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自転車漕ぎ漕ぎ

自転車漕ぎ漕ぎ (お題 ピエロ、車輪、宝物)


 早朝の静かな住宅街に車輪の軋む音が鳴っていた。風が草木を撫でるような音だった。入り組んだ路地を自転車で通り抜ける男の姿があった。彼は幾重にも交差する道をまるで一本道かのように走り抜けた。大通りに出ると男は身を乗り出すような姿勢になり、ペダルを力強く漕ぎはじめた。焦燥と期待の入り混じる表情を浮かべ、自転車を漕ぐ彼の名は村瀬祐樹という。村瀬は前方と後方を確認すると車道を横断した。歩道と車道を隔てる段差を越える時、自転車がガクンと揺れた。ずれた眼鏡を掛け直すと彼は再び疾走する体勢に入った。


「ちょっとノート貸して」

 斉木由貴は村瀬の返答を待つことなくノートを取り上げた。

「昨日は結構進んだからな。そうだ、そうだ渡辺先生が」

 村瀬は笑いながら昨日の授業中に起きた教師の失態を語った。斉木は村瀬の話にノートを写しながら耳を傾けていた。話の落ちに触れると斉木は村瀬の方を見て微笑んだ。柔らかい笑みだった。村瀬は彼女のその表情を見ると満足げな顔をした。

 二人は特別で変哲のない関係にあった。隣家という関係から幼少の頃から付き合いのあった二人は自然と仲睦まじくなり、お互いを理解し合っていた。異性という隔たりを超え友情を育んでいた。その関係を知らない者には彼らが特別な関係に見えるだろう。しかし彼らには当たり前の相手がそこにいるだけだった。


 村瀬はカーブに沿うように姿勢を左に傾けた。風を切る音が聴こえた。彼がある物に気を取られた。その直後、劈くようなブレーキ音が響いた。赤信号の交差点に飛び出していた。トラックと彼の距離はわずか数十センチ、あわや大事故であった。目を丸くして茫然と佇む村瀬はドライバーの怒号で我に返った。彼は自転車を降り深々と頭を下げると、またすぐに自転車に跨り走り出した。彼が背中にしたのはとあるファストフード店だった。斉木との思い出の場所だった。


 二人の通う高校からの帰宅途中にはチェーンのファストフード店があった。彼らは小さい頃から親に連れられて度々そこで食事をしていた。

「久しぶりに、寄ろうよ」

 斉木はハンバーガーを象った看板を指差して言った。村瀬は頷くと彼女の指差す方へ歩みを進めた。

「ここも変わらねーな」

「え、変ったよ。昔はあそこにピエロの絵が描いてあったし、あんなショーウィンドウはなかった」

 斉木は分煙室を指差していた。村瀬は一笑すると軽く彼女を小突いた。斉木はシェイク、村瀬はコーラに口を付けた。そして二人で一つのLサイズのポテトを摘まみながら、談笑を続けた。

「祐樹にとって宝物って何」

 不意に斉木はそんな質問をした。彼女の儚げな表情から村瀬はそれが何か特別な意味のある質問だと感じた。

「イチローのサイン入りボール」

 しかし、何を応えるのが正解か分からず適当な返答をした。斉木はその答えに興味のない反応をした。

「お前は何かあるのかよ」

「私、私は時間かな」

村瀬は失笑した。

「なにそれ、これから自作のポエムでも始ま・・・」

 斉木の表情の変化から村瀬はすぐに自身が粗相をしたことに気づいた。彼は彼女が怒った時下唇を噛む癖を知っていた。

「大事な話するのにそれはないんじゃないかな」

「怒ってる」

 間の抜けた言葉だった。彼女の心情を詮索するための台詞が村瀬は思いつかなかった。

「別に、話したいことあったけど、もう良いよ」

 二人の間に長い沈黙が続いた。耐え難くなった村瀬は店内に流れる流行歌に傾聴しながら、膝を叩きながら拍子を取った。先に口を開いたのは斉木の方だった。

「変ったことにもう一つ気づいた。ポテトの分量が減ってる」

 そう言うと斉木が舌を出しておどけた。


 休日の朝の駅のホームにはまばらに人が並んでいた。その中に一組の家族がいた。少女とその両親がそれぞれ大きな鞄を提げていた。鞄を置くと少女は風で乱れた前髪を直した。その少女は斉木由貴だった。

「そろそろだな。この街とももう少しでお別れだ。切ないな」

「あなた、そんなこと言う人でしたっけ」

 斉木の両親は他愛ない話で郷愁を語り合い始めた。斉木はそんな話をぼんやりとした表情で聴いていた。

「由貴、あなたはやり残したことはないの」

「やり残したこと」と斉木は母の言葉に呟くように返した。

「祐樹君には別れの挨拶はちゃんとしたのか。いつも親しくしてただろう」

「うん、多分、ちゃんとしたよ」

 斉木は父の言葉に長い間を開けて曖昧な答えをした。娘の様子に父は溜め息を吐いた。間もなく抑揚のないアナウンスと騒々しいベルが鳴り、電車が到着した。


「どうぞ。あがって、あがって」

 稲葉義之は斉木の手を引いて家の中に招き入れた。彼は高校指定の革靴を放り投げるように脱ぎ、斉木が靴を脱ぎ終わると再び手を握って自室に連れ込んだ。

 二人はベッドに腰を掛けると雑談を始めた。稲葉はあれこれ斉木に質問した。斉木はそれらの質問にどこか上の空で返していた。しばらくすると稲葉は「喉渇いてない」と言って部屋を後にした。

「また可愛い子連れて来て、ちゃんとゴムつけろよ」

 稲葉の兄が台所に飲食物をくすねに来た稲葉にそう言ってからかった。

「うるせーよ。覗くんじゃねーぞ」

 稲葉は両手にペットボトルを持ちながら腰を振って言った。それを見た兄は下品な笑いを返した。

 稲葉が部屋に戻ると斉木は彫刻のようにジッとしていた。彼は斉木にペットボトルを手渡すとさっきより密着するように彼女の横に座った。

「アメリカに行くんだってな」

 稲葉は茶髪の髪を弄りながらそう話を切り出した。

「うん、来週の今頃はバージニア州だよ。ワシントンのあるとこ。どんな所だろう」

 アメリカ談話をしばらく続けていると稲葉が肩まで伸びた斉木の黒髪を優しく撫でた。

「ごめん、あんまり綺麗だから触りたくなった」

稲葉が斉木の耳元で囁いた。彼女はにかみながらコクリと頷いた。それから稲葉は彼女の容姿を一つ一つ挙げて、褒め言葉を送った。また彼女の腰に手を回し、甘美な言葉を吐くことに腕、肩と撫でるように触れ、最後に強く抱き寄せた。斉木は目を瞑り彼を受け入れることにした。稲葉は一度目は軽く唇を合わせ、二度目は貪るような接吻を施した。斉木をベッドに押し倒してもそれを続けた。斉木もそれを求めた。

「アメリカに行く前の最後の思い出づくりだな。送別セックス」

「何それ、超ウケる」

 その後稲葉の手解きを受け斉木は無事に初体験を済ませた。


 村瀬はようやく線路の見える道に行き着いた。数百メートル先に見える駅が彼の目的の場所だった。あそこに斉木由貴がいる。そう思う、ただそれだけのことで彼は漕ぐペダルがとても軽く感じられ、まだ数百メートルある道のりが短く感じられた。

 十年前村瀬は彼女に別れの言葉を言うことが出来なかった。そんな彼女からほんの数日前、アメリカから帰国する旨の連絡を受けたのだった。彼女と別れたのが高校二年の夏、あれから十年きっと彼女なら大人な女性に成長しているだろうとそんな妄想を浮かべながら村瀬は残りの道を疾走した。

 駅の駐輪所に着くと携帯にメールが届いていることに村瀬は気づいた。数分前の着信だった。「もう駅に着いたよ。改札口の横にいます」斉木からのメールだった。彼はそのメールに目を通し終わると駐輪所から駅に向かった。

 駅の改札口近くにある座席に斉木は腰掛けていた。27歳になった彼女からはあどけなさが消え、凛とした顔立ちになっていた。

「ひさしぶり」

 村瀬の声がした方に斉木は振り向いた。そして笑いを始めた。それは再会の喜びからの笑いではなかった。

「なんだよ。なんでそんな笑うんだよ」

「だって、だってあなた昔と全然変わってないんだもん」

「良いだろ別に十年くらいでそう変るかよ」

 村瀬は照れくさそうに言った。再会の喜び、彼女の成長に心奪われたこと、何より変わらない二人の関係をこそばゆく感じていた。

 斉木と村瀬はしばらく歓談すると、場所を変えて話を続けることにした。二人の意見はすぐに一致し、大通りにあるファストフード店に向かうことにした。

二人は店に入ると十年前と同じ窓際の席に座った。窓からは変わらぬ街の景色が覗いていた。

「ここは本当に変わらねーな」

「変ったよ。昔はあそこにピエロの絵が描いてあった。今は少子社会だから子ども向けの内装の店って本当に減ったよね。それからショーウィンドウがなくなった。喫煙者なんて今の時代絶滅危惧種だよ」

「こういう会話って前もしなかった」

 村瀬の言葉に心当たりのあった斉木は笑い出した。それから十年前と同じく一つのLサイズのポテトを摘まみ合った。

 二人は十年間のそれぞれの思い出話を始めた。そうすることで二人の間に出来た空白を埋めようとした。

「アメリカで金融関係の仕事してたんだ」

「マジか。凄いな」

「まあもう退職したけど、結婚するんだよね」

 村瀬は絶句した。笑顔が消え、引き攣った表情に変わった。彼には斉木が話している内容が聴こえなくなっていた。宝物は時間。十年前の彼女の言葉が蘇る。村瀬はどうしようもない虚脱感を覚え、荒野を彷徨う浮浪者のような表情に変っていた。

「なあ、由貴にとって宝物って何だ」

 村瀬は十年前と同じ答えを望んで訊いた。

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