三題囃「魔女」「二元論」「1000文字以上」
魔女の森と呼ばれた薄暗く大きな森は僕の村の近くにあり、浅い所では木の実が拾える僕だけの穴場だった。
ある日僕はいつも通りに木の実を拾いに行き、少しだけ欲が出て魔女の森の奥へ足を進めてしまった。妹が熱を出し、栄養のある木の実が沢山必要だったからだ。浅い所で手籠の半分が埋まるのだから、それよりも奥ならばもっと取れるだろう、と。
昼なのに生い茂る背の高い陰樹の葉により森の中は薄暗く、時折鳴く鳥の声が僕の心を恐怖で突つく。来なければ良かった、そう思うながらも脳裏に浮かぶのは苦しい顔の愛しい家族の顔だった。
泣き言を言えば妹の治りは遅くなるに違いないと、無謀と勇敢を混ぜ込んだ気持ちで僕は歩き続けて木の実を拾い続けた。
手籠が艶のある良質な木の実で埋まり、目標を達成した僕は膝についた枯れ草を払って立ち上がる。そして、夢中になり木に帰り道の印を付け忘れた事に気付いて青褪めた。
大人はこれをしっかりとするから森に入れるのであり、子供である僕が森に入るのを禁止された理由をその身で知ってしまった。
左右に揺れる手籠の重みは嬉しさよりも後悔に変わった。木々に遮られ太陽の位置が分からない今の状況では、帰る道を探すのも絶望極まる。木に登り太陽の位置を見ようと考えたが、領主のでっぷりした腹よりも太い幹には手が伸びず、途中で休まる事も出来ないと理解した。
どうしよう、と狼狽えながらも手籠を離さずに居た僕は立ち止まってしまった。
「坊や、どうしたんだい? このような所でお散歩かな?」
その鈴の鳴るような美声に振り返れば、黒いローブを押し上げる豊満な胸と手に持つ箒が先ず目が行き、次に雪のように美しい白肌の美麗にして妖艶な笑みを浮かべる美人顔に目が移る。
魔女だ。
そう背格好と手に持った箒や雰囲気で悟った。僕の心は恐怖よりも、美しい姿に見惚れる知らない感情に埋まっていた。
「……木の実を拾っていて迷いました」
そして、目の前の美しい魔女に嘘を吐く気になれず、正直に話した。魔女は関心した様子で僕の手籠を見やってから、僕の瞳の奥を覗くように顔を近付けた。柔らかな甘い匂いにクラクラさせ僕の頭を揺らし、胸を高鳴らせた。
「ふむ、迷い人か。……良いだろう、私の出す謎に答えられたら森の入口へ誘おう」
そう魔女はニヤリと笑みを浮かべて僕に試練を与えた。その言葉に僕は魔女の噂を思い出した。
魔女は気紛れで人に謎を解くように問いかけ、魔女が満足する答えを出したならば生きて帰れる、という噂だ。僕は今その問いかけをされている。
「分かりました」
「ほぅ……、中々肝っ玉のある坊やだな。ならば問う、善悪とはなんぞや」
善悪の問いかけは聞いた事があった。確か、何処かの学者様が二元論なる仕組みを語る際に使われる問いかけだ。なら、答えは出ているのだから簡単だ、とまで考えて出かけたそれを噛み締めて口を閉じた。
魔女はその様子に表情を少しだけ変えた。
危なかった、と僕は魔女の仕掛けたそれにまんまと嵌るところだったのだ。一般に広まる解を答えていたら死んでいたに違いない。
一般に広まっているからこそ、僕自身が考えた解を答えなければならないのだろう。
「……善と悪は総じて同じもの、それが僕の答えです」
「……ほぅ。人に尋ねれば二元論なるものを語るが、坊やは違うようだね。理由を聞いても良いかな」
「……僕の家は農家です。大地に感謝し、その栄養を野菜に封じて人を生かす生業です。たまに心無い人が野菜を盗み取ります。対価を払わず盗み出す事と、僕らが大地から栄養を取る事は変わりありません。やっている事は同じくして生きるためです。悪と断じるべき所業もまた、善と呼ばれるそれと本質は変わりません」
「……成る程。善悪は後付けでしか無いという事か。本質は生きる事であり、善悪はその見方である、か。成る程成る程」
そう魔女はくつくつと笑い、懐から僕が昨日収穫を手伝った瑞々しいトマトを取り出した。呆気に取られる僕を余所に魔女は美味そうに噛り付き、半分食べて僕に手渡した。緊張していながら言葉を発したから喉が渇いていて、僕も複雑な気分でトマトを齧った。
「……うむ。坊やの解を私は気に入った。二元論に囚われぬ良い見解だ。して、たまに盗んでいたのは私だったりするのでな。対価に坊やの妹の熱を下げておいた。美味であった」
「あ、ありがとうございます……?」
「ははっ! 礼は要らんぞ。然るべき対価だからな。では、森の入口へ誘おう。彼方に歩けば入って来た場所に出る。愉快な時間だったぞ坊や」
そう魔女は嬉しそうに僕の頭を撫でて森の奥へ歩いて行った。これが僕の人生における魔女との馴れ初めだった。