バツイチ令嬢、息子の上官と恋をする
「息子でしたら、今度は秋まで戻りませんよ」
「ええ。門のところで見送りました」
ヴァルゼク公爵はそう答えて、私に小さな紙包みを差し出した。
息子の友人だった。
ヴァルゼク・スレザン公爵は二十九歳。十九歳の息子とは、二年にわたる北部遠征で同じ砦を守って以来、妙に気が合うのだという。息子は尊敬する上官として語る日もあれば、賭けの取り立てが厳しい男として罵る日もある。
今日は後者だった。出発間際まで、馬上で何か言い合っていた。
「あの子、まだ何かお返ししていないものがありました?」
「銀貨を三枚ほど。ただ、そちらは本人から取り立てます。これはあなたに」
紙包みの中には、胡椒をまぶした焼き豆が入っていた。
先日、息子たちを食事に招いたときに出したものだ。私ばかり食べているのを見られ、慌てて皿を遠ざけた覚えがある。
「この店の方が辛いそうです」
「まあ。そんなお話、しましたかしら?」
「もう少し辛ければいいのに、と。最後の一粒を召し上がってから」
忘れてくださってよかったのに。
私が包みを受け取ると、公爵は玄関の向こうを見た。
「お出かけ前でしたか?」
「いいえ。今、通いの家政婦が帰ったところです」
「それなら、少しお邪魔しても?」
断る理由はなかった。
この人は息子に会いに来たのだと、つい先ほどまで思っていたことを除けば。
台所へ案内すると、公爵は私の手から包みを預かった。
「どこへ置けば?」
「そちらの棚に、お皿があります」
軍服姿で王宮の階段を上がるところを見たことがある。人に囲まれていても頭一つ高く、すぐ見つけられる人だった。その公爵が今は私の低い食器棚を覗き込み、二枚重なっていた皿を片方だけ戻している。
私がお酒を探している間に、彼は焼き豆を皿へ移してくれた。
「林檎酒しかありませんけれど」
「それをいただきます」
「普段は、もっと強いものをお飲みになるのでしょう?」
「今日はあなたと同じものがいい」
瓶の栓が抜けなかった。
さっきまで回っていたのに。
差し出された手へ瓶を渡すと彼は何も言わずに開けた。私は杯を二つ用意することに専念した。
運河へ向けて開けた窓から、荷船の櫂が水を叩く音がする。
公爵は食卓の向こうに座り、豆を一粒食べた。少し間を置いて酒を飲む。
「辛いですね」
「そう? 私は好きです」
「そうでしょうね」
彼は自分の杯を少し遠ざけた。
「明日、芝居へ行きませんか?」
私は豆を噛むのをやめた。
「私とですか?」
「ほかに、どなたか誘いたい方が?」
「いいえ。でも、あなたのお好みに合うものかしら? 私が観たいのは『大公の空棺』なんです。大きな劇場ではありませんし」
「ええ。そこの席を取ってあります」
運河の音が急に遠くなった。
私は杯を置いた。
「……私、それを観たいとお話ししました?」
「先週、切符が売り切れていたと嘆いていらしたので」
「よく覚えていらっしゃるのね」
公爵は答える前に豆をもう一粒口へ入れた。
辛いと言ったばかりなのに。
「覚えていますよ。あなたの話ですから」
◇◆◇
私はルゼニア・ラスヴェイ。
三十七歳で伯爵令嬢に戻った女である。
春先に離縁した。息子の相続権を変えず、持参金は私に返す。夫とそう取り決めて神殿の許しを得た。十八歳で嫁いだ家を出て、祖母が遺してくれた運河沿いの家で実家の姓を名乗っている。
ケシュトはもう軍に籍を置き、自分の給金で酒を飲み、私より上等な鞍を買う。母親の一人暮らしを心配するわりに、訪ねてくると食べたいものを注文し、上着を椅子に掛けたまま帰っていく。
元夫とは今も必要があれば連絡を取る。ケシュトをどの隊へ預けるか何晩も話し合ったし、生まれたばかりのあの子を間に寝かせ、夜が明けるまで眺めたこともある。
ただ、息子が家を出ると夫婦の会話は驚くほどなくなった。互いの返事を待たずに物事を決める癖がついていた。別れの相談だけはずいぶん長く話した。その時間をもっと前に取れていたら、とも思う。
一人で暮らし始めてからは夜の芝居へ通っている。
もともと好きだったのだ。前世の日本でも、電車で恋愛小説を読み、帰宅すれば配信の舞台を見ていた。
今度は貴族の娘に生まれたと知って、物語のような恋を夢見たこともある。
けれど鏡に映るのは薄い眉と少し丸い鼻。笑うと片方の頬だけ深くへこむ。社交界で美貌を噂されることもなく、縁談で結婚して母になった。息子の熱を案じて朝を迎え、靴下の泥汚れに腹を立てているうちに、前世で生きた二十八年を追い越した。
読み慣れた物語なら、とっくに最後の頁だ。
その先で、公爵に芝居へ誘われた。
翌夕、彼は濃い葡萄色の上着で迎えに来た。
私は着る服を決めるまでに二度やり直した。
一着目は元夫の親族の集まりへ行くときによく着ていた服だった。鏡の前に立った途端、誰から先に挨拶するか考え始めたので脱いだ。
二着目は襟が窮屈だった。
結局離縁したあとに仕立てた袖の短い灰青色の服を選んだ。手首から肘まで出るだけのことなのに、馬車の中では腕の置き場に困った。
「寒いですか?」
「いいえ」
「では、困っている?」
「……そんなに見ないでいただけたら、少しは落ち着くと思います」
彼は窓へ顔を向けた。
言うのではなかった。
せっかく見てくださっていたのに。
劇場では、公爵を知る人に何度か声をかけられた。
彼は私をラスヴェイ家のルゼニア嬢だと紹介した。息子の名は出さなかった。
私はそのたび、挨拶より一瞬遅れて微笑んだ。
芝居はとてもよかった。
死んだふりをして妻の貞節を試す大公と、棺の中に夫がいると承知で葬儀を進める大公妃の話だった。第三幕で妻が棺へ花ではなく請求書を入れ始めたとき、私はとうとう声を立てて笑った。
隣の肘掛けに手を置くと、公爵の指に触れた。
私が避けるより先に、彼の手が少し動いた。
指を絡められたわけではない。ただ、小指の外側が彼の指に寄りかかっている。
そのまま次の幕が始まった。
舞台では大公が起き上がった。客席が沸いた。私は笑った。隣からも笑い声がした。
手だけは動かせなかった。
帰りの馬車で、私はその場面を何度も話した。
「起き上がるのが遅かったでしょう? 二枚目の請求書のところで出てくればよかったのに」
「最初の一枚で出るべきでしょう」
「それでは奥方の『まだございます』が聞けません」
「あなたは、あの奥方がお好きでしたか?」
「ええ。ずいぶん意地が悪くて」
彼は声を立てて笑った。
「私は執事が気に入りました。棺を閉じろと言われたときの顔が」
「お気の毒でしたね。目だけで、早く起きてくれと訴えていて」
「私は、逃げろと言っているように見えましたが」
「どちらへ? 蓋は奥方が持っていたでしょう?」
公爵は何か言いかけ、笑い出した。
「そうでした。あの人、蓋を持ったまま請求書を読んでいたんだ」
「ええ。だから、なおさら意地が悪いんです」
「次は執事を見ていてください。出ていく扉を何度も見ていたので」
「ご自分が逃げたかったのね。それは、もう一度確かめないと」
「では、次の休みに」
すぐに返されて、私は彼を見た。
公爵の顔にはまだ笑いが残っていた。私が返事をするまでこちらを見ているので、頷くのに少し時間がかかった。
家に着いても話は終わらなかった。彼は玄関で手袋を外すと、今度は幕が下りる間際の大公の顔を真似た。私は笑ってしまって、居間へ通すための言葉さえうまく出てこなかった。
柱時計が十一時を打ったときも、まだ芝居の話をしていた。私は驚いて立ち上がった。
「まあ、こんな時間。よろしければ、泊まっていらっしゃいませんか?」
公爵の顔が上がった。
あまりにはっきりした変化だったので、こちらが驚いた。
「客間をお使いになって。息子のお友達ですもの、遠慮なさらず」
彼は私を見たまま、しばらく動かなかった。
それから膝に置いていた手袋へ片手を通した。
「……それなら、帰ります」
「お気に障りました?」
「いいえ。ただ、私はそういうつもりで来ていないので」
時計の振り子が鳴った。
公爵は立ち上がったが、帰りはしなかった。
「ケシュトの話をするなら、彼がいる日に来ればいい。私は二度続けて、彼のいない日に伺っています。芝居の席も、あなたを誘うために取りました」
「……ええ」
返事をしながら頬が熱くなっていく。
「知っていらした?」
私は首を横に振りかけた。
けれどできなかった。
着替えた服は二枚とも、まだ寝室の椅子に掛かっている。馬車で見つめられなくなったことを残念がっていた。芝居の最中も、手を引こうとはしなかった。
「……違ったら、恥ずかしいと思っていました」
彼の手袋が握り直された。
「違いません」
胸の下で、何かが頼りなく揺れた。
公爵は一歩近づき、そこで止まった。
「ルゼニア。私はあなたを口説きに来ています」
前世で読んだ物語には、もっと気の利いた返事をする女性がいくらでもいた。
私はその誰の真似もできず、この人の上着の葡萄色が灯りの下ではずいぶん濃く見えると思っていた。
「いつから、ですか?」
「先月、ここで食事をしたでしょう? あなたが芝居の王様を真似た夜です」
忘れていたことを思い出させられた。
ケシュトは眠りかけていた。公爵が笑ってくれたので、私は調子に乗り、騙された王の最期の台詞までやったのだ。
「……あれは、少し飲みすぎていたの」
「私はあのあと、観に行きました」
「あのお芝居を?」
「王が出てくるたび、あなたが隣にいればと思っていた。役者が真面目に話しているのに、私はあなたが台詞を忘れて笑ったところを思い出していて」
自分の頬に手を当てた。今、どういう顔をしているのか分からなかった。
「それから、あなたに会うための用事を考えるようになりました。用事なしで来る勇気が出たのは昨日です」
「あなたでも勇気が要るの?」
「お友達ですもの、と客間を勧められるくらいには」
私は口を押さえた。
笑っていいのか分からなかった。けれど彼が先に笑ったので、少しだけ息ができた。
「私、今日のお芝居をずっと楽しみにしていたんです」
「ええ」
「でも、お迎えにいらっしゃるまでは、服のことばかり考えていました。おかしいでしょう? 誰も舞台より私を見るわけではないのに」
「私は見ましたよ」
彼の目が袖から出た私の腕へ落ちた。
「あまり見るなと言われたので、途中から苦労しました」
息を吸おうとすると、彼が近くなった。
立ち止まったままの私へ、ゆっくり顔を寄せてくる。あの小さな劇場で隣り合ったときよりも、ずっと近い。
私は彼の胸へ手を置いた。
「手袋を外してくださらない?」
彼はすぐには返事をしなかった。
私の手元を見て、それから手袋を抜き取った。もう片方と一緒に椅子へ落とす。
頬に触れた手は、驚くほど温かかった。
唇を重ねられて、私は彼の上着を押さえていた手を緩めた。代わりにその下の腰へ触れると、口づけが一度止まった。
「……そういう触り方をなさるなら、今夜帰るのが難しくなる」
「帰らなくてはいけないの?」
自分の声が、いつもの声に聞こえなかった。
彼は私の頬を支え直した。
「今夜は。……困ったな。そう決めてきたんですが」
私は頷いた。
頷いたのに、もう一度彼の口元へ目がいってしまった。
その夜、公爵が玄関を出るまでには、時計がもう一度鳴った。
◇◆◇
恋人ができたからといって、私の顔が急に美しくなることはなかった。
寝不足なら瞼は腫れたし、笑いすぎれば目尻に線が残った。夕方、鏡に映る自分を見て、今日は疲れた顔をしていると思うこともある。
それなのに、彼は見つけるのが上手かった。
「その顔、もう一度」
「どの顔ですか?」
「今、私の話を疑った顔」
「本当にそのお値段だとお思いでした? あの果物、いつも買う店の倍でしたよ」
「だって、あなたが一つ余分に買ってもいいと言うから」
「おいしかったからです。お安かったからではありません」
彼は妙に嬉しそうにしていた。
王宮の帰りに私の家へ寄り、二人で市へ出た日のことだ。公爵が買い物袋を持っているので、露店の主人には何度も見直された。
服地を売る女主人に連れ合いかと聞かれたとき、彼は首を振った。
「恋人です。私の家にはまだ来ていただけなくて」
「あら。お待ちなんですってよ」
女主人は私へ笑いかけ、私が眺めていた深緑の布を広げた。
公爵は私の暮らしへよく来るのに、私は彼の屋敷へ行ったことがなかった。
いずれ伺うわ、と答えていた。
大勢の使用人がいる家で、どんな顔をしてこの人の隣に立てばいいのか、まだ見当がつかなかったのだ。
公爵がいない日は、観た芝居の話を手紙に書いた。返事には好きな場面の感想と、私が見落とした台詞が混じっている。次の一通を書く前に会えてしまうことも多かった。
夜、二人きりでいることにも少しずつ慣れた。
玄関で別れるとき、彼は一度で済ませてくれない。
私がもう帰さなくてはと思う頃に、耳元へ短く何か言う。返事をしようと顔を向けると、そこへ口づけられる。
ある晩、私から彼の襟を引き寄せた。
自分でしておいて驚いた。彼も少し驚いたようだったが、すぐに口元が緩んだ。
「それ、今夜ずっと待っていました」
「おっしゃればよかったのに」
「言わずにしてもらいたかった」
そういうことを、平気で言う。
私は彼の肩を軽く叩いた。それを合図にしたように抱き上げられ、玄関の脇にある衣装箱へ腰を下ろされる。
床から足が浮いた。彼が間近へ来る。
「ここなら、首を痛くしないでしょう」
「私、そんなに見上げています?」
「私が近づくと、いつも」
膝の外側に彼の手が置かれた。支えているだけのはずなのに、その場所ばかり熱くなっていく。
前世では、三十代にもなれば恋愛に詳しい大人になるのだと思っていた。二十八歳までしか知らなかった私へ、教えてやりたい。
三十七歳になっても、好きな男が片膝を自分の横へつくだけで、次に何を話すつもりだったか忘れてしまうことがある。
「ルゼニア」
低く呼ばれて、私は彼の髪へ触れた。
きちんと撫でつけてあったところを、少しだけ崩してしまった。
公爵は気にしなかった。
私がもう一度触れるまで待ってから、箱の縁に置いていた手を私の背へ回した。
その日は彼を引き留めた。
迎えの馬車を帰しに彼が一度外へ出ると、私は居間の中を歩き回った。髪を直し、まだ必要のない燭台を持ち上げ、また置いた。
玄関の開く音に振り向くと、彼もこちらを見た。
私は自分の方へ手招きした。
彼がそばへ来てから、その腕を取って二階へ上がった。
◇◆◇
息子から帰省の便りが来たのは、その十日後だった。
予定より少し早く、夏の終わりに十二日の休暇が取れたという。
私はすぐに家政婦へ知らせ、寝具を日に当ててもらった。肉屋へ注文に行き、ケシュトの好きな香草を買った。本人は遠征で味覚が変わったと言い張るけれど前に帰ったときは鍋の底まで平らげている。
夜、公爵と約束した日を暦で確かめた。
息子の帰る日と重なっていた。
その隣の日もその次の日も私は指でなぞった。
十二日。
長いと思ってしまった。
慌てて便りを読み直した。食べたいものが三つも書いてあって、どれも用意してやりたかった。
暦は開いたままだった。公爵に会う日の印が、息子の帰る日の下に見えていた。
公爵にはしばらく夜の約束ができないことを伝えた。
「十二日間、ずっと?」
「せっかく帰ってくるんですもの。あの子の話も聞きたいですし」
「ええ。私も話したいことは山ほどあります。では、一度くらい三人で食事をしませんか?」
「ええ。それなら」
私がほっとすると、公爵は膝に置いていた帽子を見下ろした。
その顔を、見た覚えがあった。
客間を勧めた夜だった。
何か言おうと思ったが、彼の方が早かった。
「ケシュトは私たちのことを知っていますか?」
「……まだ」
「私から話しても?」
「待って。帰ってきたら、私が話しますから」
「分かりました。二人で会える日も、考えておいてください」
「あの子の予定を聞いてみないと……」
「ええ。そのうえで、あなたが会いたい日を教えてほしい」
私は頷いた。けれど暦には、まだ何も書かなかった。
そのあと、私が差し出した別れの口づけには、いつもどおり応じてくれた。
ただ、その日は一度きりだった。
◇◆◇
息子は背中に大きな荷を担いで帰ってきた。
私が抱きつくと、荷物ごと少しよろめいた。
「待って、母上。まず下ろさせて」
「早く下ろせばいいでしょう」
「その紐を、母上が握ってる」
慌てて手を離すと、息子は荷を床へ落とした。
ようやく両腕が空き、今度は私の方を抱き返してくれた。
昔は、抱きついてくるあの子を私が受け止めていた。今は背中へ腕を回しても、両手の指が触れ合わない。
息子の外套には、よその町の雨と焚き火の匂いがした。
その日はよく食べ、よく話した。
隣の部屋で息子が寝返りを打つ音を聞いていると、昔、夜中に何度も様子を見に行った頃を思い出した。
けれどもう、見に行く必要はなかった。
私は自分の寝台で横になり、眠る前に触れられるはずだった場所へ、自分の手を置いた。
三人で食事をしたのは、帰省して三日目の夜だった。
公爵は上等な酒を持って現れた。ケシュトが受け取り、銘柄を見て声を上げる。
「これは、砦のときの?」
「あのときは半分も飲めなかったので」
「飲んだでしょう? 俺が覚えていないとでも?」
彼は笑った。
私の知っている笑い方とは、少し違った。
食卓に着くと、二人は次々と思い出話を始めた。冬至祭に届いた菓子を誰が隠し持っていたか。なぜ翌朝、指揮官の部屋から空の箱が出てきたのか。
「あれは俺じゃない」
公爵は即座に言った。
「では、包み紙まできれいに火へくべていたのは?」
「ケシュト。お前は本当に、余計なところばかり見ているな」
俺、と言うのを初めて聞いた。
声が低く、言葉の終わりが短い。息子のくだらない冗談へ、同じくらいくだらない冗談を返している。
私は皿を持ったまま、その横顔を見てしまった。
いつも私の食卓では、こちらの話をよく聞き、話し終えるまで待ってくれる人だった。
息子には待たない。途中で遮り、言い返し、また笑う。
仲のよい二人を見ているのは楽しかった。
楽しいのに、私もその声で呼ばれてみたくなった。
「母上、どうしたの?」
「何でもありません。もっと召し上がる?」
「今、いただいたばかりだろ」
息子の皿には、肉が二枚重なっていた。
私は慌てて取り分ける手を止めた。
公爵がこちらを見た。目が合って、なぜか私の方が逸らしてしまった。
食後、ケシュトが荷物の中から遠征地の地図を探しに行った。
公爵は私の隣へ来た。
「楽しい夜です」
「ええ。あの子、あなたが来るのを楽しみにしていたんですよ」
私もと言えばよかった。
そう思ったときには、もう次の言葉が出ていた。
「また、あの子のいるうちにいらしてくださいね」
彼の指が、私の肘のすぐそばへ触れた。
私は扉を見た。
それだけだった。
大きく身を引いたわけでも、何かを言ったわけでもない。ただ、息子が戻ってくる方を見た。
公爵の手が下りた。
そのあとも彼は上機嫌で、地図を広げたケシュトの話を聞いた。北の村の名前を一つ訂正し、酒を注ぎ足そうとする息子に、明日の朝を考えろと言った。
帰り際、私だけが玄関へ見送りに出た。
公爵は手袋を嵌めながら尋ねた。
「今夜のように、ケシュトに会いに来るのは構いませんか?」
「ええ。もちろん」
「あなたに会いに来るのは?」
返事が遅れた。
廊下の奥から、息子が何かを落とす音がした。
私はそちらを見てしまった。
彼は手袋の指を一本ずつ直し、外套を取った。
「ルゼニア。君と二人で会う日は、考えてくれた?」
君、と呼ばれた。
さっきまで、息子に向けていた声に近かった。
私はようやく、彼の顔をちゃんと見た。
「あの子が帰るまでは……」
「また、あいつがいなくなるのを待つの?」
少し尖った声だった。公爵も言い終えて口を閉じた。
私は息子の部屋へ続く廊下を見た。ここでも、あの子の話にしてしまった。
「息子の前で、どんな顔をしたらいいのか分からないんです」
彼の目が少し細くなった。
「私もですよ」
「あなたも?」
「友人に会いに来て、その母親に触れたくて仕方がない。相当、困っています」
公爵の視線が一度だけ私の口元へ落ちた。
「でも、私が君に会いたいことまで、なかったことにはできない」
それから扉が開いた。
「閣下、これ、忘れて……」
ケシュトが酒の木箱を持ってきた。
公爵は受け取って礼を言い、もう一度私を見た。
「今夜はこれで。おやすみなさい」
彼は私に触れずに帰っていった。
◇◆◇
「閣下と、何かあった?」
翌夕ケシュトが唐突に聞いた。
私は卓上の香草を一本つまんだまま固まった。
「どうして?」
「昨日、二人とも変だったから」
「変って、どんなふうに?」
「母上は俺の行く先ばかり気にしていたし、閣下は母上の顔ばかり見ていた」
私は香草を皿へ置いた。
隠していたつもりなのに、気にしていることは態度に出ていたらしい。
公爵と二人きりになりたかった。けれど息子に見られるのが怖くて、彼が近づくたびに扉を見ていた。
息子と話している間さえ、そんなことを考えていた。
「喧嘩したの?」
「……喧嘩は、していないわ」
「なら、今度の休みに狩りへ行ってもいいかな? 母上のことがあるのに、誘ったらまずいかと思って」
息子は私の返事を待っていた。
自分も公爵に会いたいから誘う。それだけのことが、この子にはできる。
私は手を拭いた。
「ケシュト。今夜は家にいる?」
「いるよ。明日は朝から、父上のところへ顔を出すけど」
「そう。では、戸締まりをお願いね。私、出かけてきます」
息子は私の服を見た。
「今から?」
「ええ。着替えたら」
「どこへ?」
昨日、公爵が待っていた返事を、まだしていなかった。
「ヴァルゼク様のお宅へ」
ケシュトが黙った。
私の顔を見て、皿を見て、もう一度私を見る。
「……母上。それは、昨日の話をしに?」
「その話もしたいわ。でも、会いたいから行くの」
口にすると、会いたさがますますひどくなった。
あの人の手に触れたい。口づけたい。自分の知らない声で笑うところも、もっと近くで聞いてみたい。
「私、あの方が好きなの。お付き合いしているわ」
息子の眉が動いた。
「……そんな気はしてた」
「あら、分かっていたの?」
「いや、分かってはいなかったけど」
ケシュトは私の顔をじっと見た。
「な、なに?」
「ほら、やっぱり。帰ってきたときから思ってた。母上、前よりずっと綺麗になったから」
私は頬へ手を当てた。息子は少し目を逸らした。
「それで、いつから?」
「初夏から。あなたが、次の任地へ発ったあとよ」
「俺には、言わないつもりだった?」
「帰ってきたら話すつもりだったの。でも、恥ずかしくて言えなかった。黙っていてごめんなさい」
ケシュトは椅子の背へ体重をかけた。
それから顔をしかめた。
「俺は、あの人と母上のことを話したこともあるんだけど」
「ええ」
「……何を話したっけ?」
私も少し心配になった。
けれど今から聞き出すのはやめた。
「あの方にも話していただくわ。二人とも、あなたに知らせずにいたのだから」
「話すよ。それは、絶対に」
息子は天井を見た。
私は着替えに行こうとして、立ち止まった。
「それから、今夜は泊まってくるつもりです。あの方がよければ。明日の夕方には帰るわ」
ケシュトの椅子が鳴った。
立ち上がったのかと思って振り返ると、まだ座っていた。
「母上」
「何?」
「いや……待って。今のところから、俺は何と答えればいいんだ?」
困りきった声だった。
私はやっと少し笑った。
「私も初めてで、うまい伝え方が分からないの。でも、どこへ行くかは知っていてほしかった」
彼は片手で髪をかき回した。
「鍵は掛ける。馬車で行って」
私は頷いて、自分の部屋へ入った。
着るのは、深緑の服にした。
胸元の留め具を掛けながら、鏡を見た。鼻も眉も、昨日と同じだった。唇だけ、何度も噛んでしまったせいで赤い。
口紅は少しにした。
あの人の服に、つけてしまうかもしれない。
そう考えたところで、指が止まった。
私は三十七歳だった。
こんなことを考えながら会いに行く自分を、息子には見られたくなかった。
でも、その顔を見てほしい相手がいる。
私は馬車を呼んだ。
◇◆◇
スレザン公爵邸の門には、青白い灯火石が四つ灯っていた。
馬車が停まると門番が来た。
名を告げ、約束がないことも伝えると、彼は人を呼びに走った。
私は馬車の中で待った。
家に来てくれるのを待っている方が、よほど楽だった。もし外出していたら。もし、今夜は会う気がないと言われたら。
手袋の縫い目をいじっていると、屋敷の玄関が開いた。
公爵が出てきた。
上着を着ていなかった。襟元も緩めている。階段を下りる途中で片方の袖を下ろしていた。
私は馬車の扉を開けた。
「ルゼニア?」
迎えに差し出された腕へ触れ、地面に降りる。
「突然ごめんなさい。お客様がいらっしゃる?」
「いいえ。食事を済ませたところです。何かあった?」
私は首を振った。
「会いに来たの」
彼は私の手を支えたまま、動かなくなった。
「ケシュトは?」
「家にいるわ。今夜は帰らないと、言ってきました」
公爵が短く息を吸った。
私の顔から、肩へ掛けた外套へ、それからまた顔へ視線が戻ってくる。
「私のところへ来ると?」
「ええ。あなたが好きだって、話してきたわ」
彼は私の手を離した。
その一瞬、胸が冷たくなった。
けれど次には、両腕で抱き寄せられていた。
外套の留め具が彼の胸へ押しつけられる。私はそこを少しずらして、もっと近くへ寄った。
「……せめて、玄関の中までは待つつもりだった」
髪のすぐ上で言われた。
「門番の方が、見ていらっしゃるわ」
「ええ。今夜の私は、ずいぶん分かりやすいでしょうね」
頬に彼の息が触れた。
「今、話をしようとすると、相当みっともないことを言いそうだ」
「私もなの。聞いてくださる?」
彼が少し体を離した。
「息子に、嫉妬してしまったわ」
公爵の眉が上がった。
「あなたたちが楽しそうに話しているのを見て。私は知らないことばかりで、あの子はあなたが遠慮なく話すところも知っていて。私もそばへ行きたかったの」
彼の口元に笑みが浮かんだ。
私はその腕を押した。
「笑わないで。言うのを、やめようと思ったくらいなんだから」
「嬉しくて。そう言っても怒る?」
答えようとしたところへ、玄関の方から控えめな咳払いが聞こえた。
私は慌てて彼の腕から身を離した。
公爵は笑みを消しきれないまま、私を屋敷へ連れていった。
広い廊下には絨毯が敷かれ、足音はほとんどしなかった。彼は通りかかった使用人へ私を紹介し、あとは自分で案内すると告げた。
案内されたのは、小さな暖炉のある部屋だった。
椅子には脱いだ上着が掛かっていた。卓上には封を開けたままの煙草の箱と、半分残った葡萄酒がある。窓辺の長椅子には毛布が丸まっていた。
この人が、私に会っていないときにいる場所。
私は椅子へ手袋を置いた。
「昨日は、ごめんなさい」
彼は外套を預かり、私の隣に座った。
「私の恋人だと、あの子にはどうしても言えなくて。母親が、男の方に会いたいばかりで落ち着かなくなるところなんて……」
口にするほど、取り繕うことができなくなった。
「恥ずかしかったのよ。私、自分でも、こんなふうになると思わなかった」
「ケシュトには、私も知られたくないことがある」
公爵は私の横顔を見ていた。
「あなたの家で、次の約束がもらえそうかどうか、話しながらずっと考えていることとか。帰りの馬車で、さっきもう一度抱いておけばよかったと思うこととか」
顔が熱くなった。
「それは、私も聞いていませんでした」
「そうでしょうね。隠していたので」
彼は少し笑った。すぐにその笑いが消えた。
「でも昨日、あなたがあちらを見るたび、私はケシュトの話に戻るしかなかった。あいつが部屋を出ても、あなたに近づくのをためらっていた」
「ええ」
「君に会いに来たと言ったことを、私まで取り消しているようだった」
私は隣にある彼の腿へ手を置いた。
顔を向けてくれるのを待ってから、口元へそっと唇を寄せた。
彼が追ってくる。
今度は少し長く口づけ、離れてから、もう一度私から触れた。
「次のお休み、私にくださる? あの子には、あなたに会いに行くと話すわ」
彼の指が、私の手首を撫でた。
「ええ。迎えに行きます」
「その次は、私からお誘いするわ」
公爵の手が私の手に重なった。
「そのためにも、私はケシュトと話をしないといけない」
「ええ。あの子も、あなたと話すと言っていたわ」
「怒っていましたか?」
「何をお話ししたか、思い出していたみたい。あなたに、私のことを」
彼が目を閉じた。
私も心配していたことだと伝えると、とうとう二人とも笑ってしまった。
「あの子、帰ってきたばかりなのに。急に話すことを増やしてしまったわね」
「では、今夜くらいは休ませましょう」
公爵がこちらへ向き直った。
重なっていた手が、私の腰へ移る。
「ケシュトの話は、明日にしたい」
私は頷いた。
彼の襟元へ指をかけると、顔が近づいてきた。
昼間、鏡で見た自分の鼻が、彼の頬へ押しつけられる。避けようとしたら、腰の手が私を引き戻した。
髪を留めていた櫛が、座面へ落ちた。
彼はそれを拾い、卓上へ置いた。戻ってきたとき、私を見る目が変わっていた。
「……髪を下ろしたところを見ると、だめだな」
「どうして?」
「昨日から、ずっと会いたかった」
彼はそう答えて、私の髪へ顔を寄せた。
私は彼の襟を離し、自分から両腕を回した。
◇◆◇
翌日の夕方、私たちは三人で向かい合った。
ケシュトは父親のところで昼食を済ませてから戻ってきた。私の隣に公爵が座っているのを見て、少し間を置いて上着を脱いだ。
「母上から聞きました。初夏からだと」
「そうだ」
「俺が、その間に何回、あなたと会っていたかは覚えています?」
「覚えている」
ケシュトは公爵の顔をじっと見た。
「一言くらい、先に言ってほしかった」
公爵は頷いた。
「君に話すのが怖かったのは、私もだ。彼女がまだ話していないと知って、甘えた。悪かった」
私は口を開きかけた。
けれど公爵がこちらを見ることなく、息子の返事を待っているので、やめた。
ケシュトは背筋を伸ばし、それから少し崩した。
「母上が好きだと言うなら、俺がどうする話でもないんですが」
「ああ」
「でも、すぐに今までどおりには……。昨日から、あなたに何を話したか思い出してばかりいる」
ケシュトは公爵を見たまま、卓上の杯へ手を伸ばし、そのまま飲まずに置いた。
「少し、時間をください」
「分かった」
息子は頷いた。公爵も待っていたが、なかなか次の言葉が出てこなかった。
「それと。今後、俺が失敗した話が毎回ここへ届くのは困ります」
「分かった。ただ、それなら君にも同じことを頼みたい」
息子が私を見た。
公爵も、今度は私を見た。
私は二人の顔を交互に眺めた。
「お話ししたいことが、まだおありなのね?」
「できれば、母上のいないところで」
ケシュトが言った。
少し迷った末、私は立ち上がった。
「では、外へどうぞ。私の家ですから、私が追い出されるのはおかしいと思います」
息子が笑い、公爵もつられて笑った。
二人は運河沿いへ出ていった。
私は台所で食事の支度をした。窓の向こうに二人の姿が見えたが、何を話しているかまでは聞こえない。
しばらく気になった。
それでも、覗きに行くのはやめた。
戻ってきたケシュトは私の顔を見るなり言った。
「父上には、母上から話してね。俺、どんな顔をすればいいか分からないから」
私は頷いた。
「ええ。私が連絡するわ」
「それで狩りのことなんだけど」
息子は公爵に向き直った。
「いつなら二人で狩りへ行けます?」
公爵は私との約束を確かめてから、空いている日を二つ挙げた。息子は後の方を選んだ。
私は火を弱め、もう少し酒を買っておけばよかったと思った。
食事のあと、ケシュトが自分の部屋へ戻ると、私は公爵へ声を潜めた。
「さっき、二人で何を話していらしたの?」
「それは男同士の秘密です」
公爵があまりに楽しそうに笑うので、私はそれ以上聞かなかった。
元夫には翌日、手紙を書いた。ケシュトの友人として知っている公爵と、お付き合いしていること。息子には私たちから話したこと。
何と返ってくるかは気になった。けれど書き直しているうちに息子の帰省が終わってしまいそうで、その日の使いに持たせた。
◇◆◇
ケシュトが任地へ戻る前夜、三人で食事をした。
今度は、私も公爵の隣に座った。
食卓の下で膝が触れた。私が少し押すと、彼も押し返した。息子は自分の話に忙しく、気づいていないようだった。
やがて公爵が、身分を伏せて砦の夜警を確かめに行ったときの話を始めた。南門で追い返され、ほかの門でも通してもらえなかったらしい。ケシュトは酒を注ぎながら先をせがんだ。
途中で公爵が取り皿を渡してくれた。
受け取るついでに、その手の甲を親指で一度撫でた。
公爵は話を続けたまま、渡しかけた皿を少しだけ自分の方へ引いた。
私の手も一緒に引かれた。目を上げると、口元だけが笑っている。
息子がこちらを向く前に、彼は皿を放してくれた。
その夜、ケシュトが荷造りの最後を確かめに行くと、公爵がすぐに私へ向き直った。
「さっきのは、ずるい」
「どれかしら?」
「私が話しているときに」
私は少し笑った。
「怒っていらっしゃる?」
「そんなふうに、見える?」
見えなかった。
それで今度は卓上にある彼の腕へ触れた。
彼はその手を取って、引き寄せた。私は椅子を立ち、彼のそばへ行った。
「あなたと、もっと一緒にいたいの」
つないだ手を見ながら言った。
「でも、あの子はまだ戸惑っているでしょう? 私ばかり先へ進んで、あの子の気持ちを置いていってしまわない?」
公爵が私の手を両手で包んだ。
「ケシュトが君の幸せを願わないはずがありません。君から届いた手紙を読んだあと、あいつがどんな顔をするか、私は知っています」
私は彼の顔を見た。
「それでも、あの子の話はちゃんと聞きたいわ」
「ええ。あいつとも、話を続けていこう」
私は彼の手を握り直した。
「私、あなたと結婚したいわ」
彼は私を見上げたまま、しばらく返事をしなかった。
「あなたのお屋敷へ行った夜から、考えていたの。次に芝居へ出かけたら、そのあと、あなたと同じ家へ帰りたいって」
私は彼の肩へ手を置いた。
「会う約束をするのも好きよ。でも、あなたに『そろそろお帰りください』と言うのが嫌になってきたの」
公爵は私の手を取っていた力を少し緩めた。
そのまま掌の内側へ短く唇を寄せた。
「ええ。結婚しましょう」
声が静かだったので、私は彼の顔を覗いた。
口元は笑っていた。けれど目は、ひどく真剣だった。
「公爵家のことも、これから相談してもよろしい? 私、知らないことがたくさんあるわ」
「もちろん。弟夫妻にも、改めて会ってほしい。領地の仕事や継承のことも、あちらと話をしてある」
「子供ができるかは、分からないけれど」
「私にも約束できることではありません」
彼はそう答えて、私をそばへ座らせた。
「そこを条件にして、あなたに来てほしいわけではありません」
私は頷いた。
考えなくてはならないことは、きっといくらでもある。前の結婚のときには、よく知らないまま済ませたことも。
「観劇の日が、あなたのお務めと重なったら?」
「先に観てきてください。帰ったら聞きたい」
「では、結末までお話ししますよ」
「そこは、途中で止めます」
彼が笑った。私は膝に置かれた彼の手を握った。
「それから一つ、先に申し上げておきますね」
「どうぞ」
「ケシュトはあなたの義理の息子になるわ」
公爵は少し考えた。
それから隣の部屋の方を見た。
「それは、あいつと酒を飲む前に、私にも時間をください」
私は笑った。
笑いながら彼の肩へ寄りかかると、すぐに頬へ口づけられた。
前世で読んだ物語の公爵はもっと何でも承知している人だった気がする。
息子との話を怖がり、私の一言で考え込み、触れると、こんなに喜んでしまう男だとは思っていなかった。
私はもう少しこの人を困らせたくなった。
ちょうど、廊下の奥で扉が開く音がした。
ケシュトが出てくる。
私は体を離さなかった。
息子は一度だけ足を止め、それから私たちに背を向けて酒の瓶を取った。
「閣下、少し残ってますよ」
公爵が返事をした。
私は彼から体を離し、席へ戻った。
「ケシュト。今、私からヴァルゼク様に結婚を申し込んだの。お受けいただいたわ」
息子は瓶を卓上へ置いた。
「……今?」
「ええ。今、決まったから、先に話しておきたくて」
ケシュトは公爵を見た。公爵もその目を受け止めた。
「母上から、ですか?」
「ああ。申し込まれた」
息子は卓上の瓶へ目を落とした。
「……なら、これは祝い酒だ」
椅子を引いて腰を下ろすと、公爵へ向き直った。
「閣下。先に話しておきたいことがあります」
公爵は息子の言葉を待った。
「俺の父親は父上だけです。これからも、そうだと思っています」
「ああ」
「あなたのことは尊敬しています。信頼もしているし、あなたのようになりたいと何度も思いました」
ケシュトは一度言葉を切った。
「すぐにおめでとうと言えなかったのは、あなたとの関係が壊れそうだと思ったからでもあります」
「どういうことだ?」
「友達のようでも、兄のようでもあって……父親みたいに叱られることもある。今みたいな関係です」
「小言ばかり言っていると?」
「それは今もそうでしょう?」
「そんなつもりはなかったが……」
息子の口元が少し緩んだ。けれど、すぐに公爵をまっすぐ見た。
「そういうことではなくて。俺は、何も心配せずに話せるあなたが好きだったんです」
「俺とルゼニアが結婚したら、それが変わるか?」
「分かりません。分からないから、怖かった」
ケシュトは卓上の杯へ目を落とした。
「ケシュト」
公爵は息子が顔を上げるのを待った。
「俺のことを父親だと思わなくていい。ただ、これまでどおり慕ってくれたら嬉しい。お前から狩りに誘われなくなるのは、寂しいからな」
息子の肩から少し力が抜けた。
「俺は彼女を愛しているし、お前のことも同じくらい大好きなんだ」
「……そんなこと、知ってます」
ケシュトは照れくさそうに笑った。
「母上のことも、心配でした。父上と別々に暮らすようになってからは、俺が帰るとき、玄関でいつまでも見送っていて。前より寂しそうに見えました」
私は卓上に置いた手を重ねた。
「でも、母上のそんな顔を見ていたら、今更こんなことを言うのも野暮だなと思ったんです」
「野暮じゃない。話してくれてよかった」
「そんな顔?」
私が尋ねると、息子は少し笑った。
「満ち足りた顔」
私は口元に手を当てた。
「私だけ先に幸せになって、あなたを寂しがらせないかと思っていたの」
「そう思う方が勝手だよ」
ケシュトは少し困ったように笑った。
「母上は幸せになるべき人なんだから」
私は頷き、口元に当てていた手を下ろした。息子はそれを見てから、公爵に向き直った。
「あなたなら母上を幸せにしてくださると思っています。俺からのお願いは、一つだけです」
ケシュトは背筋を伸ばした。
「母上を、よろしくお願いします」
頭を下げた息子を見て、公爵も背もたれから身を起こした。
「ああ。大事にする」
ケシュトが顔を上げると、公爵は私を見てから、また息子へ目を戻した。
「お前は本当によく彼女を見ているんだな」
「まだ親孝行は何もできていませんけどね」
「あなたが健やかにいてくれるだけで親孝行よ」
息子は私の方を向いた。
「いや。俺には母上に返しきれない恩があるよ。子供を育てるのがどれほど大変か、まだ想像もつかないけど」
ケシュトは瓶を取り上げた。私と公爵の杯へ酒を注ぎ、自分の杯にも残りを分ける。
「だから」
瓶を卓上へ置き、杯を掲げた。
「これは俺なりの、初めての親孝行です」
「ケシュト?」
「母上、おめでとうございます。お幸せに」
「ありがとう、ケシュト」
声が掠れた。私は何度も頷いてから杯を持ち上げた。
公爵も杯を寄せてきて、三つの杯が触れ合った。
息子は酒を一口飲み、私を見た。
「その代わり……もし俺が恋人を連れてきたときは、お手柔らかに頼むよ」
耳まで赤くなっている。
もうお相手がいるのかと気になった。けれど今は聞かずに、笑って頷いた。
「ええ。あなたが会わせてくれる日を楽しみにしているわ」
ケシュトは杯を置くと、いつもの調子で公爵を見た。
「それで閣下。さっきの話の続きをしてもらえます?」
「どこまで話した?」
「南門で追い返されたところです。上官だと名乗らずに、どうやって入ったか」
「どの門も駄目だった。最後には『さっきからうろついている男だろう?』と言われた」
ケシュトが吹き出した。公爵も笑って杯を持ち上げた。
今夜は、この人が息子と友人として笑うところを眺めていた。
やがてケシュトが明日は早いからと自分の部屋へ戻った。
公爵は空いた杯を卓上へ置いた。
「では、私もそろそろ」
私は先に玄関へ出た。
取ってこようとしたのは、彼の外套だった。
けれど手を伸ばす前に、彼が台所の明かりを消す音がした。この家のどこに何があるか、もう知っている。その足音が近づいてきて、私は外套を取るのをやめた。
「ヴァルゼク」
「はい」
「今夜も泊まっていらっしゃる?」
彼の視線が廊下の奥へ向いた。
今度は私がその顔を自分の方へ戻した。
「私がお誘いしているのよ」
公爵はゆっくり笑った。
玄関の明かりの下で、いつもよりずっと若く見えた。
「俺は、もう一度客間を勧められるのかと思った」
私は彼の上着の襟を引いた。
「やっと、私にもそういうふうに話してくださったわね」
「……俺、って?」
頷くと、彼は照れたように笑い、私の腰へ手を回した。
身をかがめてくれたところへ、耳元で囁く。
「今夜は、私に口説かれてちょうだい」




