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ほとんど騙し討ちのようにした結婚は彼女が何も言ってこないのをいいことに三週間ほど生活が続いて、その三週間の間に彼女の体温が傍らにあることが当たり前になってしまっていた。
帰ると彼女の姿があって、夜は故郷でやっていたように抱きしめて眠る。朝はいつの間にか腕から抜け出していた彼女に揺さぶられて起きて、まだまったく覚めていない頭でどうにかこうにか支度をしていた。
部屋を出るタイミングは一緒だからお互いに「いってきます」と「いってらっしゃい」を交わして。
──その当たり前が終わると、何故だか目が早くに覚めるようになった。
彼女の顔を見てから出勤するのが当たり前だったからか、早くに支度を終えた体が無意識に彼女の部屋に向かっていて、けれど特に用事もないのに朝訪ねるのはさすがに憚られる。だから結んでいたクラバットを外してシャツのボタンをふたつほど開けた。団服のコートは腕を通さず羽織ったまま、呼び鈴を鳴らしてみる。
出てきた彼女は何度か瞬いただけで表情はあまり動かさない。しかし琥珀の眸には怪訝そうな色が浮かんでいて、柳眉が僅かに寄せられていた。心底不思議そうな顔をするくせに頼めば残りの身支度を手伝ってくれる。彼が故意に開けたボタンを留めてくれて、これまた故意に外したクラバットを結んでくれた後に一度ぽんっとクラバットを叩いて「いってらっしゃい」と少しだけ目元を和ませる。
きっと彼女からしてみればなんてことない無意識の内の言動で。
でもそれが、彼にとっては何よりも安らぎだった。
***
午後からの仕事は散々だった。
書架から取った本は足に落とし、広げていた書類は窓を開けたせいで盛大に床に散らばった。落ちて転がった万年筆を取ろうとして机に頭をぶつけるし、書き上げた資料はインクをぶちまけて台無しになった。仕事に倍以上の時間がかかったのは言うまでもない。
心ここに在らずなせいで、ファイやナーシェどころか他の薬剤師にも心配される始末。さすがに見かねたのか、終業間際にファイに声をかけられた。
今朝ウォズリトと小さな舌戦を繰り広げていた彼女は負い目を感じているらしい。普段は凛としている薬室長に申し訳なさそうに眉を下げられてしまえば、ルレインの中で話さないという選択肢はなくなってしまう。
情けなくも膝を抱えながらぽつぽつと独り言のように零し、彼女は顔を伏せた。
──〝君が、君のいなくなった俺の世界に妬いてくれたように〟
確かにルレインは、自分が死んでからも続いていくヴィスタの世界に嫉妬した。いつか忘れられると思うと悲しくて哀しくて苦しい。
それは、昔からずっと一緒にいた幼馴染だからという理由だけではない。過去を表す幼馴染という関係性でありながら、未来を望んでしまったのは──ヴィスタのことが好きだから。
(わかってる。……もうとっくに気づいてた)
ルレインは幼い時から、自分の寿命が他人のものより短いことを知っていた。けれど気にしていなかった。気にしないようにしていた。それを今更気に病んでしまうのは、彼との未来を渇望してしまったからだ。
それでも、そのためにヴィスタが自らの命を削ることには耐えられない。
彼の犠牲なんて望んでいない。
「…けっきょく、ヴィスタはあの後訓練に戻っていっちゃって」
涙で言葉が喉奥につっかえて出ないルレインに困ったように笑って、「落ち着いたらまた、ね」と言いながらルレインの頭を二、三度叩いて出て行った。
だけどルレインは、向き合うのが怖くて堪らない。
ヴィスタと一緒にいたい。この感情は本当で間違いなんて疑う余地もなくて。
でもそのためにはヴィスタの犠牲が必要で。
(…情けない。でも怖い。ちょっとしたことでも、些細なものでもヴィスタが犠牲を払う。ヴィスタが傷つく。私が、あのひとの負担になる)
「それは本当に、ノスコルグ師団長の自己犠牲なのかしら」
膝頭に顔を埋めて呼吸を押し殺していたルレインの臆病な思考を打ち切ったのは、まるで幼子にでも言い聞かせるかのような柔らかい声だった。
「確かに魔力のないあなたに魔力を持たせるということは、ノスコルグ師団長の魔力を分け与えるという意味だから多少なりとも命を削ることになるわ。犠牲を払うという考え方で間違ってない。…でも、でもねルレイン」
呼びかけられて顔を上げたルレインの目の際に光るものを見つけて、ファイはそっと目を細める。
「でも、ノスコルグ師団長はあなたを生かしたいからそんなことするわけじゃないと思うの。あなたと一緒に生きたいから、あなたが傍にいる未来を望んだから、こんな他のひとには出来ない無謀とも思えるようなことをしたんじゃないの?」
琥珀の眸を大きく瞠る。視界がぼんやりと滲んだ。
(一緒に、生きたい…? 未来を望んだ…?)
それはルレインの望みと寸分違わぬもので。
「ねえ、あなたはもう少し望んでもいいのよ。魔力を持っていないというだけで諦めてきたものも多いでしょう。でもその今まで諦めてきたぶん、望んでこなかったぶん、あなたは望んでもいいの」
「っ」
「──一番大事なものを抱えるだけの隙間は、まだその腕にあるでしょう?」
***
普段はコツコツと静かな音を響かせる編み上げのブーツの踵が、今はお世辞にも静かとは言い難い音を奏でている。白衣を脱いで、首から下げていた身分証を外した。時折すれ違うひとたちがどこか焦燥に駆られたように走るルレインに目を瞬かせるが、彼女の琥珀の眸がそれを気にする素振りはない。彼女の思考を今現在染め上げているのはたったひとつのことだ。
向かう先は、自分の部屋がある寮とは真逆の位置にあるもうひとつの寮。薬室を飛び出して広間を抜け、温室も通り過ぎて寮の階段を上がる。ここまでずっと走り続けていたせいで息は上がっているし、肌が僅かに汗ばんでいる。それでも心も体も逸りっぱなしで休んでなんていられない。
(い、た──)
視線のその先。ちょうど仕事から戻ったのか、鍵を開けて部屋に入ろうとする姿がある。
柔らかい銀雪のような銀髪。細身に見える、平均より高い背丈。薬室を出てからずっと探していた、求めてたその姿に、ルレインは駆ける速度上げて勢いを殺さぬままに──彼に突っ込んだ。
「がっ…!」
急襲に耐えられなかった体が傾く。そのまま部屋の中に転がって、背後でぱたんと扉の閉まる音がした。
下敷きにした体温と背中に回った腕に、ヴィスタが衝撃から庇ってくれたことを知る。
「ル」
「考えてみたんだ」
ヴィスタの言葉を遮ってルレインは口を開く。顔は上げずに彼の纏う魔導士師団の団服に埋めたまま、縋るようにしてクラバット掴んだ。
「私とヴィスタの立場がまったく逆で、魔力のないあなたが四十年も生きられないとして…私はきっとヴィスタと同じ選択をする。魔力を分け与える。大事なひとを失いたくないから、力があるなら絶対にそうする。……だから私にはヴィスタの選択を責める権利がない」
だって大事なのだ。自らの命を削ったとしても一緒にいてもらいたい。…反対に、相手がいないのならどんなに力があっても意味がない。
ゆっくりと、ヴィスタが上体を起こした。それに伴って、ルレインの体勢も変わる。ヴィスタに抱えられたまま床にペタンの膝をついて、それでも顔を上げようとしない。
(…一緒だ。私の思ってることと、ヴィスタの行動の根本にあるものはまったく一緒。私はヴィスタと一緒にいたい。昔も、今も、これから先もきっと)
責められない。ヴィスタが自分に魔力を与えるという選択をした。それは、自らを犠牲にすることと同義で、とめどない愛情を注いでくれるのと同義で。
──〝俺は、この先の未来を君と一緒に生きる権利が欲しい〟
その懇願にも似たものが、愛おしくて。
だからルレインは、覚悟を決めた。
「……だから、明日からあの部屋に来るの禁止」
「えっ」
「朝昼晩関係なしにあの部屋に行くのは禁止。支度もちゃんと自分でやるの。わざとボタンとかクラバット外すのもだめ。──歪んでるクラバット直すくらいならやってあげるから」
だって意味がない。明日からあの部屋は無人になるのだから。
「訪ねたって誰もいないよ」
顔を上げてそう言えば、目の前の綺麗な顔がポカンと間の抜けたものになった。紫苑の目を丸くして唖然とルレインを見下ろしてくる。
「…貰っていいよ、ヴィスタ。あげる。一緒に生きる権利も、理由がなくても私に触ることができるそんな立場も。全部あげる」
反応を示さない頬を両手で包んで贈るのは、軽く触れるだけの口づけ。自分の唇をヴィスタのそれにふにっと押し付け離れれば、まるで夢でも見たかのように何度か瞬いた眸が一瞬遅れて見開かれる。
その紫苑の眸の中で、彼女は花が咲いたように笑った。
「だから、だからね、ヴィスタ。あなたの傍にいて、特別な理由がなくてもあなたに触れられる──そんな立場を、私にもちょうだい?」
本編完結です。