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Falls:Cascade  作者: C.A-yr-E.N
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009-滝が大陸を断つ異世界《ラグラシア》_VII

ブクマ、レビュ、御評価いただけると、作者のモチベに大きく関与しますっ(∩´∀`)∩ぁ

とても励みになりますので、よろしくお願いします(`・ω・´)ゞ

009-滝が大陸を断つ異世界ラグラシア_VII


 搬入用のシャッターが開き、トラックがゆっくりと中へ滑り込む。

 荷台には、例のジェネレーター。

 ミストラルが「この子」と呼んだそれは、厳重に固定され、無言のまま鎮座している。


 ガレージの奥には、白と青を基調とした一機のカスケイドが立っていた。

 リヴィアの機体――ミストシーカー。


 流線型の装甲は洗練されていて、軽量級らしい引き締まったシルエット。

 整備用のライトに照らされて、白い外装が淡く反射している。


 そのすぐ横。

 司のカスケイドは、クレーンの補助を受けながら、かろうじて立位を保っていた。


(……人生の半分も過ごしてないのに、家に帰って来たって感じるのはおかしいんだろうか?)


 自分の機体なのに、どこか他人事みたいに思う。

 仮組み状態の脚部、露出したフレーム、ところどころ残る応急処置の跡。

 立ってはいるが、まだ「立たされている」に近い。


 リヴィアは、トラックの運転席から降り大きく伸びをしてから、長い息を吐いた。


「……今日は、さすがに疲れたわね」


 声音に、はっきりとした疲労が滲んでいる。

 一日で詰め込まれた出来事を思い返せば、無理もない。


(俺も、正直ぐったりだけど……)


 アゴンがその様子を見て、わずかに苦笑する。


「Sir.それでは、お茶でもお入れいたしますので、少し休憩なさってください」


 その提案に、場の空気が少し緩む。

 “休む”という言葉が、ようやく現実味を持った。


 ――と、そのときだった。


 ガレージの奥から、控えめなモーター音が近づいてくる。


 自走式の車いす。

 その上に座っているのは、ネイラだった。


 白銀の髪が、照明を受けて淡く光る。

 相変わらず目は閉じたまま。

 細い身体が、車いすにすっぽりと収まっている。


「……おかえりなさいませ」


 静かな声。

 それだけで、ガレージの雰囲気が少し柔らいだ。


 その瞬間、ミストラルがぴくりと反応する。

 司の横で立ち止まり、ネイラの方を向いた。


 ネイラは片目だけを、すっと開く。


 視線を合わせる、というより――“確認する”動作だった。


 司は、そのやり取りを見て、少し息を詰めた。

 ミストラルとは初顔合わせのはずだ。


「はじめまして」


 ネイラが、わずかに背筋を伸ばす。


「このような格好で失礼します。リヴィアの妹、ネイラと申します」


「まぁ」


 ミストラルが、ぱっと表情を明るくする。


「私はミストラル。よろしくお願いいたしますわ」


 お嬢様口調。

 でも、動きは気取っていない。


 二人を並べて見ると、不思議な共通点があった。

 どちらも華奢で、どこか儚げで――


(……いや、違うな)


 司はすぐに考えを改める。


 ネイラは、本当に壊れそうな儚さだ。

 触れたら折れてしまいそうな、緊張感がある。


 一方のミストラルは、口調こそ上品だが、芯がある。

 放っておいても、自分で立っていられる種類の人間だ。


(華奢な見た目は少し似てるけど……中身は全然違う)


 そんなことを考えていると。


「……司さん?」


 ミストラルが、にこりと笑ったまま近づいてくる。


 そして――容赦なく、司の頬を引っ張った。


「いった!?」


「何か、失礼なことを考えましたわね?」


 指先の力が、意外と強い。


「私、視線には敏感ですし」


 ぐい、と引っ張りながら続ける。


「何を考えているか、だいたい分かりましてよ?」


 最後に、にこっと笑う。


「……すみませんでした」


 司は素直に謝った。

 反論する余地がない。


 そのやり取りを見て、ネイラは小さく微笑んだが――すぐに、その表情が曇る。


「……最近」


 ネイラの声が、少しだけ震えた。


「司さんが、こちらで生活されるようになって」


 一度、言葉を切る。


「賑やかになって、うれしい……です」


 でも、と続けようとして、わずかに唇を噛む。


「……でも、私は」


 指先が、車いすの肘掛けをきゅっと掴む。


「何一つ、協力できていなくて……」


 その言葉に、司の胸が少し痛んだ。


 リヴィアが、すぐに口を開く。


「ネイラ」


 いつもの、姉の声。


「ネイラは、居てくれるだけで、私が助かってるの」


 迷いのない言葉。

 本心だと、司にも分かる。


 でも――ネイラは、首を振った。


「……それでも、です」


 声は小さいが、譲らない。


 アゴンも続けてフォローに入る。


「Sir.ネイラ様の存在は、Masterの精神的な安定に大きく寄与しております」


 理屈としては正しい。

 でも、ネイラにとっては違う。


(……身内なんだよな)


 司は思う。

 リヴィアも、アゴンも。

 ネイラにとっては“評価する側”じゃなく、“迷惑をかけている相手”だ。


 だから、言葉が届かない。


「……ごめんなさい」


 ネイラが、はっとしたように顔を上げる。


「私……また、余計なことを言って」


 場の空気が変わったことに、自分で気づいたのだろう。


「すみません……」


 そう言って、車いすを操作し、踵を返す。


「……少し、休みますね」


 ネイラは、そのまま自室の方向へ向かっていった。


「ネイラ!」


 リヴィアが、慌てて引き留めようとする。


 だが――


「待って」


 司は、静かに言った。


 リヴィアが振り返る。


「……今は――いや」


 司は、ネイラの背中を見つめたまま続ける。


「今『だけは』、リヴィアが行っちゃダメだ」


 自分でも、はっきりした理由は説明できない。

 でも――今追いかけたら、きっと逆効果だ。


 ネイラの車いすが、ガレージの奥、自室へと消える。


 残された四人の中で、誰もすぐには言葉を発さなかった。



 扉が閉まったあとも、ネイラはしばらくその場から動けずにいた。


 自室は静かだった。

 壁に反射する淡い光も、整えられた家具も、すべてがいつもと同じはずなのに、胸の奥だけがざわざわと落ち着かない。


(……どうして、あんなことを)


 視線は自然と床へ落ちる。

 自走式の車いすに乗ったまま、両手を膝の上に重ねる。指先がわずかに震えているのが、自分でも分かった。


 言うつもりなんて、なかった。

 誰かを困らせるつもりも、場の空気を壊すつもりもなかった。


 それなのに――。


(気づいたら、口に出していました……)


 胸の奥に溜め込んでいたものが、思いがけずこぼれ落ちてしまった感覚。

 抑えていたはずの感情が、堰を切ったように溢れた。


 頬が熱い。

 気づけば、視界の奥が滲んでいた。


 涙は大粒ではない。

 ただ、静かに、音もなく流れていく。


(……迷惑を、かけているのは事実なのに)


 姉の背中が浮かぶ。

 疲れているはずなのに、何も言わずに動き続けるリヴィア。

 アゴンの落ち着いた声も、司の気遣うような視線も、全部、胸に残っている。


 分かっている。

 分かっているからこそ、苦しい。


(私は……何も出来ない)


 そう思った瞬間、胸がきゅっと縮んだ。


 ――コンコンコン。


 控えめなノックの音が、静かな部屋に響く。


 ネイラは、はっと顔を上げた。


(……お姉様、ですよね)


 慌てて涙をぬぐう。

 深呼吸を一つ。


「……どうぞ」


 いつも通りの声を意識して、そう言った。


 ゆっくりと振り返る。

 目は、開けていない。


「ネイラ」


 聞こえた声に、心臓が跳ねた。


(……え?)


 その声は、リヴィアではなかった。


 驚きのあまり、反射的に目を開いてしまう。


 瞬間、視界に飛び込んできたのは――司の姿だった。


 整えられた部屋。

 机の上に積まれた本。

 壁際の棚。

 すべてが一度に流れ込んでくる。


(しまっ――)


 慌てて、机の上の本に手を伸ばす。

 無意識に閉じようとして、数冊を弾いてしまった。


 ――ばさり。


 本が床に落ちる音。


 視界が、揺れる。

 輪郭が二重に、三重に重なっていく。


(だめ……残像が……)


 頭がふわりと浮く感覚。

 酔いが、一気に押し寄せる。


 ネイラは慌てて車いすに腰を落とし直した。

 両手で肘掛けを掴み、呼吸を整える。


「ご、ごめんなさい……!」


 司の視線を感じた瞬間、胸が締めつけられた。


(見られて……しまいました……)


 情けなさが、喉までこみ上げてくる。


「私……本当に……」


 声が震える。


「何も出来なくて……足手まといで……」


 言葉にした途端、涙が止まらなくなった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 謝っているのに、何に対してなのか自分でも分からない。

 ただ、全部がつらくて、恥ずかしくて、申し訳なくて。


 司が、近づいてくる気配がした。


 床に落ちた本を、一冊ずつ拾い上げる音。


「はい」


 差し出された気配に、ネイラはそっと手を伸ばす。


「……ありがとうございます……」


 本を受け取りながら、涙をぬぐう。

 指先が濡れている。


 沈黙が落ちる。


 その静けさの中で、司の声が聞こえた。


「ネイラに、頼りたいことがあるんだけど……いいかな?」


 ネイラは、思わず息を詰めた。


(……私に?)


 胸の奥で、戸惑いと不安が混ざり合う。


「……私なんかで、お力になれるなら……」


 弱気な言葉が、自然とこぼれた。


 すると、司は少しだけ間を置いて、はっきりと言った。


「ネイラにしか頼めないことなんだよ」


 その言葉が、胸に落ちる。


(……私にしか……?)


 混乱する思考の中で、次の言葉が続いた。


 司は、静かに告げる。


「俺、この世界の人間じゃないんだ」


 その一言で、ネイラの思考は、完全に止まった。


(……え……?)


 最初に浮かんだのは、そんな間の抜けた疑問だった。


 ネイラは、司が自身を励ますための冗談なのだろう、と思った。

 泣いていた自分の空気を和らげるための、少し変わった言い回し。

 そう考えた方が、ずっと自然だった。


(……そうですよね)


 そうでなければ、困る。


 ネイラは、そっと片目だけを開けた。

 視界に飛び込む情報量を、できるだけ抑えるための癖だ。


 司は、そこにいた。


 困ったように、少しだけ照れたように、でも誤魔化すつもりのない微笑みを浮かべている。


(……冗談、では……ない?)


 胸の奥が、ひくりと震えた。


「いきなりこんなこと言われても、信じてもらえないと思う」


 司はそう前置きしてから、続けた。


「だからさ。一つ、テストをしよう」


 司は机に歩み寄り、置かれていたペンと紙を手元に引き寄せた。

 その動作は落ち着いていて、余計な力が入っていない。


 それを、ネイラの前に差し出す。


「これ、使って」


 ネイラは戸惑いながらも、それを受け取った。


「今からここに――朝の挨拶、昼の挨拶、夜の挨拶、それとそうだな……ミストシーカーって書いてほしい」


「……それだけ、ですか?」


 やや訝しげに尋ねると、司は頷いた。


「うん。それだけ」


(……何を、確かめたいんでしょう)


 意味は分からない。

 けれど、拒む理由もなかった。


 ネイラは目を閉じる。

 紙の位置を、指先で軽く確認する。


 視界がなくても、位置さえ分かっていれば問題ない。

 文字を書くことだけは、ずっと自信があった。


 ペン先が、紙の上を滑る。


 ――朝の挨拶。

 ――昼の挨拶。

 ――夜の挨拶。

 ――ミストシーカー。


 一文字ずつ、丁寧に。

 癖のない、整った字を書く。


 しばらくして、ペンを置いた。


「……書けました」


 司の方からも、紙を置く音がする。


「こっちも書けたからさ。……一緒に、見せあいっこしよう」


 その言葉に、胸の奥で小さな緊張が生まれた。


(……何が、起きるんでしょう)


 ネイラは、自分の書いた紙を差し出す。

 司も、同じように差し出してくる。


 ネイラは、片目だけを開いた。


 視界に、文字が入ってくる。


 そこに書かれていたのは――


(……文字……?)


 「おはよう」

 「こんにちは」

 「こんばんは」

 「ミストシーカー」


 司が見せた紙に書かれた文字の形が、まるで見たことがないものだった。


 見慣れたこの世界の文字でもない。

 そのうえ即興で適当に書いたような文字でもなく、どこか書きなれているような手癖も確認できる。


 それは、完全に“未知”だった。


 視線を、司の表情へ移す。


 司は、ネイラの紙を見ていた。


 そして、同じように目を瞬かせている。


「……読めない」


 小さく、そう呟いた。


 ネイラの胸が、どくんと鳴った。


「……何と書いてあるか……分からないのですか?」


「うん。まったく」


 司は、苦笑しながら言った。


「この世界に来てから、文字はいくらでも見てきた。でも、何が書いてあるか分からない。だから、聞くしかなかった」


 言葉が、ゆっくりと染み込んでくる。


「不思議なんだけどさ。音声として聞くと、俺には日本語に聞こえるんだ。俺が日本語を話しても、ちゃんと会話は成立する」


 けれど、と司は続ける。


「本や紙、ホログラムに表示されるような文字だけは、どうしても理解できない」


 ネイラは、思わず息を呑んだ。


(……そんな……)


「だから誰かに、声にしてもらわないと何も分からない」


 司は、少しだけ肩をすくめた。


「しつこく聞きすぎたみたいで、ガルドには嫌われちゃったけど……」


 冗談めかした口調。

 けれど、その裏にある不安が、伝わってくる。


 司は、ネイラをまっすぐ見た。


「でも、そのままでいいとは思ってない」


 その声は、静かで、真剣だった。


「ネイラもそう感じてると思うけど……俺も、今のままでいいなんて思ってない」


 ネイラの胸が、きゅっと締めつけられる。


「だからさ……ネイラに、頼らせてほしい」


 その言葉は、押し付けがましくなく、ただ真摯だった。


「俺に、この世界の文字だけじゃなくて……この世界のことや、歴史、物語なんかを教えてくれないか?」


 そして、少しだけ間を置く。


「その代わり……ネイラ。君は、リヴィアやアゴンだけじゃなくて、俺にも頼ってほしい」


 胸の奥に、温かいものが広がった。


 ――嬉しい。

 確かに、嬉しかった。


 でも、それと同時に、いつもの思考が顔を出す。


「……文字や世界のことなら……アゴンや、お姉様も……」


 言いかけたところで、司は首を振った。


「だめ」


 即答だった。


「俺、物覚え悪いし……」


 少し困ったように笑って、続ける。


「怒りっぽくて、すぐ手が出るリヴィアは、正直ちょっと怖いし」


 ネイラは、思わず小さく笑ってしまった。


「アゴンと二人きりになるのは……別の意味で怖いし……」


 その言い方が可笑しくて、胸の緊張がほどける。


 ネイラは、ふふ、と微笑んだ。


 司も、それを見て安心したように微笑む。


「だから、これは……ネイラにしか頼めないんだ」


 もう一度、確認するように言った。


「……良いかな?」


 ネイラは、少しだけ考えてから、ゆっくりと頷いた。


「……厳しく、していきますね?」


 そう答えた瞬間、目の奥に残っていた最後の涙が、頬を伝って落ちた。


 それは、悲しみの涙ではなかった。


 ネイラの中で、何かが――静かに、前へ進み始めていた。



 ネイラの自室の扉を、静かに閉めた。


 廊下に出ると、ガレージへと続く通路は思ったよりも静かで、遠くから微かに機械の作動音が伝わってくるだけだった。

 照明は控えめで、壁に落ちる影が長い。


(……うまくいくといいな)


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 ネイラの涙の理由を、俺は本当に理解していたのか。

 ただ、自分の過去を重ねて、勝手に納得しただけじゃないのか。


 そんな考えを振り払うように、歩調を落とさず進む。


 角を曲がった、その先。


 壁を背に預け、腕を組んで立つ影があった。


 リヴィアだ。


 いつから、そこにいたのか分からない。

 けれど、その立ち姿には、待っていたという確かな意思があった。


 俺は、足を止めなかった。

 視線も向けないまま、すれ違う距離まで近づく。


「……ありがとう」


 リヴィアの声が、背後から投げられる。


「ネイラのこと……私よりも解ってるみたいだった」


 その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。


 俺は、歩みを止めない。

 そのまま、通り過ぎるように言った。


「ネイラがさ」


 声は、できるだけ平坦に。


「子供の頃の幼馴染に、あまりにも似てたんだ」


 リヴィアが、後をついて歩き出す気配がする。


「だから……なんとなく、考えてることが分かる気がしただけだよ」


 廊下の床を踏む音が、二人分、重なる。


(……凛)


 名前を、心の中でだけ呼ぶ。


「優秀な兄や姉がいて」


 俺は、少しだけ視線を落とした。


「弱い自分がいて」


 続ける。


「何より……賢い」


 言葉を選びながら、吐き出す。


「この三つが揃うとさ……自然と、保護者にとって自分が“負債”なんじゃないかって感じる人が、いるみたいだ」


 リヴィアは、何も言わない。


「幼馴染も、同じだったから」


 その名前を口にした瞬間、胸の奥がひくりと疼いた。


 歩きながら、天井を仰ぐ。


「……もっと頼っていいと思うぞ」


 俺は、少しだけ声を和らげた。


「ネイラは、リヴィアの妹なんだ。弱い女の子じゃないさ」


 しばらくの沈黙。


 やがて、リヴィアが短く息を吐いた。


「……そうね」


 その声には、過去を辿るような響きがあった。


 歩調が、わずかに遅くなる。


「私自身が……ネイラの成長の上限を決めてたのかもしれないわ」


 腕を組んだまま、呟くように言う。


「このくらいまでなら大丈夫。この先は危ない……って」


(……ああ)


 胸の奥で、静かに頷く。


「その枠組みから、出させなかったのね」


 俺は、思わずふっと微笑んだ。


「……リヴィアが俺にしてるみたいにさ」


 視線は前に向けたまま。


「枠組みなんて設けず、ありのままで見守ってればいいんじゃないか?」


 言葉を選びながら、続ける。


「危なくなったら、その時に手を差し伸べればいい」


 リヴィアの足音が、止まった。


 少し遅れて、俺も足を止める。


「……気づいてたの?」


 背後から、問いかけが飛んでくる。


 俺は、肩をすくめた。


「多少はね」


 振り返らずに言う。


「だからさ。ネイラや俺が危なくなったら……その時は、ちゃんと手を差し伸べてくれ」


 リヴィアは、しばらく黙っていた。


 やがて。


「……ネイラはともかく、貴方は……考えておくわ」


 その返事に、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 再び歩き出そうとした、その時。


「……そういえば」


 背後から、妙に落ち着いた声がした。


「私は、手が出やすい……だったかしら?」


 一瞬。


 理解するより先に、身体が反応した。


「いや、それは――」


 言い終わる前に、俺は走り出していた。


 靴音が、廊下に響く。


「ちょっと! 待ちなさい!」


 リヴィアの声が、背後で弾む。


(やっぱり手が出るじゃないか!)


「そういうところだよ!」


 全力疾走。


 ガレージの入り口が、視界に入る。


 背中に感じる殺気を、全力で振り切りながら、俺はただ走った。


(……ネイラ、こんなところは見習わなくていいからな!)


 そんなことを考えながら。


 今日も、命がけで、俺は学んでいた。



 廊下の向こうから、声が響いた。


『ちょっと! 待ちなさい!』


 少し遅れて、


『そういうところだよ!』


 足音が、二人分。

 ぱたぱたと、軽快で、どこか慣れた追いかけっこみたいに遠ざかっていく。


 その音が完全に消えたのを確かめてから、ネイラはそっと息を吐いた。


(……ふふ)


 小さく、微笑む。


 扉の向こうのやり取りを思い浮かべるだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 さっきまで、自分の言葉で空気を乱してしまったのではないかと、あれほど不安だったのに。


 あの二人は、いつも通りだった。


 それが、なぜだか救いだった。


 ネイラは、ゆっくりと車いすを回転させ、部屋の中央へ戻る。

 静かな自室。

 整理された机、壁際の本棚、控えめな照明。


 ここは、安心できる場所だ。


(……司様)


 名前を思い浮かべるだけで、胸が少しだけきゅっとする。


 司から頼まれたこと。

 この世界の文字を、世界を、歴史や物語を教えてほしいという、あのお願い。


(……何から始めるのが、一番いいのでしょうか)


 難しい文法や専門書は、きっと最初には向かない。

 かといって、単語の羅列だけでは、きっとすぐに退屈してしまう。


 ネイラは、机の前で少し考え込んだ。


 片目を閉じたまま、指先で本棚の縁をなぞる。

 並んでいるのは、医療書、歴史書、整備の基礎資料……そして、何冊かの絵本。


(……あ)


 ふと、ある一冊に指が触れた。


 少し古びた装丁。

 何度も読み返されたせいか、背表紙は柔らかく、角は丸くなっている。


(これ……)


 誰でも知っている、この世界のおとぎ話。


 ネイラは、その本を取り出し、机の上に置いた。


 片目だけを開けたまま、ページをめくる。


 ぱら、ぱら、と紙の音。

 視界に残像が広がらないよう、ゆっくり、慎重に。


 文字の並びを確認し、挿絵を眺め、内容を思い出す。


(……うん)


 一度、小さく頷く。


(これで、行こう)


 この世界の子どもなら、誰もが一度は耳にした物語。

 言葉が分からなくても、話の流れを追える。

 きっと、司にも――伝わる。


(……読み聞かせ、か)


 その言葉を思い浮かべた瞬間、ネイラの頬がじんわりと熱を帯びた。


 何故か頭の中でその光景を思い浮かべると、司に対してではなく、

 どこか司の面影がある子供に絵本を読み聞かせてる自分が――。


(な、なにを考えて……)


 慌てて、頭を小さく振る。


 ただの勉強。

 ただの協力。


 そう、言い聞かせる。


 その時。


 廊下から、一つの足音が近づいてくるのを感じた。


 軽く、一定で、控えめ。

 扉の前で、止まる。


 ――コツ、コツ、コツ。


 小さなノック。


(……あ)


 すぐに分かった。

 このノックの仕方は、一人しかいない。


『Sir.お茶が入りましたので、よろしければネイラ様もご一緒にいかがでしょうか』


 扉越しに聞こえる、穏やかな声。


 アゴンだ。


「……すぐ、行きます」


 ネイラはそう答え、机の上の絵本をそっと置いた。


 読みかけのページのまま。

 また、戻ってくる前提で。


 車いすを回し、扉へ向かう。


 部屋を出る直前、一度だけ振り返った。


 静かな自室。

 机の上に置かれた、一冊の絵本。


 その表紙には、ネイラには読めるが、司にはまだ意味を持たない文字が並んでいる。


 この世界の言葉で書かれた、物語の題名。


 けれど――


 いつか、司に音として伝えたなら。


 その文字列は、彼の中でこう響くのだろう。


 「Falls:Cascade」


 ネイラは、扉を閉める。


 これから始まる、小さな学びの時間を思い描きながら。


(……ちゃんと、厳しくしますからね)


 誰にも聞こえない声で、そう呟いてから。


 彼女は、廊下へと出ていった。


...ᛗᚨᚾᚾᚨᛉ ᛁᛚᛁᚾᛉ ᛞᚨᚷᚨᛉ ᚨᛚᚷᛁᛉ ᛏᛏᚱ...97%...ᚦᚱᚨᛋ.ᚦᚱᚨᛋ.ᚦᚱᚨᛋ.ᚦᚱᚨᛋ.ᚦᚱᚨᛋ ᚨᚾᛞ ᛊᚨᚾᛋ...

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