二話
舞踏会の3日後。
「え?」
カロリーナはぽかんと口を開けた。
せっかく、妹の願いを叶えたのに、あまりに反応が薄いため、不満に思ったセオドリクは眉をしかめたが、
「聞こえなかったようだな。無事、ウォルターとの婚約は解消された。と、言ったんだよ。侯爵は賢明な男だな。私が一度口に出したことを翻意にすることは絶対にないと分かっているのだろう。あっさりとしたものだったよ」
「そ、そうですか」
「それから、ウォルターは今回の件でお前と会う必要はないと言っていたそうだ」
「えっ」
「金の無駄遣いでしかない国王の誕生式典の準備のせいで忙しいらしい。まあ、単なる友人同士に戻るだけなのだから、改まった挨拶など必要ないだろう」
「そうですか・・・そうですよね」
カロリーナは拍子抜けしながらも、「お兄様。この度はお手数を掛けることになってしまい、申し訳ございませんでした」
「なあに。元々、この婚約は気に入らなかったんだ。私にとっても願ったり叶ったりだよ」
セオドリクは声高らかに笑ったのだった。
書斎を出たカロリーナは凄い足音を立てながら、自分の部屋へ向かっていた。
「何よ!ウォルターったら!いくら忙しいからって、会ってもくれないだなんて!会う必要がないですって!あんまりだわ!私が兵舎まで行けば、いくらなんでも5分くらいなら話せるでしょうに!なのに、必要がないですって!」
婚約解消は自分から言い出したことなのに、カロリーナは腹を立てていた。
そして、今ほど、ウォルターには恋愛感情が全くなかったことを思い知らされたことはなかった。
「そうよね!ウォルターは清々してるんだわ!お兄様には及ばないけれど、ウォルターもまあまあハンサムだもの!いくらだって、次の相手がいるものね!私だって、私だって・・・」
カロリーナは足を止めて、「私は、一生、独身のまま・・・」
そう呟くと、自分の姿を見下ろした。やっぱり爪先は見えない。それでも、痩せるつもりはない。大女に見られても、ぺたんこの靴は履きたくないし、汗疹になるのが嫌だから、これからも髪を高く結い上げてもらうだろう。みっともない肥満体でも自分のことを嫌いだと思ったことは一度もない。友達だって多い方だと思う。どれだけ食べても文句は言われないし、それで傾くような家でもない。両親は早くに亡くなってしまったが、両方の祖父母にも、兄にも姉にも愛されて育った。
「私、幸せじゃないの。一生独身だからって、何だって言うのよ。もし、ウォルターに新しい婚約者が出来て、結婚しちゃっても、ちゃーんと祝福するわ」
そうよ!後悔なんて、絶対しないわ!
その日、カロリーナはやけ食いをした。こんなに食べたことはないと言うくらい食べた。
セオドリクはにこにこしながら、口と手をクリームやソースでべたべたにしながら食べ続けるカロリーナを見ていた。
彼女はそんな兄の笑顔に無性に腹が立った。
しかし、次の日からカロリーナは何も食べなくなった。屋敷中が大騒ぎになったが、彼女は耳を塞いだ。
動ける肥満体の彼女は毎朝庭を散歩するのが日課だった。基本、食べ物にしか興味はないが、足を止めて、庭に咲く花たちを眺めるくらいのことはしていた。
『この花は食べられるかしら?』
『死にます』
『そう。残念』
こんなやり取りも毎度のことだったが、カロリーナは庭にすら出なくなった。一日の殆どをベッドの中で過ごすようになった。
肥満体は何をしなくても汗をかく。痒くなるし、臭くなる。痒いのはともかく、臭いのは貴族令嬢としてのプライドが許さない。だから、お風呂は毎日入った。入浴後にグラス一杯の水を飲むのが、唯一の楽しみになっていた。どういうわけか、ただの水がとっても美味しいのだ。
寝間着を着る時に、ふと、鏡に映る自分の姿を見て、『あれ?』と、思ったが、次の瞬間には興味を失くした。
そんな日が一週間続き・・・。
カロリーナの部屋の扉が勢い良く開いて、
「キャリー!開けるわよ!」
セレスティアだった。走ったせいか、息を乱し、青いんだか赤いんだか良く分からない顔色をしている。
カロリーナはベッドから顔だけ出して、
「開けてから、開けるわよ!と、言われましても・・・」
「大変なことが起こったのよ!」
「もしかして、四人目ですか?」
『か弱い私には一回の出産が限界だわ』なんて言っていたセレスティアは既に三回の出産を経験している。
しかし、今の酷く慌てているセレスティアには四人目が何の事やら理解できないようで、
「早くも混乱しているのね!」
「え?あ、いえ、」
『混乱しているのはお姉様だけですよ?』と、カロリーナは言おうとしたのだが・・・。
「訓練中にウォルターのライフル銃が暴発したのよ!」
「!」
その次の瞬間、素早く動ける肥満体が飛び上がった。そして、絨毯の上にどすんと着地すると、「それで、ウォルターは!?」
我が目を疑いたくなるような妹の行動でさえ、突然の悲劇に激しく動揺しているセレスティアには気にならないらしく、うっと片手で口を覆った。
彼女からはもう何の言葉も出て来ず、代わりに涙が次々とこぼれていく。
「そんな・・・」
カロリーナの目の前が真っ暗になった。「そんなことって・・・」
そんなの嘘よ!ウォルターが死んでしまったなんて!私の前からだけでなく、この世から居なくなってしまっただなんて!
軽い眩暈が起こり、カロリーナはふらついたが、『いけない!倒れている場合ではないわ!』と、足をぐっと踏ん張ると、
「ふんっ!この軟弱者めが!」
自分の頬をべちーんと叩いた。
これには悲嘆に暮れていたセレスティアも目をまん丸にさせて、
「キャリー!あなた、せっかくの可愛い顔に何をしているのよ!」
・・・セレスティアも双子の弟に負けないくらい妹を溺愛しているのである。
「お姉様!私は信じませんから!」
この目で見るまでは絶対に信じない!「ウォルターに会いに行きます!」
部屋を飛び出したカロリーナはこちらに向かって歩いて来ていたメイドの足をすぱーんと払って、ころーんと転ばせると、ぺたんこの靴を奪い取った。
そして、自分の身に何が起こったか分からないまま、転がっているメイドをよいしょと片腕で軽々と引っ張り起こすと、
「お兄様に新しいのを買ってもらってね!」
・・・そうして、彼女は嫌っていたはずのぺたんこの靴を履き、玄関先に停まっているセレスティアの婚家の馬車を素通りし、ウォルターの元へと、『走って』向かったのである。
頭の中がウォルターでいっぱいになっていたカロリーナでも、自分の体がとても軽くなったと気付かないわけにはいかなかった。
一週間、水しか口にしていなかったカロリーナはいくらか痩せていた。
元々あった体重を考えると、大した違いではないかもしれないが、本人からすれば背に羽が生えたのではないかと思うくらい身軽になっていたのである。
兵舎に辿り着いた頃には日も暮れていた。はっきり言って、セレスティアの婚家の馬車を使えば、もっと早くに到着していたのだが、カロリーナの頭にその考えは全くなかった。
髪も服もぼっさぼさ、全身汗だく、爪先には血が滲み、息も絶え絶えだったが、最後の一頑張りとばかりに居眠りしていた兵舎の門番の頬をぱーんと張ると、
「今すぐにウォルターに会わせなさい!」
と、怒鳴った。
気絶されたら困るので、カロリーナなりに手加減した為、門番は酷く痛がることもなく、ただただ突然叩かれた驚きにぽかんとしていたが、
「ウォルターとは、どのウォルター・・・」
ウォルターはどこにでもある名前なのである。
しかし、一分一秒も無駄にしてはならないと思っているカロリーナは走って行って、鉄の扉にどーんと体当たりすると、
「話にならないわ!さっさとこの扉を開けなさい!」
と、命令した。
「お、お嬢さん!いくらなんでも体当たりすることはないだろう!」
「だったら、今すぐに開けなさいよ!」
また、どーん!
「夕刻からは部外者を入れてはいけないとの規則があるんですよ!」
「夕刻からなら、あなたの考え一つでどうとでもなるわ!大丈夫よ!」
またまた、どーん!
「大丈夫じゃありませんよ!いい加減にしてください!」
門番が止めようと、カロリーナの肩を掴んだのたが、カロリーナは腕を振り回して逃れると、
「どうして、ウォルターに会いたいのを邪魔するのよ!」
またまたまた、どーん!
「邪魔するに決まっているでしょう!(どう見ても、気が狂った女にしか見えないから)」
カロリーナはハッとすると、
「分かったわ!私がウォルターの婚約者じゃなくなったから、邪魔をするのね!そうなのね!そう言うことなのね!」
「は?」
「いいわ!もうこうなったら、扉を壊してやるんだから!」
と、カロリーナがまた扉に体当たりしようとした時・・・。
「カロリーナ?」
「えっ!」
カロリーナが振り返ると、ウォルターが立っていた。右手首に包帯を巻いている以外はどこをどう見ても、いつものウォルターと変わりなかった。「うぉ、うぉ、うぉ、うぉ、ウォルター!?あなた、大丈夫なの!?」
「え?あ、ああ。そうか。ライフル銃の暴発のこと聞いたんだね。訓練後に銃を立て掛けたら、どういうわけか暴発しちゃったんだよ。それで、びっくりして、尻餅をついた時に手首を捻っちゃって・・・って、カロリーナの方が酷い有り様じゃないか!どうして、そんなにぐっちゃぐっちゃなの!?」
「うぉ、ウォルター・・・」
カロリーナはぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。そして、「うおおおおぉんっ!」
ライオンの雄叫びのような声を上げながら、ウォルターに向かって走って行くと、ぴょんと彼に飛び付いた。
「えっ、嘘っ、む、無理っ」
ウォルターはカロリーナのあまりの勢いとあまりの重さに為す術なく、彼女と共にひっくり返ってしまう。「ぐえっ」
ウォルターは潰れたカエルのような声を上げたのだった。
カロリーナはウォルターの上に重なるように倒れたまま、うぉんうぉんと大声で泣いていた。
「か、カロリーナ?た、多分、俺の為に泣いてくれているんだよね?それは、嬉しいんだけど、ちょ、ちょっと重いんだよね。思っていたより、軽いような気もしなくはないんだけど、やっぱり、重いかと聞かれれば、重いんだよね。それで、出来たら、退いてくれたら有難いんだけどなあ・・・」
『女性に抱き付かれて、その重さで絶命するなんて間抜けなことになる前に退いてくれー!』と、ウォルターは叫びたいのを何とか堪えて、カロリーナを傷付けないように言葉を選びながら、退いてくれるように頼んだが、カロリーナはいやいやと首を振ると、
「わ、私、食べ物の話ばっかりするのは止めるから」
「え?どうして?楽しかったのに」
「これからは、ぺたんこの靴を履くようにするから」
「ぺたんこの靴はスリッパみたいで嫌なんじゃないの?」
「髪を結い上げるのも止めるから。汗疹にならないようにトンスラにするから、大丈夫だから」
「!?だ、大丈夫じゃないだろう!トンスラって、頭頂部を剃るんだよ!?側頭部も後頭部もだよ!?」
「スリーサイズのどれか一つくらいは小さくするから」
「す、スリーサイズ!?」
「ウォルターが選んでいいから」
「じゃあ、ウエ・・・じゃなくてっ!今日のカロリーナ、変だよ!?」
「わ、私、ウォルターの好みの女性になれるように頑張るからっ、だからっ、婚約の解消はなかったことにして下さいぃぃーっ!」
「婚約の解消?え?何のこと?」
カロリーナはようやく顔を上げて、
「何のことって、私たち、婚約の解消をしたじゃないの!」
「・・・」
「・・・ウォルター?あら?顔色が変よ?」
ウォルターの顔色は紫色になっており、
「・・・き、みを受け止め切れない、な、軟弱な男で、す、すまな・・・い・・・」
・・・遂にはカロリーナの重さに耐え切れず、気絶したのだった。
「ウォルター!いやああああーっ!!」