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ヴィスタ=ノスコルグは、歴代最強を謳われる魔導士だ。生まれ持った甚大な魔力もさることながら、体術、剣術に至るまで彼の右に出る者はいない。彼は、見て学び、盗んで自らのものとすることに長けていた。──さながら、空の月を鮮明に映し出して見せる凪いだ水面のように。
突き出される切っ先を紙一重で躱しながら反撃の機会を窺っていたのだが、どうやら相手にはそれが飄々としているように映ったらしい。防戦一方のヴィスタに、騎士団の団長が噛みついてくる。
「手加減でもしてるつもりか! お前のそういうところが気に喰わないんだよ…!」
「そう。俺もコア=ミグリオンのそうやって決めつけて話すところ好きじゃないなぁ」
「涼しい顔しやがってっ」
振り下ろされる剣を受け止めて弾き返す。そのまま呼吸を置くこともなく踏み込んで、ヴィスタはコアの剣を弾き飛ばした。「ちっ」と舌打ちを零して身を後ろに引くコアを、ヴィスタは逃がすつもりはない。
重心が後ろに逃げたのを見計らって足払いをかければ、鍛えられた体躯が呆気なく地に転がった。
「動きが大ぶり過ぎるよ、コア=ミグリオン。そう簡単に剣を手放しちゃダメじゃないか」
突き付けた剣の側面で悔しそうに歪む頬をぺちぺち叩きながら笑って見せると、見学に回っていた師団員から「悪魔だ、悪魔がいる」と僅かに恐怖に染まった声が飛ぶ。
「うるさいよ、怪我させないようにしてるだろ」
「怪我させないように加減したうえでうちを嫌ってる騎士団のそれも団長に助言とかどんだけえげつないんですかアンタ」
「善意だよ」
「なお悪いわ」
手当てを受けている部下が据わった目でぼそりと零す。
つい数分前、薬室から応援が入った。ついでに、怪我をしているのにも関わらず手当てすらしていなかった彼らには盛大な雷が落とされた。新人にも関わらず屈強な男どもを叱り飛ばしていたのはルレインの同期である。
ひとまず怪我人とそうでない人間に仕分けられ、少しのかすり傷でも負っている者は今、半ば強制的に治療されている途中だ。
ヴィスタ自身は、何故かは知らないがやたらと挑戦状を突き付けられるので、それらを片っ端から叩き伏せていた。
そしてついに、騎士団の大将にまでお出まし願ったわけなのだが。
「もう一戦だ」
「しつこい」
この男、やたらと突っかかってくる。
ヴィスタとて、最初はいたって真面目に相手をしていた。繰り出される横薙ぎの斬撃を飛び退いて躱し、袈裟懸けに振り下ろされる剣を受け止め弾き返し、突き出される切っ先を髪一筋で避けた後、自ら斬りかかり。
何度も打ち合い、何度も負かしているのに何度も勝負を挑まれる。白星の数など、片手を越したくらいで数えるのを止めた。
さすがに面倒臭くなって剣を収めれば、問答無用で斬りかかってくる。
段々と扱いが粗雑になるのも致し方ない。
ここまで完膚なきまでに叩きのめしたのだ。もういいだろう、と大きく息を吐き出しながら背を向けた時、背後から心底悔しそうな、恨みがましい声がした。
「のらりくらり躱しやがって。………そんなんだから嫁に捨てられんだよ」
「は?」
自分でも驚くほど冷えた声が出る。地を這うような低い声に、今まで散々響いていた剣戟の音が止んだ。
しんと静寂が落ちた中で肩越しに振り返るヴィスタを、彼の部下は固唾を呑んで見守る。魔導士師団の中では、この年若い団長の幼馴染が彼の精神安定剤であることは暗黙の了解となっている。そしてその唯一の精神安定剤が、ヴィスタの精神を掻き乱す不安材料と成り得ることも重々承知済みである。まさしく薬にも毒にもなるとはこのこと。用法用量は守って正しくお使いください。
嫌な汗が、その場の全員の背を流れる。騎士団団長が放った言葉は毒の部分に触れた。禁句という地雷を踏みぬいたコアを助けることは、騎士団にも魔導士師団にもできない。
極寒の地の吹雪ですら五体投地で降伏しそうな冷気を身に纏うヴィスタに周りが出来ることと言えば、固唾を呑んで見守ることだけだ。
「事実だろ。はっ、ざまぁねぇな。散々来てたお貴族連中との縁談蹴って結んだ婚姻がひと月も続かねーなんざ。あの歴代最強魔導士様が選んだ嫁は一体どれほどの器量があんのかって上の連中は楽しみにしてたみたいだぜ。それが蓋を開ければ顔が綺麗なだけの魔力無し。…とんだ徒花じゃねぇか」
「ちょっと──」
酷い言い草に声を上げたのはルレインの同期、ナーシェだった。出会ってひと月とは言え、同じ職場でともに励んで来た仲間だ。聞くに堪えない罵詈雑言にはさすがにカチンとくる。
だが、ナーシェが腹の中に生じたどす黒いものを吐き出す前に、コアの体躯は地に倒れ伏した。ゲホゲホと背中を丸めて咳き込みながら呻く彼に、場違いなほど朗らかな声がかかる。
「ねえ、コア=ミグリオン。俺は残念でならないよ、今が訓練中だってことがさ。ちゃあんと自分の得物持ってれば、この模造物が折れることもなかったのにね」
やれやれと肩を竦めるヴィスタの手には歪に折れた稽古用の剣が握られている。
「木製だから脆いのかな。まさか本気で一撃入れただけで折れるとは思わなかった」
「て、めっ…」
「魔力を持ってることがそんなに大事? 魔力のない人間なんてこの国を出れば溢れるほどいるよ。そのすべてを徒花だとお前は嘲るの? 異質なのは魔力のない人間じゃない、俺たちのほうだ」
「っ、その異質さに、恐れをなして逃げられたんじゃねぇのか…最強の魔導士さんよぉ。ははっ、ざまぁねぇ。ほんっっとうにざまぁねぇな。どうせお前の元嫁も、お前のそのお綺麗な顔に惹かれたクチだろ」
貴族のお嬢様連中と変わりゃしねぇな、と続いた言葉にヴィスタはきょとんとした。纏っていた怒りの色が、僅かに薄れる。
「何言ってんの。ルレが俺の顔を好きなのは当たり前だろ」
「………………………………………………………………はい?」
何をいまさらと言わんばかりの顔でのたまうヴィスタに、その場の全員がポカンとした。負けず嫌いな根性が働いて今の今までヴィスタを睨み付けていたコアも例に漏れず唖然としている。
「は? ちょっと待ってください。当たり前って…は? それルレインが言ってたんですか?」
周りより早く復活したナーシェが恐々と尋ねる。「うん」と首肯したヴィスタは、少しだけ声に喜色を乗せた。
「俺が師団入りする前の話だけど」
「あのルレインが、ノスコルグ師団長の顔を好きって…?」
まさかの事実に愕然とする。あの表情筋死滅気味のルレインが言ったとは到底思えない。あの同期なら「は? 顔? いや別にどうでもいいかな」とかのたまいそうだと考えて、ナーシェはますます混乱する。
先ほどまで張りつめていた空気はどこへやら、皆が皆揃って間の抜けた顔をしている。それに頭を傾けて、ヴィスタは「ああ」と手を打った。
「勘違いしないでほしいのは、この顔が好きなんじゃなくて俺の顔だから好きだって言ってたってことかな」
「いや意味がわからんです、どんな惚気ですかそれ」
「? つまりこの顔は俺の顔だから好きなんであって、中身がお前だったら好きじゃないっていう」
「そこじゃねーよ! 説明すんな! さっきまでの深刻な空気返せ!」
床をバシバシ叩きつつ叫ぶ部下にヴィスタは眉をひそめる。「まあ、冗談はここまでにして」と呟きながら折れた剣を投げ捨て、未だ床に這いつくばっているコアに視線を向けた。
「ルレのこと引き合いに出してまで煽られるとは思わなかったよ。そんなに俺に勝ちたいなら勝たせてあげようか」
「はっ、何言っ……!?」
あえて傲慢な態度をとったヴィスタに、コアは案の定噛みついてくる。しかしヴィスタにとってはやかましいだけのその声も途中で喉に何かがつっかえたように途切れてしまった。
驚愕に染まった眸がヴィスタを凝視する。喉に当てられた手と何度も開閉される口は、声が出ないことを如実に表していて。
コアの異常に気づいた周りの騎士団団員が、絶句したままヴィスタに視線を向けてくる。それをものともせずに受けと流して、彼は冷笑を送った。
「これで俺はお前の聞くに堪えないうるさい声を聞かずに済むな。…ああ、でも魔力の使用は一切禁止だからこれは俺の反則負けになるのか」
何をされたのかよくわかっていない眸が酷く滑稽だ。何度も咳き込んでは音を捻りだそうとするコアを見おろして、彼は残忍さを滲ませて破顔した。
「知ってる? 喉は体の中でも水を司る場所なんだよ、そこから水分を奪われたらどうなるか。発声器官としての役割を果たせなくなるんだ。勝ちたかったんだろ? お前は俺に勝てたし、俺は耳障りなものを排除できた。まさに一石二鳥だな」
実年齢より僅かに幼く見える端整な顔から表情の一切が抜け落ちる。その瞬間を目の当たりにした全員の背を戦慄が駆け抜ける。ぞわっと、全身が震えた。
「……心配しなくても時間が経てば元に戻るよ、どれくらいかかるかは知らないけど」
ヴィスタの紫苑の眸が、コアを冷ややかに見おろす。
やがて興味を無くしたように踵を返した彼を、ナーシェが呼び止めた。
「あの! ノスコルグ師団長、怪我の手当てを」
「? ああ、折れた木片が刺さったのか。……ルレにやってもらうから必要ないよ」
利き手の掌から滲み出て手首を伝う血をちらりと一瞥して首を振る。そのまま大広間を後にする団服を纏った後ろ姿を、ナーシェは形容し難い顔で見送った。
***
彼が彼女への感情を自覚したのはちょうど一年ほど前のこと。ヴィスタが水鏡を使って幼馴染とやり取りをしていることを当時唯一知っていた魔術師長の「君の幼馴染への執着は恋情より重いな」という一言が発端である。
虚を突かれて絶句した彼に、魔術師長は「自覚なかったのか?」と追い打ちをかけてくる。
「君は女に誘われようが職場の飲み会があろうが、水鏡で幼馴染と対話する約束があればそれらすべてを蹴って幼馴染を優先しているだろう? よほど大事なんだな」
「? …まあ、そりゃ幼馴染だし」
「だが何年も直には会っていないんだろう。何故そこまで優先する必要がある?」
「…」
鈍器か何かで頭を思い切り殴られたような気がした。
水鏡は遠く離れた相手の姿を鮮明に映し、声を届けることのできる便利なものだ。だが、言ってみればそれだけ。水面に姿があろうが、声が聞こえようが、結局はそれだけだ。手を伸ばしても触ることなどできない。触れたいと思ったところで、指先に触れるのは彼女の熱どころか冷たい水だけだ。
自分の背が伸びて声が低くなったように、水鏡に映る彼女だって成長している。僅かに蒼い黒髪は伸ばすことなく肩にかかる程度で切りそろえられているが、顔立ちは可愛らしいものから美しいものへと変化して。体だって線は細いが柔らかい女特有のものへと成長して。
それを水鏡を通して如実に知っているつもりだったけれど、彼は水鏡に映る彼女しか知らなかった。生活の変化も、彼女を取り囲む環境の変化も、彼は何ひとつとして知らない。
何よりも誰よりも優先する理由。そんなものはいたって簡単だ。──彼女が何よりも大切で誰よりも愛おしいから。
きっかけが何だったかなんて覚えていないし、そもそもきっかけがあったのかすらわからない。けれど気づいた時にはいつも一緒にいて、傍にいるのが当たり前で。いつの間にか、自分でも呆れるほどに彼女への愛しさが溢れて。
溺れてしまえばいいのに、とすら思う。隠すことなどとっくに困難になってしまったこの愛しさに彼女が溺れてしまえばいい。そうすればずっと傍にいてもらえる。ずっと、彼女の傍にいられる。
彼女の表情が乏しいのは昔から変わらない。けれどその琥珀の眸は、いつだって素直だ。
嬉しいとき、柔らかい色が滲む。悲しいとき、ふっと琥珀に影が落ちる。怒ったとき、酷く冷たい色が浮かぶ。
ずっと一緒にいたから知っている。
──愛おしくてたまらない。
でもそれを認めてしまえば、触れたいと思う気持ちが強くなる。今ですら無意識に伸ばした手が触れられずに水を掻き、ぽっかりと心に穴が空いたように虚しくなるというのに。
気づかないようにしていた。あの日──魔導士になると決めて故郷と彼女から離れた日からずっと、隠して、押し殺して、蓋をして、鍵をかけて。見ないように、認めないように。
(……逢いたい)
顔を見て、声を聞くだけじゃ全然足りていない。
柔らかい髪に触れて、骨が軋むほどに抱きしめたい。淡く色づく潤った唇を塞いで、言葉も吐息も何もかもを奪って。
彼女に無条件で触れられる、そんな立場が欲しい。
自覚した途端に。認めた瞬間に、恋情なんて生易しいものではなくなった。そんな純粋な、綺麗なものではなくなった。
長年押し込めてきた分だけ、爆発したときの反動は凄まじい。今すぐにでも故郷に帰って、攫ってしまいたい。閉じ込めて気が済むまで独占していたい。
水鏡では彼女に触れられない。触れられないから我慢していた。見て見ぬふりをしていた。
けれどもう、──狂ってしまいそうだ。
自覚して、認めて、そして彼女に触れた。一度狂おしいほどに愛しい熱を知ってしまったから、餓えた心が満たされてしまったから。
もう、手放してやれない。
…たとえ彼女が、泣き叫んだとしても。