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不思議の国の私

不思議の国の私 (お題 症候群)


 朝起きるとホビットがスーツに着替えていた。夢か、と思い。再び眠りにつくことにした。

「おいおい、由美。二度寝かよ。疲れてるのかもしれんが見送りくらいしてくれよ」

 身体を揺すられて頭痛がした。ホビットは夫だった。私より頭一個くらい背が高いはずの夫は私の腰丈くらいに縮んでいた。昨日のお酒がまずかったのだろうか。

 私はベッドから起き上がると、ホビット、夫のために朝食の支度を始めた。支度といっても、パンをトーストしてコップに牛乳を注げば完成だ。これが我が家のノーマルな朝食である。

「今日は遅くなるかもしれないな。夕方から会議があるんだ」

 トイレからそう言いながらダイニングに夫は現われた。寝ぼけが取れても、夫はホビットのままだった。はたしてその身長で椅子に座れるのだろうかと心配したが、夫は難なく椅子に座り、食事を始めた。不思議に思った私はテーブルや椅子の足の長さを比較し、どうして何事もなく夫が座っているのかを考えた。

「おい、どうした様子が変だぞ」

 目線をテーブルの天板と並行にして、変質者のように夫を見つめていた。

「大丈夫か、二日酔いか」

「二日酔い。二日酔いではないかな」

 大丈夫かは、お前の方だろうと思った。身長が半分になって平然としていられる方がおかしいだろう。夫は牛乳でパンを流し込むと食事を終え、食器を流しに運び始めた。

「あ、私やるから良いよ」

 その身長で流しに届くはずがない。

「お、何だよ。いつも運べってうるさいくせに」

「えっと、あなたが気の毒なことにならないようによ」

 夫は首を傾げた。それから鞄を持って、いつも通りの時間に出勤した。私は見送りを終えると頭を抱えてソファーに座りこんだ。きっとおかしくなってしまったのは私自身の方だろう。・・・もしかすると昔からあの身長だったのか。夫と出会って二年、恋は盲目だとかで脳味噌がパーになっていたのかもしれない。

 私は戸棚からピンクのアルバムを取り出して、ツーショット写真を探した。駄目だ。やっぱり夫は私より頭一つ大きい。おかしくなったのは私の方だ。

 アルバムを仕舞うと家事に取り掛かった。動いていれば頭も正常になるかもしれない。食器を洗い終わると、洗濯機を回した。洗濯が終わるのを待つ間に各部屋を掃除する。寝室、リビング、ダイニング、キッチン、トイレ、浴室。2LDKを一人で掃除するのは意外と骨が折れる。

 陽気なメロディが流れた。洗濯が終わった合図だ。お前は仕事終了でも、私はこれから干す仕事があるんだよ。「干すの頑張ってね」とか言ってくれる気配り上手な洗濯機はないものだろうか。

 洗濯物を干し終わると、一息つくことにした。気分は大分良くなっていた。朝のアレは何だったのだろう。頭痛も引いたし、何かおかしなモノが見えることもない。

「調べてみるか」

 飾り棚でフォトフレームと化したタブレットPCを手に取った。買ったはいいが使い道がない、いや、使いこなせてないのか。

「不思議の国のアリス症候群か」

 物が小さく見えるで検索すると、そんな言葉が引っ掛かった。

「遠近感が掴めない、対象が小さく見えたり、大き」

 ザッと雨が降りだした。罵声のような雨だった。私は急いで洗濯物を取り込み始めた。最後の一つを取り込む時にふと前の電線に佇むカラスの集団に目がいった。デカい。どう見ても一羽だけ異様にデカい。私の身の丈と変わらないのではないか。そんな大カラスはバサバサと羽音を立てて舞い上がると、私の方に目がけて飛んできた。短い悲鳴を上げ、洗濯物を投げ出すと一目散に寝室に逃げ込み、鍵を掛けた。

 怖い。寝室の扉をそいつは叩き続けた。あの大きな鋭い嘴を叩きつけているのだ。どうしよう、スマホで警察を呼ぶか。大きいカラスに襲われてる、きっと相手にしてもらえない。激しい、何か喚いているような声も聴こえる。人語を交わすカラスなのかもしれない。私は掛け布団の中に潜り込み、赤ん坊のように丸まった。扉が破られたら、きっとこれが最後に私を守ってくれるものだ。

「おい、起きんか。いつまで寝てんのや」

 聞き覚えのない声で私は目を覚ました。あんなに恐怖を感じていたのに眠ってしまうなんて、もしかすると気絶してたのか。クラクラする。意識がはっきりとしない。目の前のこの大きな置き物はなんだ。

「おっ目、覚ましたか」

 私は言葉をなくした。今度は禍々しい巨大な何かが目の前に立ちはだかっていたのだ。目が覚めたのと同時に意識を失いかけた。

「おお、大丈夫かいな」

 倒れそうになった私を何かが優しく受け止めてくれた。柔らかい上質の毛皮のようだった。厚みもある。どこまでも長く続く、その毛皮は正面に鎮座した者に繋がっていた。間違いない。これは尻尾だ。

「あ、あなたは何なの」

 目の前の巨大生物から敵意を感じなかったが、私は恐る恐る尋ねた。

「見て分からんか。ワイはチェシャ猫や。知らんか不思議の国のアリスに出てくる奴や」

 その自己紹介はナンセンスだと思った。というか可愛くない。圧倒的にD社の創造したチェシャ猫に劣る。中国の紛い物の様な毒々しい見た目だった。

「あんな、いきなりで悪いけど、悪い女王を倒してくれへんか」

 唐突すぎる頼み事に思わず聴き返した。

「せやで、ここ出て真ん前の部屋にいるんや。ほんまに悪い女王や」

「でも倒すってどういうこと」

 チェシャ猫は口から唾を吐いた。突然のことに驚いたが床、これ、この手触りはシーツだ。ということは、状況を理解した。デカいのはチェシャ猫ではなかった。私自身が小さくなっていたのだ。床だと思っていたのはベッドの上だったのだ。

「今気づいたんかいな」

「ね、寝よう」

「現実やで」

 チェシャ猫はニッタリ笑う。私はその笑みに困惑や恐怖よりも先に怒りを覚えた。シーツに唾を吐かれたのだ。シーツに唾。涎すら垂らしたことのないシーツにコイツは唾を吐いたのだ。一枚八千円のシルクのような肌触りスーピマコットン生地のシーツに唾を―――。

「お前、唾は幾らなんでもないだろう」

「唾やないで、よく見なはれ」

 唾である。どう見ても唾である。しかしベトベトの唾の中に光る物を見つけた。短剣だった。私はそれを意を決して、まあ流れ的に拾い上げた。

「これでどうするの」

「決まっとるやろ。殺すんや。この短剣でプスッと一突きや」

 軽薄な笑みを浮かべ、軽々しく話すのは人殺しの指示である。短剣を持った手が震えた。

「む、無理よ。だって私アラサーよ」

「歳、関係ないやろ」

 私は体育座りをして考え込んだ。きっと夢なのだ。そうだ夢に違いない。その悪い女王を殺せば、この質の悪い夢ともおさらば出来るんだ。

「恐ろしい女王は魔法で国を支配してるんや。あいつが来てから国民はみんな不幸になってもうた。ワイの家族なんかなあ、みs」

「やります」

 短剣を高らかに掲げて意気込んだ。

「切り替え速すぎやろ。お涙頂戴話の一つくらいさせいや」

 愚痴を溢しながらチェシャ猫はベッドを降りた。尻尾だけベッドの端に残し、そこに掴まるように言ってきた。私は尻尾の先に抱きつくと、ゆっくりとベッドの下まで導いてくれた。

「待って、外にはデカいカラスが」

 カラス一羽にここまで警戒するのは人生で最初で最後だろう。

「カラス、ああ、あいつか。あれは今居間で寝とるわ」

 尻尾で器用にノブを捻り、ゆっくりと扉は開いた。扉の外側には傷一つなかった。廊下に出ると悲鳴を上げそうになった。ただでさえ大きかったカラスが今の身長からでは怪獣のように大きいのだ。今の私では一抓みでペロリである。

「寝とるから大丈夫やで、あいつは女王が魔法で創り出した手下や。女王を殺せば一緒に消えるで。たぶんな」

 私たちは抜き足差し足忍び足で反対側の部屋まで進んだ。ヤダ、抜き足って何だかエロい。

「あかーん屁が出るぅ。我慢できへんわ」

 ブーっという大きな音とともに、アイツが目覚めた。猛禽類の成りそこないのような存在感を払拭し、鷲も逃げ出すような威圧感で襲いかかってきた。殺られる、そう思い目を瞑った。鈍い音がする。痛みはない。目を開くと、チェシャ猫がカラスと揉み合っていた。

「あかーん痛い。痛すぎる。爪は反則やで」

 カラスの鋭い爪が腹に突き刺さる。それでもチェシャ猫は必死でカラスを食い止めようとした。

「扉は開けといたで、ワイのことは良い。あと頼みますわ」

 私はチェシャ猫の雄姿を目に焼き付けて女王の待つ部屋に忍び込んだ。

「妹のかたきいいいい」

 チェシャ猫の絶叫が響き渡り終わると、カラスの鳴き声も止んだ。きっと刺し違えたのだろう。部屋の中は薄暗かった。気がつくと私は元の身長に戻っていた。短剣も一緒に大きくなっていた。部屋にはベッドがあり、そこからスヤスヤと寝息が聴こえてきた。

「こいつが悪い女王」

 警戒しながらプレイリードッグのように女王の顔を覗き込んだ。悪い顔だ。間違いなく悪い女王だ。短剣を握る拳に力が入った。

「やれ、やるんや。寝込みを襲う。これチャンスやで」

 驚いて振り返ると、無傷のチェシャ猫が下衆な笑みを浮かべていた。何でだろう生きているのに嬉しくない。

「刺せ、刺すんや。ハッピーエンドやでえ」

 私は徐々に大きく短剣を振り上げた。何だこの感覚は、涙が零れてきた。

「どうしたあ。刺すんや。早くしないと目を覚ますで」

 丸く温かい物が胸の中で膨らんでいる。それが私の選択を拒もうとしていた。悲哀と葛藤が大粒の涙となって流れ出る。何で悲しいんだ。どうして悩む。訳が分からない。答えを望み、振り返ってチェシャ猫を見たが口をパクパクと動かしているだけだった。言葉が聴き取れないのだ。女王の瞼がぴくりと動いた。目を覚ます。これも女王の魔法なのかもしれない。

 私は、何をしているんだ。渾身の一撃を振り下ろした。振り下ろした先はチェシャ猫の頭だった。しかしそんな猫はどこにもいず、短剣は、包丁は床に突き刺さった。自身の為出かそうとしたことに号泣した。

「お義母さん。ごめんなさい。お義母さん」

 私はアルツハイマー症候群の義母にうんざりしていたのだ。義母の存在が新婚生活には邪魔だった。義母のために仕事を辞めた。不規則な生活を送り、突如せん妄に駆られる義母に私は辟易していた。義母の胸元で謝罪し続けながら、何時間も泣き続けた。こうして不思議の国への扉は閉じられた。


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