僕とベッカムヘアー
僕とベッカムヘアー
床屋に入ると、テレビの大きな音が耳についた。
スポーツのニュースだ。
「5月16日に引退を発表したデビッド・ベッカム氏はーー」
そうか、ベッカムは引退したのか。不思議な気持ちだった。
中学生くらいの頃、サッカーといえばベッカム。ベッカムといえばベッカムヘアーの時があったように思う。
今でこそ変に思わないけど、あの当時、頭の中心を縦に沿って立てられた髪型にはインパクトがあったし、とても流行っていた。
「どうします?」
あー、と三秒唸る。
そして、僕は告げた。
「ーーーーーーー」
「はははは!マジうける!沢田ベッカムヘアーじゃん!!」
「え?わかる?わかっちゃう?どーよ?かっこいい?」
「かっこいいかっこいい!似合ってるよ」
「希美ベッカム好きだもんねぇ~。何よ沢田、サッカー部でもないくせに。点数稼ぎぃ?」
「え?わかる?そうですその通りです!希美様のためにベッカムヘアにしたのであります!」
「ははははは!」
希美ちゃんは、お調子者の沢田の頭。ツンツンした、ベッカムヘアーに触っている。笑いながら。
僕は、それを横目で見ていた。
「おーい、早く着替えろー!女子は移動しろー!」
体育の先生がやって来た。女子は教室から移動し、男子はのそのそと着替え始めた。今日から、体育はサッカーだったはず。
「へいへいへい!どうしたどうしたぁ!」
「いけー!沢田ベッカム!」
ベッカムヘアーを揺らしながら沢田がドリブルしてくる。が、特にサッカー部でもなければサッカーをやったこともないような足取りなため、僕はそのボールを容易に奪った。
「ベッカムどうしたー!下手くそー!」希美ちゃんが楽しげに声を上げる。クラスのみんなが笑う。
「宮内君がんばれー!」希美ちゃんが僕の名前を叫ぶ。
部活の公式試合かというほど走り回った僕は、授業後、運動場端にある水場で蛇口を捻った。水道水をゴクリゴクリと飲み干す。
汗か水か、濡れた前髪が目にかかってくるのが鬱陶しい。
そんな時。
「宮内君、サッカーうまいね」
一瞬、どうしたんだと驚いたが反射的に答えた。
「一応サッカー部だし」
答えてから、なんでこんなぶっきらぼうな言葉なのか、自分に問い詰めたかった。
ふぅーん、と頷いた後。にゅっと僕の前面に顔を出して「前髪、長いね」と笑った。
それだけ言い残して彼女は去った。何が起こったのかイマイチわからなかった。現実味がない現実ってのはこういうことか、なんて思った。
そしてその日。
家に帰ると「あんた前髪目にかかってるよ、鬱陶しいわね」と母に窘められた。切っておいで、とお札を持たされ放り出される。
てくてく、と近くの床屋に行った。店に入ると、テレビの音が耳に入った。
「イングランド代表のベッカムはーー」
そこにはフリーキックを蹴り、ゴールを決めるベッカムの姿。もちろんベッカムヘアーだ。当たり前だ。
「どうします?」床屋のおじさんが言う。
僕は、あーと三秒ほど唸った。その時頭には、沢田のこと、希美ちゃんのこと、ベッカムのこと、色んなことが浮かんだ。
僕は告げた。
「ーーーーーーー」
中学二年のあの時、ベッカムヘアーにしていれば何か変わっていただろうか。何も変わっていなかっただろうか。僕にはわからない。
希美ちゃんへの淡い思い。沢田への淡い思い。ベッカムヘアーへの淡い思い。あの三秒で、浮かんだこと。例えば僕がベッカムヘアーにしたとする、部活ではみんな笑ってくれるだろう。けど、クラスに笑ってくれる人がいるだろうか。キャラが違うとこそこそ言われるだけだろうか。誰も何も言ってくれないだろうか。希美ちゃんは笑ってくれるだろうか。
今ならわかる。気にしなくていいことを気にして。大切なことが何かわかっていなかったんだ。
そして、僕には決断するほどの強さがなかった。
床屋から出る。
「あー、パパだー!」
「ほんとね」
おーいパパー、とこちらに近づいてくる。
「んー、どうした?」そういって、僕は息子を抱きかかえる。
「パパー、お腹空いたー」
「じゃ、何か食べに行こうか」
親子三人、休日の午後を歩き出す。
「髪、切ったんだ」
「ん、変かな」
「んふふ、似合ってない」
意地悪く笑う。ツンツンだー、と息子。ツンツンだね、と彼女が応じる。
「違う違う。君たちわかってないなぁ。これはただのツンツンじゃないの」
ツンツンー、と二人してけらけら笑う。
「この髪型はね」
おほん、と仰々しく咳払いして、僕は告げた。
遠い、僕の初恋。紛れもなく愛する、僕の毎日。
終わり 。






