で蛸のように赤くしている朔弥くんは間違いなく歳上受けするだろうと確信した。こんなにコロコロと面白いように表情の変化を見せてくれる人に、母性本能をくすぐられる女性がいないはずがない。


 私はドリンクを注文し、朔弥くんの向かいに座った。

「朔弥くん何飲んでるの?」

「俺はホットコーヒー。華凛さんは?」

「アールグレイティーラテのミルク入り。この甘さと香りがお気に入りで月に一回は飲んでるの」

「アー……ティー……やべ、覚えられない」

「アーティーって何ー?朔弥くん略しすぎでしょ」


 可笑しくなって目の端に涙が滲んでくる。華凛さん笑いすぎだから、って眉を下げる朔弥くん。だーかーらー!そんな子犬みたいた目して見つめないでよね。朔弥くんのそのしょげた顔、可愛いさレベルMAXだから。

 それにしてもまだ出会って今日でニ度目なのに、こんなにも絶対的な安心感があるのは何故だろう。お互いのこと深く知りもしないし歳の差もあるのに、それでも朔弥くんに対してこの人は信じられるという確信めいたものがあり、妙な懐かしささえ感じられる。


 どこかで会ったことがあるのかもしれない、そう思って朔弥くんに聞いてみたけれど首を横に振られた。大人になるにつれ出会う人は限られてきたし、学生時代を振り返ったとしても朔弥くんと接点があったとは到底思えない。

 一方的な私の思い込みだったのかもしれない。そう思ったらちょっと悲しくなったけれど、朔弥くんが「俺も初めて会った気がしなかった」と思いも寄らない言葉を返してくれて、落ち込みかけた気持ちが一気に晴れやかになった。


 そこからお互いの身の上話をするうちに共通点の多さに驚きつつ、さらに親近感を増すようになった。朔弥くんとの会話が和むのもリラックスできる安心感があるのも、きっとそんな繋がりがあるからかもしれない。

 その一方で私を見つめる視線がいつも何かを訴えかけているような縋っているような瞳をしていて、それを感じる度胸の奥がキュッと締め付けられる。


 会話に夢中になりすぎて肝心の勉強会は狭まったけれど、朔弥くんのおかげで一連の輸入の知識は身についた。

「朔弥くん本当ありがとう。おかげで仕事がもっと楽しくなりそう……早くお店を持てたらいいなぁ」

「華凛さんお店持つの? 凄いじゃん」

「全然何も決まってないよ。でも今の私の夢なの。まだまだ時間かかりそうだし持てるか分からないけどね」

「華凛さんなら大丈夫だよ、絶対!!」

「朔弥くん言い切ってる。なんでそんな自信持って言ってくれるのー」

 あまりに真顔で言う朔弥くんに少し照れ臭くなって笑って返す。何を根拠に絶対なんて言ってくれるのかは分からないけれど、それでもこんなに肯定してくれることにくすぐったくなる。

「だって華凛さんだからだよ」

「朔弥くん……」

「だから絶対大丈夫!」

 きゅんって胸が鳴る。今日は何度そんな状況になっただろう。一回りも歳の離れた男の子に、コロコロ気持ちを転がされている。でも今の言葉は極め付けだ。



 家路に着いたのは來愛と約束している一七時ジャストだった。「友達とアーティストのイベントに参加するから会場まで送ってほしい」と前々からお願いされていたため、間に合わないわけにはいかない。

「ママ、帰ってこないと思って心配したじゃん」

「ごめんごめん、急ごっか」

 休む間もなく車を走らせると、夕暮れ時の帰宅ラッシュで混み合う大通りへと向かった。

 來愛を待っている間はどこかのカフェで時間を潰そうと思っていたけれど、車から降ろした途端急に脱力感が襲ってきたため、バザードを点けて路駐した車の中でそのまま眠ってしまっていた。


 居心地の悪さで目が覚めたのと空腹でお腹の音が鳴ったのはほぼ同時だった。覚めた虚ろな意識の中でぼんやりと、朔弥くんとの会話を思い返していた。

 お互い趣味嗜好が似ていてこんなにも話していて分かり合える人なんているんだ、って思えたのは初めてのことかもしれない。だからきっと朔弥くんといる空気感は居心地の良さを感じるんだろう。『だって華凛さんだからだよ』ふいに言われた言葉が思い浮かんでこそばゆくなる。あんなふうに全面的に自分を認めてくれるような台詞なんて、誰にも言われたことがない。


 來愛が上機嫌で車に戻ってきた。

「もう本当に良かった!! 何回も目があったんだよー本当最高!」

 ミニライブ的な感じで観客数も限られていたため、距離が近くて大興奮だったらしい。來愛の息が上がって紅潮した顔を見れば、その様子は充分伝わるものがあった。

 廉悟の帰宅が十時だから、着いたらまずお風呂を沸かそう。お肉を解凍して野菜も切らなきゃ――頭の中でアレコレシュミレーションしながら、私は再びハンドルを握ると家までの道のりを急いだ。


 帰宅し一通りのタスクを終えた後、インスタ画面を開く。朔弥くんに教えてもらいながらも慌ただしく席を立ってしまい、改めてお礼のメッセージを送った。

【朔弥くん今日は色々と教えてくれてありがとう。今度ちゃんとお礼させてね】

【お礼なんていいよ。また分からない所あったら何でも聞いて。】


 朔弥くんは相変わらず返信が早くてビックリする。何か早押しツールでもあるんだろうかと思えるくらいだ。

 朔弥くんの教え方はとても丁寧だった。私が質問しても嫌な顔せず分かりやすい言葉を使って説明してくれるから、インプットするのが楽しくて仕方なかった。難しいとか大変という輸入のイメージを払拭してくれたのは、間違いなく朔弥くんのおかげだ。

 ネイルの仕事もまた一歩前進できそうで、今日一日の達成感を噛み締めながら眠りにつくことができた。


 

 インスタアカウントからの流動で新規のお客さんが少しずつ増え出し、一日の売上も最高額を叩き出せるようになった。

 朔弥くんから教えてもらったサイトを使って初めて輸入も経験してみたけれど、可愛いパーツを原価抑えて購入できたのは喜ばしい収穫だ。

 インスタアクセスが伸びやすい夜の時間帯を使って、今日撮ったネイルを上げた。すると数秒も経たないうちに、投稿にいいねがクリックされている。朔弥くんだ。

「本当秒殺じゃん」

 思わず吹き出した。クリック一つでこんなに笑わさせてくれる朔弥くんて、お笑いのセンス抜群かもしれない。

【華凛さん、お疲れ】

【お疲れさま、朔弥くん】

【今ハイボール飲んでる】

【え、いいなぁ。おつまみは何?】

【コンビニにあった新作のお菓子】

 朔弥くんはすぐさま写メを送信してくれた。

 そこにはドアップでピースサインをした手が画面の大半を締めていて、肝心のお菓子は左端の隅に僅かに見えるだけ。ポテチらしきお菓子の袋が映っている。これはわざとなのか天然なのか。


「ママ、急に笑い出して怖いって」

 冷めた目つきの來愛にそう言われても、私は笑いを抑えることができない。何でこんなに楽しいんだろう。何でこんなに笑ってしまうんだろう。それは朔弥くんだからなのは間違いない。波長が合うというのはまさにこのことを指すんじゃないか。

 朔弥くんとのやり取りは何てことない言葉を交わすことがほとんどだったけれど、不思議なくらい波長が合い、そんなささやかな時間が変わり映えのなかった日常の中で楽しみの一つになっている。



「華凛ー。俺明後日出張入ったから、スーツケース用意しといてくれない?」

 廉悟がダイニングテーブルで遅めの夕食を取りながら、キッチンで洗い物をする私に声を上げた。

「え、明後日って金曜日から?いつ帰ってくるの?」

「日曜日の夜かな」

「そっか……じゃあ週末予定していた私の実家、行けないね」

「本当ごめん、華凛と來愛で行ってきてくれないか」

「お土産忘れないでよね!」

 リビングで寛いでいた來愛が声を上げた。

「ああ、約束する。欲しいものあったら何でもラインして」

「やったね!」


 何でも、なんて言っている廉悟は來愛に甘い。私との約束を破ることはあっても、來愛との約束は何より優先するところが父親の性なのか。約束と言っても大概はこれが欲しいアレが食べたい、という物欲的なお願いばかりだけれど。


 出張か――。廉悟は商社勤務のため、仕事柄急に出張が入ることも多々ある。結婚当初からそれは続いていて一人寂しい時間を過ごした時期もあったけれど、來愛が生まれ子育てに家事に仕事にと追われる日々の中で、そんな感情はいつのまにか消えていた。

 廉悟がいないのは残念だけれど、久しぶりに母の顔を見に行きがてら体調を確認して安心したい。以前電話で会話した時に、最近身体が優れないと話していたのが気にかかっていたからだ。



 母の好きな苺大福を手土産に、來愛を乗せて自宅へと向かった。笑顔で出迎えてくれた母は思いの外顔色も良く、元気そうに見える。


 父の遺影があるお仏壇に手を合わせた後、暖まったこたつに三人其々が身体を丸めながら、苺大福に手を伸ばす。母が淹れてくれた緑茶とマッチして、美味しさが口の中に広がっていく。

「あれから体調どうだった? 調子悪いところある?」

「ずっと身体がだるくて動くのも億劫だったんだけれど、最近は大丈夫よ」

「本当? なら良かった。働きすぎだからあまり無理しないでよー。掛け持ちとか今の私じゃ絶対無理」

「私もなーちゃんみたいに働けないわ。働くなら楽がいー」

 來愛は母のことをなーちゃんと呼ぶ。母は「菜津子だからなーちゃんて呼んでもらおう」と來愛が生まれる前から自分の呼び名を決めていたのだ。

「來愛ちゃんはこれからなんだから、楽とか言ってないの」

「だってー」


 母は薬局のレジと倉庫でのピッキング作業のニつの仕事を掛け持ちしている。家のローンがあるわけでもないし、そこそこの蓄えはあるはずなのに毎日忙しいくらいに動き回っている。もう少し趣味に時間を費やしたり、のんびりする時間を増やした方が身体に負担もなくて私も安心するんだけれど。

 母曰く、家でじっとしているより仕事しながら誰かと関わっている方が張り合いが出るんだとか。


「廉悟くんは相変わらず忙しいの? 元気にしてる?」

「うん元気だよ。今日は急に出張になって来れなかったけれど、変わりなく過ごしてるよ」

 母は廉悟の体調を凄く気遣ってくれる。父が交通事故で亡くなっているから片親になる辛さを染み染み味わっているため、家族揃って健康的に暮らせるようにというのが何よりの願いだった。


 私に対しても栄養バランスを考えた献立作ってる? だの廉悟くんは睡眠確保できてる? だの口煩いくらい心配してくれる。

「パパはちょっとお腹出てきたから、ダイエットした方がいいくらいだよ」

 年頃女子の判定は厳し目だ。自分自身に対しても体重の増減に一喜一憂し、年がら年中ダイエット宣言している。

「來愛ちゃんはもちょっと食べた方が良いんじゃない? なーちゃんの腕と同じくらいの脚の細さだよ」

「今時女子にしたら、私の体型なんて普通だよ。もうちょっと顔のお肉落とせたらいいのに」

 來愛は携帯カメラで自分の顔を映しながら自分の頬を摘んだ。

「それにしても來愛ちゃんは、本当ママそっくり。華凛が高校生だった頃思い出すわぁ」

「えー私こんな感じだっけ。來愛程濃いメイクしていなかったと思ったけど」

「ママ濃いってなにー。今時メイクはこれが流行りなの」


 ぷっくりした涙袋にキラキラのラメ入りアイシャドウ、それに紅いリップなんて付けていた記憶ないけどな。

 私の高校生の頃の持ち物と似つかない程、來愛が愛用しているメイク用品は、見た目からして乙女心を刺激される可愛らしさがある。部屋の装飾品として並べておくだけでも映えそうなものばかりだ。

 他愛もない会話を挟みながらゆっくりと過ぎていく、何てことない時間に心が和む。夕暮れ時になると母が予め準備してくれていたおでんを三人で囲んで食べ、廉悟が帰宅するより前に自宅へと戻った。



「スイーツ全種類ちゃんと買ってきたぞ」

 出張から戻った廉悟は、お土産の袋をダイニングテーブルの上に置いた。

「パパサンキュー! あ、ちゃんとプリンもチーズケーキもある」

「探すの必死だったんだそ。分からないから店員さんに写真見せて持ってきてもらったりして」

「パパ凄ーい! ちゃんとミッションクリアしてくれて」

「何がミッションだ。それにしてもスイーツばっか食べ過ぎじゃないか?」

 來愛は聞き流すかのように鼻歌を鳴らしながら、スイーツの包みを開け始めた。私は暗黙の了解で三人分のフォークと小皿をテーブルの上に並べる。

 來愛が頼んだと言っても、こうして家族三人で廉悟が買ってきたお土産に舌を鳴らすのがお決まりだった。


「お義母さんはどう? 元気そうだった?」

「うん、この前電話した時は体調が心配だったけれど、顔色も良かったし大丈夫みたい」

「そっか、なら安心だ」

「パパのお腹具合心配してたよ」

「え、俺のお腹? お義母さんが?」

「それは來愛でしょー。最近のパパのお腹気になってたみたいで」

「最近ちょっと弛んできたかな。スイーツ食べてる場合じゃないな」


 廉悟は元々ストイックで自己管理がしっかりしているから、弛んでいると言っても私からしたら気にならない程度。綺麗に割れた腹筋も良いけれど、中年になって少し肉のついたお腹もそれはそれで愛嬌があって微笑ましい気もする。私の父がそんなお腹をしていたからだろうか。


 廉悟が買ってきてくれたお土産を皆で堪能した後、出張疲れの廉悟は早めにベッドについた。

 私は撮り溜めてあったネイルの写真をインスタに載せた。するとお決まりのように数秒後にいいねがつく。朔弥くんだ。

 もはや条件反射のように朔弥くんから押されるいいねは、ドラッグ並の中毒性がある。ないと不安に駆られるようになってしまったからだ。そんなことはこれまで一度もないけれど、たまにフットサルで走り回っている時は一時間くらい経つこともあった。

 毎日のようにDMで挨拶を交わし、お互いの一日のルーティンを知るようになり、不思議な関係が続いている。



「今日はどんな感じになさいますか」

「前回はシンプルなデザインだったから、今回は少し派手目なこんな感じでお願いできるかしら?」


 常連客の亜沙美さんが携帯を差し出しながら、スクリーンショットされた写真を見せてくれた。カラーはボルドーがベースにゴールドのラメを先端に散りばめ、薬指だけストーンの埋め尽くしになっている華やかなものだ。


 お客さんは定番ネイルやワンカラーだけの注文の人もいたが、半数くらいはつけ放題メニューで好みのオーダーをお願いされることが多かった。

 写真を見せてもらったり細かく要望を聞きながら、注文通りの仕上がりになるかどうかは腕が試される。アートは特に技術が必要とされ、上手下手が露骨に反映されてしまう。けれど神経を使う分お客さんの嬉しそうな表情を見たときは、仕上がりの達成感もひとしおだ。


「分かりました。じゃあ最初にオフから始めていきますね」

「来週大阪で記念パーティーがあってワインカラーのドレスを着る予定なの。だから爪も合わせようと思って」

「そうなんですね。この前出版された書籍のパーティーですか?」

「そうなの。再来週は関東で月末は福岡だったかしら」

「大忙しですね、亜沙美さん」

「お陰様で。今月は移動が多くなりそうだわ」

 亜沙美さんはニコっと笑みを浮かべた。


 亜沙美さんが私のサロンに来店してくれるようになってもう二年以上は経つだろうか。私が以前サロンに就職していた頃からのお客さんで、開業してからは私のサロンまで足を運んでくれるようになった。有り難い。


 亜沙美さんはライフコンサルタントの仕事をしており、一方で講演会をしたり書籍を出版したりとマルチに活躍されているバリバリのキャリアウーマン。

 芯の強さを伺わせるような黒髪の前下がりボブに大振りのイヤリングが亜沙美さんのトレードマークだ。実年齢よりずっと若く見える 四十代後半のバツイチ独身だけど、彼氏は常に絶えない。


『自分のやりたいことに我慢はしない』

 亜沙美さんが会話の中でこぼした言葉は、亜沙美さんの生き方にしっかりと反映されている。 

 周りの目を気にしてやりたいこともやれないなんて勿体無い、と世間体など気にせず自分の欲求に従って行動していく姿は、自分という軸をちゃんと持っていてカッコイイと密かに憧れている。


 亜沙美さんの携帯から軽快な着信音が鳴る。

「ちょっと出てもいいかしら?」

「はい、どうぞ」

 亜沙美さんが左手で携帯を持ったため、右手の爪にカラーを入れていく。

 当初何で前のお店に引き続き私のサロンに来店してくれるようになったか謎だったけれど、やって欲しい時に即時対応してくれるところが気に入ったらしい。

 けれどその後に「あなたの人柄が気に入ったのが大きいわ」と言ってくれたことは私にとって大きな自信となっていた。


 開店したばかりの時期は新規のお客さんを集客することに必死で予約枠もびっしり埋まることなんてないから、割と融通をきかせて対応していた。けれど、次第に顧客がつくようになり、即時予約も難しくなってきた後も亜沙美さんは変わりなく通い続けてくれていることがその証のような気もした。


 電話の相手と話し終えた亜沙美さんが携帯を机の上に置いた。その時画面に映る笑顔の亜沙美さんと、アイドルみたいな可愛い男の子のツーショット写真が目に飛び込んできた。

「亜沙美さんの隣りに写ってる男の子、可愛い子ですね」

「あ、これ今の彼氏なの」

「このアイドルみたいな男の子ですか?」

 肌色が白くぱっちり二重で、茶色い髪にはふわふわの柔らかそうなパーマをかけている。間違いなく可愛い系男子に入る容姿だ。

「大学生だけど、たまに雑誌モデルとかしてるみたい」

「ということは二十代ですか?」

「そう、二十歳。彼の前にお付き合いしていたのは年上の方だったから初々しさがたまらないわね」


 亜沙美さんの彼氏遍歴は知り尽くしているから、今更何を聞いても驚かないメンタルは整っている。けれどハタチの子は今までで一番年下だったから、一瞬言葉を失いかけた。

「どんな出会いだったんですか?」

「インスタよ。本アカじゃなくてプライベートな日常を撮った写真ばかりのアカウントの方。でもフォローされているだけで、私は全く存在を知らなかったの。ある時街を歩いていたら、『亜沙美さんだ!』って走り寄って来る男の子がいて。それが彼だったの」

「えー、彼よく気が付きましたね。そんな出会いがあったんですか」


 亜沙美さんはまるで漫画や小説のような出会い方をよくしている。それでも亜沙美さんにとってみたら、そんな出会いも出来事も日常のよくあることの一つだと言う。

 亜沙美さんの価値観も捉え方も私とは異なるところばかりで、スパイスみたいに刺激される存在だ。

 ボルドーカラーの指先にトップジェルを塗り付け、最後にキューティクルオイルで保湿したネイルを見て、亜沙美さんが「わぁ、素敵」と目を輝かせた。

 それは施術した時の一番気持ちが昂る瞬間でもある。


 満足気に帰って行った亜沙美さんの後ろ姿を見送る。この後は何も予約を入れていないから、來愛が帰宅するまでの時間はお茶でも飲みながら久々にゆっくり過ごそう。最近定休日以外はびっしり予約を詰めていたから、一人きりで寛ぐ時間が欲しい。

 そう思いながら携帯を開くと母からのライン通知が届いていた。

【朝から頭痛が治らなくてお昼に早退してきた】

「え、早退? お母さんが?」

 私が知る限り仕事を早退するなんて聞いたことがない。よっぽど辛いんだろうか。電話を鳴らしてみたけど、留守番電話に繋がるばかりで母から折り返しの電話もない。

 嫌や胸騒ぎをして家を飛び出ると、母のいる実家へと車を走らせた。


「お母さん!」

 玄関の鍵が開いたままだったので、勢いよくドアを開けてリビングに向かう。こたつの中から伸びる小さく丸めた背中が見えた。

「お母さん大丈夫!?」

 近寄りそっと顔を覗き込む。

「あ……華凛? 来てくれたの……悪いわねぇ」

「そんなことより頭痛はどうなの? まだ痛む?」

「こめかみ辺りがズキズキするの……目眩もしてきて……寝てれば治ると思ったんだけど……風邪かしら」

 母は眉間にシワを寄せながら、額を押さえている。

「病院行こう。一回診てもらった方が安心だよ」

「ありがとう。でもそれ以外の症状はないから心配いらないわ」

 母の額に触れてみる。熱はなさそうだけれど念のため体温を測ってもらった。平熱だったから風邪やインフルエンザではなさそうだ。

「本当に病院行かなくて大丈夫? 私付きそうよ?」

「うん、一晩ゆっくりすれば治ると思うから。心配かけて悪かったわ」

「お母さん謝ることじゃないよ……じゃあ今日ゆっくり休んで明日も治らないようだったら、病院行くことにしよう? 私が一緒に行くから」

「分かったわ、ありがとう」


 母をベッドのある寝室へ連れて行き、布団をかけた。その後キッチンに向かうと、小鍋で冷やご飯と卵のお粥を作り温めるだけにしておく。籠に盛られていた柿とリンゴの皮を剥き、タッパーに入れて冷蔵庫に閉まった。お腹が空いたらきっと気付いて食べてくれるだろう。


 バルコニーにかかった母の洗濯物を取り込み、畳んだ洗濯物は寝室の端に並べて置いた。帰り際一言かけようと思ったが、穏やかそうな顔で眠る母の顔に安心し、そのまま帰ることにした。



 翌朝母に電話をかけると、まだ頭痛が続いているようだった。

「昨日よりは良くなった気がするけれど、まだズキズキ痛みがあって。あ、お粥や洗濯物ありがとう。おかげで助かりました」

「どういたしましてー。まだ痛み続いているみたいだから、病院行ってみよう。お母さん予約しといてもらえる?」

「華凛、ネイルの方は大丈夫なの? お母さん一人で行けるから大丈夫よ」

「うーん……それもちょっと心配なんだけどな……三時以降なら予約入れてないから時間空いてるし」

 母は予約の混雑具合を見てまた連絡する、と言った。


 病院に行くなら夕食の準備は済ませておいた方が良さそうだ。昨夜は何の用意もできておらずお腹を空かせた來愛に急かされ、回転寿司で済ませる羽目になったからだ。廉悟もお持ち帰りしたお寿司の詰め合わせに喜んでいたけれど、さすがにニ日連続で夕飯をおざなりにはできない。


 解凍したお肉と野菜を切りながら下ごしらえしていると、ライン通知が届いた。

【午前中の予約は埋まっていたから、四時から診察してもらうことになりました】

【了解。じゃあ仕事終わり次第迎えに行くね】

 夜ご飯を作り終え温めるだけの状態にすると、炊飯器のタイマーをセットしお客さんを迎えいれる準備を整えた。


 

 半日ぶりに顔を合わせた母は、昨日よりも顔色は冴えていたが痛みは変わりなく続いているようで何だか嫌な予感がする。

 今まで病気らしい病気なんてしたこともない母が気弱に横たわる昨日の姿は、子供心ながらに不安と恐れが交差していたからだ。母を病院に連れて行くことは、私自身の不安を取り除きたい表れでもあったかもしれない。


 母が行きつけの内科医は問診し聴診器を当てたあと「熱もないようですし特に異常はありませんね。ただ頭痛が脳からきている可能性もありますので、MRIを受けてみることもできますが」と答えた。

「MRIですか」

 私と母の声がハモる。

「ただこちらではそういった設備がないので、他の病院にいってもらうことになりますが。その場合は紹介状をお出しします」


 淡々と話す医師に反して、私と母は展開の早さについていけない。けれどしっかり診てもらった方が母も安心できると思い、病院を紹介してもらうことにした。

 母はパートをお休みすることに抵抗があったようだけれど、こういうことは間を置かず済ませておいた方が後々困らないし、気持ち的にも不安を抱えたままでいるよりずっといい。早速明日にも紹介してもらった病院で診てもらうことになった。



 多数の診療科を有するだけある総合病院は、朝から人の入りが激しかった。日頃こんな大病院に来たことがない母はちょっと足が竦んでいるようだ。

 私も病気とは無縁の生活をしているし、入院といったら出産の時ぐらいしか経験もないから、病院という独特な空気感と匂いは変な抑圧を感じる。父との出来事も関連しているかもしれない。


 名前を呼ばれて診察室に入り、医師との問診の後MRIとCT検査を受けることになった。その前に簡単な身体検査と血液検査も行うことになり、看護婦さんによれば一時間以上はかかりそうだと言う。終わるまでの間私は一旦病院を抜けて、隣接するカフェで時間を潰すことにした。


 そこは私がお気に入りのLA ISLAのチェーン店だった。店内に入った瞬間朔弥くんがアーティーとか言ってたのを思い出し、笑いが込み上げてくる。

 本当朔弥くんて面白い人だな、そう思いながらレジで注文を済ませようとした時、見覚えのある姿に一瞬息を飲んだ。


「朔弥くん!?」

「え、華凛さん!? なんでここに!?」

 朔弥くんは目を白黒させていたけれど、私も同じくらい動転していたと思う。

 何故ならふと朔弥くんのことが思い浮かんだ途端、本人が目の前に現れたんだから。こんな偶然ある?


 朔弥くんと向かい合わせで座りながら、隣りの総合病院に母の付き添いで来たことを告げた。

「ごめんね、返信できてなくて」

 朔弥くんは怪訝そうな顔つきから、少し緩んだ表情になる。

「いやいや、俺の方こそ大変なの気付かなくてごめん」

 朔弥くんと話していたら、妙に気持ちが緩んできてどっと肩の荷が降りたような気がした。なんだろこの解放感。


 ――そっか……もしかしたら私、緊張していたのかもしれない。母が検査を受けることで大きな恐怖を抱えていたことに今初めて気付かされた。まだ検査結果も出ていないから不安もあるけれど、目の前にいる朔弥くんという存在のおかげで随分緩和されている。なんか朔弥くんといるとあったかくなるな……。


 ――ここにずっといれたらいいのに。この安心感ずっと感じられたらいいのに――。


 そんな想いが自分の内側から急に湧き上がってきて、一瞬変な気分になった。今のは何? 私の心の声とでもいうんだろうか?

 朔弥くんは相変わらずじっと見つめる癖がある。

 その瞳は全てを見透かされるようだ。

「ほらまたガン見してるー」

「してないって」

 私は笑って誤魔化すことで、何とかその場を繋いでいた。

 見透かされると言っても疾しいことなんてなにもない。後ろめたい想いもあるわけではない。けれど朔弥くんの瞳の奥から何か揺さぶられるような突き動かされるような、そんな見えない何かがある。それに……見つめられる度に朔弥くんの瞳に吸い込まれそうになってしまう。



 昼前に朔弥くんに別れを告げ、再び病院に戻った。色々な検査の後で母は疲れ切っているようにも見える。

 待ち合わせ室で暫く待機した後、医師から呼ばれて中に入った。MRIとCTで撮られたかであろうニ枚の画像が並んでいる。

「こことここに軽度ですが出血が見られますね」

 医師が指示棒で教えてくれたが、素人目じゃよく分からない。

「あの……手術とか必要なんでしょうか」

「出血量が少ないので内科的治療を中心にやっていきましょう。可能であれば三日間程入院していただき、出血拡大予防と血圧安定の為の点滴を行っていきます。通院でも構いませんが」

 母と顔を見合わせる。母も入院と言われて言葉を失っているようだった。通院の方が心の負担も軽いだろうと思ったけれど、病院まで連日往復することや点滴の時間を考えて、入院という選択を選んだ。もしかしたら、私に対する負担を考えてくれたのかもしれない。

 幸い仕事は今週いっぱい休みをもらっていたようで、「三日間だけゆっくりさせてもらうわ」と母は言った。

 急遽入院手続きをすることになり、私は実感へ戻ると入院に必要なものを一通りボストンバックに詰め込み、休む間もなく母の待つ病院へと向かった。


 相部屋の病室には母世代の人が入院中で、私が戻る頃にはすっかり打ち解けて世間話をしながら盛り上がっていた。

「華凛ありがとう。お母さんもう大丈夫だから心配しなくていいわよ」

 母は病状が分かりホッとしたのもあるのか、検査前とは打って変わった朗らかな顔つきだ。

「一応必要なものはこのバッグに詰めておいたから」

「助かるわ……本当ありがとう」

「毎日病院来るから、足りないものがあったら言って」

「たった三日だし大丈夫よ。病室にお友達もできたし……あ、こちら朋恵さん」

 母はお隣りにいる朋恵さんに娘の華凛よ、と告げた。軽く会釈すると朋恵さんが「まぁ、綺麗なお嬢さんだこと。菜津子さんに瓜二つ」と高々な笑い声を上げた。感じの良い肝っ玉お母さんという言葉がピッタリ当てはまりそうな方だ。


 話が尽きなさそうに笑い合っているニ人を見て心がちょっと軽くなった。

「じゃあ私家に戻るね」

「ありがとう、華凛。運転気をつけて帰ってね」

「華凛ちゃん、お母さんは私がちゃんと見守っているから大丈夫よ」

「あ、はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 母と朋恵さんが手を振って見送ってくれる。ここが病院であることを忘れさせてくれるような笑顔を目にして、私もつられて笑顔で病室を後にした。


 外の空気が美味しく感じる。時間はまだニ時。

 これからどうしようか。慌しい毎日だったからのんびり温泉にでも浸かりたい気分。それか海でも眺めながらぼーっと過ごしたい。

 カフェの看板が目に留まった。朔弥くんはまだいるんだろうか。


 メッセージを送ってみるとちょうど朔弥くんもお店を出るタイミングのようだ。そして【海行こ】という絶妙な間でメッセージが届いた。

 何で朔弥くんとの間ではいつもこんなにタイミング良く物事が起こるんだろう――。朔弥くんて何者!?私の心情をどこかで見てるの!?

 衝撃が大きすぎて携帯画面を眺めながら立ちつくていたけれど、我に返った後すぐにオッケーの返信を送った。


 朔弥くんの運転する車で海へと向かう。ハンドルを握る横顔は頼もしくて男らしさを感じるけれど、ドキドキするような気持ちよりも心の底からホッと落ち着くようなそんな安心感の方が大きいかもしれない。

 朔弥くんが「海見えてきた」と言って指差す方向に視線を向けると太陽に反射する水面が見えた。――綺麗。


 冬の海は凍えそうな気がしたけれど、波音を間近で聴きたくなった。朔弥くんと一緒に白い砂浜に足下を取られつつも波打ち際へと歩き出す。 


 水面にさざなみが立ち、綺麗な波紋模様をつけながら広がっている。寄せては返す波音は何時間聴いていても飽きない心地良さだ。

 幼い頃から海を眺めたりこの音を聴くと、不思議と心が解放されて安心感で満たされた。それは朔弥くんに感じている絶対的な安心感と通ずるところがあるかもしれない。

 親にも友達にも廉悟にも味わったことのない不思議な程の安心感。そばにいるだけで心が温かくなり気を遣わなくても自然体でいられる人。朔弥くんという存在に見えない何かで惹かれている。


 不意にくしゃみを連発してしまった。こんなことならダウン着て手袋してカイロでも持ってこれば良かった。

 寒そうにしている私を見て、急に朔弥くんが私の手に触れる。その瞬間温かさに加え感電したかのようなピリピリする衝撃に息を飲んだ。――何なのコレは。

 朔弥くんは「カイロ代わりと思って」と言って私の手を温めてくれる。朔弥くんの体温が私に流れてくる。そしてそれはニ人の手が混ざり合ってとけていくような一体感を覚えた。――さっきから何? この感覚は――私だけ? こんなふうに思っているのは――。朔弥くんは何かを感じ取ってるんだろうか。

 自分の身に起こっていることと感情が追いつかない。


 その後、急に朔弥くんに抱き締められて胸の中に顔を埋めていたら、さっきよりも激しく混ざり合っていく感覚に陥った。身も心もとろけていくような気持ち良さは、まるで磁石が強烈にくっついて離れ難いように吸いつけられていく。何この気持ち良さ……。朔弥くんの身体に触れてるはずなのに、まるで私と一体化しているみたい。このままずっとこうしていたい……。

 自分の奥底から離れたくないという想いが湧き上がってきて、私は朔弥くんの背中に回した腕に力をこめた。


 帰り道はお互い特に言葉を発することもしなかったけれど、ニ人の間では沈黙さえ心地良くてお互いを想いあっているような空気感がある。

 只々離れたくない、という気持ちが押し寄せる。繋いだ手のひらの温もりから、朔弥くんも同じ想いでいてくれる気がした。


 総合病院の駐車場が見えてくると、一気に現実味が増してきた。

 母の入院、帰ってからの家事、仕事の下準備――抱えるものの責任やプレッシャーに押し潰されそうになる。この夢心地のひとときが終わりに近づいているのかと思ったら、手の温もりから急激に体温が奪われていくようだ。

 離れ難くて車から降りられない。繋いだ右手を離せない。


――でも帰らなくては。


 理性と感情の狭間でもがきながら沈黙の時間がゆっくりと流れていく。暗がりの中、朔弥くんが見つめる視線だけは痛いほど感じる。私の想いを見透かされそうで視線を逸らした。


 次の瞬間、何か気配を感じたのと頬に柔らかな感触が当たったのはほぼ同時だった。振り向くと至近距離で朔弥くんの顔がある。今のは何?もしかしてキス、された?

 私があれこれ考えている隙もなく、唇を奪われた。あったかい感触。ああ、ダメだ……。全身の力が抜けていく。



 明かりの灯っていない自宅に帰ってソファーに腰を下ろした途端、疲労感がどっと押し寄せてきた。けれど身体の怠さとは反対に思考は冴えていて眠る気にはなれない。

 朔弥くんとの一連の出来事が何度も頭の中を駆け巡っていた。そして自分の中で感じた想いの答えが見つからず心がスッキリしない。

 自分の意識とは別のところで急速に朔弥くんに惹かれて離れたくないと思う感覚は、一体何なんだろう。何で朔弥くんに対してこんな感情になってしまうんだろう――。朔弥くんのキス……身体中が溶けていきそうだった……。


 私が物思いに耽る時間も長々とはなく、來愛がバイトから帰宅し廉悟も連なるように帰って来た。

「お義母さん入院だって? 身体は大丈夫なのか?」

「あ、うん……早速同室の方と仲良くなっていたし、入院中の心配はいらなさそう」

「なーちゃん入院になったの? 何で?」

「脳出血よ。今のところ軽度だけど日常生活気をつけていかなきゃ」

「一人きりの生活だから、こまめに連絡して体調の様子聞いてあげた方がいいな」

「うん、そうするつもり」


 肝心なのは退院後の生活だ。点滴治療したとは言え、今後また同じようなことが起こらないとも限らない。

「私毎週末、なーちゃんちにお泊まりしようかな」

「それはそれでお義母さんの負担がありそうだな。來愛はご飯作ったりしないし」

「ひどーい。私だって料理の一つや二つ作れますー」

 來愛は頬を膨らませている。

「たまにお泊まりするのもきっと喜ぶよ。お母さん來愛がいるといつも楽しそうだから」

「だよねー。私もなーちゃんち行くとなんか落ち着くし。じゃあ早速今度の週末行こっかな。バイトもないし」

「あ……言いそびれてたんだけど、今度の週末会社の人らとゴルフ行くことになってさ。特に予定なかったから大丈夫だよな?」


 廉悟は便乗しながら罰が悪そうな顔をしている。今週末で何度目だろ。もう何ヶ月も一日一緒に過ごした週末はなかった気がする。家族より会社や人付き合いを優先する廉悟に腹ただしさを覚えつつ、かと言って何か予定があるわけでもない。文句を口にするのも無駄にエネルギーを消耗しそうな気がして、「うん、大丈夫だよ」とだけ答えた。


 予定がなくても近くのショッピングモールへ出掛けて目新しい商品を見つけるのを楽しんだり、「美味しそうなお店見つけたから行ってみよう」と言って連れて行ってくれたこともあったのに。もう遠い昔のことのようだ。

 結婚生活も年月を重ねていけば週末の過ごし方もお互いの関わり方も変わっていくものか。


 でも――何だろ。この違和感は。

 朝から色んな感情を味わって思考でぐちゃぐちゃになった頭のせいで、夜中になってもなかなか寝付けずにいた。



【華凛さんおはよ】

【おはよー】

 毎朝朔弥くんと挨拶を交わすことが日課になり、それは同時に一日が始まった合図にもなっている。

 きっと朔弥くんは起き抜けにブラックコーヒーを飲んでいるはずだ。


【変な夢見た】

【どんな?】

【華凛さんが泣き叫んでた】

【え、私が出てきたの?】

【あとおばあちゃんになってた】

【えー、どんな内容の夢なのw】

【あんま覚えてない】

【気になるじゃんー】

 他愛もないやり取りがいつの間にか私の日常に溶け込み、それはもう毎日顔を洗うのと同じくらいに当たり前の習慣だ。

 昨日の出来事で色々感情を揺さぶられたけれど、かと言って二人の関係性は変わらないと思っている。



【この前教えてくれたYouTube観たよ】

【笑えるでしょ】

【うん、大爆笑しちゃった】

 ネイル施術の合間にメッセージを送る。朔弥くんは相変わらず返信が早くて、もうそれも当たり前のことなのに私は毎回笑えてしまう。



【今日アーティー飲んできたよ】

【絶対からかってるっしょ】

【そんなことないよw】

【w付けられると、そう思えないw】

【ごめんごめん】

 朔弥くんが泣き顔のスタンプを返信してくる。

 今日は母が退院する日だったため、この前偶然再会したカフェに立ち寄ったことを告げた。朔弥くんは母のことを気にかけてくれたが、入院前より体調が良くなっていることを伝えると、良かったと安心してくれてるようだ。

【あの時海に連れて行ってくれたこと、本当嬉しかったよ】

【そう言われると俺も嬉しい】

【ちょうど行きたいと思っていたから、朔弥くんが誘ってくれたのは本当ビックリした】

【俺やるじゃん】

【朔弥くんて、いつも絶妙なタイミングで声かけてくれるよね】

【以心伝心てやつだね】

【本当そんな感じだよー】

【華凛さんのことお見通しだからねー】

【朔弥くん、特殊能力でもあるんじゃないのー。ちょっとビックリしちゃうくらいだもん】


 テンポ良く交わし合っているメッセージが途切れる。少し待っても何の変化もなかったため私は画面を閉じ、後回しにしていた家の掃除をしようと気持ちを切り替えた。


 いつの間にか朔弥くんとのやり取りが一日の中心になることも増え、自分の中の優先順位が変化していた。空いた時間にしていたはずのやり取りが欠かせないものになり、それは私の気持ちを簡単に左右してしまうほどの威力があった。



 だからそんなメッセージの交わし合いの微妙な変化にも敏感に察知した。

 今まで私がメッセージを送ればすぐに返信が届くことが多かったはずなのに、少しずつタイムラグが出るようになったと気付いたのは最後に会ってから一週間程過ぎた時のこと。


 その日はおはようと入れても返信が送られてくるまでに数時間が経過していた。朔弥くんも仕事があるし、誰かと会ったり忙しく過ごしているんだろう。今までリアルタイムで返信をしてくれている方が、よっぽど普通とは言えないことなのだ。 

 そう自分を納得させ、ネイルの仕事や家のことに集中しようとしたけれど、完全に拭い去れない不安のようなものが心の中に住み着いていた。

 いつもならネイルの投稿をしたら瞬時に付けてくれてたいいねも、半日程経ってから押されることが増えていく。


 少しずつ朔弥くんとの距離が離れているように感じ、不安が広がっていく。単なる気のせいだと思いたい。

 けれど次第に返信が送られてくるまでにさらに時間が伸びていき、日付が変わってから届くようになった頃私の不安はついに現実化し、朔弥くんからの連絡が一切途絶えてしまった。

 何が起こったのか自分でもよく分からない。


 私が送ったおはよーもおやすみの言葉にも何の返信もなく、自分からの一方的なメッセージだけが続いているのを目にして虚しくなる。


 朔弥くんの身に何かあったんだろうか。もしかしたら体調を崩して寝込んでいるのかもしれないし、携帯をどこかに置き忘れてしまい連絡が取れずにいるのかもしれない――。あらゆる出来事を想定してみる。

 けれど徐々に間ができてしまったメッセージのやり取りから考えて、それは都合の良い解釈でしかないと自分でも薄々感じている。

 そしてそれが事実であるかのように一週間経っても一か月経っても朔弥くんから返信が送られてくることは一切なく、私の僅かな希望は絶望に変わった。

 何で。何で。何で――。

 


 一方的に連絡を断ち切られてしまった理由をどれだけ探し出してみても答えは見つからない。何でこんなことになっちゃったんだろう。最後に朔弥くんと過ごした楽しいひとときを思い返せば思い返す程、音信不通になってしまったという現実は受け入れ難いものでしかない。


 付き合っていると言える恋人関係でもなければ友達とも言えない微妙な私達の関係において、「もう連絡取るのをやめよう」なんて言葉を交わすことは不自然かもしれない。

 けれど何の言葉もなく連絡を遮断され私から遠ざかっていってしまったことは、私の半身を引き裂かれるような痛みだ。何でこんなに苦しいの……助けて。耐えられそうにないよ。


 何か理由があるならハッキリ言葉にしてほしい。こんなふうに去られるなんて思いも寄らなかった。何で。どうして。朔弥くん――。


 現実を受け入れられずにいたけれど、無常にも朝はやってきて一日が当たり前のように始まっていく。

 けれど朔弥くんと交わす朝のおはようはもうない。

 朝食の準備をし洗濯物を干し、來愛と廉悟を送り出す変わらない朝のはずなのに、朔弥くんという存在だけがすっぽりと切り取られている。


 朔弥くんと出会う前の日常に戻っただけ。

 そう思って過ごしていても私の中で大きく根付いてしまった朔弥くんの存在は、日常のあらゆるところで色濃く残っていると思い知らされるだけだった。なかったことにするなんてできるはずない。


 一日一日がやっとの想いで過ぎていく。こんなに長くて退屈なものだったのか。


「ママ、また鍋? 最近ずっとこれじゃない?」

「……寒いし暖まるでしょ」

「そうだけどちょっと飽きたよー。私野菜サラダとか唐揚げとか煮物とか食べたい。最近食べてない気がする」

「ごめんごめん、明日は何か他のもの作るようにするから」


 献立を考えたりすることが億劫になり、夕食は手軽な鍋で済ませるようになっていた。しっかりしなくては。現実をちゃんと見なくては――。


 けれど料理だけじゃなく、生活全てにおいて意欲的に動こうという気分から驚く程遠ざかってしまっている。燃料切れの車みたいに全くエンジンがかからない。

 ネイルの仕事も新規でお客さんを取ることをやめていた。初めて出会う人達に気配りする余裕が持てなかったからだ。

 最低限の仕事と家事をこなすだけで、今の私には精一杯だ。そして何をしていても朔弥くんという存在が私の心から離れることがなく、完全に心を埋め尽くしている。



 私はどんな関係を望んでいたんだろう――。

 既婚という立場でありながら追い求めている自分がいて罪悪感に襲われつつ、それでも離れたくなかったという内側からの想いに抗うことはできないでいる。もうどうしたら良いか分からず頭がおかしくなりそうだ。


 悲しいのか寂しいのかよく分からない感情の涙が毎日とめどなく溢れ出してくる。それは自分でも無意識のうちに流れていて、戸惑うことさえあった。


 起きがけに顔中濡れている自分に気付いて、夢の中まで朔弥くんのことを想い続けているんだろうか、と打ちのめされることも一度や二度のことではない。


 食事をしている時だったりネイルの施術中だったり運転中だったりと、時と場所を選ばず無意識のうちに涙が滴り落ちていく。自分で抑制することなんてできない。

 そして決まって胸の奥を抉られたような痛みが共に走った。



「顔色冴えないけど、ちゃんと食事とってるかしら?」

 向かい側の椅子に腰掛けながら、亜沙美さんが尋ねてくる。

「んー……正直とれてないかもしれません」

「駄目よ。ちゃんと栄養摂らないと。お肌にも良くないわよ」


 私は苦笑いで返す。勘の鋭い亜沙美さんには何を言っても見抜かれてしまいそうで、黙々と爪のデザインを描くことに集中した。今回は大ぶりの花が際立つ可愛らしさのあるデザイン。

「カラーはどうされます?」

「そうねぇ……この色にしてもらおうかしら」

 亜沙美さんが見本のカラーを指差す。春を思わせるパステルカラー。今の時期の人気色だ。 


 三月に入り朝晩はまだ冷えるものの、昼間は春の暖かさを感じるような日差しになっている。

 先月はファーのついたコートにケーブル編みニットのワンピースでお店に来ていた亜沙美さんも、今日はベージュのスプリングコートを羽織り、小花柄のワンピースを身に付けている。季節の移ろいを感じるのに私だけ時間が止まったままだ。


 いつもより口数少なく、亜沙美さんの言葉に相槌を打つだけで何とかこの場を凌いでいる。下手に言葉を紡ぐと涙腺が緩んでいきそうで怖かった。

 そんな私を見透かしてか亜沙美さんは余計な詮索はせず、かと言って変に態度も変えたりしないで、いつものようにお仕事のことや講演会の出来事などを面白おかしく話してくれた。


 最後のコーティングをし、もう少しで施術が終わろうとした時、亜沙美さんが「この後の予定はどうされてる?」と聞いてきた。

「予定ですか? えっと……二時から次のお客さんの予約が入ってますが」

「二時ね……時間は大丈夫そうね。お時間あるならお昼ご馳走させてもらえないかしら。日頃施術させてもらっているお礼よ」

 亜沙美さんは腕時計を見ながら時間を確認して言った。

「え、お昼ご飯ですか。今からですか?」

「ええ。ちょうどお友達と約束しているんだけれど、亜沙美さんに是非会っていただきたいなと思って。どうかしら?」

「でも……いきなり私が行っても大丈夫なんですか? 迷惑じゃ……」

「大丈夫、大丈夫。あなたが良いなら行きましょう。きっと楽しい食事会になるわ」

 亜沙美さんに半ば強引に腕を引っ張られるようにして連れ出された。


 個室に通された中華レストランにはすでに亜沙美さんのお友達らしき女性が椅子に座っている。

「リリィさんお久しぶり。お元気だった? あ、こちら華凛ちゃんよ」

 突然紹介されてペコっと頭を下げる。

「亜沙美さん今日も素敵なコーディネートね。華凛さんはじめまして。リリィです」

「あ、はじめまして。華凛です。突然ご一緒させてもらってすみません」

「全然構わないわ。よくあることだから」

 リリィさんは余裕たっぷりの笑みを返す。

 私一人がソワソワしていて、亜沙美さんもリリィさんも堂々とした落ち着きっぷりだ。


 リリィさんはとてもスレンダーな女性で、眉上ギリギリのパッツン前髪にストレートのロングヘアがよく似合っている。

 てっきり同年代くらいかと思ったけれど、亜沙美さんより歳上と聞いて椅子から転げ落ちそうになった。類は友を呼ぶってこういうことかもしれない。

 亜沙美さんは苦手なものがあるかと聞いてきたので特にないことを伝えると「じゃあ適当に何品か頼むわね」と言った。


 しばらくしてターンテーブルいっぱいに美味しそうな中華料理の数々が並んだ。三人で食べ切れるか心配になるボリュームだ。

「華凛ちゃんは若いんだから一番食べないと」

 若いなんて言われて苦笑いで返すしかなかった。亜沙美さんとリリィさんの方がシミも見当たらない艶やかな肌をしていて、しっかりケアされていることを伺わせる綺麗な手をしている。私よりもずっと若く見える。

 けれど久々で味わう外食と、亜沙美さんとリリィさんの朗らかな空気感に後押しされて、小さくなっていた胃袋にどんどん食べ物が入って満たされていく。


 はち切れないばかりのお腹になって一息ついた頃、亜沙美さんが「華凛ちゃんは占いや霊視ってされたことあるかしら?」と聞いてきた。

「占いですか? 独身の頃はよく友達とハマっていましたよ。当たると聞けば県外まで行ってみたり。でも最近は全くしてませんね」

「そう……。実はねリリィさんて視える人なの。タロットや占星術もされるし前世を視ることもできるわ。もし良かったら聞いてみたらどうかしら。何か悩んでいることがあれば、心の負担を軽くすることができるかもしれないわよ」

「え、リリィさん視えるんですか……凄い」

 リリィさんは優しく微笑みながら、「視えて苦労したこともあったけれど、今は自分の使命だと思ってお伝えするようになったわ」と言った。


 ――そうか。亜沙美さんは私が何かに思い悩んでいると考えてこの場に呼んでくれたに違いない。

「話したくなければ構わないし、もし辛いことがあれば吐き出すだけでも全然違うわよ。私はリリィさんによく話を聞いてもらって、生きるヒントをいただいているの。道に迷ったり自分で答えを出せない時は誰かからの言葉で救われることも多いから」


 生きるヒント――今のこの絶望感しかない私でも希望を見出せるんだろうか。亜沙美さんの言葉を聞いて、今まで蓋をしていた気持ちが一気に自分の内側から溢れ出ようとしていた。

 言葉より先に涙が溢れ出した。

「……あの……話聞いてもらっても……いいですか」

「ええ、ゆっくりで構わないわ。華凛さんのペースで大丈夫よ」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。メイクが崩れてきっととんでもない顔になっている。

 私の話を受け入れてもらえるんだろうか。頭がおかしくなったかと思われないだろうか。恋に溺れた痛い女に見られないだろうか。

 色んな想いが交差する中、それでもこの感情を吐き出せることに堪え切れなくなった想いが、次々に言葉となって解放されていく。


 私は朔弥くんとの出会いから受けた数々の想いを打ち明けた。出会ってすぐに懐かしいと思った気持ちも。強烈に惹かれて離れたくないと思った気持ちも。触れた時に感じた衝撃も。恋と呼べるものかもどうかも分からないけれど、それでも自分の奥底から湧き上がる朔弥くんへの想いが特別なものであることも――。


 支離滅裂な話をしてると自分でも思いながら次々に吐き出されていく。時折声は引き付き口元が震える。

 抑圧されていた感情ほど、一度開けてしまったらとめどなく流れ出して止まることを知らない。


 亜沙美さんもリリィさんもただ頷きながら、優しい眼差しを向けて聴き入ってくれる。それだけで救われる気がした。

「……華凛ちゃん苦しかったわね。そんなことがあったのね」

 亜沙美さんの眉尻が下がる。私は小さく頷いた。

「毎日毎日忘れた方がいいって思うんですけど……ずっと心の中にいて忘れられないんです。何で突然音信不通になったのか全く理解できなくて苦しくて……勝手に涙が溢れてくるんです……」

「華凛ちゃん……」

 枯れ果てたはずの涙が湧いてくる。

「華凛さんとお相手の方はとっても深い縁で繋がっているみたいね……だから強烈に惹かれ合う分反発も大きいの。何事にも二面性が存在しているわ。光と影。明と暗。陰と陽。あなた達二人はそういう存在よ」

「どういうことですか? よく分からないんですけど……」

「華凛さんとお相手さんは何度も輪廻転生を繰り返し、出逢われているお二人なの。けれど幸せな結末を迎えることなくこの世を去っているのが過去世で何度も起きているようね……。お二人はその想いが強くて、今度こそ幸せになろうとまた来世でも出会う約束をして生まれ変わってきている魂よ」

「私と朔弥くんは前世でも繋がっていたんですか?」

「この世で出会う人とは大概過去世でも縁のある人達ばかりよ。そして特にご縁の深い方がそのお相手さんみたい」

「じゃあ何で突然音信不通になるんですか? 意味が分からない。そんな相手なら離れたくないって思えるはずなのに……」

「さっきも話したけれど、惹かれる想いが強い程、離れようとする想いも強くなったりするの。それに過去世の感情を持ったまま生まれ変わることで、現世では本人にも分からない不安や恐れを生じることがあるわ。また失ったらどうしようという無意識の恐怖が伴って、本人も理由が分からず逃げ出したくなる衝動になったりするの」

「朔弥くんは私のことが嫌で、連絡取らなくなったわけじゃないってことですか?」

「ええ、それはないわ。だって彼の念がここまで飛んできているから。あなたへの想いで苦しんでいるのが視える」

「――そんな」


 自分一人が辛いんだと思いこんでいた。けれど朔弥くんも同じように苦しんでいたなんて――。

 無性に愛おしくなった。顔を見て声も聞きたい。会いたいし触れたくてたまらない。そばにいたい――。

「華凛ちゃんのお相手さん、ツインレイかもしれないわね」

 亜沙美さんの言葉に俯いた顔を上げた。

「……ツインレイ? 何ですか、それ……」

「魂の片割れのことよ。話を聞いていたら、私自身が経験している想いと全く一緒だから」

 亜沙美さんが切なそうに言う。

「亜沙美さんもそんな経験されてるんですか?」

「ええ……最初に出会ってからもう十年くらい経つかしら。同じように強烈に惹かれあったけれど、途中で会わなくなった期間が何年か続いたわ。その頃リリィさんと知り合ったの。彼とはその後再会して今はお互いビジネスパートナーとして欠かせない存在よ」

「そうなんですか……? 音信不通から再会に至ったんですか?」

「そうなの。その頃ツインレイなんて言葉も知らなかったけれど、私と彼の身に起こってきた数々の出来事が繋がった瞬間があって。何か運命みたいなものを感じていたときにその言葉に出会ったの。だから華凛ちゃんが今この言葉を知ったのも偶然じゃないはずよ。ツインレイってもう一人の自分のことなんですって。だからお互い惹き合うのも強烈なの」

「亜沙美さん……」

 鼻の奥がツンとする。

 自分が感じていた想いを分かってくれる人がいる。経験している人がいる。なんて心強いんだろう。


 暗闇から光の道筋が照らし出された気分だ。一連の不思議な出来事が「ツインレイ」という一言で集約されたことに救われる想いがした。そしてもう一人の自分という言葉を聞いて、朔弥くんに対して出会った時からあんなにも安心感を抱けたことが腑に落ちていく。


 正直前世とか霊とか、そういった類のものは半信半疑だ。けれど朔弥くんと出会ってから自分の身に起こっていることや味わっている感覚は、言葉で説明するには不可思議なものであるだけに、前世という自分の常識や理屈を越えた世界の話が抵抗なく受け入れられているのかもしれない。

 前世からの見えない繋がりがあり、魂の片割れという存在がいるということを知れたおかげで、自分の心にあった重荷が解かれていく。


「ツインレイならきっとお互いまた惹かれ合う時が来るわ。だから今は辛いかもしれないけれど、希望を持って大丈夫よ。私が保証するわ」

「経験者の亜沙美さんが言うなら間違いないですね」

「現実はあなたが思い描いた通りに創造されていくの。だから自分とお相手の方を信じてあげて。お相手さんの気持ちは華凛さんから離れていないわ」

「リリィさん、ありがとうございます……おかげでなんだか心が楽になりました。本当にありがとうございます」


 視界が明るくなる。二人の言葉は私を勇気付けてくれるだけではなく、前向きに生きていく道標になった。




 


 




 


 








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