よるのはな
八月の初め、地元では全国的に有名な花火大会が開催される。他を知らないが、実に見事なものだと思う。
県外からも人が集まり、寂れかけた商店街がこの日ばかりは活気付いて、夜店の明かりに彩られた道を会場まで歩くのは暑さを忘れてしまうほどに楽しい。
年に一度だけ袖を通す浴衣。淡い黄色に金魚が泳ぐ古風な柄は流行の浴衣からすれば見劣りするが、祖母が買ってくれたものなので買い換えるつもりはなかった。それに朱色の帯――これも祖母が買ってくれたものだ――黄色の鼻緒が明るい下駄。これまた年に一度しか使わない朝顔の柄の扇子を帯に挟み、まとめた髪に簪をさして、ペンギンのような歩みで会場へ向かう。下駄に慣れないのだから、しかたない。
それでも夜店でたこ焼きやら牛串やらを買い込み、打ち上げ場所の河原から少し離れた場所まで歩いた。汗が首筋を伝う。この不愉快さすら夏の醍醐味と思えてくるのだから、花火の魔力たるや相当なものだ。
目的の場所を見つけて、裾と下駄を気にしながら河原へ下りた。会場から少し離れるだけで、ぐっと人は少なくなる。特にこだわりもないので、それなりにきれいに見えるこの場所が定位置になっていた。
河原の石をならして、敷物を広げて腰を下ろした。今年は友達が突然来れなくなってしまったので、一人きりの花火見物だ。少し寂しいが、花火の美しさがそれを埋めてくれるだろう。
買ってきた物をシートに広げ、喉とお腹を満たす。食べ終わるころには、そろそろ始まろうかという時間になっていた。
どんっ。
大気を揺らす音がして、とっさに視線を上げる。まだ明るい空に、それでも輝く光。
わっと歓声がして、それをかき消すように続けて空に花が咲く。風がない今日は煙も散っていかない。白と灰色の混じったそれが花火の名残を伝えていた。
始まった。一年に一度の特別な夜が。
徐々に暗くなる空に、次々と上がる花火は鮮やかさを増していく。日本人に生まれてよかったと、この時ばかりは都合よく考えてしまう。
なんて美しいのだろう。
「美しいものだな」
すぐ隣から声がして、驚いて左横を見ると、暗さの増した夜気の中に毛むくじゃらの塊がいた。大きさは四、五歳の子どもくらいだろうか。ちゃっかりと敷物の上に座って花火を見上げている。
ああ、美しい。毛むくじゃらは繰り返して、恍惚とした表情を浮かべた。いや、何もかもが毛の中に埋もれているので表情はわからないのだが、恍惚と言える声の調子だった。
こちらに話しかけているのではなく、ひとり言だ。おそらく毛むくじゃらは自分の姿が見えているなど思ってはいまい。
――人外の者。
夜の王に出会った日からこちら、どうにも人でない者が見えやすくなったようだ。妖怪だとか、幽霊だとか、おそらくはそうしたものだと思うのだが、夜の王に名があれば安心するとは低俗なことだ、と言われて以来、そう呼ぶことに抵抗が出来てしまい「人外の者」とだけ呼んでいる。
一際大きな花火があがって、その光が毛むくじゃらを照らした。やはり顔の全てが毛の中に埋まっている。どうやって見ているのかと思うと不思議で、不思議以上に可笑しく、思わず笑ってしまった。笑いが気を緩めたのか、普段は避けていたのにこちらから話しかけてしまった。
「目にかかっている毛を少しどけたら、もっと見やすくなるのではないか」
毛むくじゃらは弾かれたようにこちらを見た。確かに、こちらを見ているはずだ。どこに目があるかはわからないが。
「人のくせに、わたしを見るか」
冷たい声を聞いて背筋を汗が伝った。暑さではない恐怖によるそれに、話しかけたことを心の底から悔やんだ。見かけと中身が伴わないことがあると、誰でも知っているはずなのに。何よりこうした事態を避けるため、人外の者に話しかけないようにしていたのに。
「さて、どうして欲しい、人間。ここで殺して食おうか。それとも仲間を呼んで狩りの獲物にしてくれようか」
物騒な言葉の数々に恐怖は増す。けれどその中に怒りも生まれた。夜の王といい、人外の者たちの物言いは皆、いかにも勝手すぎやしないだろうか。
「そ、そちらこそ!」
命の危機を感じながら反論するのだ。声が上ずるのは仕方がないだろう。
「勝手にこちらの敷物の上に座ってきて、場所を借りた礼もなしか。それなのに突然に食おうだなんて、失礼じゃないか!」
周りの目があることなど、完全に忘れていた。気にする余裕が、どうしてあるだろう。
「なるほど。ここは人間の場所だったか」
毛むくじゃらは、ふっと息を吐いた。
「運がいいな、人間。わたしはこの日だけは花火を作る者たちに敬意を表して、人を殺めないことにしている」
「……それは、花火師たちに感謝しなければいけないな」
律儀なのかそうでないのか。とにかく花火のおかげで命は保障されたようだ。
毛むくじゃらは、夜の王を知っているのだろうか。問いかけたい欲求が胸の内で膨らんだが、そこは恐怖心が勝った。そもそも「夜の王」は本当の呼び名ではない。どう問いかけたものかもわからなかった。
「おおっ」
じっと見つめるこちらの視線などおかまいなしに、毛むくじゃらは花火を楽しんでいる。先ほどのやり取りなど、もう念頭にないようだ。つられるように視線を空へ戻すと、蝶々の形をした花火が連続であがっていた。続いてとんぼやハート等、丸でない形の花火が空を彩る。
「なんだ、今のは。人はこんな物まで作るようになったか」
「ハート。愛情や心臓をあの形で表現するんだ」
「……問いかけた覚えはない。話しかけるな、人間」
「こちらとて、答えた覚えはない。ひとり言だ」
負けじと言い返せば、毛むくじゃらは言葉につまって不愉快そうに鼻を鳴らした。それなのにぼそりと「はあと……奇妙な名をつける」などと言うものだから、恐怖を忘れて噴出しそうになるのを必死でおさえなければいけなかった。
その後は二人(人外の者を一人と数えていいかは、この際問わないことにした。そもそも定められてもいないだろう)時折歓声をあげ、拍手をして、空に見入った。数瞬の光を目と心の奥に焼き付けるようにして捉え続けた。見たまま、感じたままを写す技術は持ち合わせていないので、初めから写真に残すことは考えていない。記憶しよう、と決めていた。
一尺玉と言うのだったか。大きな花火が連続であがった。空は一際明るくなり、歓声も拍手も、一際大きくなる。毛むくじゃらも例外ではなかった。
「美しいな」
誰に聞かせるでもない、こちらの賛同など求めてはいない、こぼれ落ちるような賞賛の言葉。
数度首を縦に振って答えた。話しかけてはいないから、これくらい許してくれてもいいだろう。
ああ、けれど、どうしても一つだけ。
「その毛を少しどけて目を出したら、もっと美しく見えると思うけれど」
「……いいから黙って花火を見ていろ、人間」




