12月4日~
自分の役割などと偉そうなことを考えておいて、その実たいして時間は稼げなかった。
あれから三日後の木曜日、早朝。聞きなれない音に目を覚ます。
すっかり慣れてしまった、床に毛布を敷いた即席の布団。その枕元に置いた電子時計をぼやけた視界で仰ぎ見る。時刻は午前五時。日の出前の暗い部屋でゆっくりと起き上がる。その間も断続的になり続けるコンコンという硬質な音に嫌な予感を覚えた。はっとして顔を上げ、耳を澄ませて音源を特定する。
ああ……。
わかっていたことだ。いつまでもこんな生活続くはずがない。そんなこと百も承知していたはずなのに、いざその時になると身が竦んだ。
「……なに?」
異常を察してもぞもぞと起き上がった彼女に果たしてうまく笑えていただろうか。室内が暗くて良かったと思う。
「大丈夫。心配ないから」
微かに震えた声で言ったところできっと効果なんかなかっただろう。けれどここで怯むわけにはいかないのだ。大人である以上、自分でやったことには責任を取らなければない。たとえそれが未遂であろうとも。
一つ深呼吸をして明かりを点ける。
「今開けますから少しだけ待ってください!」
玄関向こうにも聞こえるように声を張って、彼女に向き直る。これが最後になるかもしれない。心残りのないように伝えたいことは伝えなければならない。
「いいか? 時間がないからよく聞けよ」
俺の蒼白な顔に何かを察したのだろう。彼女が静かに息を飲んだ。
「先に言っておくけど、お前は悪くないから。責任を感じる必要はないからな」
「え? は?」
目をしばたかせる彼女が状況を把握する前に次の言葉を重ねる。
「それと、昨日聞いたお前の口座に一千万振り込んである。振り込んだ以上はお前の金だ。好きなように使え」
「一千? ちょ、ちょっと待って。なにそれ、どういうこと?」
追いすがろうとする彼女の手を振りほどいて立ち上がる。答える気は毛頭なかった。この奇妙な、けれど心地よい生活はもう終わったのだ。ダイニングを出る時に一度振り返ると、ベッドの上の彼女と目が合った。捨てられた子犬のような寂しげな視線を断ち切るように前を向く。
玄関に足をかけ鍵を開けると、扉の向こうから厳めしい面の男たちが現れた。
「小野田辰巳さん、でいいかな?」
「はい……」
礼儀正しい声音の男たちの表情には作ったような笑みが張り付いていた。
近所に住む住人から通報があったのだと警察署に向かう車の中で聞いた。制服を着た女子高生を連れ込んでいる、と。未成年者略取・誘拐で逮捕状が出ており逮捕する、と。
それを聞いて妙に納得してしまった。近頃では早めに帰宅していたので彼女を制服のまま家に上げることもあった。その様子を誰かが目にしたのだろう。けれどだからと言って彼女を責めるつもりも、自分の不注意を嘆く気もまったく起きなかった。遅かれ早かれどのみちこうなっていただろうと思う。
取り調べには素直に答えた。特に声を荒げることもなく、坦々と事実だけを述べてゆく。どうやら俺とは別の車で彼女も連れられてきたようで、隣の部屋から時折涙混じりの懇願が微かに聞こえた。こんな形で悲しませてしまったことに少し申し訳ない気持ちになる。
逮捕から二十日後、勾留期間が過ぎて警察からようやく解放された。去り際に立ち会った警官曰く、今回の一件は不起訴になるとのことだった。最後に野太い声が吐き捨てるように言った。
「あの子、自分の体を調べさせてまであんたの無実を訴えたんだ。彼女に感謝するんだな」
蔑むようなきつい声音に短く「はい」とだけ答えた。久しぶりの自宅に戻り、携帯を投げ捨ててベッドにもたれかかる。あとは会社からの通達を待つだけだった。
自宅待機を言い渡した会社から連絡があったのはそれから二日後であった。やはりと言うべきか、解雇通達であった。不起訴になったとはいえ、逮捕されたのだから当然である。印鑑や社員証などを持って明日出社するようにと事務的な口調で告げられた。
後悔はない。こうなる覚悟はしていた。けれどこれまで築き上げてきたものが次々と失われていくのは想像以上に辛かった。なにより事情を知った時の親の涙が心底堪えた。
無職になり、失業手当を役所に申請しに行って一週間後の休日、会社の元上司から電話があった。暇だったら一杯飲みに行かないかという誘いだった。
「で、結局なにがあったんだ? 社内じゃお前さんが淫行しただとかって噂で持ち切りなんだぞ?」
四十過ぎの上司は注文を済ませるなり尋ねてきた。付き合いの長い相手なだけあって遠慮のない物言いだった。事の顛末を丁寧に話すと彼は馬鹿だなあと頬を緩めた。
「ったく、お前さんらしいっちゃらしいが、相変わらず馬鹿正直だなぁ。まあそこが良い所でもあるんだが」
「そうですかね……」
力なく笑うと肩をバシバシ叩かれる。注文したビールを勝手に打ち鳴らし、こちらが口をつけるのも待たずにあおる。
「なんだ? 後悔でもしてるのか」
「いえ、それはないんですけど……。でも他にもっとうまいやり方はあったのかな、と」
「どうだろうなあ……」
物思いにふけるような沈黙の後、上司はテーブルに並んだ皿からから揚げを取り上げて口に放り込む。
「まあ俺も同じぐらいの娘がいるからよ。お前のどうにかしたいって気持ちはわかるし、ありがたいことだと思うよ。でもそれは当事者じゃないから言えることなんだよな。もし俺がそんな子を見つけたら、悪いけど俺の娘じゃない限り何もしないだろうよ」
「そりゃ家族がいるんですから仕方がないですよ」
「まあそうだけどな。……でもよ、俺じゃできないことをお前はしたんだ。他は色々好き勝手言うかもしれないけど、俺は胸を張っていいことだと思うぞ」
「……結果、失った物は多いですけどね」
自嘲するように唇を歪めると、正対している上司はニヤリと笑みを浮かべる。
「ああ、仕事ならたぶん何とかなるぞ。元々今日呼んだのはその話をするためだったんだ。お前が担当していた会社な。いくつか俺が引き継いだんだが、その内の一つにお前を雇いたいってとこがあってな。今回は事態が事態だし直接電話するのも気が引けるってんで、俺から聞いてみてくれないかってこの前頼まれたんだよ」
「……はあ」
「なんだよ、もっと嬉しそうにしろよ」
「いや、なんかいま一つ現実味がなくって……」
「……そうか? でも良かったじゃないか。それだけお前の人柄が評価されてるってことだ」
「っ」
そう言われるとふいに胸が熱くなった。捨てる神あれば拾う神ありということわざがあるが、それは誰しもに言えることじゃない。拾う価値のない者になど人は、周囲は見向きもしないのだ。冷酷に感じるかもしれないけれど、それが資本主義というものだ。
その中で自分は拾うだけの価値を示してこれたのだと。これまでの人生は、努力は無駄じゃなかったのだと。そう言われたような気がした。
「お、おいおい。こんな所でいい大人が泣くなよ」
戸惑った声にはっとする。いつの間にか握りしめた手の甲を涙が濡らしていた。
袖で涙を拭って場の空気を変えようと、伸ばした箸でから揚げを頬張る。けれど所詮は手間を惜しんだ居酒屋の料理だ。一ヶ月前に食べた彼女のから揚げほどおいしくはなかった。
俺は彼女にとっての拾う神になれたのだろうか……。
その答えはいくら考えても得られなかった。