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──お客様の中に常識人はいらっしゃいませんか。
背後にでっかい甘えっ子、目の前に息も絶え絶えに体を震わせる残念な美人。間に挟まれ自由を奪われたルレインは、遠い目でグラスを呷る。
そもそもの事の発端は、昼にヴィスタと約束した通り魔道士師団の宴会に顔を出したことにある。
予定通り仕事を終えて疲労必至な宴会が行われる居酒屋についたとき、まだ師団長様の姿はなかった。そこでルレインの脳裏を過ぎったのは「約束通り顔は出したし帰ってもいいのでは?」である。ヴィスタに捕まれば、なんやかんや理由を付けては長居させられる。油断すると合同歓迎会のときのように潰されるかもしれない。それなら約束は果たしたことだし、彼に見つかる前にささっと帰って戸締りをしっかりして早めに寝てしまえば、疲労を負うこともない。万事解決。翌朝身支度をさせるために訪ねてくるであろうヴィスタには「疲れてたしヴィスタもいなかったから」と言えば、多少拗ねるだろうが許してくれるはずである。
思案することたった三秒。よし帰ろうと即断即決即行動で踵を返した彼女は、すぐさま壁にぶつかった。比喩でも何でもなく物理的にである。
強かにぶつけた額を抑えて顔を上げた先にいたのは、天使の笑みを満面に浮かべた中性的美形、ヴィスタ=ノスコルグ。驚いて肩を跳ねあげたルレインに幼なじみは「どこ行くの?」と首を傾げた──背後に凶悪な悪魔が見えた。
素直に帰ろうとしていたとは言えず返答に窮したルレインは問答無用で抱えられて宴会に強制参加、そのまま椅子に座ったヴィスタの膝に乗せられ腹に腕を回され、今現在生温い視線地獄に晒されている。
この強制膝抱っこの原因が何を隠そう自分だということが心底悔やまれてならない。もっと早くに帰っていれば、今までに見たこともないほど身悶えている上司の熱い視線を受け止めずに済んだというのに。
「ルレ…、介抱して」
「少しくらい酔ってから言ってくださいノスコルグ師団長」
「えっ? えっ? 休憩所貸してもらう? 別室に移動する?」
「心配するような聞き方してますけど息荒くなってますよファイ室長」
意図的に作られたであろう熱っぽい声を耳元で囁かれ、ルレインの目から光が消えた。飲んでもいないくせに顔が赤くして興奮する上司に精神を削られていく。
「…ナーシェ助けて」
「ルレイン、慈悲を与える神なんてここにはいないのよ」
同期に求めた助けはすげない返事の元に容赦なく切り捨てられた。
(神は死んだ)
乏しい表情の下で絶望感に打ちひしがれるルレインに救いの手を差し伸べてくれるひとはいない。
さてどうするか、と如何に上手く拘束から抜け出すかを考え始めた時、視界の隅を赤いものが掠めた。
(ん? 火?)
魔道士師団の宴会は、酒が入ると演芸大会が始まる。皆が皆戦闘に用いるほど魔力に余裕がある連中だ。酒が入って気分が高揚すれば魔力を使った隠し芸のようなものを披露する輩が必ず出る。
今回もそんなところだろうと思っていたがどうやら違ったらしい。
──広い宴会会場の、ちょうどルレインたちの席と対角線上の位置で火柱が上がっている。
近くにいる団員はあまりの炎の勢いに咄嗟の反応が出来ていない。
「おい消せ! 早く!」
ゆらゆらと揺れながら勢いを増して広がろうとする炎の手が新人魔道士に伸び「ひっ」と掠れた悲鳴が上がった。
と。
冷やりとした空気がルレインを包む。パキパキと何かが凍りつくような音が聞こえたと思えば、一瞬にして火柱が氷に包まれた。
「──何、してるの」
しんと静寂の満ちた空間に静かな声が落とされる。言葉は柔らかいのに語気は嫌に冷たい。
ぱちぱちと瞬きをして近距離にある顔を見上げ、ぽんぽんと腹に回った腕を叩く。あっさりと緩んだ拘束を抜け出してそのまま隣の席に移動すれば、立ち上がったヴィスタがこちらを一瞥もせずにくしゃりとルレインの髪を撫でた。
(ああ、怒ってるなぁ)
自分に向けられたものでないとわかっていても、騒動が起こった場所に足を向けるヴィスタの横顔は恐ろしく感じる。感情を宿していないからか、視線が刃のように鋭いからか。どちらにせよ、ルレインはこれまで彼にそんな顔を向けられたことがないのでわからないが。
(『氷の魔導士』か。案外ぴったりかも)
傍から見ているルレインですら背筋がぞっとするほどに表情の抜け落ちた横顔。極寒の地の吹雪がひたすらに平伏しそうなほど、彼の纏う空気は恐ろしく冷たい。
「止めなくて良かったの? 凄く怒ってるわよ、ノスコルグ師団長。あれは彼らただじゃ済まないんじゃない?」
「うーん、私が口出したからと言ってどうにかなるものでもないからなぁ。五年も師団長やってるんだからヴィスタにはヴィスタのやり方があるだろうし、私が彼の“仕事”に口出しする必要性はまったく感じない」
新人ふたりを連れて部屋を出ていく背中を見送りながら答えれば、強ばった顔をしていたナーシェが驚いたように目を瞠る。
それを横目で捉えながら、ルレインは完全に凍りついている火柱を見つめた。
(…やっぱり住む世界が違うよね)
近くにいた魔導士の誰もが反応できずにそのまま広がると思われた火の手を、一瞬で、指ひとつ動かさずに止めて見せたヴィスタは、確かに他国に恐れられるほどの実力の持ち主だ。
片や枯渇を知らないと謳われる魔導士、片や魔力なんてからきしの薬剤師。
どこをどうとっても共通点のない自分たちの辿る道が交わっていいはずもなく。
ずきりと僅かに痛みを訴える胸を無視して、ルレインは近くのグラスを呷った。
***
「原因はなんだったんだ、団長?」
会場に戻ったヴィスタを呼び止めた声は、低く落ち着いたものだった。
元妻にして幼馴染の元に戻ろうとしていた彼は、仕方なしに足を止めて振り返る。それなりに背の高い部類に入るヴィスタでさえ見上げなければならない位置にある双眸は、面白そうに半月形に細められていた。
「…いつものお遊びだよ、悪ふざけが過ぎただけだ。今回は特に、火と風っていう相性のいい魔力だったから止められなかっただけ」
「それに加えてあのふたりは魔力の高い方だからな…アンタには遠く及ばないが。それで? オイタした新人くんたちは今どこに?」
「別室で反省させてる途中。正座の上に氷ブロック六つ積んできたから溶け次第戻ってくるよ」
「……飲み会が終わるまでに戻って来られればいいな」
憐れみを含んだ目で別室にいる新人団員に思いを馳せるように遠くを見やった団員に、ヴィスタは特に反応を返さないまま踵を返した。今度こそ、ルレインの元に戻ろうとしたのである。
だがしかし。がしりと肩を掴まれ、足を止めざるを得ない。
「……なに」
「おお、怖いな。歴代師団長の中でも最強と謳われる団長様は不機嫌か? 奥方んとこに早く戻りたいのはわかるが、あの氷角柱どうにかしてくれ。俺たちじゃどうにもならん」
「炎を止めたのにその後始末まで俺にしろと?」
「俺たちだって自力でどうにかなるならしたいさ。だがあれは火の魔力で溶かすことはできんだろう」
「溶けないなら俺と同じ属性の魔導士にでも頼みなよ。俺はルレのところに戻る」
「待て待て待て」
肩を掴む無骨な手を引き剥がして歩き出せば、焦った声とともに巨体が行く手を遮るように回り込んでくる。
「ありゃ炎を凍らしたわけじゃないだろう、中でまだ火は燃えたままだ。つまり氷をどうにかした後に炎をどうにかしなきゃならない」
「氷を融解して水に戻せば炎は消える。その後に気体に気化させればいい」
「馬鹿を言うな、水の変態を操れるのはアンタだけだ。本来なら水の魔導士が操るのは水のみ。アンタみたいに氷も水蒸気もだなんてできるわけがない」
真正面から睨まれ、ヴィスタは「ちっ」と舌打ちを漏らした。溜息をつきつつも巨大な氷角柱に向き直る。
「…俺と同じ属性の魔導士は見ときなよ。お手本見せてやるから」
一歩ずつゆったりとした歩調で進みながら言えば、属性の違う団員からの視線も集中した。団員全員からの視線をものともせず受け止めて、ヴィスタは一度溜息を吐き出す。
「まず融解」
腕を動かすことはしない。指一本動かさずに言葉だけを発すれば、炎を囲んでいた氷がどろりと溶けた。
氷から姿を変えた水は燃え盛る炎の勢いを消し、そのまま炎自体も消してしまう。
「窓開けて換気の準備して」
ぼそりとそう言えば、近くにいた団員が走った。
部屋の窓すべてが開くまでの間、水は床に落ちることなく空中をふよふよと漂っている。
「そして気化」
窓が開いたのを確認するなり、ヴィスタは水をそのまま水蒸気へと変化させた。
部屋の湿度が一気に上がる。じめじめと雨期のように空気が湿っぽい。
「風属性、払って」
ちらと隣にいた風の魔導士に視線をやれば、条件反射のように魔力が発動し、さらりとした風が部屋全体を撫でて湿気すべてを攫う。窓から風が抜ければカビが好みそうな空気が嘘のように掻き消えていた。
「上出来。…焦げた部分は今反省中の新人の給料から差し引いて払うように上に言っておいて、副団長」
「ああ」
「お手本は見せたから次があったらみんなで対処よろしく」
やることはやったと言わんばかりに踵を返したヴィスタに、その場にいた魔導士たち唖然とした。「無茶言うな」と誰かが零した言葉に全員が一斉に頷く。
手本だなんだと言いつつ、ヴィスタは触れもせずに、ただ状態の説明をしただけである。見ていて圧倒されはしたがそれをやれと言われてもできる気がしない。
だがヴィスタはそんな団員の声をあっさりと聞き流し、涼しい顔である。
「ただいま、ルレ………何があったの」
そんな憎らしいほど涼し気な顔をした彼の表情を崩したのは、案の定彼の最愛の幼馴染だ。
椅子の背もたれにぐったり背を預けているルレインの様子に絶句する。
白い頬はほんのり上気し、力なく閉じられていた瞼がヴィスタの声に反応して酷く億劫そうに持ち上げられた。髪と同色の蒼の睫毛は長く、顔に影を落としている。覗いた琥珀の眸は蜂蜜のようにとろんとしていて僅かに熱っぽい。
本当に何があったんだ。
(酒に呑まれた…? でも今日飲んでる量からしてそんなに酔うようなものじゃないか)
ヴィスタほど強くはなくても、ルレインは同世代の女子に比べれば酒には強いほうである。彼女の許容量はヴィスタもしっかり把握済みだ。
二の句が継げない彼に、申し訳なさそうに眉を下げたのは愛らしい小動物のような見た目をしたルレインの同僚である。
「すいません、ちょっと目を離した隙にノスコルグ師団長のグラスに手をつけちゃったみたいで」
「…いや、度数の高いものを頼んでた俺が悪いんだけど」
興味本位に頼んだこの店で一番度数の高い酒をルレインが呷ったのなら、今の状態も頷ける。完全にヴィスタの失態だ。
──そして酔ったルレインはヴィスタにとって大変に厄介なものへと成り果てる。
ゆらゆら頭を揺らしながら床をぼーっと眺めていたルレインがふと顔を上げた。琥珀の双眸にヴィスタを映し、そのまま焦点を結ぶ。
(まずい…!)
「ヴィ」
「総員壁を向け!」
おそらく自分の名を呼ぼうとした彼女の声を遮って鋭く叫ぶ。まるで訓練のときのような声音に、訓練された団員たちは条件反射のように指示通り壁側を向いた──つまりヴィスタたちに背を向けている状態である。
「団長!? なんだ急に!」
「うるさい、今こっち向いたら向こう半年は氷漬けにされると思え」
普段の口調をかなぐり捨てて冷えた語調でそう言えば「ひぃっ」と至る所から情けない悲鳴が上がった。
壁を向いた魔導士たち。それをポカンと見やる薬剤師二名。珍しく焦った様子を見せるヴィスタに酒の力で思考力が落ちているルレイン。
彼女は自分の声を遮って叫んだヴィスタに小首を傾げた後、何事もなかったかのように。
──ふにゃりと笑った。
「ヴィスタ…おかえり」
ゆらゆらと上半身が揺れている。
ふにゃふにゃと締まりのない顔で笑う彼女の破壊力たるや──彼女の同僚と上司が目を見開いたまま固まるほどである。
何が面白いのかわからないが、酔ったルレインは笑みを収めることをしない。ずっと、ふにゃっと笑っている。
普段の彼女は表情筋が死滅気味と言われるほど表情を動かすことをしない。淡々とした涼し気な相貌は凛としていて、実年齢より大人びて見える。だからこそ、酔った時の破壊力が凄まじい。
「ただいま。ルレ、水は飲んだ?」
努めて冷静な状態を取り繕うヴィスタに、にこにこ笑顔で彼女はふるふると首を横に振る。
(団員たちを壁に向かせて正解だったな)
普段は怜悧な印象の彼女が、こうも幼子のように笑う。それを無防備に晒しでもしたら、彼が心中穏やかでいられない。とどのつまり、見せたくないのである。雄という性別をもつものすべてに。
「水飲んで酒薄めなよ、明日二日酔いになるよ?」
「い、やっ」
おそらく彼女の同僚が頼んでくれたであろう水の入ったグラスを差し出してみるが、ルレインは一向に受け取ろうとしない。それどころか拒否の言葉には満面の笑みが添えられ、さすがのヴィスタも頭を抱えたくなる。
どうしてこうも酔っ払いは厄介なのか。
(言って聞くような性質じゃないっていうのは知ってるんだけど、どうしたもんかな)
グラスを片手に黙考することしばし。
「……ちょうどいいか、やりたいことあるし」
誰に言うわけでもなく呟いて、彼は水を呷る。
そこからの展開は言わずもがな、にこにこ満面の笑みのルレインの口に直接水を流し込んだ。
側で黄色い歓声を上げているのはルレインの上司だろう。ちらと見やれば赤面して顔を隠しながらも指の隙間からがっつりこちらを見ている。…自分の欲求に大変素直な人である。
水が溢れないように隙間なく唇を重ねて少しずつ送ってやれば、時折「んむっ」と可愛らしい声が聞こえてくる。さすがにこれ以上すると素面に戻った時に怒られると思うので我慢しているが、理性の糸はすでに焼き切れそうだ。
ゆっくりと時間をかけて水を与え終わる。塞いでいた口を解放し、僅かに濡れた唇を親指で拭ってやる。
と。
「…ヴィスタ、もっと」
袖をつんつんと控えめに引いて、上目遣いのおねだり攻撃がヴィスタを襲った。酔っているからこその仕草だとわかってはいるが、一瞬動きを止めて凝視してしまう。
こてんと小首を傾げ「だめ?」と言わんばかりに顔を覗き込んでくる彼女がねだっているのは水であってヴィスタからの口づけではない。それでも普段は見られない姿を見せられれば本能は素直なもので。
「全員、解散」
ふわふわと口元に笑みを刻むルレインを横抱きにして、ヴィスタは足早に居酒屋を後にした。
…ファイがテーブルに突っ伏して悶えていたのは言うまでもない。