虚無の波動と、もう一人の来訪者
―世界が再び、彼を呼び始める―
朝焼けが村を包むころ、レンはすでに茶屋の裏庭に立っていた。
手には剪定鋏、目の前には静かに咲く白茶花。
「……今日も静かであってくれよ。」
そう呟きながら、慎重に枝を整えていく。
だが、空気には微かな違和感が漂っていた。
風が止まり、木の葉が動かない。鳥のさえずりさえも――ない。
(……来るか。)
その時、村の入口の方から、重い足音が響いてきた。
「失礼する。旅人だ。」
聞き慣れぬ、しかしどこか威圧的な声。
レンが玄関に出ると、そこには黒い外套を羽織った男が立っていた。
銀髪に赤い瞳。体格はがっしりしており、背には大剣。
だが、何よりも気配が異常だった。空間そのものが歪んでいる。
「……お茶、飲みに来たのか?」
レンが静かに問うと、男は口元だけで笑った。
「いや。ある“気配”を追ってここまで来た。三年前に消えたはずの、“虚無”の残滓を。」
レンの目が細くなる。
「名を聞いても?」
「──ラズ・エンフィリス。かつて王国直属の追跡騎士団、今は亡き“第四の目”の生き残り。」
その名に、レンの眉が僅かに動いた。
「お前が……あの地獄を生き延びたのか。」
「貴様もな。」
一瞬、空気が張り詰めた。
ラズの手が剣の柄に触れたと同時に、レンは右足を一歩引いた。
しかし――そのとき、間に入ったのはユナだった。
「やめてください!」
彼女はラズの前に立ちはだかる。
「レンさんは……この村の人です。誰にも危害など加えていません!」
ラズはユナを見つめた。
「……エルヒア家の娘か。面影があるな。」
そして、静かに剣から手を離した。
「安心しろ。今すぐ戦うつもりはない。ただ一つ、確かめたいだけだ。」
「何を?」
「虚無が、まだこの世界に“希望”を残しているのか――それとも、また破滅を呼ぶのか。」
それだけ言い残し、ラズは背を向けた。
「また来る。そのときが、本当の選択だ。」
その姿は、朝の霧の中に溶けるように消えていった。
その夜。
「……あの人、敵だったの?」
縁側に座るユナが、不安そうに呟いた。
レンは静かに湯飲みを手に取る。
「敵とも、味方とも言えないさ。ただ――彼は“信じていたもの”を失ったんだ。」
「信じていたもの?」
「俺さ。三年前、俺は自分の力で何もかもを壊した。守るべき国も、仲間も……そして彼の“信頼”もな。」
ユナはその言葉を静かに受け止め、こう言った。
「でも……私は、あなたを信じます。」
風が吹いた。
茶の香りが広がり、どこか懐かしい夜の静けさが、二人を包んでいく。
たとえ“虚無”が再び目覚めようとも――
この村、この穏やかな暮らしだけは、守りたい。
レンの目に、静かな決意が宿っていた。