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ツインレイ ー唯一無二の人ー  作者: 桜美あい
1/5

ツイン男性

 俺はふと、何でここに存在しているのか思うことがある。たまにどうしようもなく空虚感に襲われて、それを埋めようともがきたくなる。

 ずっと何かを探し求め心の隙間を埋めようとしてきたけれど、失っているように感じる俺の一部は未だに満たされることがない。


 俺はひとりっ子のおかげか、欲しいと思うものは何でも与えてもらえる環境で育った。

 小学生の頃、入手困難な人気のゲーム機をクラスで俺だけ持っていたことに優越感を覚えたけれど、それも一時の快楽でしかなくすぐに飽きてしまった。プレミアが付いたフィギュアを落札したり、生産数限定モデルのシューズを手に入れたり、希少価値があるものでも欲しいと思えるモノは手にしてきた。


 けれど俺の空虚感は、どれだけ欲しいモノを手に入れても消えることがない。

 付き合った彼女もそれなりにいて楽しい時間を過ごしたこともあったけれど、喪失感にも似た心の空洞を埋めてくれる人には出会えていない。モノでもヒトでも心から満たされたことのない俺は、一生この空虚感と隣り合わせで生きていくしかないんだとそう思っていた――。



 久しぶりにやって来た新宿の街は、相変わらず忙しなく人が行き交っている。その人混みに揉まれながら、駅から数分離れたビルへと向かう。起業家ばかりが集まるセミナー会場には、色んな業種、年齢の人達が五十人近くは集まっていた。男性陣が多い中で女性の数は圧倒的に少なかったからか、俺の目に一人の女性が飛び込んできた。


 ファーのついたジャケットを羽織り、レザーのショーパンから覗くスレンダーな美脚。栗色のカラーをしたロングの巻き髪は、いい匂いが漂ってきそうなツヤ髪だ。彼女は派手目な出で立ちだったから一際目立っていた。

 周りにいた男達もチラチラと彼女に視線を送っているのが分かる。肝心の彼女の顔は、俺のいる場所からだとギリギリ見えない。


 俺は何故だか彼女の姿から目を離せないでいる。

 何万円と払ってこのセミナーを申し込み、電車で一時間以上もかけてこの会場までやって来たのに、講師の話は右から左へと通り抜けていくだけだ。俺はさっきから上の空で話を聞いていた。

 彼女から目を逸らせない。いや逸らしてはいけない気がする。何でこんなにも気になってしまうのか自分でも不思議だ。

 よく分からない心情に戸惑いながらも、俺の視線は彼女に釘付けになっている。


 途中休憩を挟みながら、あっという間に四時間の講義が終了したことに気付いたのは、周りの人間が一斉に席を立ち上がり始めた時だった。

 この後希望者は懇親会に参加できるが、果たして彼女は行くんだろうか。


 周りの流れに飲まれるように席を立った彼女は、そのままドアがある出口へと向かった。相変わらず後ろ姿しか目にすることができず、結局顔は分からないままだ。

 俺は彼女の後を追いかけるようにして、出口へと急ぎ足で向かう。けれど周りも一斉に動き出したから、狭い通路の中思うように行かせてくれない。焦ったくてたまらず、ちょっとイラつく。


 ーー彼女が行ってしまう。早く見つけなければ。


 ドアを抜けると一階へと続く階段を駆け下りていく。姿が見えなくて焦る。懇親会の店へと向かったんだろうか。それとも帰ってしまったんだろうか――。

 俺は立ち止まったまま何とも言えない喪失感に襲われそうになった瞬間、ふいに「きゃっ」というか弱い女性の声と共に俺の背中に何かが当たった。思わず振り返る。

 するとそこには俺が探し求めていた彼女がいた。神々しい光のように存在する彼女。なんて眩しいんだろうーー。


「すみません! 躓いてよろけちゃって……」


 ヒールの高いブーツを履いた彼女が申し訳なさそうに眉をしかめる。何で俺の背後から現れたんだろう――そう思って目をやった先にはエレベーターがあるのが見えた。ああ、そういうことか。勝手に早とちりしていたけれど、階段ではなくエレベーターで降りてきたのか。


 それにしても何なんだ、この感情――。


 それは遠い遠い過去の記憶が蘇ってくるような、不思議な感覚だった。俺はこの瞳を知っている気がする。今日初めて会ったばかりの彼女だけど、懐かしくてなんだか愛おしい。この不思議な感情はなんなんだ?

 どこかで耳にしたことがあるような、懐かしく感じる彼女の柔らかな声。俺の鼓膜に留まる響きは、心地良さしかない。上向きのパッチリなまつ毛に薄茶色の大きな瞳。俺を惹きつけて止まないその瞳に思わず吸い込まれそうになる。彼女の瞳からーー目を逸らせられない。


 周りにはセミナーから出てきた人がたくさんいてざわめいていたはずなのに、一瞬時間が止まったように周りの騒音がピタリと止まった。それはまるで異次元にいるような感覚に近いと言っていい。


「セミナー会場から出て来られましたよね? この後懇親会は出席されますか」

 彼女の声で現実に引き戻された俺は「あ、は、はい」としどろもどろに答える。

「私も参加するんですけど、場所がいまいち分かりにくくて……」

「あ……良かったら一緒に行きましょう」

「本当ですか、助かります。ありがとうございます」


 思いがけない展開が訪れて、不意な流れで店までの道のりを一緒に歩くことになった。緊張しすぎて何を話したのか記憶にない。けれど店に入ると彼女の横をキープするかのように迷わず隣りを陣取った。

 今日初めて会ったばかりの人。

 まだ名前もどこに住んでいるのかも全く知らない。けれど彼女の瞳だけは何故だか知ってる気がする。彼女は何者? 何でこんなに惹きつけられるんだ? 俺は動揺を隠せない。


「華凛って言います。良かったら名刺交換しましょう」

 華凛さんは明るくそう言うと、名刺を差し出してくれた。そこにはお店の名前と所在地が記されている。

「ネイリストさんなんですね」

「はい……朔弥さんは輸入業ですか……凄いっ」

「いえいえ、まだ一年目で……」

「お若いですよね?」

「今ニ三です。去年大学卒業しました」

「えー、それはお若い! どおりでお肌が綺麗ですもんね」

 華凛さんが羨ましいなぁ、とボソっと呟く。けれどそんな華凛さんの肌は透き通るように白く、きめ細やかな肌をしている。綺麗にネイルアートされた細い指。そして左の薬指にはキラリと光る輪っかが見えた。


 ――結婚してるのか。


「そのネイルは自分でしたんですか?」

「あ、はい……練習がてら自分で」

「凄い器用!」

「でも利き腕じゃない方は、雑になっちゃって」

「え、全然綺麗ですよ。さすがネイリストさんて感じ」

「本当ですか?嬉しいな。娘にはちょっとパーツズレてるよ、とか言われちゃってたから……」

「娘さんいるんですか?」

「高校一年生なんだけど、何かと見る目が厳しくって。いつも服装とかチェックされちゃうの」

「そうなんだ。そんな大きいお子さんいるように見えないですね」

「ふふっ、朔弥さんて持ち上げ上手ですね」

「や、マジで。俺よりちょい上くらいかなぁって思ったくらいだし」

「え、二十代に見えてたってこと?それはないでしょー」

「いやいや本当にっ」


 華凛さんが照れたように笑う。俺はその笑顔に反応するかのように心臓が高鳴った。

 人脈を広げて色んな人と繋がりを深めようと思って申し込んでいた懇親会だったけれど、思いがけず華凛さんという女性に出会った俺はこの人から目が離せない。

 華凛さんの住まいは都内から電車で一時間の場所にある住宅街で、俺とは正反対の地域だ。お酒はハイボール一択らしく、そのチョイスは俺も一緒だったから思いがけない共通点だ。何か嬉しいな。


「華凛さんはこういうセミナーとか懇親会、よく参加されるんですか」

「実は今日が初めてで……朔弥さんは?」

「俺は二回目です。初めて参加した時に繋がりが増えたから、今回も人脈広げられたらいいなって思って」

「懇親会ってどんな感じか不安だったけど、皆意外と飲みっぷりよくて気さくですよね」

「飲める人多いですよねー、俺十杯が限界かも」

「え! それだけ飲めたら充分ですよー」

「華凛さんは普段も飲むんですか」

「ううん、全く飲まなくて……私は二杯が限界かも」

 ちょうど一杯目のグラスを空にした華凛さんは、頬をほんのり赤く染めて声のトーンも緩やかになっている。お酒はあまり強くなさそうだ。

 そして飲む前より表情がコロコロ変わって無邪気な笑顔を見せる華凛さんは、ほかの参加者とも気軽に会話を楽しんでいた。丁寧な口調なのに時折素も混じる話し方は、距離をグッと縮ませる。なんか良いな、自然体で。ずっとニコニコしてるし。

 最初に顔を合わせた時の綺麗な印象とのギャップが垣間見れて、余計惹きつけられる。こんな無邪気な子供ぽさもあるんだ。


「朔弥くん、今日はありがとう」

「いえ、こちらこそ」

 懇親会を終える頃には、俺はいつしか朔弥くんと呼ばれていてフランクに話せる仲にまでなっていた。

「ちょっと不安だったけれど、朔弥くんのおかげで楽しかった」

「こちらこそ、華凛さんと話せて楽しかった」

「じゃあ私、駅あっちだから行くね」

「ああ……、うん。気をつけて」

 華凛さんは顔の横で小さく手を振ると、背を向け歩き出した。


 ――嫌だ、離れたくなんかない。


 そんな心の奥底からの声が何故だか沸々と湧き上がる。何だ?この感情は。離れたくないって何言ってんだよ、俺は……。明らかにおかしいよな。今日出会ったばかりの華凛さんを愛おしく感じ、強烈に惹かれているなんて。


 ――これが一目惚れってやつなのか?


 今までそんな経験をしたことない俺は、この出会いの衝撃を一言で表す言葉は見つからない。けれど彼女の見た目に惹かれているというよりは、存在そのものがなんだか愛おしい。懐かしいと思える不思議な感覚もある。

 今まで感じたことないこの想いは何て呼べばいいんだろうか。


 ――彼女は既婚者なのに。


 それでも理性より俺の中の本能のようなものが、彼女を求めてしまっている。



 ――その晩不思議な夢を見た。

 近代的な建物なんて何もなく、何世紀前なのか分からないくらいのはるか昔の時代。

 遠くには蒼い海が見渡せる、綺麗な風景が広がっていた。日本ではないのは明らかだが、どこの国にいるのかは不明だ。

 俺の隣りには足首くらいまでのドレスを見に纏った、綺麗な女性が微笑んでいる。聞き覚えのある柔らかな声。栗色の長い髪にぱっちりとした上下のまつ毛をした彼女は、まるでフランス人形を思わせるかのような整った顔立ちだ。

 笑顔で微笑む彼女を横目に、俺は絶対的な安心感に包まれていて心の中は満たされていた。


 何を話したのか全く記憶にない。けれど心地良くて身体も心も言いようのない幸福感で満たされていて、それがこの隣りにいる女性のおかげだというのだけは確かに分かった。

 でもそんな満たされたなかでもただ一つ気になったことがある。彼女の煌びやかなドレスとは似つかない、分布相応な身なりの俺がいたこと。俺は何であんなにも薄汚れた格好をしていたんだろう――。



 華凛さんと出会ってから一週間が過ぎた。

 俺は名刺に載ってたインスタをフォローし、そこからちょくちょくアクションを起こしてDMのやり取りをするようになった。

 送るのはいつも俺から。なんとか関わりたくて相手にされたくて、他愛もないことを質問したりして会話を繋いでいる。


 彼女がインスタにアップしているのは、お客さんであろうネイルアートされた爪の写真。

 正直ネイルなんてしたこともないしよく分からないけれど、華凛さんが写真にアップしているデザインをしているのかって思ったら、なんだか微笑ましく感じて眺めているだけで心が弾む。

 石みたいなのとかラメとか付いているのもあれば、思わず「おぉー、すげーなこれ!」なんて声が出てしまう程、繊細なタッチで描かれたキャラクターのネイルもあったりする。こんな細かい作業なんて苦手でしかない俺からしたら、本当凄いなって尊敬の念も湧いてくる。


 華凛さんと出会ってから、俺のなんてことない日常が一気にカラフルに変化した。部屋の風景も毎日の食事もこれと言って変わりはないのに、以前よりも目に映る景色が光を帯び、口にするものさえ美味しさが増す。

 毎日のルーティンに変わりはないのに、気持ちが常に上向きで仕事も捗る。


【朔弥くん、ちょっと聞きたいことあるんだけど……】

 初めて華凛さんの方から届いたDMを目にして興奮気味になる。思わず口の端が緩む。

 こういう時、ちょっと間を置いたほうがいいかもしれないとか思って駆け引きみたいなことしていた時期もあるけど、俺は間を開けずに返信した。

【聞きたいことって?】

【わ、返信早いっ】

【ちょうどインスタ見てたから】

 なんて言いつつインスタは見てない。けれど華凛さんのことを考えてたのは事実。いや、考えていたっていうよりいつもいる感じ。っていうのが正しいかもしれない。

 俺の中に常にいる人。

 心の中を埋め尽くして満たしてくれてる存在。


【ネイルパーツを海外から仕入れたいなぁって思ってるの。ちょっとでも安く仕入れたいし日本にないものあれば嬉しいなぁとか思って……輸入って難しい?】

【全然っ。代行使えば買付から発送までやってくれるし、難しくないよ】

【本当? 朔弥くんがそう言ってくれるならやってみよーありがとう♡】

 初めて目にする華凛さんからの♡の絵文字に心臓が跳ねる。こんなんでテンション上がっている俺って単純すぎと思いつつ、嬉しい気持ちは隠しきれない。

 それよりもっと華凛さんに喜んでもらいたい。俺で役に立てれることがあれば何だってやってあげたい。

【華凛さん、明後日予定ある?】

【定休日だし特に予定はないよ】

【もし良かったらだけど、輸入のやり方レクチャーするよ。俺が知っているサイトとか登録の仕方とか……直接会って伝えたら分かりやすいかなぁと思って。ちょうど明後日そっち方面行くとこだったから】


 ちょっと賭けてみた。明後日が定休日だというのはインスタのプロフィール画面で把握済み。

 同業者との飲み会で都内に出るのは事実だったし、何よりもう一度会いたい気持ちが強くてアクションを起こしてみた。

 なんて返信がくるんだろう。


【本当? お願いしてもいいかな……ありがとう】

 一歩進展できたことによっしゃあー!! と思わずガッツポーズが出た。

 もう一度会える。華凛さんに会える。

 こんなワクワクと胸が高まる気持ちになるのはいつぶりだろう。小学校の頃の遠足や運動会前のような緊張感と期待が入り混じったような、そんな気持ちだ。

 今まで何の変哲もなく日々を過ごしてきた俺にとって、こんなに気持ちが上がることはないに等しかったと言ってもいい。

 高校一年の時に初めて自分から告って付き合い出した子がいたけれど、あの時のよっしゃー! って思えた気持ちと比較にならない程、華凛さんとただ会えるってことが堪らなく嬉しい。


 誰かといても訳の分からない空虚感みたいなものがあって、それが当たり前の生活になっていたけれど、華凛さんと出会ったあの日から俺の中にぽっかりとあった空洞が、あったかい気持ちで満たされ続けている。

 心に棲みついていたはずの空虚感は嘘みたいに感じられなくなって、俺はやっと自分を生きている。そんな気さえしている。



 華凛さんとの待ち合わせ場所は駅前のこじゃれたカフェ。絶えずお客さんが出入りしていて、学生からスーツ姿のサラリーマンといった幅広い年代層が利用している。

 ノートを広げて熱心に勉強をしている人もいれば、読書をしながらのんびり過ごしている人も見かける。俺も時々パソコンを持ち込んで作業することもある。


 今日は一時間以上早くこの場所に着いて仕事をしていた。ネットで仕入れも発送も完結するし、外注もお願いしているから、このパソコンさえあればなんとか仕事はできる。場所問わず仕事ができるのは有り難い。

 でも早く到着したのは待ちきれなかったっていうのが正直な気持ちだ。


「朔弥くんお待たせっ」


 反射的に俺の心臓がピクっと動く。目の前に現れた笑顔の華凛さんは、この前会った時とはだいぶ印象が違う。

 後れ毛を出して高い位置で纏めた髪。細身のスタイルが際立つニットのワンピース。ふんわりとした女性らしさが溢れ出ていて、俺の鼓動がどんどん早くなる。おさまれ、心臓!


「華凛さん、なんかこの前と雰囲気違う」

「そぉかなぁ? 朔弥くんは相変わらずイケメンだねっ」

 俺は飲みかけたコーヒーを喉に詰まらせて、思わず咽せる。顔の温度が急激に増す。不意打ちにそういうこと言うのは反則じゃないか?

「イケメンて」

「モテるでしょー?」

「……んなことないしっ」

「ふふっ照れなくてもいいのにっ」


 今日は俺がリードして華凛さんにカッコいいところ見せるはず……だった。なのに――嫌じゃないけどペースが狂うじゃないか。

 全く緊張感など微塵もない様子の華凛さんと、こんな一言で動揺を隠せなくなる俺。気持ちの差は明らかだ。


「飲み物買ってくるね」

 華凛さんは俺の心情なんてお構いなしのように、カウンターへと向かった。その後ろ姿を目で追いながら、やっぱり華凛さんは俺の中で一際輝いて見える。

 華凛さんの周りだけ光が帯びたようにキラキラしている。まるでそこだけスポットライトを浴びているかのように、眩しい粒子が飛び交っているようだ。

 なんで出会った当初から、こんなに惹きつけられるんだろう。

 特別な人、なのは間違いないけれど。華凛さんの何が俺の心をこんなに揺さぶってるのか――。


 テーブルの真ん中に俺のパソコンを挟みながら向い合わせで座る。この前は隣同士に座ってそれはそれで緊張したけど、今日は真正面に華凛さんがいて、前よりも顔がはっきりとよく見える。

「え、私なんか変? なんでそんなにじっと見てるのー?」

「俺そんなに見てた?」

「うん見てた。ガン見って感じ」

「そんなことないと思うけどな」

「そんなことあると思うけどなー?」

 華凛さんは頬杖をつきながら、首を傾ける。おいおいおい……その上目遣いは可愛いすぎないか?何も反論できないじゃんか。こんな顔でおねだりでもされたら、男は何でも聞いちゃうだろうな……。

 その後華凛さんはマグカップを両手で支えながら、ゆっくりと口に近づけた。一々動作が綺麗だな。


 この前会った時はベージュ系のネイルだったけれど、今日は淡いピンク系。キラっと光る薬指のリングが存在感を増している。

「ほらー、また見てる」

「そんなことないって」

「メイク崩れてたりして……」

「崩れてないよ」

「本当にー?」

 華凛さんは携帯を鏡代わりにして、慌てて覗き込む。

 無自覚だからそんなつもりは全くない。けれど華凛さんの一つ一つの動きや表情の変化を全部見逃したくないなんて思ってる俺は、きっと華凛さんが言うように見てしまってるんだろう。ごめんなさい、俺嘘つきました。と心の中で謝っておく。


「朔弥くん、あのね……ちょっと変なこと聞くんだけどさぁ……」

「ん? 何?」

「私と朔弥くんて、どこかで会ったことあったりする?」

「え、何で?」

「最初に会った時にも思ったけど、初めて会った気がしなくて。でも思い当たる場所もないし……」

 華凛さんは首を傾けながら考えこむ。

 まさか俺と同じような想いを持っていてくれてた――?

 変なこと言ってごめんねーと申し訳無さそうに謝る華凛さんに「実は俺も初めて会ったような気がしなかった」と打ち明ける。

「本当に? 朔弥くんもそう思ってたの?」

「初めて会った時、懐かしいような感じがあってさ。気のせいかなって考えたけど」

「そうなんだぁ。なんか変な感じだよね」

 顔を見合わせて笑った。


 そこから自然に話が弾み、お互いの身の上話に華が咲いた。この前は隣りに座っていたと言っても周りに色んな奴がいたし、そこまで深い話はしなかったけれど、何故かお互い心を開き合っていて家族のことや高校の頃の話、今ハマっているものなど話が尽きない。


 そして話していくうちに意外な共通点が多いことに気付く。華凛さんには三つ下に弟がいるようで、俺と同じ名前の咲耶。華凛さんの誕生日が三月八日、俺は八月三日。

 高校時代サッカー部のマネージャーをしていた時があったらしいけど、俺の母校に来て試合をしたこともあったとか。俺は中高とサッカー部に所属していたけれど、もちろんその頃まだ小学生だから会っているはずもない。

 ハイボールが好きなところや、つまみに軟骨が最高と言ってるところ。映画ならアクションやSFや恋愛よりダントツでサスペンス推しなところ――。


「サスペンスって最後まで緊張感あるのがいいんだよな」

「うん、気が抜けないよねー。ハラハラドキドキしちゃうけどそれがたまらない感じ」

「最後にどんでん返しがあるパターンとか面白いよね」

「私もそういうの好き。予測不能のものとか最後まで楽しめるよね」

 華凛さんとの会話はいつまでも尽きないくらい話が合う。

「華凛さんは山派? それとも海派?」

「断然海! 海眺めているだけで癒されるし、波音聞くのも大好きなんだ」

「俺も一緒! 海見てぼーっとするとか最高」

「それいいねー。何時間でもいられるもん」

 やたらシンクロが多く好みが似すぎていて、流石に華凛さんも俺も驚きを隠せない。

「朔弥くんといると妙に落ち着くのは似てる所が多すぎるからかなー」

「落ち着くんだ?」

「うん、なんか安心感があるんだよね」

 俺も全く同じだ。不思議なくらい華凛さんに対して絶対的な安心感がある。確かにそうかもしれない。似ているもの同士だから、俺がこんなに惹かれてしまうのは当然かもしれない。けれど、それ以上に俺は華凛さんという存在を手放したくないっていう感情が沸き出ている。

 好きなんて言葉では表せないこの感情は、なんて表現したらいいのか分からないのがもどかしいんだけれど。


 肝心の仕事の話ができたのは、タイムリミットの一時間を切ったところでだった。

 華凛さんはこの後娘さんの送迎があるらしく、一七時には家に帰らなきゃ行けなかったからだ。少し追い込むように説明している俺の言葉を真剣に聞き入りながら、時折メモを取りつつ仕事モードの顔つきをする華凛さん。

 さっきまで楽しそうに笑っていた表情とのギャップがありすぎて、そんな眼差しを向ける華凛さんがたまらなく愛おしい。



【朔弥くん今日は色々と教えてくれてありがとう。今度ちゃんとお礼させてね】

 夜の十時を回った頃、華凛さんからのDMが届いた。

【お礼なんていいよ。また分からない所あったら何でも聞いて】

俺が会いたかったし。華凛さんの役にちょっとでも立ちたい。頼られたい。力になりたい。

【本当? ありがとう。助かるー!】

【華凛さんのためなら何でもするって】

【えー何でも?】

【するよ】

【朔弥くん、モテるでしょ。そういうセリフ言われたら、女の子はドキっとしちゃうよー】

【華凛さんはした?】

 すると華凛さんからの返信には、顔文字と一緒にドキドキの文字が入ったものが送られてきた。ちょっとは意識してくれたってことだよな。嬉しいんだけど。

 俺も顔文字で思いっきり笑顔のものを送る。その後華凛さんからは照れてる顔文字が入ってきた。お互い顔文字だけの送信がその後も続く。それにしても何でこんなに楽しいんだろ。会話が全く途切れない。

【私、そろそろお風呂入ってくるね】

【俺もそうするよ】

【おやすみっ】

【おやすみ】

 気づけばとっくに日付けが変わっている。俺は華凛さんとの余韻に浸りながらシャワーを浴びた。



 その夜――。

 夢の中でまたあの綺麗な蒼い海が遠くに広がっているのが見えた。

 人気はなく僅かな光が差し込んでいる木々が覆い茂った森のような場所には、枯れ葉が地面を覆い尽くしている。凍てつくような寒さを感じるからきっと季節は冬だろう。座り込む俺の隣りには以前の夢にも現れた、ストールを見に纏ったドレス姿の綺麗な女性がいる。この前とは違うカラーのドレスだが、それも華やかで眩しいし、とっても似合っている。

 そして俺が身につけているものは、こんな冷たい空気の中でもこの前と同じ薄汚れた薄っぺらい生地の服。

 隣りにいる女性がすうっと左手を前に差し出しながら「本当に嬉しい。ありがとう」と微笑む。かざす左手の薬指には、細身のリング。小さな石がキラリと光って見えた。


 ――俺があげたのか? こんな薄汚れた服の俺が。

 ――そうか、もしかしたらこの指輪を女性にあげたいがために着る服も惜しんでお金を貯めていたのかもしれない。きっとそうだ。


 俺の隣で顔をほころばせる女性を目にして、何とも言えない温かな気持ちが広がっていく。

 頭上からポツポツと雪が降り注ぎ始めていた。けれど、そんな寒さも忘れるくらい心の中はあったかい。なんて幸せなんだろう――。



 翌朝目覚めたときにも夢の中で味わった至福感が残っていて、夢か現実か混乱するような狭間に俺はいた。きっと昨日華凛さんと一緒に楽しい時間を過ごした余韻も大きいのかもしれない。


 その日を境に俺と華凛さんの関係がちょっと進展し始めた。大きく変わったのが「おはよー」とか「おやすみ」って言葉をDMを通じて毎日交わすようになったこと。


 華凛さんの生活リズムに合わせるかのように俺も起床時間が早くなる。そのせいか昼間に眠気が襲ってきて、パソコンに向かいながら居眠りしている時間も増えたんだけれど。

 一日の始まりが華凛さんで始まり、華凛さんのおやすみで眠りにつく日々。離れているのにいつもそばにいるような感覚だ。


【仕事終わったー。今から夜ご飯作らなきゃ】

【お疲れ。何作るの?】

【まだ決めてないよー】

【俺ハンバーグが食べたい】

【あ、いいねー。でも朔弥くんの分なーい】

 俺は泣き顔の絵文字で返信する。

 その後華凛さんからの言葉はなかった。きっと買い物に出かけたか夕飯づくりを始めたんだろう。

 毎日やり取りをするようになって、華凛さんの大体のルーティンが分かるようになった。


 俺は携帯を閉じると、久しぶりに行くフットサルのため身支度を始めた。社会人になってから参加し始めたチームの中には、同級生のマナトがいる。小学校からの腐れ縁で、ずっと一緒にサッカーで闘ってきた仲間。高校からは離れてしまったけれど、繋がりは変わらず続いている。

「よ、朔弥。一カ月ぶり」

「なんかマナト……また筋肉つけた?」

 鈍った身体を軽くほぐしながら、マナトの身体をマジマジと見た。ジャージの上からでも分かる程盛り上がった腕の筋肉。俺が確かめるように腕を触ると、マナトはさも自慢げにまあねーとにやつきながら答えた。

 きっと彼女の影響だろう。マナトは先輩に誘われてなんとなく通いだしたと言っていたジムに行ってから、腕だけじゃなく身体中に筋肉が付き始めた。それを彼女に褒められた途端ますますジム通いに精を出し、プロテインも飲み始めてすっかり筋肉馬鹿になっている。


「俺、引っ越しするから来月のフットサルは来れないと思うわ」

「引っ越しすんの?」

「彼女と同棲することにしたから、今のアパートじゃ手狭でさ」

「おー、そか。いいねぇ同棲」

「朔弥こそ優雅な一人暮らし満喫してんじゃん」

「どこがだよ」

 そんな会話を交わしていたら、集合合図のホイッスルが響いた。


 二手に分かれて試合を開始した。久々に芝生でボールを蹴る感覚は気持ちが良くて、走り回るスピードに熱がこもる。積極的に攻撃を仕掛けていく。

「朔弥、感覚鈍ってないな。さすが!」

 俺の勢いよく蹴り上げたボールがゴールネットを揺らしたとき、マナトが感心するように言った。俺は返事をする代わりに親指を立てて見せた。


 ここに来る前は空気がひんやり冷たくて震えるくらいだった身体も、今はその冷たさが心地良いと思えるくらい暖まっていた。マナト達に「またなっ」と言って背を向けると、家路に向かいながら携帯を取り出した。

 この時間帯だと華凛さんのインスタに新しい投稿がされている頃だろう。大体夜の九時頃には更新されているなんて把握している俺は、すっかり華凛さんのインスタにアクセスする時間帯もルーティン化しつつあった。


 けれどその日は何故かまだ更新されずに最新の写真は昨日のまま。定休日の日さえ決まった時間に投稿し続けていたのに――。

 少なくても俺の知る限りではこんなことは一度もなかった。もしかして何かあったんじゃないか。いや、考え過ぎだろう。もしかしたらただ忙しいだけなのかもしれない。


 そんなふうにあれこれ頭の中で一人会議していたら、あっという間にマンションの前に着いていた。エントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。最上階の角部屋にある俺の住処は一LDKの間取り。このマンションは祖父が所有している建物だ。


 俺の祖父は土地持ちで、他にも何軒か不動産を所有している。家賃はかからないから有り難い。優雅なんてものじゃないけれど、一人暮らしは気楽だった。

 テレビがなくこれといった家具も置いていない殺風景な部屋に入ると、汗をかいて冷えた身体を潤そうとそのまま浴室へと向かった。久々に全力疾走したり、普段使わない筋肉を動かしたら身体のあちこちが悲鳴をあげているようだ。


 軽くシャワーを済ませた後、冷蔵庫に常備してあるハイボールの缶を手にすると携帯画面を確認した。

 華凛さんからのDMは届いていない。けれどさすがに更新はされているだろうと思って確認したけれど、更新は止まったまま。


 もうすぐ日付が変わる。

 華凛さんが大体寝る時間帯だ。俺は試しにおやすみと送ってみたけれど、五分経っても十分経ってもいつものようにおやすみの返信がない。嫌われてないよな、って一瞬不安に駆られる。内心焦った。

 気に触ることを言っただろうか。でもさっきのやり取りを見返しても怒ってる様子はなさそうだ。俺はやり場のない気持ちを紛らわすかのように、手に持った缶を一気に飲み干した。



 リビングで寝落ちしていたと気付いたのは翌朝になってからだった。左手には握りしめたままの携帯。フローリングに転がる空き缶。どうやらあのまま眠ってしまったようだと周りを見渡して理解した。

 昨夜久々に身体を動かしたせいか、ベッドで寝なかったせいなのか身体の端々に鈍い痛みを感じる。画面を確認してもDMが届いている気配は全くない。


 おはよって入れてみようか。でももし迷惑だったら――。

 いつもならとっくに交わし合っている朝のメッセージ。葛藤しながら、顔を洗い身支度を整える。今日はランチを兼ねた同業者との交流会があるからそろそろ家を出ないと間に合わない。

 DMにおはよの文字を打っては消すを繰り返した数分後、思い切って送ってみた。そしてそのまま画面オフにすると俺は部屋を後にした。



 ちょっと早い時間帯からのランチ会はいつものメンバーでちょうど六人。俺が一番年下で三十代の人もいれば四十代の人もいる。みんな輸入メインに仕事をしていて、情報交換したり近況報告したりする仲間でもある。普段在宅でほぼ一人でやっているから、こういう時間は本当に貴重だ。

 本業が低収入だったから副業で始めて今は本業になったり、リストラされて輸入で起業し今では年商億超えの人もいる。

 皆挫折だったり壁を乗り越えて、今の生活を手にするまで努力し続けてきた人ばかり。だからその分メンタルが強い人ばかりだし、俺にはないハングリーさがあって話をする度刺激を受けた。

 開業資金を親に出してもらい、家賃もタダで住んでいる俺とは大違いだ。


 飲んで食べて雑談交わしながら、お互い夢の話に飛んだ。お決まりのパターンだが楽しい時間だった。

 いい感じに酔いが回ってきた頃、店を後にし解散した。

 制服姿の学生達が行き交う駅前。もうそんな時間帯かと思いながら、改札を抜ける。電車待ちのホームに立つと、数時間ぶりにインスタを開いてみた。メッセージもなければ更新された様子もない。今頃はまだ仕事中のはず。


 何の音沙汰もない華凛さんのDMを何気なく開いてみた。とちょうどその時

【ごめんねー! なんかバタバタしちゃってた】

 思わず目を見開く。

 まさか開いたと同時に連絡来るなんて。タイミング良すぎじゃん?俺は一秒たりとも間を開けない速さで返信する。

【大丈夫! お疲れ様!】

【ちょっとー相変わらず返信スピード早いから】

【そかな】

 視界が急に開けたように明るくなる。一瞬で俺の気持ちを爆上げする華凛さんの存在感は、やっぱり大きい。暑い中で飲む、冷えたハイボールよりもたまんないな。


 軽くなる足取りで夕方の帰宅ラッシュの電車に乗り込む。人混みに揉まれながらもそんな状況とは裏腹に、顔が緩んでいるのが自分でも分かった。

 一人ニヤケ顔の俺は、側から見たら危ない奴に違いない。けれどそんなことはどうでもいい。返信の一文字一文字を噛みしめながら何度も読み返してしまう。なんてことない会話なのに。華凛さんからの返信は誰かから「好き」とか言われる言葉以上の破壊力がある。


 自宅マンションにたどり着くと、途中コンビニで買った弁当でお腹を満たし、冷蔵庫にあるハイボールの缶でのどを潤した。華凛さんからその後の返信がなかったけれど、きっと忙しくしているんだろう。


 そろそろ落ち着いた頃だろうとインスタが更新される時間にアクセスすると、予想外にも代り映えがないまま。こんな夜まで慌ただしく過ごしているのかと思ったら、メッセージを送るのは気が引ける。

 気を紛らわせようとYouTubeやネットフリックスにアクセスしてみたものの、BGMのように頭の片隅で流れているだけ。全く頭に入ってこないのは華凛さんの存在に、俺の気持ちが全部持っていかれてしまってるからだろう。

 日付が変わって少し経った頃、俺は微かな不安を抱きつつもおやすみのDMをしてベッドに横たわった。


 夜中に何度か目が覚めたせいで、携帯のアラーム音が響いても微睡んでいた。携帯を取り出し画面を開く。俺からのおやすみの後に続くメッセージは何もない。

 ひょっとしたらインスタの不具合とか――なんて考えてみる自分もいたけど、そんな都合のいいことなんて起きていない。

 毎日投稿していたネイルの写真がニ日も投稿されていないのは、きっと何か事情があるんだろう。バタバタしてたって言っていたし、家庭で何かあったのかもしれない。

 俺でできることなら力になりたい。けれど実際は相談されることもなければ何も華凛さんのことが分からず身動きできずにいて、そんな自分がちっぽけで無力に思えた。



 俺はおもむろに立ち上がると、パソコンをケースにしまいこんだ。自宅にいるより外で仕事したほうが気分的にも良さそうだと思い立ち、愛車が置いてある駐車場へと足を運んだ。普段電車移動が多いし基本自宅にいる時間が長いから、車に乗るのは月に数回程度。

 久しぶりにエンジンを回しハンドルを握りながら向かった先は、この前華凛さんと待ち合わせたカフェ『LA ISLA』のチェーン店。そのカフェのなんとかラテがお気に入りって話していたのをふいに思い出し、なんとなく足を運んでみたくなったからだ。

 近場のカフェだと車を停める場所がなかったため、少し離れた店へと車を走らせる。隣には大きな総合病院があるためか、ここの店舗は規模も大きく駐車スペースも広い。


 店内に入るとそこまで混んでいなくてちょうど良い。カウンターにあるメニューを見ながら、華凛さんが好きなの何ラテだっけ……と考えこんだ時「朔弥くん!?」と言う柔らかな聞き覚えのある声が耳に届いた。

「え! 華凛さん!? なんでここに?」

「朔弥くんの方こそどうして……?」

 俺は目の前にいる華凛さんに息を飲む。何でこんなところにいるんだ? 今日は仕事じゃないのか?

「お客様メニューはいかがいたしましょう……」

 店員さんがカウンター越しに申し訳なさそうに尋ねてきたため、俺は慌ていつものコーヒーを注文した。


 窓際にある二席分のテーブルに腰をおろしていたら、華凛さんが小走りに駆け寄ってきた。

「ここ座ってもいいかな」

「もちろん」

「まさか朔弥くんがいるなんて思わなかった」

「それはこっちの台詞。ちょうど華凛さんのこと思い浮かんでた時だったし、マジビビった」

「え、私のこと?」

「何ラテが好きって言ってたかなーって……」

「そうなんだー。ビックリだよね」


 本当に。まさかこんな場所で偶然会えるなんて。でも華凛さんの家の方角からこの場所は結構な距離のはず――困惑顔の俺を見透かしてか華凛さんが指を差しながら「あそこに用事があって来たの」と教えてくれた。指の差す方向には総合病院。


「え、どしたの? 華凛さんが通ってるとか?」

「母が入院することになって……今色々検査中で時間がかかりそうだから、このカフェで時間潰そうと思ってきたところなの」

「そうだったんだ……」

 そういうことだったのか。インスタの更新が途絶えていたのはそういうことか。

「ごめんね、返信できなくって」

「全然気にしないで! 俺の方こそ大変なの気付かなくてごめん」

「何で朔弥くんが謝るのー」

 クスクス笑う華凛さんは、そんな大変な状況にいることを感じさせない程明るいいつもの華凛さんだ。けれどその明るさがかえって無理をしているような気がして、なんだかいたたまれない。

「……大丈夫? 」

「うん、ありがとう。大丈夫だよ。サロンの方も予約ストップしていたけど、明日から通常通り再開できそうだから」

「そっか……なら安心だけど」

「朔弥くん、優しいね。心配してくれて嬉しい」

「いやそんなこと……。親が入院するとかやっぱ心配になるし、何かと大変でしょ」

「あ、うちの母ね、早速お友達作ってたし入院生活楽しんでそうだから。案外ゆっくりできて母にも良かったんじゃないかな。普段働きっぱなしだから、休んでくれてるのはちょっと安心かも」


 気丈に振る舞おうとする華凛さんは本当に強い人だ。この前会って身の上話をした時に「お父さんは幼い頃に事故で失くして、あまり記憶がないんだ」ってサラっと話していたけど、お母さんが入院して本当はかなり心細いんじゃないだろうか。弟さんは九州に住んでいるとか言っていたから、簡単に頼ることも難しそうだし。

 って旦那さんがいるか――。


「朔弥くん、またガン見してるっ」

「えっ……」

「いつも無意識だよねー」

「ごめんなさい」

「あれ、初めて認めてる」

 華凛さんがクスクス笑う。俺は視線を逸らすことはしたくなくて、咄嗟に謝っていた。せっかく会えたんだから、少しでもこの時間を無駄にしたくない。華凛さんはこんな俺の想い、気付いているんだろうか。いやきっと気付いていないだろう。

 俺一人が華凛さんの言葉一つ一つに一喜一憂し、感情をジェットコースターのように揺らされている。


 お昼前頃、華凛さんはそろそろ病院戻るねと言って鞄を手にした。

「華凛さん」

「ん?」

 咄嗟に名前を呼んだけれど、何を話したいのか自分でも分からない。ただ華凛さんの力になることができない自分が歯痒くて虚しくて――。

「……無理しないようにね」

「うん、ありがとう」

 ありきたりな言葉しか出てこない自分が、なんだか情けない。もっとかける言葉が他にもあるだろうに。


 華凛さんが去った後、持ってきたパソコンを起動し作業を始めようと思ったけれど、なかなか思うように進まない。せっかく華凛さんに会えたけれど、心の中は何か悶々とするものがあった。その原因は華凛さんの役に立てれない自分自身にもあったけれど、もっと別の何かが俺の感情を暗く重たくしている。


 ふぅと軽くため息を吐きながら店内を見渡すと、いつのまにかお客の人数もまばらになってランチタイムの騒めきが薄れる時間帯になっていた。俺はおもむろにパソコン横に置いてある携帯を手にすると、ちょうど華凛さんからDMが届いた。

【今から帰るよ。さっきはビックリしたねー! 朔弥くんはまだカフェかな】

 そのメッセージを見た瞬間、何故だか咄嗟に俺も今出る所と送った。目と鼻の先にいる距離。もう一度顔を見たい。会いたい。

【華凛さんこの後時間ある?】

【今日娘はバイトだし、旦那は夕食いらないから特に何もないよー】

【じゃあ海行こ! 俺見たいから付き合ってほしい】

 テンポ良くやり取りしていたメッセージの返信が途切れる。急な誘いは無理だったかもしれない――そう諦めかけた瞬間【うん、行こう。私もちょうど行きたかったんだ】というオッケーの言葉が届いた。


 俺は脇目も振らず店のドアを抜ける。華凛さんが駆け寄って来るのが見えた。どうぞ、と言って助手席のドアを開けると、ありがとうと言いながら華凛さんが乗り込んだ。

 キーを回してナビを設定する。ここから車を飛ばして近くの海まで一時間半くらい。


「冬の海って久々だぁ」

「俺も」

「朔弥くん、海行きたいって思ってたの?」

「うん……なんか、久々に海でぼーっとしたくなってさ」

「そうなんだ」

 本当に海を見たかったわけじゃない。ただ以前、華凛さんが俺と同じで海を眺めるのが好きで癒されると話していたことを思い出し、少しでもそれで心が軽くできるなら、と思ったのだ。ちょっとでも笑顔が増えたら。少しでも気が紛れたら――。


 気持ちが先走るように加速するスピード。車の渋滞もなかったせいか、予定よりだいぶ早く目的地に辿り着いた。

 人気のない海岸の向こうではちょうど夕陽が水平線の向こうに沈みかけ、水面をキラキラ反射させていた。

「わぁ……すっごい綺麗なんだけど」

 華凛さんが窓から身を乗り出しながら、顔を綻ばせる。それを目にした俺も顔が緩んでいく。


「眺めてるだけで癒されるなぁ」

「華凛さんは好きな海とかあるの?」

「んーとね……海外の海はどれも綺麗でよく写真を眺めてるんだけど……。この前見てて気になったのが、イタリアにあるラビットビーチっていうところ。透明度高くて凄く綺麗で……」

「え、ラビットビーチ!?」

 華凛さんの言葉を遮るように声を上げる。

「朔弥くん知ってるの?」

「知ってるも何も……」

 俺は携帯のアルバムをスクロールし、一枚の写真を華凛さんの目の前に見せた。

「え……これって……朔弥くんが撮ったの?」

「大学通ってた頃に一人旅した時の写真。俺もここのビーチが見たくて、旅行先をイタリアにしたくらい惹かれた海だったんだ。まさかこの名前が出てくるなんて、ちょいビビった」

「凄い! 偶然! 写真もっとあったら見せてほしい」

「いいよ。あ、確か動画も撮ったはず……」

 何枚か写真をスライドさせた後、出てきた動画を再生する。

「わぁ……本当透明度が高い! これを生で見たなんて、羨ましすぎる」

「感動して何もしないで一日中ここのビーチにいたけど、あれは贅沢な時間だったな……」

「いいなぁ……私も行ってみたいなぁ……」

 一緒に見れたらいいな、って言葉は飲み込んだ。

「俺さ、将来住むなら海の近くがいいって決めてるんだ」

「そうなのー? いいなぁ。じゃあ朔弥くんがお家建てたら遊びに行かせてもらおー」

 華凛さんは冗談ぽく笑ったけれど、一緒に住めたら――なんて気持ちが浮かび上がってきた俺は、華凛さんと海辺の近くで一緒に暮らしている姿が軽々想像できてしまった。現実離れした妄想男だ。

 ちょっと近くまで行きたいな、と華凛さんが言ったのでエンジンを切って車を停めると、砂浜へと続く階段を降りて行った。


 ザザァンと寄せては返す波音だけが静かに響く。沈みかけの夕陽が輝かす水面は眩しくて、目を細めながら見つめた。お互い言葉を交わすことなく、ただ水面を見つめながらゆっくり過ぎていく時間。

 現実の世界を忘れさせてくれるようなそんなニ人だけの時間に感じて、このまま時が止まってくれたら――なんて考えたとき、俺は何故だかデジャヴを覚えた。ドレス姿の女性と寄り添いながら、至福で満たされていた夢。

 あの時感じた想いと何故かリンクして、一瞬変な感覚になる。


「くしゅん」

 隣りに目をやると、華凛さんが両手を摩りながら頬を真っ赤に染めている。

「ごめん、寒いよね」

「大丈夫! 私が近くで見たいって言ったん…」

 華凛さんは言い終わらないうちに、ニ回目のくしゃみを発した。俺が華凛さんの手に触れると、氷のように冷え切っている。

「え、めっちゃ冷たいじゃん」

「冷え性だから、いつもこんな感じだよ。それより何で朔弥くんはこんなにあったかいの?」

 華凛さんは驚きつつも、俺の手の温かさを確かめるかのように触れ返す。俺は思わずその手を握り締めた。そして「カイロ代わりと思って」と言いながら華凛さんの冷え切った手を俺の体温で覆った。    

 初めて触れる華凛さんの手は小さくて、何故か溶け合うように心地よい。何でこんなにも気持ち良いんだろうか。このまま離したくない。


 もっと早く出会えていたら。

 俺が華凛さんと同じくらいに産まれていたら。

 もっと違う形で出会えていて、一緒の人生を歩んでいけたかもしれないのに――。

「華凛さん……」

 感情を抑えきれなくなった俺は、握り締めた華凛さんの手を引き寄せる。きゃっという声が聞こえたと共に、俺はもう片方の手で華奢な身体を抱き寄せた。

「この方があったまるから」

「え、朔弥くん……!?」

「ちょっとだけ……こうしてよ?」

 華凛さんは何も発さない。けれど俺が抱き締めた手を振り払うこともなく、そのまま身体を離さないでいてくれる。華奢で小さな身体は力強く抱きしめたら、折れてしまいそうだ。

 華凛さんの髪から微かにいい香りが鼻をくすぐる。抱き合っているだけで、全身がとろけていくような感覚。俺と華凛さんの身体が混ざり合って一つになるような、抱き締めているだけなのに絶頂に達するに値するくらい気持ち良いのは何故だろう……。

 身体中が心の奥の熱いものが――俺の全てが彼女を欲してる。


 ――けれど彼女には家庭がある。


 そのどうしようもない現実と今この瞬間との大きな隔たりに押し潰されそうになって、思わず華凛さんの身体を力強く抱き締めた。

 けれど足りない。全然足りない。俺の想いをどんなふうに表現したら、華凛さんへの想いが伝わるんだろうか。こんなに愛おしくてたまんないのに。

 俺の背中に華凛さんの手が回る。そして身体に回した手が力強くなるのが分かった。まるで今の俺の気持ちを察してくれているかのような、「ちゃんと伝わってるよ」と言ってくれているかのような、そんな華凛さんからの想いが身体を通して伝わってくる。


 帰り道はオーディオから流れる音楽だけが車内に響いていた。俺も華凛さんも特別言葉を交わすことはしない。どちらとも特に言葉を発することもしなかったけれど、それがとても心地良い。二人でいることが当たり前のように自然で、離れてしまうのが考えられない。

 俺は右手でハンドルを握りながら、左手は華凛さんの右手を強く握り締めたまま。重ね合わせた手から伝わる華凛さんの体温は、さっきとは打って変わって温かさを帯びている。


「手、あったまったね」

「朔弥くんのおかげだね」

「ちゃんとカイロの役目果たしたでしょ」

「うんっ本当だ、ありがと」

「必要な時あったらいつでも言って」

「私冷え性だから毎日必要なんだけど……あ、夏はいっかな」

「冬限定か……カイロだから仕方ないよなー」

 俺が不貞腐れたように言うと、華凛さんがあやすかのように俺の頭を撫でる。

「いじけないのー」

「いじけてませーん」

「あ、強がってる」

「そんなことないでーす」

 俺は白々しく口を尖らせる。

「可愛いね、朔弥くん。なんかペットにしたい感じ」

「え、ペット?」

 不意打ちを突かれて、本気で拗ねる。

「冗談だよー。もうそんな顔しないの」

 クスクス笑う華凛さんに弄ばれてるようだったが、再び頭を撫でられて悪い気はしない。

「ごめんね」

 華凛さんがニコッと笑う。そんな天使みたいな笑顔を向けられたら、何されたって降参しそうだ。


 すっかり太陽が沈んだ景色には、街明かりが灯っている。気付くとあっという間に昼間のカフェまで来ていた。俺はこのニ人だけの時間を惜しむかのように、ゆっくりと駐車スペースに車を停めた。

「朔弥くん、今日はありがとうね。本当楽しかった」

「こちらこそ。急な誘いに付き合ってくれてありがとう」

「私、色々してもらってばかりだね。まだこの前のお礼もできてないし……」

「俺が行きたかったんだから、気にしないでよ」

「久しぶりに海見て癒されたよ。連れて行ってくれて本当ありがとう」

「俺の方こそありがとう。華凛さんと海見れて楽しかった」

「ありがとうだなんて。朔弥くんて本当謙虚だし、いつも私の心を軽くしてくれる」

「え、本当?なんか嬉しいな」

「いつも朔弥くんの存在に助けられてるもん。凄く頼もしいし、支えてもらってるよ。ありがとう」

「そんなふうに言ってくれて、ありがとう」

「ふふ……ありがとうの連呼だね」


 俺と華凛さんを取り巻く空気感が温かすぎて、なんて心地良いんだろう。俺の左手は華凛さんの手に重ね合わせたまま離せなくなっている。この体温ずっと感じられたらいいのに――。

 この手を離すなんて嫌だ。もっと同じ時間を過ごしていたい。


 けれど華凛さんには帰らなきゃ行けない家がある。


 現実を直視することは胸を抉られるようだ。どうしようもならない事実は、どんなに努力しても想いがあっても覆すことはできない。

 出会った時から特別な想いが何故かあって。会う度それが強くなって。けれど俺がどんなに華凛さんを求めたところで、それはきっと叶わないこと。


「朔弥くんて本当じっと見る癖があるよね」

 恥ずかしいなぁ、とでも言いたげに華凛さんは顔を横に向けて頬を赤く染めた。そういう表情、俺以外の奴にもするんだろうか。ニッコリ笑う顔も困った顔も全部、俺だけに見せてほしい。華凛さんの色んな表情が見れるのは俺だけの特権にしたい。他の奴になんか見せたくない。華凛さんの全てを俺一人で独占できたらどんなにいいかーー。


 俺はたまらずその横顔に顔を近づけると、華凛さんの頬にそっと唇を寄せた。

 えっ? て目を丸くして俺の方を向いた華凛さん。俺はその瞳をじっと見つめた後、そっと唇を重ねた。

 衝動的だった。けれど俺は華凛さんと離れることが強烈に嫌で、自分だけのものにしたくて、抑えられなくなっていた。

 華凛さんの反応は少し気まずそうな、けれど俺の想いはちゃんと分かってくれたかのような、そんな表情をしている。困らせたくない。けれど華凛さんへの想いを断ち切るなんて考えられない。


 マンションに着いてから【家着いた?】とだけメッセージを送った。

 どんな反応が返ってくるかちょっと不安になったけれど、数分後に【うん、着いたよ。今日はありがとう】という言葉を目にしてホッと胸を撫で下ろす。


 今日一日はあっという間に過ぎたけれど、朝から本当濃い時間だった気がする。華凛さんと偶然再会したこと。ニ人で綺麗な海を眺めたこと。華凛さんの手に触れ抱き締めたこと。柔らかな唇の感触は今も微かに残っている。

 華凛さんとの関係性が進んだことに喜びを感じる一方で、華凛さんを求め過ぎてしまうことに抑制できなくなりそうで怖くなる自分がいる。この異常なまでの独占欲はなんなんだ?俺だけのものにしたいのにできない現実に、狂いそうになる。自分が自分でなくなりそうだ。

 色んな感情が渦巻いたけれどそれを消化できる気配なんてものはなく、その日はいつもより早めに眠りにつくことにした。



 ――その夜、俺はまたあの奇妙な夢を見させられていた。

 けれど俺の視界に見えたのは薄汚れた衣服を身に纏い、ニ人の兵士らしき人らに腕を掴まれている夢の中の『俺』

 兵士達は鎧を身に纏い、片方の手には鋭角に尖った剣を握り締めて殺気立っている。これは一体どんな状況なんだろう。いつもならあの身体に意識だけが入って、あの身体からの目線で情景を見渡していたのに。


 何故今日は違うんだ? 俺はどこから見ているんだ――?

 そう思いながら意識を下に向けると、艶のある黄色い布地のドレスが目に入った。まさか――これはあの女性の身体から見ている光景なんじゃないだろうか。

 目の前の『俺』は膝まずきながら、「どうかお許しください」と言って泣き叫ぶ。ドレスの女性である俺は声にならない声を上げ、泣き崩れている。一体何があったのか。

「お前は盗人で重罪だ。罪を犯した自分を反省し、悔い改めよ」

 兵士の一人がそう叫んだ後、握り締めていた剣を大きく振りかざし俺の首を切り刻んだ。


「いやぁぁぁぁぁ」


 女性の泣き叫ぶ声が響き渡る。女性の中に意識がある俺は、その女性のとてつもない悲しみややりきれなさ、愛する人を目の前で殺されるという耐え難い想いを一緒に味わった。苦しくて苦しくて、窒息するかと思うくらいに呼吸が乱れる。全身から血の気が引いていく。

 俺はこの女性と一心同体になっている感覚だった。


 サァァと霧のような白いモヤが視界を流れていった後、目の前の惨劇だった場所が移り変わり、高く壮大な天井のある風景を映し出した。

 目の前には十字架。神聖な空気感が漂うこの場所は、どうやら教会らしき雰囲気だ。俺はまださっきのいたたまれない感情をひきずりながらも、目の前の状況を理解しようと必死になる。


「こんなのあんまりよ……。あの人は上手い話に騙されただけなのに。家族も失って可哀想な人なのに……何であんな死に方をしなくちゃいけないの……」

 女性は左右の手を胸の前で固く握り締めている。

「主なる神様……どうか来世であの人が生まれ変わったら裕福で家族のいる家庭に生まれ変わらせてあげてください……お願いします……。私はどんな境遇でも構わないから……その代わりもう一度彼に会わせて下さい」

 彼女が言い終わると同時に、またさっきのように霧のようなものが目の前を流れていく。けれど、場所は変わらず同じ教会だった。少し年月が経っているのか建物が色褪せて見える。

「主なる神様……どうか来世であの人が生まれ変わったら裕福で家族のいる家庭に生まれ変わらせてあげてください……お願いします……。私はどんな境遇でも構わないから……その代わりもう一度彼に会わせて下さい」

 女性が胸の前で握りしめている両手はさっきとは違って、たくさんのシワが刻まれている。何年もの年を重ねた老いた手に見えた。



 ――ゆっくりと視界が開けていく。ここはどこなんだろうか。完全に瞼を開けても、ここが現実の俺の世界だと理解するまでに、少し時間がかかった。何故ならまだ夢の延長線上にいるような重苦しさが、胸の奥に残っていたから。

 頬に違和感を感じて触ってみると、ベタッとした濡れた感触が残っている。俺は泣いていたのか――。

 再びゆっくりと目を閉じる。薄らぎそうになる夢の記憶をもう一度辿っていく。


 夢の中の俺は罪を犯し殺されて、無残な死を遂げていた。しかも愛する人の目の前でという最悪な展開で。そんな残酷な場面を見せつけられた女性の中に俺はいて、とてつもない苦しみや悲しみに心が張り裂けていた。愛する人を目の前で殺された辛さ、絶望感。

 そしてそれでも俺に対する愛情は変わらず、一途に思い続けてくれていた。俺の来世の幸せまで願ってくれて、こんな俺と再び出会いたいと祈ってくれて、きっと毎日のように祈り続けてくれたんだろう。そして苦しみを背負いながらもちゃんと生き抜いてくれた。

 なんて大きな愛なんだろう。時空を超えて今の俺にも感じるくらい、彼女の想いは愛そのものだ。あんな素敵な女性に、俺は亡き後も愛されていたのか……。


 決まって華凛さんと会った後に見るようになった奇妙な夢。時間の経過と共に僅かな記憶も薄れていったけれど、最初に見た時から今までの夢が一つのストーリーのように繋がっているような気がした。そしてそれは決まって現実世界の俺の心情とリンクするかのようだ。


 ――もしかしたら。

 あの女性は華凛さんなんじゃ――。俺が出会った時から何故か惹かれていたのも、愛おしくて仕方ない気持ちが湧き出てくるのも。きっとあの夢と繋がりがあるんじゃないだろうか。  

 お互い海を眺めるのが好きで癒しになっているという事実。夢の中には決まって蒼く透き通った綺麗な海が見渡せていた。


 ――夢と思っていたそれは、俺と華凛さんの前世だったのかもしれない。


 今の俺の境遇は両親もいてお金に困ることもなく裕福に暮らせている。それに今まで大した苦労もなく人生を送ってきている。一方の華凛さんは、父親を早くに失くし病気がちな母親を支えながら、それでもそんな素振りを見せないで懸命に家族を支えている。

 俺の鼓動が早くなる。ただの夢なのかもしれない。けれど俺の予感めいたものは、きっとそうに違いないという確信に変わりつつあった。リアルなまでに残っている、残酷なシーンと女性の感情。どれだけ時間が経とうと消えてなくならないのは、単に夢なんかじゃなく俺の遠い魂の記憶だ。


 華凛さんとは変わらずメッセージのやり取りが続いた。けれど次第にルーティン化していた華凛さんの更新を心待ちにする日が減り、俺がインスタ画面を開くことが減り、メッセージの返信速度が段々と伸びていった。

 そしてついに俺はインスタのアプリを削除した。


 華凛さんに対しての気持ちがなくなったわけじゃない。いや、寧ろ想いはどんどん膨らむばかり。なんでこんなに惹きつけられるのか、強烈な程恋しくなってしまうのか、自分でも抑えきれず膨らみ続ける華凛さんへの気持ちに、自分が自分でなくなってしまいそうで恐ろしくもなった。


 その一方で俺は自分に自信が持てなくなっていた。今の俺には華凛さんを幸せになんてできないし、相応しくない。今の俺じゃ釣り合わない。

 恵まれた環境にいながらその有り難さも分からずに育ってきて、これといった目標も持てずただ生きてきた俺には、逆境の中でも逞しく強く光に満ち溢れている華凛さんの存在感の大きさに、恐れのようなものを抱くようになってしまっていた。

 それに今の俺にはあの夢の中で感じ取った女性の愛の大きさに、見合うだけの自信が持てない。こんな俺じゃ一緒にいられない……いてもそのうち嫌われてしまうかもしれない。華凛さんの方から離れて行ってしまうかもしれない。

 そんなこと絶対耐えられない。怖い、怖すぎる。想像もしたくない——。


 失うことへの恐怖はもちろんある。けれどそれと同じくらい華凛さんという存在感の大きさに、恐怖めいたものを感じてしまっている。


 今の俺じゃダメなんだ。

 それに、華凛さんは既婚者なんだから――。



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