一話
「あんな肥満体なんか好きになるわけないだろう!」
その声にカロリーナは足を止めた。
舞踏会に参加していた彼女は友人たちに挨拶して来ると言って、カードルームに行ってしまった婚約者を捜していた。
「俺より体重があるんだぞ!みっともないったらないよ!」
カロリーナは自分の姿を見下ろした。
残念なことに、せり出したおなかのせいで爪先が見えない。
残念なことに、婚約者をわざわざ捜しに行ったのは食べ過ぎでウエストがきつくなったので、家に帰りたくなっただけのこと。
残念なことに、友人たちに自分が今夜エスコートしている女性がいかに酷いかを説明している若い男性の肥満体でみっともない婚約者はカロリーナなのである。
いつもであれば、帰りの馬車で『あのサンドイッチはパンがパサパサで不味かったわ』、『あのケーキはクリームを塗りたくっているだけで、まるで品がないわ』、『びっくりすることに全然焼けていないお肉がそのまま出されてたの!(ローストビーフだから)お肉は中までしっかり火を通して欲しい私としては、食べるのにちょっと勇気がいったけれど、味はどういうわけか凄く美味しかったのよ』・・・等々と自分が食べた物やそれに対する感想(と言うより文句)を婚約者にいちいち報告していたカロリーナだったが、今日は黙っていた。
お目付け役の姉、セレスティアが首を傾げて、
「キャリー?どうしたの?元気がないわね。おなかがすいてるの?プチケーキとかチョコレートとか持って帰って来なかったの?今、食べてもいいのよ?」
「・・・私、そこまで意地汚くありません」
この姉は私を何だと思っているのだろう?
食いしん坊のカロリーナでもさすがにそこまで意地汚いことはしない。
しかし、持って帰る気にもならないくらい、お腹いっぱい食べることも意地汚いのではないかと思うのだが、本人は全く気付いていない。
「ちょっと疲れただけですわ」
と、カロリーナは素っ気なく聞こえないように気を付けながら言うと、欠伸なんかして見せて、寝た振りをすることにしようとしたのだが、
「確かに顔色が良くないよね」
と、件の婚約者であるウォルターが覗き込むようにして言った。
まあ。みっともない肥満体のことを気に掛けて下さるだなんて、何てお優しい方なんでしょう。って、言ったら、ウォルターはどうするかしら?と、カロリーナは思いつつ、
「ウォルターったら。暗いのに顔色なんて分かるわけないじゃないの」
「あ、いや、馬車に乗る前にそう思ったんだよ。その時に言おうとしたんだけど、いつも以上に、カロリーナの行動が速いから、タイミングを逃しちゃって」
そう。カロリーナは素早く動ける肥満体なのである。しかし、リズム感が皆無なので、ダンスは滅多にしないし、走る様は兄いわく転がっているようにしか見えないらしく、残念ながら、家族や婚約者、子供の頃に一緒に遊んだことのある人しか彼女の運動能力の高さは知らないのである。
「本当に疲れてるだけ?ならいいんだけど。国王陛下の誕生式典は見に来る?」
ウォルターは陸軍の兵士である。予行練習等があったりで、明日からはまとまった休みが取れないらしく、次に今夜のようにエスコートしてもらえるのはいつになるのか分からない。式典を見に行けば、会えると言うか、元気良く行進する姿を見ることくらいは出来るのだが・・・。
『多分』とだけカロリーナは答えた。
屋敷に引きこもる予定だが、今、わざわざそれを言う必要はないだろう。
その後、既婚者のセレスティアは婚家に、ウォルターは兵舎へと帰って行った。
ウォルターは何だか今日の君はおかしい・・・と、言いたげな顔をしていたが、『おやすみなさい。お仕事頑張ってね』と、カロリーナがにっこり笑うと、自分の思い違いと思ったのか、ホッとしたような表情を浮かべて、『ずいぶんご機嫌だね。今日の食事は文句の一つもないくらい良かったんだね。おやすみ』と、言ったのだった。
美味しい物を食べなくても愛想良くすることくらい出来るのに!
カロリーナはぷりぷりしながら屋敷に入ると、居間の扉をバーンと開けて、
「お兄様!私、ウォルターとの婚約を解消したいんです!」
本当に突然の婚約解消宣言であるし、扉を開けた時の音も地震かと勘違いする程大きかったのだが、新聞を読んでいた兄、セオドリクは全く動じることなく、
「可愛い妹よ。ただいまくらいは言いなさい」
と、穏やかに注意してから、新聞を畳むと、「それで、ウォルターとの婚約を解消したいって?何て素晴らしい決断だ。ウォルターとの婚約は互いの親族くらいしか知らないから、全く問題はないよ」
「良かった!お兄様ならそう言ってくださると思ってたの!」
「そうだろう。そうだろう。キャリーの一番の理解者であり最大かつ最高の味方であるのはこの私なのだから。しかし、何故、突然、婚約を解消したいと思ったんだ?ウォルターが不届きな真似でもしたのか?」
「まさか!私たち、頬にキスすらしたことないのよ!もちろん、私とウォルターの間には全く恋愛感情がないし、みっともない肥満体の私に触れる気すら起こらないのは仕方ないけれど」
カロリーナとウォルターの婚約は仲の良かった父親同士で決めたことだった。一応、意思確認もあったのだが、父親が決めたことに逆らえるわけもなく、ウォルターのことは友達として好きだったので、『嫌ではありません』とだけカロリーナは答えたのだった。
それがカロリーナとウォルターの婚約関係の始まりだったのだが、今は亡き母が次女の婚約者への『婚約の正式発表は社交界デビューの翌年、結婚式は更にその翌年まで待って欲しい』との遺言があり、二人の婚約はセオドリクが言ったように互いの親族しか知らないのである。
何故、そんな遺言をわざわざ娘の婚約者に遺したかと言うと、母が結婚初夜よりずっと前に双子を妊娠してしまったからである。その当時、母はまだ17歳だった。酷い悪阻のせいで社交シーズンどころではなくなり、出産後も体調が優れない日々が続き、父の目論みよりもずっと長く母は屋敷に引きこもらざるを得なくなってしまった。様々な人に出会う機会も様々な娯楽を知る機会もまだまだたくさんあっただろうに、何もかも諦めなければならなくなったのだ。だから、せめて、娘にはそんな思いをさせたくなかったのだろう。・・・無駄に長い婚約期間を設けた方が母親と同じ道を辿る可能性が高いような気がするのだが、そんなことにも気付かない程、母はどこまでも世間知らずだったのだ。
夫に縛られ続け、ほんの束の間の自由も得られることなく、若くして亡くなった母。
妻だけが生き甲斐でその死を受け入れられないまま、亡くなってしまった父。
カロリーナは亡き母が溜め息をつきながら、『お父様の束縛が酷くて・・・』と、言っていた姿が忘れられない。
そして、先に愛する妻を失くしてしまった父の日に日に弱って行く姿も。
あれほど、父が母を愛していなければ、両親はもっと幸せなれたのではないだろうか。と、カロリーナは思うようになった。
だから、愛情よりも友情。愛する人と結婚したら、父のように束縛してしまうかもしれない自分にとって、友達のウォルターとの結婚が一番正しい道なのだ。と、思うようになっていたのだが・・・。
「ですが!それではウォルターの幸せはどうでもいいと言っているのと同じことです!だから、私は婚約の解消をしなくてはならないと思うようになったのです!」
「うーん?」
セオドリクは首を傾げて、「キャリー?多分だけど、色んなことをまるっと省いているよね?さすがの私でも、いまいち、婚約解消を決めた理由が分からないんだけど?何が『ですが!』なの?」
「それは・・・」
両親の結婚生活は兄にとっても心の傷になっているはずだ。だから、伯爵家の当主であるにもかかわらず、自分は結婚は絶対にしないと宣言しているのだろう(多産な家系なので跡取りはいくらでもいる)。なのに、今更、両親のことを持ち出して、その傷口を抉るようなことはカロリーナには出来なかった。
「実は、今日の舞踏会で・・・」
と、言う訳でカロリーナは今夜ウォルターが友人たちを相手に嫌々エスコートしている女性について話していた内容をセオドリクに全て話してしまった。
話し終えたところで、突然、セオドリクがバターンと勢い良く立ち上がると、
「肥満体!みっともない!大女!食べ物のことしか頭にない!スリーサイズが全部一緒!酒樽に足と手が伸びているかのような体型!あいつは何てことを言うんだ!」
カロリーナは『きゃあっ』と、悲鳴を上げると、
「酒樽もそうですけど、スリーサイズが全部一緒だなんて、ウォルターは言ってません!お兄様のことだから、メイドから聞き出したんでしょう!」
「何を言う。聞かずとも、私にカロリーナのことで知らないことはない」
カロリーナは今度は『キーッ』とつんざくような悲鳴を上げると、
「お兄様ったら!だから、お兄様の容姿に群がったご令嬢たちがあっという間にいなくなってしまうんですよ!」
さすが束縛の激しい男の息子なだけあって、セオドリクのカロリーナに対する溺愛振りは洒落にならない、戦慄が走る程のレベルなのである。
「まったく。しょうもない馬鹿共に自分の婚約者のスリーサイズを言い触らすような男はもっとしょうもない大馬鹿だな」
「ですから、ウォルターは私のスリーサイズは知りませんってば。もしかしたら、全部同じかもしれないと思っているかもしれませんけれど。それより、ウォルターのお友達のだいたいはお兄様のお友達でもありますよね?しょうもない馬鹿共は失礼ではないかしら?」
しかし、セオドリクはまるっと無視して、
「ウォルターに腹を立てたから、婚約解消を決めたのか?」
「まさか!肥満体であることも、大女であることも事実ですもの。事実を言われて、腹を立てるのはおかしいです」
「うむ。それでこそ、私の可愛い妹だ。今時の女共はそのドレスは似合っていない。お前も周りの人間も目と頭がおかしいのではないかと言っただけで怒るからな」
「それは誰でも怒りますよ!ほんっとうに今まで良く生きて来られましたね!」
自分より目上の人間が相手だろうとセオドリクの辛辣な物言いが変わることはなく、何となく入学してみた大学の教授たちから、私たちが君に教えることはもう何もないから、もう二度とこの大学の門をくぐらないでくれと涙ながらに懇願され、たった3ヶ月で卒業証書を手に我が家に帰って来たと言う逸話の持ち主である。
その傍若無人っぷりを自分と似ていると勘違いした皇太子から自分の側近にならないかとの誘いがあったが、『国政には興味がない。加えて言うが、私は殿下のような好色でも、浪費家でも、愚か者でもない。一緒にしないでもらいたい』と一蹴。お兄様が処刑されてしまうとカロリーナは一人慌てていたが、どういうわけか忌憚なく話せる間柄になり、皇太子があの女は体が臭いだの自分には愛する人がいるだのと言って、他国の王女を娶ることを拒否した際も『体が臭い?ちょっと歩いただけで汗をかく殿下の方がよっぽど臭いだろうが!身の程を知れ!その突き出た腹を私に斬らせるか王女を娶るかどちらかにしろ!』と、脅し、更に皇太子の態度に腹を立て、国に帰ると言い張っていた他国の王女を『あの皇太子は何でも考えなしに口に出すただの馬鹿だ。言い換えれば、簡単に操れる男とも言える。将来、馬鹿に代わって、この国の舵を取り、あなたを下に見ている王妃と厚塗り年増女(皇太子の愛人)に格の違いを見せつけることも可能となるだろう。そう考えると馬鹿との結婚も魅力的な話ではないか』と説得し、婚姻を成立させてしまったのである。
それを喜んだ国王から『褒美として、私の娘を娶る気はないか』との打診があったのだが、『本来、私の労力は可愛い妹の為だけに使われる。なのに、今回の一件でその貴重な労力が使われてしまった。そして、その全ての元凶は、殿下の父親にある。そんな父親の娘などお断りだ』と、やっぱり一蹴。そして、やっぱりその遠慮のない物言いを国王は気に入ってしまったのである。
こうして、現国王と、次期国王夫妻から絶大な信頼を寄せられることになったセオドリクに逆らえる人間はこの国では皆無となり・・・。
「侯爵(ウォルターの父親)が文句を言おうが無視すればいいだけだから、婚約の解消なんて、動作ない話だが、ウォルターの言い方だとお前が痩せればいいだけの話ではあるよな?」
カロリーナは脂肪で埋もれた首を僅かに傾げて、
「ヤセル?」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「悪かった。キャリーの辞書に痩せるの文字はなかったな」
カロリーナはにっこり笑ったものの、すぐに真顔になり、
「痩せる気は毛頭ございませんが、ウォルターにとっては迷惑この上ない話でございましょう!私、ウォルターよりも重いだけでなく、身長も時と場合によっては変わらないくらい、いいえ!高くなってしまうのです!」
カロリーナの身長は172cm。ウォルターは176cm。貴族令嬢としてのプライドとして、ぺたんこの靴を履くつもりもなく(もっと別のところでプライドを持てばいいのだが)、
「それに結い上げないと首の後ろが汗だらけになるんです!汗疹になるんです!」
と、そんな切実な理由で髪を結い上げてしまうと、ウォルターの身長を軽ーく超えてしまうのである。
「身長なんて、気にすることはない。キャリーは小さくて可愛いらしいよ。名前の通りだ」
「お兄様は190近くあるから、私が小さく見えるだけですわ!」
ちなみに姉のセレスティアはカロリーナよりも身長が高く、三人は高身長きょうだいなのである。
「ウォルターは幼い頃から他の子たちより身長が伸びないことをすごーく気にしていました。大人になって、そこそこ大きくなったのに、その婚約者が縦にも横にも大きいだなんて!可哀想過ぎます!」
それから、カロリーナは自分の婚約者がどれだけ不憫なのかを兄に長々と訴えていたが、ハッとして、
「そうですわ!ウォルターもうんざりしていたに違いないんです!だって、最近、顔を合わせる度に『痩せた方がいい』とか、『その体型でどうして痩せたいと思わないの?』とかって、言われていたんです!」
セオドリクは舌打ちをすると、
「婚約者でしかない男が生意気な口を・・・よし。分かった。後は私に任せてくれればいい。さあ、もう夜も遅いし、休みなさい」
「え、でも、お兄様。侯爵様にもウォルターにもちゃんと自分の口から・・・」
「いや。元々は父親同士が決めた婚約だ。今はお前の後見人である私とウォルターの父親である侯爵がまず先に話をするべきだろう。その後で、ウォルターと話をする機会を持つようにするから」
「お兄様がそうおっしゃるのでしたら・・・お願いします」
カロリーナは感謝の気持ちを表す為に丁寧にお辞儀をすると、居間から出て行った。
セオドリクは一人掛けのソファーにどさりと座ると、何が楽しいのか、口笛を吹いたのだった。