二、和尚と漁民と異邦人
村にたまたま和尚様が来ていて助かった。
男は思った。
今朝がた、子どもの姿が見えないと思ったら、海辺で大男につかまっていたのだ。
つかまっていたと言っても、どうやら危害を加えようとした訳ではないようだったが、なにしろ、六尺はゆうに超えるであろう大男だ。
肝が冷えるなんてものではない。
ただ、話しを聞いてみるに、どうやら何か困っているらしいことは理解できた。ただ、肝心の何かについてが一向に理解ができない。
知らない言葉は知らないのだ。
そんな中、大男の口からお経のような言葉が飛び出してきたのだ。
男はそれを聞いて、先日から村にいる和尚様なら何か分かるかもしれぬと思い、身振り手振りでついてくるように言ったのである。
果たしてそれは正解であった。
お経の言葉を喋ると聞いた和尚様は、最初は驚いた様子だったが、二言三言大男と言葉を交わすと外に出て、地面に木の枝で文字を書いた。
大男の顔がほころび、和尚様の隣に似たような文字を書く。
村の人々はその文字の知識がなく、ただ二人を囲んでことの成り行きを見守るしかない。
しばらく文字を消しては書いて、消しては書いていくうちに、なにやら話がまとまったようである。
和尚様が、おもむろに立ち上がった。
村人たちの方を振り返り、言う。
「おうい皆の衆、この中に小舟を持っている者はおらんか?」
村人たちは、互いに顔を見合わせる。
いったい和尚様は、何に舟を使うつもりなのだろうか?
和尚様が続ける。
「どうもこの者は、天竺の方から来たようでな、先日の嵐に呑まれて流れ着いたそうでな。近くの小島まで行きたいんだと言うておる」
「持っとるぞ」
それを聞いて、一人の青年が名乗りを上げた。
浅黒くがっちりした体、身長五尺六寸。
漁師の鴨吉であった。
まだ歳は若いが、力強く、舟も巧みに操る男だった。
この時期は、嵐が多い。
嵐が近くになくとも、どこかで嵐があれば海は荒れる。
そんな中でも平然と漁に出られるほどに、鴨吉は腕が良かった。
「でも和尚さん、あの島にゃ誰もいませんぜ」
「どうも船が島に乗り上げたらしい」
「なるほどそいつぁ大変だ、泳いじゃ渡れねぇや」
そんなやりとりをし、和尚様と鴨吉と大男は島へと向かうことになった。
村人たちも最初は恐々としていたが、あの鴨吉と和尚様が一緒なら滅多なことになるまいと思い、各々の農作業やら漁業やらへと戻って行った。
風は激しく吹きすさび、波しぶきが音を立てる。
嵐の直後の海などそんなものだ。
海に慣れていなければ、まず転覆する。たとえ海に慣れていたとしても、一瞬の油断が命取りになることは想像に難くない。
そんな荒れ狂う海を、鴨吉はスイスイと進んで行く。
荒波の間をすり抜けるどころか、その波すらも利用する手腕はさすがと言うほかなかった。
まるで穏やかな海を渡るのと同じように櫂を操り、鴨吉は行く。
転覆するようなこともなく、小島に着いた時には日が高く上がっていた。
腰くらいの深さになると、鴨吉は船から飛び降り、船頭を引っ張って砂浜へと乗り上げた。
「ご苦労であった、鴨吉よ」
和尚様が、船からひらりと飛び降りて言う。
人助け人助け、と鴨吉はからからと笑った。
大男も長い脚で船べりを一跨ぎし、砂地に降りる。そしてしゃがみ込んで砂に文字を書き、和尚様を呼んだ。
和尚様がそれを訳す。
「おう鴨吉や、ぬしに礼を言っておるぞ」
それを聞いた鴨吉は少し照れたように、「人助けだからな」と言った。
鴨吉は潮が満ちて来ても船が流されないように砂浜の上の方に持って行き、さて、と声を掛けた。
「で、和尚さん、その人の船ってのはどこにあるんで? 見たところそれらしきものが……」
「確かに」
二人してあたりを見辺すが、それらしきものは見当たらない。
和尚様が大男に訊くと、大男は南の方を指差した。
確かにそちらには帆船のマストが見える。
しかし、和尚様と鴨吉にはそれが分からない。
何しろ時代が時代なのである。遣唐使に選ばれるような者ならともかく、末端の僧侶や村の漁民が大型帆船を知るはずもなかった。
なんとか大男はそれが帆船であると伝えようとしたが、筆談な上、お互いが片言であるから上手く伝わらない。
ついてきてもらえば分かる、と言う大男に、結局二人はついて行くことにした。
最初は地元民の鴨吉が先陣を勤めたらどうかと和尚は提案したが、鴨吉は苦い顔で首を横に振った。
「悪いんですが和尚さん、実はこの島のことはよく分からないんですわ」
「なに、そうなのか」
驚いた顔の和尚様に、鴨吉は頬を掻きながら応える。
「村ではここは近寄っちゃ行かん島になってるんもんで。無用に島に近寄るとたたりがあるだのなんだの」
「また物騒な」
「ま、動物なんて住んじゃおらんでしょうがね。近くに見えるくせに波が荒くって泳いで行けんから、子どもの時に怖い話としてオヤジ様からよく聞かされましたわ。普段は近づく必要もない島だし、こないことが無けりゃ、よう来る場所じゃありゃせんですわ」
鴨吉が肩を竦めた。
海沿いは滑落やらの危険があるということになり、島の中を通ることになった。
マストを目印にするため、先頭が大男だ。
歩いてみると、確かに、動物の気配はほとんどない。
けもの道は見当たらず、物音がしたと思えば鳥や虫ばかり。
不吉な島とされているのとは裏腹に、そこは実に平和な島だった。
草を分けながら、木の隙間から見えるマストを見失わないようにひたすら歩く。
やがて森の木は少なくなり、地面が岩場に代わった。
そこまできて、鴨吉はともかく、和尚様は、帆船がどれほど大きいのかが予想がついた。
同時に、嫌な予感がした。
それは、ここにいる三人とも同じだった。
自然と足が早くなる。
厳しくなる岩場が、三人の――特に大男の心にちくちくと突き刺さった。
その痛みを振り払うように、駆けた。
そしてその岩場の先は、崖だった。
マストが、崖に叩きつけられ、曲がっている。
足場が悪く、下が覗き込めないが、きっと――。
「和尚さん、こっち!」
鴨吉が、声を上げた。
和尚様が、鴨吉の指差す方を見ると、穴が開いていた。
人が余裕で通れそうな広さの穴だ。
和尚様は、絶句している大男の肩をたたいた。
振り返る大男に、和尚様は片言で穴がある、通れるかもしれないと伝える。
大男の行動は早かった。
穴の傍に駆け寄ると、通れそうとはいえど歩くにはかなり急で危険であろう穴に、ためらいなく飛び込んだ。
鴨吉と和尚もおっかなびっくり後に続く。
だんだんゆるやかに、そして広くなっていく洞穴を抜けると――
「おお――――」
大男の絶望の声が響いた。
続けて、鴨吉と和尚様も声を漏らす。
しかしその声は、生まれて初めて見る、大型帆船を見た感動が混じっていなかったとは言い切れないだろう。
大男の船は、ぼろぼろに壊れていた。
洞穴の先は、海へとつながっていた。
本来であれば、潮がほとんど入ってこない位置にある洞窟だ。
しかし、嵐で高くなった波は、この洞窟へと向かって押し寄せる。
その波にのまれて、この船は真正面から洞窟に入ったのだ。
結果、洞窟にふたをするような形で、無残な姿を曝している。
大型船だったのは、幸か不幸か。
もっと船体が小さければ、洞窟に突入した時点で破壊されはしなかっただろう。
しかし、船体が小さくては洞窟に引っかからずに海の藻屑になっていたかもしれない。
大男は思い出したように、異国の言葉で何やら叫びながら、船に上れる場所が無いかと駆けだす。
数秒遅れて、鴨吉と和尚様もその後に続いた。
「おいアンタ、壊れかけてるから危ないぞ!」
大男に声をかけるが、無論、日本語なので通じない。
鴨吉と和尚様は、あっという間に大男を見失った。
船に上れる場所を2人で探していると、慟哭の声が響いた。
「くそっ」
鴨吉は呟くと船と洞窟の隙間に手足を突っ張り、無理矢理上って行った。
「アッ、鴨吉、置いていくでない」
和尚様には、鴨吉のような力はない。
呼び止めようとするが、鴨吉も甲板へと消えた。
「あっ」
甲板に上った鴨吉の返事がこれであった。
ひいこら言いながらぐるりと回りこみ、何とか足場を見つけて上ってみた頃には、大男の慟哭は嗚咽へと変わっていた。
生存者は独りもいなかった。
甲板に在るのは、奇跡的に流されなかった、直視しがたいような状態の死体が二つのみ。
きっと、本当はもっといたのだろう。洞窟から飛び出たマストにの裂け目に引っかかる布が雄弁にそのことを物語っていた。
和尚様はそっと右手を胸の前に立てた。
異国の者が同じ宗派かは知らないが、気休め程度にはなるだろう。
小さく、お経を呟いた。
男たちは、たき火を囲んでいた。
日は沈んでいる。
大男の嘆き様と、鴨吉の周囲にまだ生き残りがいるかもしれないという発言から、三人は島で一晩を明かすことにした。
嘆きつかれたのか、大男が一周り小さくなったように見える。
鴨吉は遣る瀬無くなり、溜め息を吐いた。
遠い異国で一人だけ生き残り、言葉をまともに分かる人もいない。
生きているかもしれないと思っていただけ、あの惨状には絶望したろう。
学が無くても、それくらいは分かる。
船の惨状を見た後の捜索でも、結局一人も見つからなかった。
つまりはそういうことなのだろう。
もともと大男には言葉が通じないが、しかし、和尚様と話すつもりにもなれなかった。
三者三様、呆けたように座っていた。
ぱち
音を立てて火の粉が爆ぜた。
薪が崩れる。
落ちていた枯れ枝等を使った、即席のたき火だ。遠くないうちに火は枯れるだろう。
そしたら寝て、また起きて、三人で陸に帰る。
それでしまいだ。
偶の人助けだ、一日くらい潰れたのも気にならない。
空を見上げる。
星が落ちてきそうな夜だった。
嵐の後だからだろう。
空は澄み渡り、星々の輝きが眩しいくらいだ。
だから、鴨吉は余計に心が沈んだ。
ぱちん
もう一度、火の粉が爆ぜた。
「鴨吉」
空を仰ぐ鴨吉に、和尚様が声をかけた。
なんだ、と鴨吉は堪える。
「いろいろと手伝ってくれて感謝している、だとさ」
どうやら和尚様と大男は、また筆談をしていたらしい。
鴨吉は特に何もできなかったけどな、と力なく笑った。
それを大男に伝えているのだろう。
しばらく筆談をして、そして和尚様は困ったような顔をした。
いや、しかし、それはなぁ、と言って頭を掻いた。
「鴨吉、聞いてくれ」
「おう」
「どうもこの者、陸には戻りたくないらしい」
「そうしたいならそれでもいいが……、でも何でですかい」
和尚様が大男に訊く。
書かれた文字を、和尚様が呼んだ。
「何々……、私は海の向こう、のさらに奥からやって来た。たとえ唐へ渡れても故郷に戻る術がない。この国の言葉も覚えられるか分からぬ。だから仲間の――冥福かの、を祈って一人で暮らしたい、だとさ」
「はぁ」
なんとなく、やけっぱちになっている訳ではないことは分かったが、旅をしたことがない鴨吉にはいまいち想像がつかない事柄だった。
和尚様は続けた。
「そこで交渉があるんじゃと。明日良いモノをやる。それを気に入ったら果物と食べ物と物々交換をしないか、とのことだ」
「……それは村の人に訊いてみんと分からんですわ」
鴨吉の答えを、和尚様は大男に伝えた。
大男はそれを聞くと、満足そうに頷いた。
翌朝、和尚様と鴨吉は二人で島を出た。
和尚の胸には、人の頭よりは小さい瓶が抱えられていた。
大男曰く、それは酒らしい。少なくともこの国には無い製法で作られた酒らしい。
果実酒の一種だ。
「和尚さん、あの大男は、あれですかい。天竺から来たってことは、仏さんの仲間みたいなモノですかい」
鴨吉が舟を漕ぎながら訊く。
和尚様はそれを聞くと、からからと笑った。
「ちと違うがな。ふむ、天狗くらいなら分かるか?」
「ああ、赤ら顔で鼻の長い。そういえばあの男も鼻が長かった」
「ま、それに似たようなモノじゃ。神通力とかは持っとらんだろうがな。ま、神でも鬼でも天狗でも、良いモノは良いし悪いモノは悪だでな」
しかし得難い経験だ、と和尚様は一層楽しそうに笑った。
二人は、村へ戻った。
村長に挨拶をした和尚様は、村を後にし修行の旅に戻った。
大男の造った酒は村では大人気になり、毎月のように物々交換の船を出すことになる。
そして、それは長い間続くことになったのである。