世界の果てのお茶屋さん
月読という村は、時の流れがゆっくりと感じられる場所だ。
霧のかかった山々に囲まれ、王都からも遠く離れたこの小さな村は、喧騒とは無縁だった。
そして今、そこが俺の住まいとなっている。
――名前は「レン」。
ただのレン。
小さなお茶屋を営みながら、平穏な日々を送っている青年だ。
朝は花に水をやり、昼は茶葉を煎れ、夜は静かに眠る。
誰も俺の過去を知らず、それでいい。
「ふぅ……今日のカモミールティーは香りが強いな。」
土製の急須から立ち上る湯気を見つめながら、独り言を呟いた。
空には薄い雲が流れ、木の葉が風に揺れている。
店先の風鈴が、カラン……と涼やかな音を響かせた。
平穏。これぞ、俺の求めていたもの。
だが、そんな平穏もすぐに破られる。
「レーーーン!! 畑に魔獣が出たあああ!!」
少年トマの叫びが静寂を破るように響く。
息を切らせ、顔は真っ青。何か大変なことが起きたらしい。
「今度は何だ?」
そう聞きながら、俺は湯呑を置き、ゆっくりと腰を上げる。
もう驚かない。こういうことは、村に来てから何度もあった。
「……銀牙の魔狼! めっちゃデカい! ゴラさんの馬より大きいよ!」
ああ、またか。
村のはずれの畑に向かうと、村人たちが逃げ惑っていた。
駆け出しの冒険者が応戦しているが、力及ばず弾き飛ばされている。
そして、そこにいたのは――銀牙の魔狼。
Sランクとは言わないが、それに次ぐ危険なモンスターだ。
普通の人間では太刀打ちできない。
俺は、畑の端に立ち、深く息を吐いた。
「……仕方ないな。」
右手をゆっくりと上げる。
誰にも見えない「影」が俺の足元から広がり、静かに地面を這う。
銀牙の足元にたどり着いた瞬間――空気が止まった。
ズンッ
無音の中、魔狼の体が一瞬で消えた。
火も、氷も、刃も使わない。ただ「存在」ごと消去する。
それが――俺のかつての力、“虚無”の一部。
周囲は沈黙。誰も何が起きたか分かっていない。
俺は無言で踵を返し、またお茶屋に戻った。
数時間後。
お茶屋の縁側に、数人の冒険者が座っていた。
さっきの銀牙を見ていた彼らだ。
手にはお茶、目には疑問と――畏怖。
「今のは……何の魔法だったんだ?」
「お、お前……王国の宮廷魔導士か何かか?」
俺は笑って言った。
「いや。俺は、ただのお茶屋さ。」
彼らは信じられない顔をしていたが、俺はもう何も言わなかった。
言っても無駄だろう。説明も、理解も、必要ない。
平穏が戻ったかのように思えたその時だった。
カラン……
風鈴とともに、扉が開いた。
入ってきたのは、一人の少女。
銀色の髪に、湖のような青い瞳。
服は汚れていたが、どこか高貴な雰囲気を纏っている。
その手には小さな布のバッグ。そして、少し震えていた。
「……すみません。ここで、お茶を一杯……そして、一晩だけ泊まらせていただけませんか?」
俺は彼女を見つめる。
普通の村人ではない。
彼女の体に宿る「気配」は、何かを隠していた。
どこか……懐かしいものを感じる。
「隣の空き家がある。使っていい。」
「ほんとうに……ありがとうございます。」
彼女は深く頭を下げた。
「私は……ユナ。ユナ・エルヒアです。」
エルヒア――その名を聞いた瞬間、俺は固まった。
かつて北方の貴族家にして、王国に裏切り者とされた家。
三年前に滅びたはずの一族。
「レンだ。ただの、レン。」
だが――彼女は、俺を見つめて言った。
「……クロザキ・レン。――それが、本当の名前ですね?」
俺は、目を見開いた。
彼女は続ける。
「この世界の人間ではないあなたの“気配”……私、覚えています。」
静かに――風が止まった。
長い間、誰にも触れられなかった名を、再び聞くことになるとは思わなかった。
続く…