後日譚
仕事していると案外時は早く流れるもので、気が付けば十年経っていた。
四十五になり、髪に白髪が混じり始めてきた。年相応に体の衰えに悩まされ、近頃では早朝に散歩などやり始めた。これが結構楽しくて、歳を取ったのだなと感慨に耽ったりする。
仕事は順風満帆というほどではないが、程々に頑張っている。若い頃のように駆けずり回るようなことはなくなり、お得意様を巡回する毎日。そればかりでは退屈なので、気が向けばたまに新規を開拓してみたりしている。
幸い扱いの難しい上司や、生意気なばかりで聞き分けのない部下のような地雷を踏むこともなかった。同じ営業に所属する年の近い同僚に言わせれば相当運が良いらしい。羨ましいと地団太を踏む同僚に普段の行いの差だと言って笑ってやった。
しかし平穏すぎると適度に波乱が欲しくなってくるものである。最近ではよく面倒くさかった彼女のことを思い出していた。
岸谷茜。彼女はどうしているだろうか。
二十七ともなればきっと驚くほど綺麗になっていることだろう。当時から男受けする容姿だったので、もしかしたら良い男を見つけて結婚しているかもしれない。結婚式と言えば両親はどうしただろうか。見限ったのか許したのか。どちらを選んだにせよ幸せを掴みとって欲しいと願う。渡した一千万もそのために使ってくれていれば嬉しいと思う。
想像し始めたらキリのない空想に頬が緩む。つい忘れてしまいそうになるけれど、思い返してみればたった半月程度の付き合いだった。それも二人の関係は、言うなれば家主と居候である。友達でも家族でも、ましてや恋人なんて甘いものでもない。それがこうして十年後の自分にも影響を与えると誰が予想できただろうか。逮捕されて一時的にとはいえ友人や職を失ったことも含め、つくづく人生とは予測のつかないものだと思う。
思い切って彼女に電話をしてみようか。何度かその誘惑に駆られたことがある。けれどやはり踏ん切りがつかなかった。あれだけのことがあった手前、どんな顔で会えばいいか、何を話せばいいかわからなかった。
平日の仕事上がり、夕食を求めて駅前を歩く。十年経っても人ごみは変わらないようで、迫りくる人波を泳ぐように掻き分けていく。繁華街方面へと向かいながら今日はどこにしようかと考えた。いくつか行きつけの店はあるが、どうにも脂っこくていけない。若い頃は気にもしなかった事に最近は悩まされていた。いい加減自炊するべきなのだろうが、生来の料理下手が災いして中々勇気が出せなかった。冷蔵庫の中身も相変わらずである。
ふと新しくできた店舗を思い出す。数日前に前を通った時には工事が終わっていたはずだ。この際だからチャレンジしてみるのも一興かもしれない。
真新しい暖簾をくぐって店内に足を踏み入れると、活気のある喧騒に迎えられた。案内する店員の後をついて歩き、カウンター席に腰を下ろす。とりあえず生を一つ頼み、壁面を彩るメニューの数に目を見張った。
「お客さん、この近くに住んでらっしゃるんですか?」
突然かけられた声に驚き、正面に視線を向けるとカウンター向こうと目が合う。若く綺麗な女だった。
「ええ、まあ……」
怪訝そうに首を傾げると彼女はどこか含みを持った笑みを浮かべた。ちょっと失礼しますねと一言断ってバックヤードに足早に消える。眉を寄せながらその背中を見送ると突然ポケットの中が震えた。反射的に携帯を開き液晶を確認する。そこには小娘とだけ表示されていた。
「……おいおい」
こんなことがあるのだろうか。
あまりのことに驚いていいやら喜んでいいやら、咄嗟に判断がつかない。けれど長い間空いていた穴がようやく埋まったような、そんな奇妙な充足感があった。携帯を持つ手に力が入る。顔を上げるとバックヤードの影から意地の悪い笑みを浮かべた彼女が小さく手を振っていた。
どうやら生意気なところは変わっていないようである。戻ってきたら何と憎まれ口を叩いてやろうか。気づけば年甲斐もなく心が浮き立っていた。