003-滝が大陸を断つ異世界《ラグラシア》_I
003-滝が大陸を断つ異世界_I
最初に覚えたのは、油と金属が混ざった匂いだった。
鼻の奥にこびりつくような重さ。
《Falls》のピットや、古い整備ヤードで嗅いだことのある匂いに近い。
――目、開いてるよな。
そう思って、司は瞬きをする。
視界はぼやけていて、天井らしき影と、鈍く反射する金属の梁が見えた。
体は動く。指も、腕も、足も――すべて揃っている。
(……ログアウト)
反射的に、いつもの癖で操作を試みる。
だが、応答はない。
(……あれ?)
もう一度。
意識を集中させて、メニューを呼び出そうとする。
――何も起きない。
違和感が、じわじわと胸の奥に広がる。
(……バグ? サーバー落ち?)
そう考えながら、司は上体を起こした。
そこは、明らかに見慣れた《Falls》の世界ではなかった。
広い空間。
床には無造作に置かれた工具や金属片。
壁際には、用途の分からない部品やフレームが積み上げられている。
そして、すぐ近く。
低い背丈。
横に広い体格。
胸元まで垂れた灰色の髭。
(……ドワーフ?)
司の頭に浮かんだのは、そんな単語だった。
ファンタジーでよく見る種族。
そう呼ぶには、目の前の存在はあまりにも現実的で、無愛想だった。
ドワーフは、司を一瞥すると、低く、荒れた声で言った。
「起きたか」
それだけ。
司が口を開こうとした、その前に。
「妙な真似はするな。特に《Cascade》には絶対に触るな。分かるか? アレだ」
ドワーフは、顎でガレージの奥を示す。
「あとは勝手にガレージから出るな。守れるなら、しばらくは放っといてやる」
有無を言わせない口調だった。
司は一瞬、言葉を失い、それから反射的に辺りを見回した。
(……《Cascade》?)
聞き慣れた単語に、意識が引っ張られる。
視線の先。
ガレージの奥には、布を被せられた何かがあった。
左右で形の違う脚部。
継ぎはぎだらけの装甲。
明らかに正規品ではない、廃棄品の寄せ集め。
だが。
――その時点で、司はまだ知らなかった。
それを組み上げるのが、これから自分の“遊び場”になることを。
「……分かった」
司は、とりあえず頷いた。
ドワーフはそれ以上何も言わず、工具を手に取って背を向けた。
それを見送りながら、司は再び意識を内側へ向ける。
(ログアウト……できない)
試す。
もう一度。
それでも、反応はない。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
(……凛は、どこだ)
一緒にいたはずの凛の姿が、どこにもない。
周囲を見回しても、返ってくるのは金属と油の匂いだけだった。
司は、深く息を吐き、ゆっくりと現実を受け入れ始める。
――どうやら、ここはゲームの中じゃない。
それでも。
目の前にあるものは、あまりにも《Falls》に似ていた。
《Cascade》。
操縦席。
フレーム構造。
興味が、恐怖を少しずつ上回っていく。
そうして司は、
「触るな」と言われた《Cascade》に、
やがて触れずにはいられなくなる。
このガレージで過ごす、
長い七日間の始まりだった。
◆
気がつけば、四日が経っていた。
ガレージの中で過ごす時間は、昼と夜の境目が曖昧になる。
外に出るなと言われている以上、司にとって世界はこの空間だけだった。
だが――退屈は、まるでなかった。
むしろ、抑えがたい衝動が、日を追うごとに強くなっていった。
積まれた廃棄パーツ。
用途の分からないフレーム。
左右で規格の違う関節部。
(……これ、組めるよな)
そう思った瞬間から、もう止まれなかった。
拾う。
比べる。
合わせる。
左右で規格の違う脚部。
無理やり噛み合わせた装甲。
正規品とは呼べない、廃棄品の寄せ集め。
だが。
重心を取り、
関節角を揃え、
最低限のバランスを作る。
OSは載っていない。
当然、姿勢制御にも頼れない。
四日目の夜。
司は、最後の固定具を締めた。
(……立て)
願うように、そっと手を離す。
“それ”は、微かに揺れながらも――倒れなかった。
実際に搭乗し、起動させても、多少のふらつきと、強引につなぎ合わせたパーツから異音もする。
それでも、倒れることはなかった。
司は思わず息を呑んだ。
「……やっぱ、できる」
だが、その直後だった。
一歩、前へ踏み出そうとした瞬間、
機体はバランスを崩し、派手に前のめりに倒れた。
「……あ、だめか」
直立はできる。
だが、歩けない。
その様子を、少し離れた場所から黙って見ている影があった。
――ドワーフだ。
腕を組み、眉をひそめ、
明らかに、想定外のものを見る目だった。
「……おい」
低い声。
司が振り返ると、ドワーフは一度だけ機体を見やり、短く言った。
「乗れ」
「え?」
「一回、ちゃんと試す」
それが、
司にとって最初の“性能試験”だった。
結果は――最悪だった。
正規の《Cascade》。
軍用のOS。
整った環境。
にもかかわらず、司はまともに歩けなかった。
転ぶ。
起きる。
また転ぶ。
OS主導なら動く。
司が操作すると破綻する。
ドワーフは、その一部始終を無言で見ていた。
そして。
「……今日は終わりだ」
それだけ言って、試験を切り上げた。
それからの三日間。
司は、質問魔と化した。
「さっきのOS、何が違うの?」
「姿勢制御って、どこから介入してる?」
「軍用と民間で何が違う?」
「なんで俺が触ると倒れるの?」
朝から晩まで。
遠慮もなく。
ドワーフは確実に疲弊していった。
工具を握る手が荒くなり、
返事は短くなり、
最後には溜息の回数が増えた。
だが、司は止まらなかった。
知りたい。
分かりたい。
この世界と、自分のズレを。
そして――七日目。
ガレージのシャッターが開く。
外の光が差し込み、
新しい気配が流れ込んでくる。
それは――
後の片翼との出会いだった。
◆
ガルドのパーツショップを出て、輸送用トラックの荷台が閉じられたとき、ようやく「移動している」という実感が湧いた。
エンジンの振動が、床越しに伝わってくる。
金属と油の匂いはまだ鼻に残っているが、さっきまでのガレージよりも、空気は少しだけ軽い。
司は助手席に座り、無意識のうちに窓の外を眺めていた。
(……ほんと、変な世界だな)
エルフだの、ドワーフだのと呼ばれる存在。
正直、その手のファンタジー要素にはあまり興味が持てなかった。
それよりも――
《Falls》。
いや、この世界では《Cascade》と呼ばれているそれの方が、圧倒的に魅力的だった。
人型の機体。
関節構造。
駆動方式。
OSとの噛み合わせ。
そのどれもが、司の意識を強く引き寄せる。
だから、隣でハンドルを握っている“エルフ”についても、ついさっきまでは「少し見た目が変わった人間」くらいにしか思っていなかった。
だが。
ふと視線を向けたとき、司は改めて気づいた。
運転席に座る彼女は、無駄のない姿勢でハンドルを握っている。
身体にフィットしたパイロットスーツの上に、動きやすそうなジャケットを羽織った姿は、戦うための装いそのものだった。
肩口で切り揃えられた赤茶色の髪は、癖のないストレートで、走行中の振動に合わせて静かに揺れている。
長すぎず、短すぎない――実用性を優先した長さ。
横顔を縁取る輪郭は柔らかいが、どこか芯が通っている。
視線の先を捉える緑色の瞳は澄んでいて、前方の景色だけでなく、状況そのものを見通しているようにも見えた。
そして、耳。
人より少し長いそれは、誇張されるほどではないが、ゲームやアニメで見たことのある形をそのまま現実に引っ張ってきたみたいな耳だった。
(……普通に、綺麗だな)
派手さはない。
だが、隙もない。
年上かと思えば、どこか同年代にも見える。
少なくとも、司の感覚では「遠い存在」ではなかった。
(エルフっていうより……)
少し見た目が違うだけの、人間。
その認識は変わらない。
だが、運転席に座る彼女をこうして見ていると、先ほどまで抱いていた無関心は、いつの間にか薄れていた。
トラックはスラム街を抜けていく。
雑多な建物。
露店。
錆びた外装の《Cascade》。
どれもこれも、目に入る情報が多すぎて、視線が忙しく動く。
そして。
街を抜けた瞬間だった。
視界が、一気に開ける。
「……っ」
思わず、声が漏れた。
空が――裂けている。
正確には、空の一部が“割れている”ように見えた。
その裂け目から、白い水が溢れ、落ち続けている。
滝だ。
だが、山から流れ落ちるそれとは、明らかに違う。
空から、落ちている。
「……すげぇ……」
司は、ただそれだけを呟いた。
空の裂け目《セル=ラグラ》。
ナルとタルが教えてくれた、この世界の象徴。
運転席のリヴィアは、ちらりと視線を横に流し、司の様子を見ていた。
窓の外を見て、
建物を見て、
空を見て、
また別の方向を見る。
落ち着きなく、視線を彷徨わせる姿。
(……子供みたい)
そんな感想が、自然と浮かぶ。
だが、その直後。
「ねえ、あの建物なに!?」
「……ん?」
「あの《Cascade》、脚部の形、違わない!? あれ何用!?」
「……」
「あとさ、あの露店の部品! あれどこに使うの!?」
質問。
質問。
質問――これを最後にリヴィアの表情が驚愕に変わり、反射的に強くブレーキを踏んだ。
急停車。
視界が一瞬、前に跳ねる。
「っ――!」
司の身体が、シートに押しつけられる。
「……司」
低い声。
「確認するわ」
リヴィアはハンドルを握ったまま、横目で司を見る。
「あなた、《Cascade》の構造と操縦技術以外に、この世界のことをどれくらい知ってるの?」
司は一瞬、言葉に詰まった。
「えっと……」
考える。
知っていること。
「この世界では、《Falls》を《Cascade》って呼んでる」
「……さっきも性能試験の時にそんなこと口にしてたわね……」
「《Cascade》については、ドワーフって呼ばれてるのか知らないけど……ガルドから、構造とか、部品のこととか」
リヴィアは黙って聞いている。
「あと、空の裂け目《セル=ラグラ》のことは、ナルとタルから……」
そこまで言って、司は少しだけ言葉を選んだ。
「それと……たぶんだけど」
一拍。
「俺、ゲームの中にいるんじゃなくて……なんか、別の方法で“ここに来てる”」
言い切ると、車内が静かになった。
リヴィアは、深く、重い溜息をついた。
「……その話、ガルドには?」
「聞かれなかったから、言ってない」
また一つ、溜息。
リヴィアはハンドルから片手を離し、司の方へ身体を向ける。
「いい? 司」
声は落ち着いているが、真剣だった。
「私があなたを引き取った理由を話すわ」
司は、背筋を伸ばした。
「アリーナ。それから、魔物討伐依頼を一緒にこなしてほしい」
淡々とした口調。
「早い話が戦場に出てほしいの。あなたの操縦技術は、明らかに普通じゃない」
司の脳裏に、ガルドの店に運び込まれてきた機体が浮かぶ。
機体の塗装を剥ぎ落としていた、爪痕。
装甲に深く突き刺さったまま抜けなくなった、牙。
何かの体液をかけられたのか、半ば溶かされた機体。
詳しい状況は聞いていないが、外の状況は司なりに理解できていた。
「もし、それを望まないなら」
リヴィアは、一瞬だけ視線を伏せる。
「生まれつき病を抱えている、私の妹の面倒を見てほしい」
司は、少しだけ考えた。
だが、答えは早かった。
(……やっぱり)
《Cascade》の方が、勝った。
「手伝うよ」
即答だった。
「生き残るのが前提で、だけど」
リヴィアは、わずかに目を見開き――
そして、小さく笑った。
「ええ。それでいい」
トラックは再び走り出す。
空から落ちる滝の下へ。
司は、胸の奥に残るざわめきを抱えながらも、
《Cascade》のことを考えていた。
◆
街の喧騒が背後へ遠のき、舗装の荒れた道に入ったあたりで、トラックの揺れ方が変わった。
窓の外は、さっきまでの露店も人の流れもなく、代わりに低い建物と、煤けた壁と、配管の影だけが続いている。
――街外れ。
リヴィアは慣れた手つきでハンドルを切り、背の低いシャッター付きの建物の前で停めた。
表札も看板もない。けれど、外壁に残る擦り傷と、タイヤ痕と、ほんのわずかな焦げ跡が、この場所が「ただの家」じゃないと教えてくる。
「着いたわ」
司が返事をするより先に、リヴィアは降り、荷台のロックを確認し、それから家側のシャッターのスイッチに手を伸ばした。
鈍い駆動音。金属の擦れる音。
シャッターが上がっていくにつれ、油と金属の匂いが、ゆっくりと鼻腔に満ちる。ガルドのガレージとは違う――整っているのに、もっと濃い。ここは生活の匂いじゃなく、戦う道具の匂いだ。
中へ一歩踏み込んだ瞬間、司は無意識に息を呑んだ。
ガレージの奥で、白と青の《Cascade》が片膝を立てていた。
しゃがんだ姿勢のまま、微動だにせず佇んでいる。
ガルドの店にあった機体のどれよりも細身のフレーム。
肩から背中にかけてのラインが鋭く、装甲はどこか「霧」を思わせる落ち着いた色合いだ。
重量級の圧ではなく、刃物みたいな緊張がある。空間そのものを切り裂いて動きそうな――そんな印象。
そして、その機体の脇。
暗い青髪を短く切り揃えた男が、昇降式の簡易リフトの手摺にすがりながら、丁寧に内部フレームを点検していた。
工具を持つ指先は迷いがなく、動きに無駄がない。制服めいた装いは執事が羽織るようなテールコートそのものだが、その上から作業用の工具が詰まったポーチを下げ、眼差しだけが異様に冷静で、機械の鼓動を聞き取っている。
その男が機体から顔を上げた。
一度は隣のリヴィアに向いた視線が、次の瞬間には司を捉え――目を見開いた。
次の瞬間、音だけが取り残された気がした。
男の動きが、ぴたりと固まる。工具を持つ手も、呼吸すらも、いったん凍りつく。
リヴィアが気づいて、軽く咳払いをする。
「アゴン。帰ったわ」
男――アゴンは、ほんのわずか遅れて、ゆっくりと立ち上がった。背筋が伸び、完璧な所作で礼をする。
「Sir.お帰りなさいませ、Master」
声は柔らかい。けれど、目はまだ司に固定されたままだ。
リヴィアは当然のように言う。
「新入りよ。今日から、ここに住む。名前は司っていうそうよ」
司が「どうも」と言いかけた、その前に。
アゴンの口が、わずかに開いたまま止まった。
……いや、正確には、止まったのは表情じゃない。判断そのものが、停止したように見えた。執事の顔で、執事の礼を保ったまま、内部で何かが引っかかっている。
リヴィアはいつもと違うアゴンの様子に不思議そうに眉をひそめたが、数秒後、ようやく思い当たったらしい。
「……あー……そういえば」
小さく呟いて、司へ顔を向ける。真面目な声音に、ほんの少しだけ「困り」が混じる。
「司。ええと……一応、気をつけて」
「え?」
何の話だ、と司が首を傾げたところで、リヴィアは自分で納得したように一度息を吐いた。
(……いや。最悪のケースにはならない。たぶん)
その結論に着地したらしく、リヴィアは話題を切り替えるようにアゴンへ命じる。
「司のメディカルチェックをお願い。あと、この世界のこと、《Cascade》のことも、基本から説明してあげて」
アゴンはようやく視線を外し、いつもの執事の顔に戻る……戻ろうとしている、という程度の復帰を見せた。
「Sir.後程、オーダーを実行致します。Master」
司は「メディカルチェック」という単語に、現実味のない冷や汗が背中を伝うのを感じた。健康診断は嫌いじゃない。むしろ必要だ。でも、異世界でやるのは話が違う。どんな器具が出てくるのか想像できない。
そのときだった。
ガレージの奥、居住区へ繋がる扉の向こうから、控えめなモーター音が近づいてきた。
規則的な、低い駆動音。
そして、現れる影。
自走式の車いすに乗った少女が、扉の隙間から顔を覗かせた。室内灯に照らされて、まず髪が目に入る。
白銀の長い髪。背に流れるほどのロングで、動くたびに柔らかく揺れる。肌は透けるように白く、肩も腕も驚くほど華奢だ。
容姿で真っ先に目が行ったのは、耳。
リヴィアよりも細く、長い。しなやかで、確かに「エルフ」だと直感させる形。司の脳内で勝手にラベルが貼られていく。
次に、気になった目は――閉じられていた。
それが当たり前のように。まるで、まぶたの向こうで世界を見ているかのように。
彼女は、音の位置を確かめるように首をわずかに傾けてから、丁寧に問いかけた。
「……お姉様? アゴン? それと……お客様でしょうか? 初めまして。ネイラと申します。……このような格好で、失礼します」
声は柔らかく、けれど落ち着いている。お客様、という言葉の選び方が、家の中に「礼儀」が根付いている証拠みたいだった。
リヴィアは、少しだけ顔を和らげて車いすの前へ歩み寄る。
「ネイラ。体調は?」
「今は大丈夫です」
即答。けれど、どこか「大丈夫と言うのが習慣」になっている声でもあった。
リヴィアは司の存在をちらりと示しながら、さらりと言う。
「じゃあ、ちょっと目を開けて。実際に見た方が早いわ」
「……はい」
ネイラは一瞬だけ迷うように呼吸を置き、そして――ゆっくりと瞼を上げた。
赤い瞳。
宝石みたいに澄んだ赤が、灯りを受けて一瞬きらめく。司は反射的に「綺麗だ」と思っていたが、背筋がわずかに冷えた。
ネイラはリヴィアを見て、次にアゴンを見て――最後に司を見た。
そして、微笑んだ。薄く、上品に。
「……まあ」
からかうような声音。
「お姉様にも、ついに恋の季節が来たんですね」
「違う」
リヴィアの否定は速かった。速すぎて、逆に怪しいくらいだ。
「違うわネイラ。これは――事情があって、引き取っただけ」
「ふふ、そうですね。事情がおありだったんですね」
ネイラは、リヴィアの慌てた反論を、まるで風鈴の音でも聞くように受け流す。言い返さずにただ微笑んで、目をゆっくり閉じた。その仕草だけで「分かっていて言っている」ことが伝わってくる。
姉妹ならではの言い合いに、司も賑やかな家だと思ったが、すぐにネイラの目について気になり、彼女を見つめる形となってしまった。
その様子を拾ったのは、アゴンだった。執事は咳払いを一つし、司へ向けて淡々と説明する。
「ネイラ様は、生まれつき『視界残像症候群』を患っておられます」
「……視界、残像?」
「Sir.視界に入った映像が通常のように整理されず、残像が残り続ける病です……日常生活に支障が出ますので、ネイラ様は普段、あのように目を閉じて過ごされます」
司はネイラの閉じられた瞼を見て、理解したつもりになりかけて、すぐにやめた。理解した「つもり」ほど危険なものはない。実際の辛さは本人にしか分からない。
姉妹のやり取りを終えたリヴィアは、アゴンと司の会話を拾っていたのだろう、ほんの少しだけ声を低くして補足する。
「治療法を探してる。……それに思いのほか金がかかってな……。少しでも実入りが良い物を選んだ結果が、アレだ」
リヴィアが促した先には先ほどまでアゴンが整備を行っていた、白と青の《Cascade》。
そしてその言葉が、司の胸の奥にすっと落ちて、受け入れられた。
ガルドの店で見た損傷機体が頭をよぎる。爪痕。牙。酸に溶けた装甲。あれを「仕事」として受け止めているのは、ただ強いからじゃない。理由がある。守りたいものがある。
ネイラは目を閉じたまま、静かに言った。
「お姉様は、わたしのために無理をなさいます」
「無理じゃない」
「Sir.私もネイラ様に同意致しますが、一つ訂正させて頂くとしたら、無理ではなく無茶をなさいます」
「無茶もしていない」
リヴィアはすぐに返す。否定というより、言い聞かせるみたいに。
「必要なことをしてるだけ」
ネイラは小さく笑い、アゴンは呆れたように溜息を一つしてから、再度司を見つめる。
どこか熱っぽい視線で。
「Sir.……では、その“必要なこと”の一つが、そちらの方なのですね」
司は思わず、その熱っぽい視線に口を挟みそうになって、喉の奥で飲み込んだ。下手に言えば、余計に状況がややこしくなる。
リヴィアは、そんな司の様子を見て意味を理解できたのだろうと確信してから、話を前に進める。
「司。ここがあなたの居場所になる」
ガレージの匂い。白と青の《Cascade》。リヴィアの期待、執事の目線、目を閉じて微笑む妹。
全部が現実で、全部が異世界だ。
司は、胸の奥にひっかかる「ログアウトできない」感覚を、今は無理やり奥へ押し込めた。
代わりに、口にする言葉を選ぶ。
「……よろしく、お願いします。司です」
それは挨拶であり、確認でもある。ここに居てもいいのか、という。
それを聞いて、ネイラが目を閉じたまま、ほんの少しだけ笑みを深くした。
「こちらこそ。よろしくお願いします、司様」
「Sir.先ほどは挨拶もせず、失礼しました。アゴンと申します。何かご不明な点などございましたら、お気軽にお声がけください、司様」
司の紹介が終わり、ガルドの店で起きたことに整理もしたいため、まずは司と離れることを選んだリヴィア。
「まずはメディカルチェック。それから、基礎を叩き込む。あなたは《Cascade》のことだけ詳しすぎるのよ」
「え、それ褒めてる?」
「褒めてない」
即答。
司は苦笑して、けれど心のどこかで安心した。
戦う道具の光の下で、「ここから新たなスタートが始まる」と理解し始めていた。
◆
メディカルポッドの内部は、驚くほど静かだった。
透明なカバー越しに見える司は、仰向けのまま眠っている。胸の上下は規則正しく、呼吸に乱れはない。皮膚に貼り付けられたセンサーが淡く発光し、生命反応を一定のリズムで示している。
リヴィアは、少し離れた位置からその様子を見つめていた。
“眠っているだけ”に見える。
けれど、その眠りの下で、どれほどの情報が引き出されているのか――それを考えると、目を逸らす気にはなれなかった。
ポッド脇では、アゴンが端末を操作している。
流れる数値。切り替わる表示。リヴィアには意味を成さない文字列が、淡々と更新されていく。
司が眠っていることを確認してから、リヴィアは口を開いた。
「……何か、分かったことはある?」
問いは短く、けれど探るような響きを含んでいた。
アゴンは一瞬だけ操作の手を止め、画面から目を離さずに答えた。
「――ᚨᚱᛖᛋᚦᚨᚾ・ᛚᚨᚲᚱᚨ・ᚠᚨᛚᛚᛋ」
リヴィアは、眉をひそめた。
「……何?」
意味が分からない。
音としてすら、聞き覚えがない。
その反応を見て、アゴンははっとしたように顔を上げた。
「Sir.失礼しました、Master。少々、確認したいことがございまして」
完璧な所作で一礼し、すぐにいつもの調子に戻る。
リヴィアは腕を組んだ。
「説明しなさい。……一つずつ、よ」
「Sir.――」
アゴンは操作を再開しながら、順を追って話し始める。
「まず一点目。司様の健康状態ですが――特筆すべき異常は見当たりません。人工臓器、機械補助、改造痕跡もなし。完全な生体です」
リヴィアは頷く。そこまでは予想通りだった。
「ただし」
アゴンの声音が、わずかに硬くなる。
「DNA構造が、滝が大陸を断つ異世界で確認されているどの人種とも完全には一致しません」
「……一致しない?」
「Sir.――しかし、奇妙なことに」
画面が切り替わる。
「すべての人種の“根幹部分”――起源に相当する領域は、完全に一致しています」
リヴィアは、息を詰めた。
「つまり……」
「Sir.仮説の域を出ませんが、司様の遺伝系統を基点として、Master達が枝分かれした種であるという可能性があります」
言葉の重さが部屋に落ち、リヴィアはその意味をすぐに飲み込めなかった。
そんなリヴィアを視界の隅で捉えつつ、アゴンは淡々と続けた。
「二点目。細胞情報を遡った結果、司様は一度、明確に生命活動が停止しています」
リヴィアの視線が、眠る司へと戻る。
「……生命活動の停止? 一時的な心停止などではなく?」
「Sir.明確に“死亡”と判定される状態です。その後、再び生命活動を再開していますが――その前後で多少ではありますが、DNAが一致しません」
「同一人物なのに、構造が違う……?」
「Sir.」
断言。
「三点目。知識と言語の異常なまでの乖離です」
画面に、映像ログが表示される。
――少し前。
アゴンが、突然司に向かって古代言語で話しかける映像。
そして、何の迷いもなく返答する司。
彼も、リヴィアの聞き覚えのない言語を、発音に一切の乱れなく流暢に使用している。
「司様は、子供でも知っているような滝が大陸を断つ異世界の一般知識をほぼ理解しておられませんでした。しかし言語に関しては、私ですら流暢に運用できない古代言語を運用できます」
リヴィアは、無言で映像を見つめた。
「四点目。五感検査です」
アゴンは少し間を置いた。
「視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚――すべて正常範囲。しかし、平衡感覚のみ異常値を示しています」
「異常……?」
「Sir.突出している、という意味です。ご存じの通り、私は環境測定面に特化したOSですが、その私を数値上で上回っています」
リヴィアは、ガルドのガレージで見た光景を思い出す。
倒れかけて、踏みとどまり、受け身を取ったあの瞬間。
それだけでなく、うちで引き取った廃棄品の寄せ集めで自立させた異常性。
(……なるほど)
しばらくの沈黙の後、リヴィアは静かに言った。
「ガルドの店でね。司は“生体AI”として売られていたわ」
アゴンは、即座に否定する。
「Sir.――生体……、というよりも生命体である、という意味では正しいと判断します。しかしAIなどではありません。司様は、間違いなく“人”です。構造も、反応も、意思も」
リヴィアはアゴンを見た。
「……どう思う?」
問いは、答えを強要しない形だった。
アゴンは、しばし沈黙する。
やがて、低い声で語り始めた。
「Sir.――Masterもご存じでしょうが、一つのおとぎ話がございます」
かつて、滝が大陸を断つ異世界には生命が存在しなかった。
やがて空の裂け目《セル=ラグラ》から落ちた種子が芽吹き、人が生まれた。
「姿形ではなく、“落ちてきた者”としての種。――落ち人」
見た目が違っても、交わり、子を成せる理由にもなっている。
「私の結論は一つです」
アゴンは、司を見た。
「司様は、滝が大陸を断つ異世界における、人種の原点である可能性があります」
そして。
「加えて、何者かが司様に“何か”を施しています」
リヴィアは、息を吐いた。
「……注意点は?」
「Sir.今後、司様が病院へ搬送されるような負傷があれば、そこで保護・隔離される可能性が非常に高いと思われます。医療においては、このポッド以外、使用すべきではありません」
その言葉を聞き、リヴィアの表情が僅かに揺れた。
アゴンは、それを見逃さない。
「Sir.――ネイラ様の件ですね」
図星だった。
「司様の協力が必要になる可能性があります。ただし」
穏やかだが、はっきりとした口調。
「必ず説明し、了承を得てから行うべきです」
リヴィアは、肩を落とす。
「……全部、読まれてるわね」
「Sir.Masterは、分かりやすいお方ですから」
リヴィアは、呆れたように笑った。
「それより――良かったわね。待望の“男の子”が来て。好きなんでしょ?」
次の瞬間。
アゴンは両手を広げ、堂々と宣言した。
「Sir――! 未だかつて、ここまでMasterに仕えていて幸運と思った日はございません!」
リヴィアは、天を仰いだ。
「……本当にもう」
その奥で、メディカルポッドの中の司は、何も知らずに眠り続けていた。




