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六畳一間、雨宿り、君の嘘。

作者: よっし
掲載日:2026/01/30

1


外はひどい夕立だった。安アパートの湿った空気の中で、彼女は濡れた髪を拭きもせず、僕のベッドの端に腰掛けて笑った。


「ねえ、私のこと好きになっちゃダメだよ」


その言葉が、僕に対する予防線なのか、それともただの冗談なのか、僕にはどうしても判別がつかなかった。


「……わかってるよ。そんなこと」


僕は嘘をついた。エアコンの微かな動作音と、激しい雨の音。彼女の細い肩から滴る水滴が、僕のシーツに小さな、逃げ場のない染みを作っていく。


「でも、もし好きになっちゃったら、私を殺して」


僕は彼女の目を見た。彼女は僕を見なかった。


「殺してね」と彼女はもう一度言った。


「わかった」と僕は答えた。


それからしばらく、僕と彼女はなにも話さなかった。ただ時間だけが過ぎて行った。外はひどい夕立だった。安アパートの湿った空気の中で、彼女は濡れた髪を拭きもせず、僕のベッドの端に腰掛けて笑っていた。その笑顔が何を意味するのか僕にはわからなかったし、それを尋ねる勇気もなかった。


「……ねえ、あの子がああなっちゃったのはね。多分私のせいなの」


唐突に彼女は言った。


「どういうこと?」と僕は尋ねた。


「私はずっと独りで生きるべきだったんだと思うわ」と彼女は答えた。


「どうして?」と僕は尋ねた。


「そうしたら誰も傷つくことがなかったのに」と彼女は答えた。


僕は自分が何を言っていいかわからなかったし、彼女が何を言いたいのかもわからなかった。ただ時間だけが流れた。外はひどい夕立だった。安アパートの湿った空気の中で、彼女は濡れた髪を拭きもせず、僕のベッドの端に腰掛けて笑っていた。その笑顔が何を意味するのか僕にはわからなかったし、それを尋ねる勇気もなかった。


2


彼女の名前は水無月透子といった。


僕が初めて彼女を見たのは、この安アパートの階段で、彼女が泣いているところだった。六月の梅雨空の下、彼女は二階の踊り場に座り込んで、声を押し殺して泣いていた。


「大丈夫ですか」


僕が声をかけると、彼女は顔を上げた。涙で濡れた顔は驚くほど綺麗で、僕は一瞬言葉を失った。


「あ……すみません」


彼女は慌てて涙を拭いた。その仕草がひどく不器用で、かえって涙が広がってしまう。僕はポケットからハンカチを取り出して、彼女に差し出した。


「ありがとうございます」


彼女は小さく笑って、ハンカチを受け取った。そして丁寧に顔を拭いた。


「どこかに住んでるんですか」と僕は尋ねた。


「201号室です。今日引っ越してきたばかりで」


「そうなんですか。僕は202号室です。隣ですね」


「あ、そうなんですね。よろしくお願いします」


彼女は立ち上がって、深々と頭を下げた。その動作があまりに律儀で、僕は少し戸惑った。


それから僕たちは時々、階段やゴミ捨て場で顔を合わせるようになった。彼女はいつも静かで、控えめで、誰かと話すことを避けているようだった。僕も特に話しかける理由はなかったので、会釈を交わす程度の関係が続いた。


変化が訪れたのは、七月の初めだった。


3


その日、僕は大学から帰ってくると、廊下で彼女が立ち尽くしているのを見た。彼女の部屋のドアの前で、彼女は動かずにドアを見つめていた。


「どうかしましたか」


僕が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。


「鍵を……なくしてしまって」


「そうなんですか」


「さっき公園で気づいて。でも探しても見つからなくて」


彼女の声は震えていた。泣き出しそうなのを必死に堪えているようだった。


「管理会社に連絡しましたか」


「電話したんですけど、今日はもう営業時間外だって」


「じゃあ、鍵屋を呼ぶしかないですね」


「お金が……あまりなくて」


彼女は俯いた。僕は少し考えて、言った。


「よかったら、うちで待ちますか。明日の朝まで」


彼女は顔を上げて、僕を見た。その目は警戒と感謝が入り混じっていた。


「でも……」


「別に変なことはしませんよ。ただ、廊下で一晩過ごすよりはマシかなと思って」


僕はできるだけ無害そうに笑った。彼女はしばらく迷っていたが、やがて小さく頷いた。


「すみません。お邪魔します」


それが、僕と彼女が初めてちゃんと話した夜だった。


4


僕の部屋は六畳一間の、どこにでもある安アパートの一室だった。ベッドと小さな机、それにテレビと冷蔵庫があるだけの簡素な部屋。彼女は部屋の隅の床に座って、膝を抱えていた。


「お茶でいいですか」


「はい。ありがとうございます」


僕は麦茶を二つのコップに注いで、一つを彼女に渡した。彼女は両手でコップを受け取って、少しずつ飲んだ。


「あの、本当にすみません」


「いえ、気にしないでください」


僕はベッドに腰掛けて、彼女と向かい合った。気まずい沈黙が流れる。何か話題を探さなければと思ったが、何を話していいかわからなかった。


「大学生ですか」


彼女が先に口を開いた。


「はい。二年生です」


「私も。でも最近あまり行けてなくて」


「バイトとかで忙しいんですか」


「いえ……ちょっと体調が悪くて」


彼女は曖昧に答えた。それ以上聞いてはいけない気がして、僕は話題を変えた。


「引っ越してきたのは、どこからですか」


「隣の市です。実家を出て」


「一人暮らしは大変ですよね」


「でも……出たかったんです」


彼女の声が少し硬くなった。僕はそれ以上聞かなかった。


窓の外では、雨が降り始めていた。最初は小雨だったが、徐々に激しくなっていく。雷鳴が遠くで響いた。


「雨、強くなってきましたね」


僕が言うと、彼女は窓の方を見た。その横顔は何かを思い出しているようだった。


「私、雨の日が好きなんです」


「そうなんですか」


「雨の音を聞いていると、世界から切り離されているみたいで。安心するんです」


彼女は静かに笑った。その笑顔には、寂しさが混じっていた。


僕たちはそれから、他愛もない話をした。好きな食べ物のこと、見ているテレビドラマのこと、大学の授業のこと。彼女は少しずつ緊張をほぐしていき、時々笑うようになった。


時計が深夜零時を指す頃、彼女は急に真面目な顔になった。


「あの……一つ聞いていいですか」


「はい」


「もし、誰かがあなたのことを好きになったとして。でもその人は、好きになられちゃいけない人だったとしたら。あなたならどうしますか」


突然の質問に、僕は戸惑った。


「それは……どういう意味ですか」


「その人には、人を好きになる資格がないんです。好きになられても、幸せにできない。むしろ不幸にしてしまう。そんな人だったら」


彼女は僕を真っ直ぐ見ていた。


「でも好きになっちゃうものは、仕方ないんじゃないですか」


「そうですよね。でも……」


彼女は言葉を切った。そして小さく笑った。


「ごめんなさい。変なこと聞いて」


「いえ」


僕は何か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。彼女は再び膝を抱えて、窓の外を見つめた。


雨は激しさを増していた。


5


彼女はその夜、僕の部屋で眠った。僕はベッドを譲って、床で寝た。彼女は何度も申し訳なさそうにしていたが、結局僕の提案を受け入れた。


朝になって、彼女は管理会社に連絡して、スペアキーを受け取った。僕の部屋を出る時、彼女は深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました。迷惑かけて」


「いえ、困った時はお互い様ですから」


彼女は少し迷ってから、言った。


「あの……もしよかったら、今度お礼させてください。夕飯とか作りますから」


「いや、そんな」


「お願いします。でないと気が済まなくて」


彼女は真剣な顔で言った。僕は断る理由もなく、頷いた。


それから僕たちは、時々一緒に夕飯を食べるようになった。最初は彼女が僕の部屋で料理を作ってくれた。次は僕が彼女の部屋で食事をご馳走になった。そうしているうちに、自然と親しくなっていった。


彼女のことを、少しずつ知るようになった。


彼女は絵を描くのが好きだった。部屋には小さなキャンバスと絵の具があって、時々風景画を描いていた。でもそれを人に見せることはなかった。


彼女は本をよく読んだ。特に古い小説が好きで、太宰治や芥川龍之介を繰り返し読んでいた。「滅びの美学に惹かれるんです」と彼女は言った。


彼女には友達がほとんどいなかった。大学にも行かず、バイトもしていない。貯金を切り崩して生活していた。


「お金がなくなったら、どうするんですか」


ある日、僕が尋ねると、彼女は笑った。


「その時はその時です。きっと何とかなりますよ」


でもその笑顔は、どこか諦めたようだった。


彼女のことを知れば知るほど、僕は彼女に惹かれていった。それは恋なのか、同情なのか、保護欲なのか、自分でもわからなかった。ただ、彼女と一緒にいる時間が心地よかった。


そして八月のある日、あの夕立の日が来た。


6


その日の午後、僕が大学から帰ってくると、彼女が廊下でずぶ濡れになって立っていた。


「透子さん」


僕が駆け寄ると、彼女は虚ろな目で僕を見た。


「また……鍵をなくしちゃって」


彼女の声は震えていた。体も小刻みに震えていた。


「とりあえず、うちに入りましょう」


僕は彼女を部屋に入れた。彼女は床に水滴を落としながら、ぼんやりと立っていた。


「タオル持ってきますね」


僕がタオルを渡すと、彼女は機械的に髪を拭いた。でもすぐに手を止めて、タオルを膝の上に置いた。


「どうかしましたか」


「ううん。なんでもない」


彼女はベッドの端に腰掛けて、笑った。その笑顔は、いつもと違っていた。何かが壊れたような、諦めたような笑顔だった。


「ねえ、私のこと好きになっちゃダメだよ」


突然、彼女は言った。


僕は返事に窮した。彼女の言葉の意味を測りかねた。


「……わかってるよ。そんなこと」


僕は嘘をついた。


外では雨が激しく降っていた。エアコンの動作音と雨音だけが部屋に響く。彼女の肩から水滴が落ちて、シーツに染みを作っていく。


「でも、もし好きになっちゃったら、私を殺して」


彼女の言葉に、僕は凍りついた。


「殺してね」


彼女はもう一度言った。その声は恐ろしいほど平坦だった。


「わかった」


僕は答えた。答えるしかなかった。


沈黙が流れた。長い、重い沈黙。


「……ねえ、あの子がああなっちゃったのはね。多分私のせいなの」


彼女は唐突に言った。


「どういうこと?」


「私はずっと独りで生きるべきだったんだと思うわ」


「どうして?」


「そうしたら誰も傷つくことがなかったのに」


彼女は窓の外を見つめていた。その横顔には涙が伝っていた。それが雨水なのか、本当の涙なのか、僕にはわからなかった。


「透子さん。何があったんですか」


僕は思い切って尋ねた。


彼女は長い間黙っていた。雨音だけが部屋を満たす。やがて彼女は、ゆっくりと話し始めた。


7


「私には妹がいたの」


彼女は静かに言った。


「双子の。名前は澄子。私が姉で、彼女が妹。見た目はそっくりで、性格は正反対だった」


彼女は膝の上で手を組んだ。


「澄子は明るくて、社交的で、誰からも好かれる子だった。私は内気で、人と話すのが苦手で、いつも一人でいた。でも澄子だけは、いつも私のそばにいてくれた」


「仲が良かったんですね」


「うん。誰よりも」


彼女は小さく笑った。でもその笑顔はすぐに消えた。


「でもね、高校二年の時。澄子に彼氏ができたの」


「それで?」


「同じクラスの男子。優しくて、面白くて、澄子にぴったりの人だった。澄子は本当に幸せそうだった」


彼女は言葉を切った。


「でも……私、その人のこと好きになっちゃったの」


僕は息を呑んだ。


「最低でしょ。妹の彼氏を好きになるなんて。でも気づいたら好きになってた。どうしようもなく」


「それで……どうしたんですか」


「我慢したよ。必死に。澄子の幸せを壊したくなかったから。でもある日、澄子が気づいたの。私の気持ちに」


彼女の声が震えた。


「澄子は怒らなかった。泣きもしなかった。ただ、すごく悲しそうな顔をした。そして言ったの。『お姉ちゃんが好きなら、彼を譲るよ』って」


「それは……」


「私は断った。当然でしょ。でも澄子は、それから彼と別れたの。私のせいで」


彼女は顔を覆った。


「澄子は笑顔を失った。徐々に学校を休むようになった。部屋に引きこもって、誰とも話さなくなった。私が話しかけても、返事をしてくれなくなった」


「それは……あなたのせいじゃないですよ」


「違うの。私のせいなの」


彼女は強く言った。


「澄子はね、半年後に自殺未遂をしたの。リストカットで。幸い命は助かったけど、それから精神病院に入院することになった」


僕は言葉を失った。


「両親は私を責めた。あなたのせいで澄子がああなったって。その通りだと思った。だから私、実家を出たの。澄子から、両親から、すべてから逃げるために」


彼女は顔を上げた。目は赤く腫れていた。


「でもね、逃げても何も変わらなかった。罪悪感は消えない。澄子の悲しい顔が忘れられない。私は人を幸せにできない。むしろ不幸にしてしまう」


「そんなことない」


「あるの」


彼女は僕を見た。


「だから言ったでしょ。私のこと好きになっちゃダメだって。私を好きになった人は、みんな不幸になるから」


「でも――」


「もし好きになっちゃったら、私を殺して。それが一番いいの。私がいなくなれば、誰も不幸にならない」


彼女は再び笑った。壊れた人形のような笑顔だった。


僕は何を言えばいいかわからなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も、すべて嘘のように思えた。


ただ雨音だけが、部屋に響き続けていた。


8


それから数日、僕は彼女に会わなかった。彼女は部屋に引きこもって、ドアを開けなかった。僕が何度ノックしても、返事はなかった。


心配だったが、無理に会おうとするのも良くない気がした。彼女が話したくなるまで待とうと思った。


でもある夜、僕は彼女の部屋から物音を聞いた。何かが倒れる音、ガラスが割れる音。


僕は慌ててドアをノックした。


「透子さん! 大丈夫ですか!」


返事はない。もう一度ノックする。


「透子さん!」


しばらくして、ドアが開いた。彼女が立っていた。髪はボサボサで、目は虚ろだった。手首には包帯が巻かれていた。


「どうしたんですか、その手」


「ちょっと……食器を割っちゃって」


彼女は力なく笑った。


「嘘でしょ」


僕は彼女の手を取った。包帯の下から、血が滲んでいた。


「病院行きましょう」


「大丈夫。ちゃんと処置したから」


「でも――」


「本当に大丈夫」


彼女は僕の手を振り払った。


「ねえ、入れてくれませんか」


「え?」


「あなたの部屋。独りでいたくない」


彼女の声は震えていた。僕は頷いた。


彼女を部屋に入れると、彼女はベッドに座り込んだ。僕は救急箱を取り出して、彼女の包帯を巻き直した。傷は深くはなかったが、明らかに自傷行為だった。


「どうして」


僕が尋ねると、彼女は俯いた。


「痛みを感じないと、生きてる実感がなくて」


「そんなこと……」


「でも本当なの。最近、何も感じなくなってきて。嬉しいとか、悲しいとか、そういうのが全部遠くなってきて」


彼女は自分の手を見つめた。


「このままどんどん消えていくのかな。いつか完全に透明になって、誰にも見えなくなるのかな」


「透子さん」


僕は彼女の手を握った。


「あなたは透明じゃない。ちゃんとここにいる」


「でも私、もうわからないの。私が本当にいるのかどうか」


彼女は泣き始めた。声を上げて泣いた。僕は彼女を抱きしめた。彼女は僕の胸で、子供のように泣いた。


どれくらい時間が経ったか。彼女の泣き声が止んだ時、外では雨が降り始めていた。


9


「澄子に会いに行こうと思うの」


ある日、彼女は言った。


あれから一週間が経っていた。彼女は少しずつ元気を取り戻しているように見えた。でもそれが本当なのか、無理をしているだけなのか、僕にはわからなかった。


「病院に?」


「うん。ちゃんと謝りたい。話したい。逃げてばかりじゃダメだと思って」


彼女は決意した表情だった。


「一緒に行きましょうか」


僕が言うと、彼女は驚いた顔をした。


「でも……」


「一人で行くより、誰かと一緒の方がいいでしょ」


彼女はしばらく考えて、頷いた。


「ありがとう」


それから二日後、僕たちは電車に乗って、隣の市にある精神病院へ向かった。


病院は静かな住宅街の中にあった。白い建物が、曇り空の下で冷たく光っていた。


受付で面会の手続きをする。看護師が病室へ案内してくれた。


廊下を歩きながら、彼女の手が震えているのがわかった。僕は彼女の手を握った。彼女は少し驚いた顔をして、でも握り返してくれた。


病室の前に着いた。ドアの前で、彼女は立ち止まった。


「大丈夫ですか」


僕が尋ねると、彼女は深呼吸をして、頷いた。


ドアをノックする。中から声がした。


「どうぞ」


ドアを開けると、ベッドに座っている女性がいた。透子さんと顔がそっくりだった。でも髪は短く切られていて、頬はこけていた。


「お姉ちゃん」


澄子さんは言った。その声には、驚きと戸惑いが混じっていた。


「澄子……」


透子さんは一歩踏み出した。そして床に膝をついた。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」


彼女は頭を下げた。涙が床に落ちる。


「私のせいで、こんなことになって。ずっと謝りたかった。でも怖くて、逃げて。最低な姉で、本当にごめんなさい」


澄子さんは黙っていた。その表情は読み取れなかった。


長い沈黙の後、澄子さんが口を開いた。


「お姉ちゃんは悪くないよ」


「え?」


透子さんが顔を上げた。


「私がああなったのは、お姉ちゃんのせいじゃない。私が弱かっただけ」


「でも……」


「お姉ちゃんが彼を好きになったこと、別に悪いことじゃないよ。人を好きになるのに、許可なんていらないでしょ」


澄子さんは静かに笑った。


「私、ずっと考えてた。なんで私はあんなに傷ついたんだろうって。答えはね、お姉ちゃんが完璧じゃなかったからだと思う」


「完璧じゃない?」


「うん。お姉ちゃんはいつも私のそばにいて、私だけを見てくれて、私だけの味方だった。でも彼を好きになったことで、お姉ちゃんにも私以外に大切な人ができるんだって気づいて。それが怖かったの」


澄子さんは窓の外を見た。


「私、お姉ちゃんに依存してたんだよね。お姉ちゃんがいれば大丈夫だって。でもそれは間違ってた。人は誰かに完全に依存しちゃいけないんだ」


「澄子……」


「だから、お姉ちゃんは悪くない。むしろごめんね、お姉ちゃんを苦しめて」


透子さんは立ち上がって、澄子さんを抱きしめた。二人は泣いた。長い間、抱き合って泣いた。


僕は部屋の隅で、静かにその光景を見ていた。


10


病院を出る頃には、雨が降っていた。でも激しい雨ではなく、優しい雨だった。


「ありがとう」


透子さんは言った。


「一緒に来てくれて」


「どういたしまして」


僕たちは駅まで歩いた。雨に濡れながら、でも傘はささなかった。


「ねえ」


透子さんが立ち止まった。


「私、あなたのこと好きみたい」


僕の心臓が高鳴った。


「でも、殺さなくていいよ」


彼女は笑った。今までで一番綺麗な笑顔だった。


「私、もう逃げない。ちゃんと生きる。澄子のためにも、あなたのためにも、自分のためにも」


「透子さん」


「好きになってくれる?」


僕は頷いた。言葉はいらなかった。


僕たちはそこで、雨の中で、キスをした。


それは始まりのキスだった。長い雨宿りが終わって、新しい季節が始まる、そんなキスだった。


エピローグ


それから一年が経った。


透子さんは大学に復学して、真面目に授業に出るようになった。絵も描き始めた。今度は人に見せることを恐れずに。


澄子さんは退院して、実家に戻った。まだ完全に元気になったわけではないけれど、少しずつ前に進んでいる。透子さんとは定期的に会って、話をしているらしい。


僕と透子さんは付き合っている。同じアパートの隣同士で、毎日一緒に夕飯を食べて、時々一緒に眠る。


完璧な関係ではない。時々喧嘩もするし、すれ違うこともある。透子さんは今でも時々、不安に襲われることがある。


でもそれでいいと思う。完璧じゃなくていい。傷つきながらでも、前に進んでいければ。


今日も雨が降っている。六畳一間の部屋で、透子さんは絵を描いている。雨の風景画。でも以前のような暗い絵ではなく、雨上がりの虹が描かれている。


「ねえ、見て」


透子さんが言う。


「虹、綺麗でしょ」


「うん、綺麗だね」


僕は彼女の隣に座る。彼女は僕に寄りかかってくる。


窓の外では雨が降っている。でももう、雨宿りは終わった。


これからは二人で、虹を探しに行くんだ。


【完】

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