曙光
第七章 来訪者
3 曙光
そうして、三日後。
いよいよ、約束どおり、まずは《黒き鎧》へサタケが入って最初の《儀式》が始められた。次いでそのまま、《白き鎧》の《儀式》へと移行する予定となっていた。
ヴァイハルト自身は、自分の「人質」としての務めを果たすべく、《白き鎧》の傍まで連れては行かれたけれども、相変わらず暢気なもので、自分を監視しているはずの兵らと近くの森の中で、雑談などしながらのんびり待っていただけだった。
勿論、いざひとたび事あらば、彼らの腰に佩いた剣によって自分の命が絶たれることは理解している。しかし不思議と、ヴァイハルトはそれを恐ろしいとは思わなかった。
そうなったら、なったでいい。
別にもう、自分にはさほど、この世に対する未練がなかった。
それは、何も投げやりになってそう思うのではなく、自然にそう思えるのだ。
心配していた「狂王・サーティーク」も、近頃では精神的に相当成長し、振舞いも落ち着いてきている。内政にも出来る限り力を入れ、多忙を極めるこの王は、今ではもう十分に即位した当時の声望を取り戻していた。
つまり、最近の彼にはもう、どうしても自分が傍に居て支えてやらねばならないほどの不安定さは感じない。あまり認めたくはない所だが、それはあのユウヤという青年の存在も大きいのだろうと思われた。
兄たちはそれぞれ、家庭をもって幸せに暮らしている。
父も母もすでに他界して、勿論、愛する人も「あちら」にいるのだ。
自分がこの世に居なくてはならない理由は、そうやってひとつひとつ、櫛の歯の抜けるようにして欠けてゆき、いまや何ほども残ってはいない。
こんな命で役に立つなら、この「人質」の役目もむしろ有難いほどのものだった。
懸念されていた《白き鎧》の《儀式》が始まってから、フロイタールの面々は明らかに緊張と焦慮の度合いを強めたようだった。数日かかるというその《儀式》の間、あの「アキユキ」は《鎧》の中で、生死を分けるほどの過酷な状況に置かれているはずである。彼らの心配も無理はなかった。
そして。
《儀式》が開始されて四日が過ぎたとき、ヴァイハルトは唐突に、《白き鎧》の中へ入るようにとディフリードから要請を受けた。
入ってみると、すでに《儀式》は完了しており、中央制御室の中にはあの巨躯の竜輝長の代わりに、ある驚くべき人物が増えていた。
しかも、二人だ。
(これは……一体――?)
さすがのヴァイハルトも、しばし絶句して、その四角い寝台にいる二人のよく似た人物を見つめてしまった。
二人はまだ、疲労が残っているのか、立ち上がるのが難しいようだった。
それはあのユウヤと、彼に良く似た、しかしもう少し若い青年だった。
若い方の青年はヨシュア王とも非常によく似た風情の人であり、相当疲れたような顔で、まだ寝台に横たわっている。ユウヤの方は、なぜかヨシュア王と抱き合うようにして寝台に座り込んでいた。
しかし、事実はそうではなかった。
ヴァイハルトからユウヤだと見えた年上の方の彼が、今は本物の「ナイト王」であり、もとの彼を《白き鎧》から、あのアキユキが連れ戻したというのである。さすがのヴァイハルトも驚愕した。
いやそれよりも、なんとユウヤとその「ナイト王」が、《鎧》の機能を使って人格を交換したのだと聞いて、遂にわが耳を疑った。
(人格の……交換だと?)
もはやここまで来ると、事態は完全にヴァイハルトの理解の範疇を超えていた。
二人の瓜二つの人間の、記憶をそっくり入れ替える。
《鎧》には、そんな恐るべき機能までが存在したのだ。
「いえいえ、ヴァイハルト卿」
傍に立っていたディフリード卿はそんなヴァイハルトを見て、いつもの妖艶そのものといった、あの美しい笑みを浮かべた。
「お国では、もっと驚かれることがあるようですよ?」
頬のあたりに白手袋をした指を沿わせるのは、どうやら彼の癖らしい。そうしながら、ディフリードはその頬に極上の笑みを浮かべている。
ヴァイハルトは思わず、その美しい顔を見つめ返した。
「……どういう意味でしょうか? ディフリード卿」
が、美貌の将軍は優しげに微笑みながら、僅かに首を振っただけだった。
「詳しいことは、こちらにはまだ。サーティーク公からお聞きください」
そう言われて、ヴァイハルトはちょっと首を傾げた。
(なんだ……?)
怪訝に思って見回せば、その場の一同が、ややまだ心配げな様子ではありながら、それでもどこかそれぞれに温かな目で自分を見ているのに気がついた。
ユウヤなら知っていそうなものだったが、彼もただにこにこしているだけで、何も教える気はないようだった。
これはどうやら、サーティークからの緘口令が敷かれているらしい。どの道すぐに分かることではあるので、ヴァイハルトも無理に口を割らせるつもりはなかった。
聞けば、今から戻る《黒き鎧》にはすでに誰もいないのだという。
一連の《儀式》で人事不省に陥ったアキユキを救うため、《黒き鎧》での治療が行われたということは、すでにヴァイハルトもフロイタールの面々から聞いて知っている。
その治療の過程でなにがあったかまでは分からなかったが、ともかくそこで何かが起こって、サーティークとマグナウトはアキユキを抱いたゾディアスを連れ、先に《黒き鎧》の《門》を開いて、ノエリオール宮へと直接帰城しているのだそうだ。
彼らが何を、さほどまでに急がねばならなかったのか。
どうやら、そのあたりが鍵のようだった。
やがてディフリードが姿勢を正し、武官らしくきりりと丁寧な礼をした。
「ともかくも。卿はもう十分にお役目を果たしてくださいました。あとはどうぞ速やかに、母国にお戻りくださいませ」
美貌の竜将はそう言ってから、素早く《鎧》を操作した。すると、中央制御室の中にまた、あの《門》が現れた。
「そうですか。そういうことでしたら、遠慮なく」
ちょっと狐につままれたような気分になりながらも、ヴァイハルトも将軍らしく、背筋を伸ばして礼を返した。
「皆様、短い間でしたが大変お世話になりました」
ヴァイハルトは、寝台に横たわっていたユウヤの体を横抱きに抱え上げると、周囲の皆に挨拶をした。
「わ、わわ……」
ユウヤはちょっと面食らったようだったが、かといってまだ自分の足で歩けるような状態でもなく、ただ顔を真っ赤にして、困ったように黙り込んだ。
「こちらこそ、長々とお手間を取らせました、ヴァイハルト卿。どうぞお気をつけて」
美麗な青年将軍が、微笑み返して会釈した。
「……ええ。そちらもね、ディフリード卿」
ヴァイハルトは彼に向かって、ちょっと意味ありげな笑みを浮かべて見せた。
「色々と、瑣末なことを煩く申し上げてしまいましたが。しかしまあ、よかったらお心にお留めおきを」
そして、軽く片目をつぶってみせた。
ディフリードはやや苦笑して、静かに頷き返してくれた。
「それでは、皆様。どうぞご健勝で」
にこりと笑って一同を見回してから、ヴァイハルトは踵を返して、その《門》に飛び込んだ。
◇
ヴァイハルトは、ユウヤを抱いてその《道》を歩んでゆき、まずは《黒き鎧》の中央制御室に到着した。
先ほど説明されたとおり、そこにはもう誰も居なかった。
ヴァイハルトは一旦ユウヤを下ろして、《言霊の壁》とも呼ばれる《鎧》の制御装置を操作した。サーティークから一応の手順は教えられているため、基本的な操作については既に身につけている。
なお、互いの《鎧》が自由に行き来できるのは確かなのだが、《鎧》の操作によってこの内部に《門》を開くことは、お互いの意思で制限をかけることが可能になっている。つまり、フロイタール側が勝手にこの内部に《門》を開くことを、こちらの判断で拒絶できるというわけだ。
でなければ、いつでも互いの《鎧》内部に相手方の兵らが踏み込んで、《鎧》を好き放題できることになってしまうだろう。サーティークはすでにその操作方法も教えてくれているため、最初に間違いなくその設定を行なってから、ヴァイハルトは速やかに次の操作に移行した。
(しかし……)
操作をしながら、ふと思う。
(あいつ、これを向こうには教えているのか……?)
それは甚だ疑問だった。
だがまあそのうち、お互いの信頼関係がしっかりと構築されてから後ならば、「ああ、そういえばご存知なかったのだったか?」とかなんとか言って、しれっと教えてやったりするのではあるまいか。
(やりそうな事だな、まったく――。)
やれやれ、わが国王は、やっぱりなかなかに喰えない男だ。
ともかくも。
すでに先刻、サーティークが操作して「座標」そのものは記録が内部に保持されているため、操作はさほど難しくはなかった。まもなく、またバチバチとあの奇妙な音を立てて、あの真っ黒な《門》が姿を現した。
この《門》は、まっすぐに王宮へとつながっているはずだ。
とはいえヴァイハルトは、このあと《鎧》の後始末などの事後処理があるため、ユウヤを王宮へ連れて戻ってからまたすぐにここへ戻ってこなくてはならない。この《門》の存在を知ってしまえば甚だ面倒なことではあるが、《鎧》の外で待たせている兵らも王都まで連れて帰らねばならないので、まあやむを得ない話だった。
そんな訳で、今回この《門》は、ヴァイハルトが往復するため少し長めに開いておくように、予め設定してある。
「さあ、ユウヤ殿」
ヴァイハルトは少し壁に凭れるようにしてその場にしゃがみこんでいたユウヤに声を掛け、再び抱き上げると、そのまま果ての見えない暗闇の道を、ただまっすぐに歩いていった。
ユウヤはやっぱり、青白い顔でだるそうにしながらも、少し恥ずかしそうだった。
真っ暗なその道の彼方に、明るく丸い出口が見えている。
不思議なことに、近づくにつれ、そこから何か聞こえてくることに気がついた。
「あれ……?」
両腕に抱いた、今では少し若くなったように見えるユウヤが、ちょっと耳を澄ましている。
「なんでしょうね? あれ――」
「ん……? 何だろうね」
どうやらそれは、赤子の泣き声のようだった。
ヴァイハルトも少し、首を捻った。
腕の中にいるユウヤが、はっと何かに気付いて、途端ににこにこし始めた。
ヴァイハルトはそんな彼を、ちょっと怪訝な目で見下ろした。
(赤ん坊……? どういうことだ)
なぜ王宮の中に、赤子の声などが聞こえるのだろう。
やっぱり首を捻りながら、それでも大股に歩み続ける。
明るい出口が、眼前にどんどん迫って大きくなってくる。
声はますます大きく響き渡り、いまやはっきりと赤子のものと分かるまでになった。
それはもう、まことに元気そのものの声だった。
いや、言わば命そのものだろうか。
(……もしや。)
ヴァイハルトは、ぴりっととある予感を覚えて、目を見開いた。
いや、まさか。
そんなことが、あるはずがない。
あの赤子は、もう八年も前に――
(しかし――)
とくり、と胸の鼓動が跳ねた気がした。
とくり、とくりと、それはどんどん高鳴ってくる。
ぱっとユウヤを見下ろすと、彼はもう満面の笑みで、大きく頷き返してくれた。
ヴァイハルトはもう愕然として、丸い光を凝視した。
ユウヤを抱く手が震えだした。
(そんな、ことが……?)
明るく、力強い声がはじける。
それはもう、聞き間違えようのない赤子の泣き声だった。
雄々しく、たくましく、「生きているぞ」と叫んでいる。
それは、未来を拓く声だ。
ヴァイハルトは知らず、足を早めた。
次第にそれが早くなり、気付けばユウヤを抱いたまま、
出来る限りの速さで駆け出していた。
「わ、わわっ……! ヴァイハルトさん……?」
腕の中のユウヤが驚いて、落とされまいと軍服の胸元をぎゅっと握り締める。
しかし、止まりはしなかった。
何故なのかは分からない。
それなのに、ひどく胸が躍っていた。
早く、その子に会いたかった。
いつの世も、あの声だけは未来を見ている。
あの力強い声があるから、人は生きていけるのだ。
やがて知る。
その声の主が、
その赤子が、
誰の忘れ形見であるのかを――。




