いとしいひと
※性描写っぽいもの、そして痛々しい表現あり
は、と軽く息を吐いた直後、そのひとは気を失った。細い顎が芯を失い、かくりと横向けられる。
心の臓が、止まりそうになった。
急ぎ、覆いかぶさり絡み付いていた身体を解き、全体を仰向けにする。気道確保と鼓動確認し、耳元で声を発し呼びかけた。呼吸はしており、脈はやや速いが正常、意識だけが無い。瞼を開かすと眼球が裏返りかけている。喉奥で苦しげな音。唇を被せて断続的に呼気を送り込み、過呼吸を宥めた。裸体に毛布を被せ、上から冷えたからだに被さって包み込み、血流を促進させる。
閉じた瞼が、細かく痙攣している。頬と仰け反った喉、胸までも青白い。
「――ッ」
生きた心地がしない。どっどっと響く鼓動が、勝手に震える自分の手が、がちがちと鳴る歯が、まるで別の生き物のようだ。乱れる息を飲み込み、意味無く叫びそうになった声を押し留め、ひたすらに体温保持と人工呼吸に努める。真っ白な頬に、赤みが通ってきた。浅かった呼吸が、徐々に深さを取り戻してゆく。
やがて肌全体に血の気が戻り、穏やかな寝息を繰り返すのみとなった。ひとまず訪れた安堵を前に、気持ちから力が抜ける。ただ、身体からはやはり、肝心なものは抜けてはいない。「途中」であったから。
おのれという醜い男を自覚するごと、自嘲と惨めさが募る。こんなときにまで、なんと滑稽で無様。
健やかに眠るそのひとを見つめ、洩れ出るは単なる謝罪だった。
「……すまない」
こんな単純なことばすら、起きているときには言えない。その事実が、おのれの愚かしさをはっきりと証明している。
○
思い出すのは、結婚して初めて迎えた朝のこと。
初夜のあと、やはりというか一睡も出来なかった。ことんと眠りに落ちてしまったそのひとを前に、こちらはぼうっとしていた。そこには様々な感情が渦巻いてはいたが、とにかく、ひたすらに、幸せだったのだ。
たった二時間と十分、そんなちっぽけなひとときで、自分のすべてが作り変えられてしまった。価値観、視点、感情の矛先、全部が転換したのだ。ひいてはこの先の人生が変わったのだと、はっきり悟った。そしてそのこと自体、まったく不快でなかったから。なるべくしてなったのだと、むしろ今までが不自然だったのだと、簡単に結論付けてしまえた。
そう、これまで生きてきた自分という男は、生きてきた振りをしたただの木偶に等しかった。このひとに出逢えて、ひとつとなって。からだを他人と繋げる真の意味での幸せを体感して、やっと自覚することが出来た。
もう、このひとと離れては生きられない。
寝入った小さな女をじっと見つめて、色々なところに触って、またぼうっとして。そのときの自分の状態を表すなら、ただ一言に終始する。阿呆だった。
そしてまた、あっという間に過ぎた数時間。自分にとっては取るに足らない数時間。薄い敷布の上で、毛布一枚もかけず、裸体のまま数時間。
か弱い人間の身体が風邪を引くには、充分なひとときであった。
しゅんしゅん、と湯沸しが沸騰を報せる。
火から下ろし、香草を散らした特製の陶器に湯を注ぐ。七枚の葉が順繰りに浮き上がってきたところで蓋をして、数分間蒸す。王都の土産物の多くは個人的に好みではないが、中には役に立つものもある。知人より譲り受けた茶葉と添えつきの香草を廃棄しないでおいて、良かった。そしてこの香茶は女が好むという与太話を覚えていて本当に良かった。自分は正直茶の芳香や色の具合などどうでもいいが、こういう場合は不備の無いように出したい。茶葉包装の裏に記してある蒸らし方を念入りに照合しながら、そう考える。
「……」
ちらり、と台の上を見て、皿の上に被せてあった布を取る。湯を沸かしている間、既に朝食は準備し終えていた。簡素であるが、味は問題ないはずだ。地元産のパンとチーズは高品質だし、昨日届いたばかりの野菜は新鮮である。惜しむらくは旬の甘味たる果物が無く、丁度狩りの日なので肉類を切らしており汁物も作れなかった。ただ、品数の乏しさを抜きにしても量が豊富なので、割かし見た目はさびしくはない。サラダと合わせる調味料はありあわせであるが、十数種作った。色々と試せば、きっと飽きも来ない。
あのひとは、どんな味を選ぶのか。どういう食物を好むのだろう。
そんなことを考えながら、意味無く手元で布をこねくり回す。自分の準備したものを、作ったものを、気に入ってくれるといい。……気に入って、欲しい。
そう願うたび、あのひとの喜ぶすがたを想像するたび、かたちの無い温みと甘い焦がれがおのれを包む。しかし高揚と共に、段々と不安も募っていった。目の前の簡素な食卓は、理想からするとあまりに不備が多い気がする。やはり、あの年ごろの娘にとって、食後の甘味が無いというのはまずい。そちら方面には疎い自分であるが、正反対の嗜好持つ知人の影響から、最低限の知識は有る。年若い女は、柔らかさや甘い感触を好むのが一般的なのだと。そして朝には、口に入れたときにさっぱりと飲み込めるものも要望する場合もある。なぜ、数日前の自分は甘い果物、もしくは舌触りの良い菓子などを定期注文しなかったのか。
過ぎ去ったことを後悔しても、仕方ない。当時のおのれが今の状態を予想出来るはずも無い。自分自身、あの幸福のかたまりが手に入ったことが未だ信じられないのだから。
「……」
胸中と口の中であのひとの名前を転がす。弄くった布をそっと食卓に戻しながら、耳朶と頬の周辺が勝手に熱くなるのを感じた。きつめの鍛錬をこなしたあとすら、これほど鼓動がうるさく感じたことはない。あのひとが起きてくる頃には、平常に戻っているといい。
そろそろ茶葉が蒸らし終わる頃だ。
あのひとはまだ寝室から出て来ない。早くここに来ないだろうか。そして、顔を見せてほしい。顔を見せたら……
・
・
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抽出した茶を温めた器に投入してから数十分。
遅い。
香茶は何も淹れ立てだけがいいというわけではない。冷めてもまた違った風味が楽しめるということで、やや早めに蒸らしたのだが。立ちのぼる湯気が完全に消えたほどに、時間は過ぎてしまった。
いくらなんでも、遅すぎる。
うろうろと台所を歩き回りつつ、もう一度台の上を見る。準備した朝食に時間の経過を心配するようなものは無いが、切り分けてから外気に晒された葉物類は春の暖気で萎れてきている。もう一度水洗いすべきだろうか。
それにしても、遅い。
しばし考え、布巾をかけた食卓はそのままに台所を出た。寝坊した妻を起こすためだ。そしてまだ寝台にいたいとぐずるようなら軽く叱ってやろうとも考えたので。この家に住む限りは、共に寝起きするのが家人たる大事なつとめ。そのことを言い聞かせ、甘い仕置きのひとつやふたつしてやろうと。勿論、すべてはそのからだに触れたいがための口実である。
廊下を歩き、寝室に数歩で到達してから勢い良くその扉を開く。部屋の最奥に寝ているそのひとに聴こえるよう、照れ隠しも含み、大声で喋りかけながら。
「いつまで寝ているつもりだ、は――、」
早く起きろ。そのことばは、全て発することは出来なかった。
扉を開けた途端、待ち焦がれていた存在が目の前に立っていたから。そうして、ぐっと引いた扉の勢いそのままに、いとしいひとはこちらに倒れかかってきた。
「!」
さらり、翻る長く美しい髪と細身のからだ。薄い衣ごしに押し付けられたそのひとの……感触。それが予期せぬ瞬間にみずから懐に飛び込んできた。
柔らかい。
咄嗟に受け止めた温もりと匂いに、落ち着かせたと思った鼓動がまた跳ね上がる。不覚にも状況判断が追いつかず、ぽかんと立ち尽くした。無反応よりはましであったかもしれないが、異変を前に棒立ちになるなど戦場でもしたことの無い失態だった。そうして小さくて柔らかい物体を抱きとめたまましばらく固まり、ややあってから脳と口が動き出す。
「ッ、お前、な」
何を、という言葉も喉奥で丸まった。ようやく真なる異変に気づいたのだ。
はあ、はあ、とそのひとの息は荒かった。伏せられた睫毛は細かく震え、その下の頬はほんのりと染まっていた。そして、身体全体が熱を持っている。軽く仰がれた瞳は茫洋とし、焦点が合っていない風情であった。
そうして、細い手首が動く。小さな手がこちらに縋り――否、身を離そうと、その芯の通っていない身体でこちらから離れようと、している。呼吸が整っていないままよろめき、小さな足がたたらを踏んだ。伸ばしかけた手は、そこでまた無様に止まる。彼女はそんな、今にも崩れ落ちそうな状態で。かすれた、声で。
「も、うしわけ、ありま、せ、」
謝罪、してきたから。
忘れていたのだ。このひとは、自分と違う種族であることを。
・
・
・
一番小さい水差しとありったけの清潔な布、敷布や毛布を引っ張り出し、諸々の用品と共に小脇に抱え、急ぎ足で寝室に向かう。寝台の上でぐったりとしているそのひとの横にそれらを置き、また急ぎ足で寝室を出た。扉は開け放してある。
食料庫から麦を荒く挽いた粒を取り出して鍋に開け、野菜物の中からいくつかえり分けて切り刻み放り込み、調味料と共に火にかけた。熱が粗方通ったところでミルクを入れ、煮立たせる。やや時間がかかりそうだ。油分は少なく、味付けは薄味で良いにしろ、最近は出汁を作り置きしていなかったことが祟っている。つくづく、肉類が無いのが口惜しい。
……今はそんな考えも、現実逃避だとわかっている。
「――人間はエルフとは違う、当たり前であろう。あれの身体を考えろ、阿呆なのかッ」
その場の煩悩と願望だけで動いていた愚かしいおのれを罵倒する。即席粥を作っている合間、台の上にある朝食と冷めた香茶――もはや用無しと成り果てた――を憎々しげに見やった。何を悠長に、こんなものを準備していたのだろう。
もとより価値のわからなかった茶は、粥が出来上がる前に流しに捨てられた。
出来た病人食と飲み水、生薬を手に、寝室に向かう。自分の足では数歩の距離。……では、あのひとの足では何歩だろうか。
開け放してある扉枠を越えて、室内に入る。この扉は重量処理が施されてある。自分の腕力では片手で開けられる程度。……なら、あのひとの腕力では?
そっと、湯気の立つ盆を寝台横に置いた。食べ物の匂いに、ふっと和む顔。……あまりに小さくて、細い骨格。薄い筋肉。丸い耳と上背の無い身体。自分とはあまりに違う、そのすがた。
なぜ、それらが頭から抜け落ちていた。
「あ、りがとう、ござい、ます」
小さな身体が起き上がり、かすれた声で礼が述べられる。要らない、と思った。
「ご迷惑、おかけして。もうしわけ、ありません」
乾いた唇での謝罪。それも要らない。
「自分で、たべられますので……」
細い肩が、震えながら恐縮している。する必要は無い。
「あ、」
戸惑う瞳が、潤みながら揺れている。こちらを見ずに。こうして、膝のあいだに抱きしめても。謝るなと、黙っていろと言い聞かせても。
「ありがとうございます、申し訳ありません」
いとしいひとは、そう言う。身を竦ませ、俯き加減で。そこには、純然たる距離間があった。……縮まらない、種族の差異が。
泣きそうに、なった。
○
そっと触れて、壊れそうなそれを壊れないように辿って、慈しませて欲しい。その資格があるのかと問われれば、無い。自分は今まで木偶であったから。自分と違うものを受け入れられず、見苦しいものをただ見苦しいと感じ、汚らわしいものをただ汚らわしいと嘲っていた。そういう了見の狭さこそが、最も忌むべき姿だとも気づかずに。そういった意向で振舞ったことなど数知れない。まともに思い起こしていたら、自分は地面に埋まるしかない。そう、本来はこのひとと結ばれる資格など無いのだ。
いとしいひとは、教えてくれた。その些細な嫌悪感の向こうにあるものを。限りの無い世界を。愛情を抱けるなら、どんな壁でも越えられることを。
しかしながら、罪に塗れたおのれが愛を請うことは、出来ない。――乞うことなど、問題外。
だから。
今夜も、いとしいひとが寝入ったあとにそっと囁く。締め付けられる胸の痛み、甘い焦がれと大きな温みに包まれながら。
短く単純な数語を。儚くも芳しい花の名。――このひとを示す、名前。
愚かな男にとっての、至上の愛のことばを。
~当時を振り返って~
Lちゃん「ぶっちゃけ大したことない微熱だったんですけど夫は夫で大騒ぎするしその後は曲解して変な習慣始めちゃうし、異種婚って大変だなあと思いました」