奇跡の雪
奇跡の雪(お題 雪、死体、語学)
聖夜にサンタが贈り物を届けてくれた。その日に降った雪は死んだ人間を甦らせた。蘇生したのはその日に亡くなり、死亡後、死亡時に雪に触れていた触れた者だけだった。それでも日本だけで2000件以上の蘇生体験の報告があがった。僕もその奇跡を経験した人間の一人である。
初めのうちマスコミの取材が絶えることがなかった。容態が回復していない僕に記者は容赦なく群がった。
「まーた、外に記者がいるよ。諦めの悪い人たち」
渡辺美雪はブラインドの隙間から外を眺めていた。
「他にも蘇生者はいるんだから、他を当たればいいのに」
「仕方がないよ。最初に愛想よく取材に応えちゃったからね」
奇跡を体験した少年・Aくんこと伊藤昌史とは僕のことだ。週刊誌などは名前を伏せてくれた。しかし情報社会の恐ろしい所だ。ネットでは普通に自身の名前が顔写真付きで晒されていた。
「だからって節操もなく根掘り葉掘り訊くのはどうだか」
美雪は僕が横たわるベッドの傍にある椅子に腰をかけた。毎日見舞いに来てくれる彼女は献身的なのか、それとも罪悪感からなのか。目が合うたびに微笑む、その悪戯な笑みからはそれは読み取れなかった。
「この前なんか患者のふりして病院内で訊き込みしてた記者がいたそうよ」
僕がここまで有名になったのは蘇生に至るドラマ性があったからだろう。ホワイトクリスマス、恋人たちが街に溢れていた。僕らもその一員だった。とは言っても、遠くの街には遊びに行けなかったので近所の公園のベンチで駄弁っていた。美雪と居れば、ただの街灯でも煌めくイルミネーションに見えた。恥ずかしくて直接言えたものじゃないが。
その帰り道、暴漢に襲われた。突然切りつけられて、余りの痛さに僕はその場に転がり込んだ。激痛に襲われながらも美雪を守ることだけを考えていた。恐怖のあまりその場に座り込んだ彼女に暴漢は無言で刃物を振り上げた。右腕の痛みに耐えながら、そいつを後ろから突き飛ばした。馬乗りになったが負傷した身体では少し揉み合っただけで形勢が逆転した。胸に走る衝撃、赤い飛沫、男の喘ぎ、朱に染まる雪、少女の悲鳴、それらが一瞬の出来事だった。
「まあ、無差別殺人鬼から少女を救ったヒーローだもんね。私は晒されなくって良かった」
「本当に晒されなくて良かったな。おかげで君は世間ではアイドル並みの美少女ってことになってる」
僕の嫌味に美雪は傷口を軽く突いた。痛みに身体が仰け反った。きっと彼女の綺麗な髪は角を隠すためのものだろう。
死力と言うのだろうか。僕は最後の力で暴漢からナイフをもぎ取っていた。凶器を奪われた男はその場からすぐに立ち去ったそうだ。美雪は無事だった。
病院に担ぎ込まれた僕は手の施しようがない状態だった。自身でもそれは理解出来ていた。美雪や両親の呼び掛けが徐々に遠のいていくと、全身の痛みも引いていった。脳裏に走馬灯が走った。それから身体が燃え上がるような熱さを感じ始めた。これが死なのか。予想外の死に際の感覚に僕の意識は呼び戻された。雪に濡れた箇所が異常なほど熱い。僕の身に起こったことは奇跡としか言いようがなかった。突き刺された心臓が急速に再生し、脈を打ち始めた。同様に胸の傷も有り得ない速度で回復した。
「本当に君たちは仲睦まじいね。傷の具合はどうだい」
美雪と戯れていると主治医が顔を出してきた。彼の言う傷とは右腕の傷である。胸部の傷は治癒していたが、腕の傷には奇跡は作用しなかった。
「まだ少し痛みがありますね」
「そうか、ちょっと見せてくれ」
主治医は丁寧に包帯を取ると、怪訝な顔をした。僕の腕には傷跡一つなかった。
「ちょっと痛がってたのは演技なの」
美雪は笑いながら肩を小突いてきた。冗談なのではない僕は確かに先ほどまで傷の痛みを感じていたのだ。今朝も自身で包帯を解いたが傷跡ははっきりと残っていたはずだ。主治医の表情から困惑していることが読み取れた。
「今日にでも、退院しても大丈夫そうだね」
彼の言葉には恐れがあった。いち早くこの異質な者を追い出したい、遠ざけたい感情があったのだろう。彼の言葉通り、僕はその日の夕方には退院することが出来た。取材陣を撒くために裏口からひっそりと病院を後にした。少し離れた駐車場で両親が待っていた。父は辺りを警戒し、匿うように車内の後部座席に僕を招き入れた。母が深く被っていた帽子を取って顔を確認してきた。それからすぐに車は発進した。
「退院おめでとう。家の前の記者は追い払っておいた。今日はゆっくり休みなさい」
正面出入り口で屯する記者の群れを尻目にすると、それまで無言だった父が喋り出した。二人は優しく温かく僕を向かい入れてくれた。ただそれだけがとても心に染みた。
それから数日経ち、復学することになった。僕は復学することに消極的だった。学校に行っても教室まで足を運ぶことが出来なかった。好奇の目を向けられるのではという嫌な想像があった。もっと大きな懸念があった。何かの拍子に自身が異質な存在だと気づかれてしまったらと想像すると、とても級友たちと自然に上手く接することが出来ないだろう。そういう恐怖感があった。
前日に僕はある疑念を確かめるために行動を起こした。風呂場でカッターナイフを使って手首を切りつけた。夥しい血が噴き出し、激しい痛みを感じた。しかし出血はすぐに止み、痛みも消えた。湯で手首の血を洗い流すと無傷だった。確信した。僕は人間であって人間でない者になってしまったのだと。
校内の避難所として僕は図書室を選んだ。保健室ではあれこれ訊いてくるカウンセラーが煩くてしょうがなかった。適当に本を手に取ると席に着いた。授業時間だというのに僕以外にも数人の生徒がいた。見るからに根暗な不登校たちといった感じだ。名作漫画を読み耽るオーバル眼鏡の男。机に突っ伏している長髪、辛うじて制服から男だと分かった。一番端に座る外見に無頓着な女は洋書を読んでいた。
「どうして教室に顔出さないの」
しばらくすると美雪が現われた。気がつくと一限目が終わっていた。
「さあね」
「さあねって、まさか物珍しがられるのが嫌でこないの。意気地なしだなあ」
「暴漢に勇敢に立ち向かった僕に意気地なしはないだろ」
「それとこれとは別」
美雪は僕の頬に唇を当てると逃げように図書室から出て行った。彼女はいつも望んだものをくれた。変らず接してくれる相手が今一番必要だった。あの日から僕だけが変ってしまった。これは不死なのだろうか。身体をバラバラに引き裂いても生きていられるだろうか。もしかすると不老かもしれない。老いることなく寿命という概念から解き放たれて、得をすることなどあるのだろうか。周囲の人間が当たり前に経験出来ることが今の僕には出来なくなってしまったのだ。悲観的な考え方かもしれないが、漠然と他人と大きく変わってしまった自身に嫌悪感を抱いていた。
それからというもの図書室通いが続いた。気がつくと図書室の住人とは会釈する程度の関係を築くに至っていた。眼鏡はいつも漫画を読んでいたし、長髪はいつも机に顔を沈めていた。端に座る文学少女はいつも洋書を読んでいた。一昨日は英語、昨日はフランス語で今日はドイツ語、一体彼女は何ヶ国語理解出来るのだろうか。というか本当に読んでいるのだろうか。そう言う僕は一ヶ月経つというのに一冊も読了していなかった。
「クールな文学少年くんは今日もその本ですか」
「ああ、何回読んでも飽きないお気に入りでね」
美雪は暇さえあれば図書室に足を運んでくれた。万人受けしそうな笑顔はいつも以上に輝いて見えた。彼女は希望である。唯一僕に変哲なく接してくれる。両親ですら自身を奇異な目で見てくるのだ。退院後初登校の前日に両親は僕が学校に行くことに対して「大丈夫か」と尋ねてきた。あの言葉は優しさからだろうか。死んだ人間が生き返ったという、生死の概念を覆した畏怖が込められていた。彼らは異質な存在を外に出したくないのではないだろうか。今の僕は個人の意思を尊重して外界と接する機会を許されているだけなのだ。
「ねえ、人の話聴いてるの」
「え、何」
僕は虚空の一点を見つめ、考え込んでいた。彼女の話はちっとも耳に入っていなかった。
「もうすぐ誕生日なんですけど」
「僕の誕生日はまだ先だ」
「私の」
げっ歯類のように頬を膨らませると美雪は図書室から立ち去った。誕生日か、はたして僕は歳を取るのだろうか。永遠に高校生の身体のまま生き続けなくてはならないのだろうか。
その週の休日に久々に美雪とデートした。普段の悩みを掻き消すために僕は思いっきり彼女との時間を楽しむことにした。冬の終わりを名残惜しむためにスケート場に足を運んだ。
「何で滑れないのにスケートにしたの。格好悪い」
スケートリンクの真ん中に立った彼女がそう叫んだ。
「時には駄目な自分も見せておこうって思ったんだよ。完璧すぎるとつまらないだろ」
僕は手摺に掴まり生まれたての小鹿のように震えていた。
「何でそんなに滑れないの」
「こけるのが怖いんだ」
「一度死んだ人間がこけるの怖がってどうするの」
可笑しくて二人同時に微笑んだ。僕は暴漢に立ち向かった時と同じくらいの勇気を振り絞って、彼女の方に向かって滑りだした。とてもとても不安定な滑りだった。転倒しそうになった寸前を彼女が上手く受け止めてくれた。無邪気に笑う美雪の顔を見て、僕は打ち明ける決心をした。
「ごめん、僕は、僕はあの夜に死ねない身体になってしまったんだ」
「最近元気がなかったのはその所為だったの」
「ああ、変らず受け入れてくれるだろうか」
美雪の顔は火照っていた。言葉よりも先に表情から答えを読み取った。一年前、彼女に告白した時同じ表情だった。
「そんなに真剣に見つめられると困るなあ、大きな悩みは独りで抱えるより、二人で抱えた方が軽くなるよ」
その三日後、美雪は死んだ。交通事故だった。遺体安置所で亡骸と対面した時、顔がくしゃくしゃになるほど嘆いた。冷たくなった彼女の手を握った。もう一度奇跡が起こらないかと願った。目が充血して、息が荒くなった。平静を保てなくなっていた。
病院を飛び出すと、僕は大通りに出た。走ってきた乗用車の前に無為に飛び込んだ。全身を押し潰すかのような衝撃を受けた。数十メートル以上弾き飛ばされていた。臓器や骨、表皮は一瞬にして完治した。数秒後にはまったくの無傷だった。運転手が車内から降りて、心配の声を掛けてきて、僕は急いで逃げ出した。飛び降り、首つり、入水、焼身、思い付く限りの自殺を試したが、結果は至らずだった。
一日経つ頃には憔悴しきっていた。何十回という死を経験した。このまま当てもなく甦り続けるのだろうか。完全な死体にはなれないのだろうか。あの日の夜の公園で朝を迎えた。朝日を見ても憂鬱な気分にしかならなかった。不死の渦に飲み込まれた僕に救いはあるのか。
何日か経って、ようやく平静を偽ることが出来るようになってから、再び登校することにした。美雪の葬儀には顔は出せなかった。再び死の発作に襲われるのが怖かった。不死になっても恐れるものがある自身が情けなく、そして全てを容認してくれた彼女に申し訳なかった。
図書室の住人達にも変化があった。長髪がいなくなっていた。どうしたのか知る由もなかった。眼鏡は相変わらず漫画に夢中だった。文学少女はロシア語で書かれた本に目を落としていた。
「彼女が気になるのかい」
図書室の司書が小声で話し掛けてきた。ロイド眼鏡を掛けたその容姿は今にも平和や愛について唄い出しそうだ。
「彼女は何ヶ国語理解出来るんですか」
「彼女は解離性同一性障害とアスペルガー症候群持ちだ」
その筋違いの返答に僕は訊き返していた。司書の話によると彼女は多重人格者で且つ語学に相当秀でているそうだ。一つ一つの人格がそれぞれ別の言語を有するそうだ。ロシア語を操る今日の人格はアンナと言うそうだ。トルストイの小説から借りた名なのだろうか。
「彼女は生まれ持った障害から両親に疎まれていたんだ。一度は自身の運命を悲観し自殺を考えたこともあったそうだ。そんな彼女は死なずに生まれ変わるという逃げ道を見つけ出した」
ハッとした。生きるヒント、救いがそこにあるような気がした。僕は急かすような目つきで司書を見た。
「幾つもの人格に生まれ変わることによって辛さから逃避したんだ。毎日彼女はそれぞれの人格に生まれ変わる。その切り替えるスイッチが言語なんだよ」
図書室には肉体的に何度も甦る少年と精神的に何度も甦る少女がいた。僕は席を立つと読みかけの本を元の棚に戻し、語学書の並ぶ一画に向かった。沢山並ぶその中から一冊を手に取った。




