プロローグ 吸血鬼、逃走中。
「――くっそ。どんだけついてくる気よ」
紅髪を風に乗せて靡かせて、吸血鬼――リリスは全力で森を駆けていた。
眼前に次々と迫り来る樹木を流麗に避け続けながら、時折後方に意識を割いてひたすらに前へ前へと疾走する。
荒い息は全力疾走による反動、ではなく、後方からしつこくリリスを追走者との継戦によって蓄積された疲労の表れだ。
よく見れば、リリスの身体にはあちこちに裂傷があった。どれも擦れ傷程度のもので致命傷には至らないが、しかし問題なのは刻まれた傷口から流血が止まらないことだ。
リリスの体質をもってすれば、この程度の傷なら自然治癒ですぐに癒える。しかし、身体中に刻まれた裂傷は未だ塞ぐことなく、裂傷部から命の源を吐き出している。
「戦ってる時におかしいと思ったのよ。やっぱやられた!」
視界の端で腕に刻まれた裂傷を見て、リリスは忌まわし気に強く舌を打つ。
吸血鬼の回復力は人間の約三倍だ。無論、個体によって回復力は異なるが、リリスの回復力は他の吸血鬼よりもさらに高い。そんなリリスの回復力を持ってしても癒えぬ傷となれば、答えは一つしかない。
これはそう、呪いだ。
「あの野郎、剣に呪いを付与してたのね。いや、呪い付きの剣を手に入れたのか……ああもうっ! そんなのは今はどうだっていいわ!」
考察は今はどうでもいいと一蹴して、リリスはかぶりを振る。
今重要なのは相手の武器に関する情報じゃない。無論、それもこの先の局面を見れば重要なことなのが、今はとにかく、あの追手から逃げ切ることが最優先事項だ。
「ああもう森を抜けちゃう⁉ くっそ! この先は……」
ひたすらに森の中を駆けていると数メートル先に眩いほどの光が見えて、リリスは堪らず頭を抱えた。
後ろを振り返ってみれば尚もしつこく黒影がリリスを追ってきている。故に後退は不可能。ならばと方向を転換すれば、このままイタチごっこが続いてしまう。そうなればいずれ、流血が止まらず体力も休息に低下している一方のリリスが圧倒的に不利だ。確実に追手に追い付かれ、反撃する余力も残せず仕留められるだろう。
ならば、
「――ふっ!」
このまま森を抜ける!
足に一層力を籠め、大地を抉って跳躍する。宙を流れる身体はそのまま聳える樹木の檻を抜け、視界の晴れた草原に飛び出した。
ズザァァ、とブーツの踵が雑草を削りながら重力に添って流れていく中で身体の方向を転換。すこし勢いが弱まるとリリスは森の中を睨んだまま数メートル後方へ飛んだ。
森の中にいればイタチごっこは避けられない。そして草原に出てしまえば視界の晴れたこの場で追手を巻くことは実質不可能――ならば、最善は。
「ようやく諦めたか」
「ハッ。誰が諦めるもんですか」
数秒後。リリスの後を追うように黒影が森の中から出てきた。
それは手に剣を持っていた。服装は明らかに一般人と違って重厚な鋼の鎧を纏っており、肩には気品溢れるマントを羽織っていた。
その姿と悠然と佇む姿で一般人ではないことは一目瞭然――そう、リリスをしつこく追っていたのは、勇者だった。
「ほんっとにしつこい。|未練《みれん」がましい男は女に嫌われるわよ?」
「安心しろよ。俺はフラれた相手に執着するような|醜《みにく】い男じゃない。俺が固執するのは魔物だけだ」
「ふぅん。つまり私は女じゃないってこと? 傷つくんですけど」
「あぁすまない。お前も生物学的には歴とした女だったな。……ただし、男を誑かす悪女だ」
リリスの軽口に勇者は乗るが、その顔は嫌悪感を隠すことはなく目に憎悪が宿っていた。
「それにしても、諦めていないのなら何故逃げるのを止めた?」
「あら? 分からないのかしら」
眉根を寄せる勇者にリリスは小馬鹿にするように笑う。しかし、勇者はそんなリリスの嘲笑に顔色を変えることなく小首を傾げて、
「無論、概ね見当はついている。大方、森の中ではいずれ自分の体力が尽きて戦況を覆せないと悟ったんだろう」
「――――」
呆れたように失笑して、勇者がリリスの思考、否、策略を暴いた。
「なら無駄に体力を消耗するよりも、こうして俺を迎え撃つ方が勝算が高いと踏んだんだ。そうだろう?」
「――――」
勇者の答えにリリスは応じない。ただ、答えの代りに、これまでより警戒心を強く、一段深く身構える。それが、勇者の推察を肯定していると如実に物語っていた。
「たしかにその方が遥かに得策だし、俺がお前と同じ立場だったら同じ結論を出していたと思う」
でも、と勇者は継ぐと、剣を持たぬもう片方の手でリリスを指さした。
「自分の傷を見てみろよ。それは誰に与えられた傷だ?」
「……今、私の目の前にいるクソ野郎によ」
減らず口を、とリリスの返答に勇者は心底不快そうに顔をしかめた。
「まぁいい。お前は俺と戦って傷を負ったワケだ。それも呪いが付与された攻撃を受けて」
「やっぱり呪い付きの武器だったのね、それ」
「あぁ。この剣には、攻撃を受けた相手の治癒能力を一定時間無効化する呪いが付与されている」
「ハッ。とても勇者様が携える武器とは思えないわね」
「そうか? 俺は勇者にぴったりだと思うけどな」
「……やっぱゲス野郎」
日輪を受けて鈍色の光が走る。顔の前に剣を持ってきた勇者は、それが放つ輝きに魅了されたように熱い吐息をこぼした。リリスにはそれがまるで、勇者が剣の放つ魔力に魅入られて呪われたように見えて。
「人間より遥かに優れている魔族を確実に殺す為に生み出された剣。ほら、悪辣な魔族を殺す為に戦う勇者に相応しい剣だろう?」
「……なにそれ。キッッモ。マジ引くんですけど」
リリスは全力で勇者に引いた。魔族を殺す為に自分にも呪いの影響が掛かる可能性がある武器を手にするその沙汰は、正義を大義名分にしただけの、ただの狂人だ。
リリスは本能のままに行動するのは大好きだし、ギャンブルや賭博もハラハラして好きだ。だが、眼前の勇者のような他者を殺すことに己の命を賭すほどイカれてはいない。
だから今のリリスには、他者の命を狩ることに執着する勇者が狂人にしか見えなかった。
そして事実、リリスと対峙している勇者は狂人だ。明確な殺意を持ち、自分自身が呪いの剣に意識を支配される危険を孕んでなお、それでも剣を手放さなさないのは、偏にリリスを殺すためなのだろう。
「|御託《ごたく」はいい。吸血鬼。お前を殺す」
「誰がお前なんかに殺されるもんですか。お前に殺されるくらいなら酒に溺れて死んだほうがマシよ。べー、だ!」
握る剣をリリスの前に突き出した勇者に対し、リリスはあっかんべーで受けて立つ。
それが勇者の中にわずかにあった冷静さを失わせ、たちまち増大した怒りが精悍な顔を歪ませる。
「どうせもう魔力もろくに残ってないんだろう。虫の息なら、このまま永眠させてやるよ!」
「吸血鬼バカにすんな! 勿体ないけど、お前に見せてやるわ。私のとっておきの魔法をね!」
「ハッタリだろうがッ!」
リリスの啖呵を勇者が怒声で塗り潰す。
リリスへと突き出した剣を腰まで落とし、生い茂る緑を力強く踏み込む。十分以上に力を溜めた足が解放される時、地面が抉れて勇者の身体が弾丸のように弾かれた。
鋭い呼気とともに突貫。リリスが勇者と対峙するべく取った距離が瞬く間に縮まっていく。
「これで終わりだ! 淫乱吸血鬼!」
「誰が淫乱吸血鬼だ! ストーカーイカれ野郎!」
さらに二人の距離が縮まり、コンマ数秒反応が遅れたリリスがようやく行動を起こす。遅い。これだけ距離が詰まれば、魔法が発動するよりも前に剣に首が届く。
殺す! そんな殺気が勇者の背中からより一際強く放たれた――その瞬間だった。
「――フッ」
「っ⁉」
眼前の、吸血鬼が嗤ったのは。
一瞬。愚弄するような笑みに勇者の殺気が揺らぐ。しかしすぐに鬼迫を取り戻し、今度こそ浮かび上げた不快な笑みごと首を跳ねてやろうと、リリスとの距離をさらに詰めるべく左足を地面にめり込ませたのと、それはほぼ同時だった。
「ふっ。ふはは! 私がお前如きに殺されるワケがないでしょう! 見せてあげるわ! これが私の奥の手!」
「――ッ!」
高らかに声を上げるリリスに勇者は身構える。いかなる魔法を放たれようとも、それすらも切り伏せてしまえば何も問題はないと判断して。
リリスの宣言に勇者は怖気づくことなく突貫を継続。それを捉えて、リリスは興奮するように舌を舐めずりした。
「いいわね! その気迫! だからこそこの魔法を使う価値があるわ!」
二人の距離がさらに縮まる。そして、ついに勇者がリリスの元まで迫り、構えていた剣を振りかざす。
一閃。鈍色の光が吸血鬼の首を切断しようと宙に軌道を描く。
そしてその切っ先が首を確かに捉えた――
「空間転移!」
「――なっ⁉」
勇者の剣がリリスの首を捉える直前。リリスが高らかに唱えた魔法に勇者は思わず絶句する。
勇者の鬼迫の表情。それが崩れる様をその目でしっかりと捉えていたリリスは、これでもかと嘲笑いながら言った。
「あはは! これが私の奥の手! 普通に逃げるが勝ちよ!」
「貴様ッ! 卑怯だぞ!」
「ハッ! どうとでも詰りなさい! 最初から私はアンタと戦う気なんてなかったつーの! べー、だ!」
リリスの後ろに顕現した大きな魔法陣。それに向かってリリスはぴょん、と後ろに飛び跳ねる。既に発動した『空間移動』という魔法。これこそがリリスの切り札にして、勇者に負けない唯一の策だった。
縮まった距離が広がり、勇者が振るった剣はリリスの首を掠めることなく空振りに終わる。急いで態勢を立て直して追撃を加えようとするも、既にリリスの身体は魔法陣に吸い込まれ、顔だけが残っている状態だった。こうなってはもう、攻撃する手段がない。
「じゃあね勇者。なんでアンタに殺されかけたのか全然分からないけど、私もアンタに恨みができたわ。だから、今度会ったら本気で殺し合いましょ」
まぁ、本音をいえばこんなイカれたヤツには二度と会いたくないのだが。
その想いは小馬鹿にしたような笑みに乗せて、リリスは悔し気に奥歯を噛みしめる勇者を見下ろしながら魔法陣の中へと飲み込まれていく。
「絶対にまたお前を見つけ出して、今度こそ貴様の息の音を止めてやる! 忌まわしき淫乱女めっ‼」
「やれるもんならやってみな。あはは!」
完全に魔法陣の中へと身体が飲み込まれていく中、もう顔も見えない勇者のそんな憎悪の籠った宣告だけが聞こえた。
それからすぐにリリスの身体は魔法陣から出て行く。先ほどまで生い茂る緑に着いていた足は、今度は固い地面の上に着地した感触。まだ魔法陣から顔が出ていないからたしかな確証が掴めないが、おそらくは敷石の上だろう。
ようやく顔も魔法陣から出ると、これでようやく全身が出てゆっくりと魔法陣が虚空に消えていった。
「……あっぶなぁ。適当に空間転移使わずに温存しておいてよかったぁ。これ、魔力消費が激しいから数ヵ月一回しか使えない魔法なのよ」
攻撃力はないが、逃げるという一点において空間転移に勝る魔法は存在しない。まさに切り札と呼ぶに相応しい力を持っているが、その分代価も高く要求される。
「でも、とりあえずあのイカれ野郎からは逃げ切れた。……まずは、呪いが解けるのを待って、それから傷を治して……あぁ、その前に、ここ、どこよ?」
着地してすぐに身体がよろめいて、倒れそうになったが冷たく硬い何かが壁になってくれたおかげでどうにか踏ん張れた。辛うじて立てている。そんな状態でリリスは転移先を確かめる。
硬い地面。やはり敷石の上にいた。しかし敷石にしては継ぎ目がなくてそれになんだか異様なほど整然さだ。
気にはなるが足元だけでは情報は得られない。リリスは今度は周囲を目に向けた。
薄暗い。顔を上げれば空を囲うように高い壁が隔たられていた。となると空間転移の転移先はどこかの国でそこの裏路地か。……しかし、
「なんだか、全然見慣れない光景なのは、気のせいかしら」
大方の予想をつけて、自分の推測に間違いはないはず。なのに、ずっと違和感を覚える。
胸騒ぎが止まない。先ほどの戦闘よりもずっと、脳の警鐘が強く鳴っている。
「とりあえず、ここがどこなのか確認しないと……あ、やば……」
薄暗い空間の先に見える光。そこに向かえば自分がどこに転移したのか分かるかもしれない。情報を求めて歩き出そうとした瞬間だった。
ぐらり、と視界が揺らいだ。
たちまち全身から力が抜けて、足が立っていられなくなる。壁を擦りつけながら地面に倒れた。
「……そうだ、私……血、流しっぱで戦ってたんだ。そりゃ、こうなるわ」
血を流しすぎた。そして、今も流血は止まっていない。マズイ、と理解した時にはもう遅かった。
寒い。
ガクガクと全身が震え始めた。荒い息遣いが段々弱まっていき、どうにか酸素を吸いこもうと藻掻くように息を吸う。
意識が。
視界がブレれる。次第に朦朧となって、瞼が重くなっていく。
「……くっそ、逃げ切れると、思ったのに」
全身の感覚がなくなっていく。もう指を動かす力もない。
ぱち――ぱち、と瞼が瞬く回数が減っていく。呼吸がうまくできない。視界が、暗くなっていく。
「(あぁ。サイヤク。最期においしーもの、めっちゃ食べたかったなぁ)」
もう死ぬ。
これまでの生き方に後悔はないけれど。せめて今日死ぬと分かっていれば腹がはち切れるまで美味しい物を食べたかったなと、そんな悔いだけが消えゆくリリスの意識の中に残る。
そんな後悔を最期にしてしまったことにも後悔しながら、リリスは目を閉じた――。