3:理想の生活
今回から更にエンジン全開展開になるかと思います。
うん、書いてて楽しい。
ゆっくりと目を開けると灰色がかった瞳と目が合った。ガラス製の吸い込まれそうな瞳は文字通りお人形さんみたいに心を落ち着かせてくれるほど綺麗だ。
寝起きでなければ。
「っうおぁ!」
飛び起きると瞳の正体がドールのマリーだとわかる。
「ふふ。飛び起きちゃって。おはよ」
マリーの奥、寝転がりながら枕元に手を伸ばし、マリーを持っていた柚木さんが微笑む。
「う、うん、おはよう。びっくりした……」
自分の隣に柚木さんが寝ていた。という非現実的な光景と、今までマリーをずっと顔の前に持っていたであろう柚木さんに戸惑う。
「もう少し雰囲気の良い起こし方の方がよかった?」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
ベッドから降り、立ち上がると体に違和感を覚える。
「あれ? 服が……」
「健太君が寝てる間にお着換えさせちゃった。ずっと病衣じゃ心まで落ち込んじゃいそうでしょ?」
「心、ねぇ……」
今感じている恥ずかしいという感情さえ本当の自分の物なのか怪しいのにそんなことを言われても返答のしようがない。
「もうね、お昼前なの。私この後大学に行かないといけないからお留守番頼みたくて」
「大学? いいけど俺も行かないと」
「ふふ。健太君その体で行こうとしてるの? 真面目さんだね。 まだ体の調子悪いんだから、いい子にしてて?」
ベッドの上で四つん這いになりこちらを向く柚木さん。言い聞かせるように言われこちらも悪い気はしない。
「わかった……」
柚木さんとこんな会話が出来るならオートマタの体も悪くないと思いつつ柚木さんの言う通りにする。
柚木さんとマリーと共に部屋から出ると、柚木さんがすぐさま出かける準備を始める。
「冷蔵庫に健太君のお昼ご飯作ってあるから。好きなの食べてね。家にあるものなら好きに使っていいよ。授業が終わったらすぐに帰るから、ちゃんと待っててね」
早口で話しながら準備をし、言い終わるころには準備が済む。
見送りの為、玄関先で柚木さんと向かい合う。
「えっと、この子は?」
柚木さんに問う俺の腕の中にはマリーが居る。
今まで大学で見てきた柚木さんは必ずカバンからマリーが顔をのぞかせていたが今日は入っていない。俺が今持っている。
「あぁ、マリーは健太君の見守り係に任命したの。ちゃんと健太君を見ててね」
少し寂しそうにマリーの頭をなでた柚木さんは俺とマリーに「行ってきます」と言って玄関の扉を閉めた。
「行ってらっしゃい」
閉まったドアに見送りの言葉を投げ、数秒玄関に立ち尽くす。玄関で好きな人を見送る。夢にまで見たシチュエーションを案外すんなりこなしてしまった。
「夫婦みたいだな」
なんていう面白味もない感想しか今の俺には出なかった。
※ ※ ※
「ふう。さてと」
家主が居なくなった部屋で大きく息を吸う。やることは何となく決まっている。まずは自分の体の事を知らなければ。
寝る前吐いた時のあの感覚。間違いなく俺の体が拒絶したような嘔吐だった。いつもの様に快感の為に自分から吐くのとは違った。オートマタになった自分を受け入れられずに吐いたのか、それとも……
「下剤でも入ってたのか?」
その可能性も捨てきれない。そう思ってしまう程にあの拒絶反応は強烈だった。
「まぁ、食えば分かるか……」
吐くことには全く抵抗のない体で良かった。と初めてそう思った。
マリーをテーブルの上に座らせてキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けるといくつかラップがかかった皿が幾つも並んでいる。
見ると肉じゃがや、ひじきの佃煮等の和食もあれば、捏ねたハンバーグの種もある。奥に見えるのは中華料理。
「なんでもあるじゃん……これ全部柚木さんが作ったのか?」
なんでも食べていいと言われたがこんなに種類があるとは思わなかった。
適当に手前にあった筑前煮を取って電子レンジに入れる。炊飯器から白米をよそってテーブルに並べる。
「さて、食べるか」
吐くかもしれないというのに食べるのは食材にも柚木さんにも申し訳ないが仕方がない。
自分を知るためだと割り切って箸を動かす。
「柚木さんの手料理、やっぱ美味いな……」
柚木さんが作ったものだと思うと米一粒ですら尊い。しかもどれも美味い。俺が吐くのを楽しそうに見ていたこと以外、完璧な女性だという事を改めて実感する。いや、俺の癖を受け止めてくれると考えればより完璧な気もしてくる。。
「ごちそうさまでした」
あっという間に完食し、手を合わせて目を閉じる。
さて、ここからが本題だ。朝は食べ終わって五分ほどしたら吐き気が来た。
「ふぅー……」
椅子に座ってゆっくりと時間の経過を感じる。
一人暮らしで慣れた筈の一人の時間が柚木さんと少し居ただけで長く感じる。溜息を吐いてテーブル頬杖を突くと、低くなった目線がマリーと合う。
「俺ってどうなるんだろうな」
このまま柚木さんのもとで柚木さんの所有物として暮らすことになるのだろうか。
何となくマリーの髪に触れた時、それは唐突に来た。
「っう⁉」
腹の中がひっくり返るような感覚に襲われ、手で口を押える。今までの嘔吐と比べて圧倒的な不快感に襲われる。
「うぅっぇ……」
口を押えたまま腹を押さえてトイレに駆け込み、 扉を開け、すかさず便器に手を置く。腹の苦しみに比例して置いた手の力が強くなる。
「はぁ……はぁ……ごほっ。ぉえ……」
荒くなる呼吸と共に粘っこい咳が出て、喉の渇いた感覚が嗚咽を呼び、更なる吐き気を催す。口から漏れる生暖かい呼気が便器に跳ね返って顔にかかって気持ち悪い。
やはりこの感覚は風邪で熱を拗らせた時の様な嫌な吐き気。すっきりとした快感を得る為の自分からする嘔吐とは違う。
「おぉぉっっ……うえぇぇぇぇぇっぇぇぇ……」
ついさっき噛み砕き、嚥下した物全部が便器の底に叩きつけられ、飛沫を上げる。
「はぁ……気持ち悪ぃ」
腹の底が気持ち悪い感覚。全部出し切ったというのにスッキリしない。腹の中に物が残っていればこの後もう一回吐いてしまいそうだ。
「はぁ……。はぁ……。戻るか」
口をゆすぎダイニングへと向かう。テーブルに腰かけ、再び頬杖を突きマリーと目を合わせる。未だに腹の調子は悪く、右手で腹を抑えっぱなしにしないとまた吐いてしまいそうだ。
一日に二度も自分の望まない嘔吐をしたせいでドッと疲れた。
しかしこれで何となくわかった。この嘔吐の原因は恐らく食事のせい。
「食べたら吐くっぽいな……」
食べた料理からは変な味や匂いはしなかったし、キッチンに怪しい物も無かった。毒は無いと考えるとやはり食べたら吐く体になっていると考えるのが自然だ。
大きくため息を吐き、テーブルに上体を預ける。
俺の中で自分の体のこと以外に一つ引っかかる事がある。
「何なんだよ……」
やはり、先ほどの嘔吐は何も感じないただの気持ち悪い嘔吐だったのだ。
毎回俺の嘔吐は、吐いた後には必ず何かの感情が浮かんでくる。そういうものなのだ。
一人で指を突っ込んで吐いた後には、日ごろのストレスを解放したような爽快感、たまに感じるのは毎日何をしているんだろうという自分を客観的に見てしまうバカバカしさ。
朝、柚木さんに見られて吐いた時には、初めて誰かに吐いているところを見られたという羞恥。しかもその見た相手が柚木さんであるという事が更なる羞恥を感じさせた。一方でそれを心地いいとさえも感じた。
しかし今の嘔吐には何も感じなかった。一言で言うなら物足りなかったのである。
特段苦しいものでもなかったし、強いて言うとするのならば未だに感じる腹の不快感だけ。
もしかしたら今まで一人で嘔吐をしていた自分が、柚木さんに見られながら吐いた経験をしてしまったことでただの嘔吐では満足できなくなってしまったのかもしれない。
「はぁ。な訳無ぇよな……」
そんなわけないと思いながら、さっきから朝の嘔吐が頭に過り続ける。
俺の隣に柚木さんが居て、嬉しそうに俺の嘔吐を見ている。それが忘れられない。
「柚木さん待つしかないか……」
一人でいる長い長い留守番に半ば諦めを感じながら机に突っ伏した。
※ ※ ※
「えっと、この子は?」
大学に向かう準備を終え、玄関で靴を履いている時、健太君がマリーを抱えて私に声をかけてきた。戸惑ったその表情は見ているだけで抱きしめたくなる。
でも、それはもう少し先。健太君の心が私に堕ちてから。
だから私は健太君に優しく笑いかける。今感じている不安を取り除いてあげるように。私から離れちゃわないように。
「マリーは健太君の見守り係に任命したの。ちゃんと健太君を見ててね」
なんて言ってみるが、やはり健太君から離れるのは寂しい。正直マリーと変わって健太君とずっと過ごしたいくらいだ。
このまま家に居たい欲を抑えて玄関のドアを開ける。
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる寸前、健太君の声が聞こえた。それだけで今日一日寂しくない様な気がして、思わず口角が上がってしまう。自然と歩調も軽くなる。部屋の扉から少し離れて、肩に下げたバッグからイヤホンを取り出し耳にはめる。
『夫婦みたいだな』
耳にはめた途端に聞こえた健太君の言葉に一瞬思考が止まる。聞いた途端、マンションの廊下で立ち止まってしまった。一瞬で体が熱くなってくる。
「健太君……気が早いよ……」
バッグの紐を右手で握り締め、震える左手で口を押える。
「帰ったらなんて言えばいいか考えないと……」
気を取り直して歩き始める。足取りは更に軽い。いつもなら何も感じることのない通学路が輝いて見える。これは健太に会う為の道だと思うと憂鬱な気分は吹き飛んでいた。
晴れやかな気持ちのまま大学に着き、一番前の席に座って授業の開始を待つ。後方では何人かうるさい者も居るが、それを気にせずイヤホンから流れる健太君の声に耳を澄ませ続ける。マリーに仕込んだマイクで健太君の声は全部聞こえてくる。目はカメラになっていてスマホ画面で見れるが誰かに見られたらマズいので自重する。
ホワイトノイズ交じりに健太君の独り言が聞こえてくる。どうやら昼食を食べ始めたようだ。予定通り。このまま食事をして健太君には嘔吐してもらおう。
『柚木さんの手料理、やっぱ美味いな……』
健太は和食に舌鼓を打っている様だ。食器の音に交じって小さく咀嚼音が聞こえる。その音と健太君の感想だけで十分満足できるがまだ聞いていたい。この後に一番のお楽しみが待っている。
イヤホンの向こうの健太君の様子がおかしくなるまでは机に並べたノートを開き先週の復習をしておく。マリーが机に居ないのが少し寂しいが、マリーのおかげでこうして健太君の様子を窺えるのだから少しは我慢しないといけない。
「京香ちゃんやっほー」
同学年の石川薫が教室に入り、こちらに手を振る。いつも自分の後ろの席に座る彼女は大学でいつも一緒に過ごす仲だ。
「薫ちゃん。こんにちは」
軽く挨拶をして手を振り返す。
「あれ? 今日マリーちゃん居ないの?」
すぐに私の隣を見て首を傾げる薫。
「ええ。大学に持ってくる理由が無くなったから」
「ふーん? よく分かんないけどちょっと寂しいね」
『ううぅっ……』
薫との会話の最中、耳にはめたイヤホンの向こうで健太君が苦しそうに呻き声を上げる。腕時計を見て思わず口元が緩む。経過した時間は五分。
「そう、だね」
適当に薫に返事をし、イヤホンの向こうに意識を集中させるが、教授が教室に入ったことでその集中は切らされる。
「はい、講義を始めます」
「はぁ……」
これからがいいところだったのに。大きくため息を吐き、イヤホンを外してバッグからPCを取り出す。
「前回の続きから……」
開始してしまった講義をおとなしく受けることにする。
帰ったら必ず健太君を吐かす。そう心に誓って。
「京香ちゃんまたね~」
「うん。また明日」
今日の講義がすべて終わり、私はさっさと帰路に就く。昼、教授に嘔吐を遮られてからずっと抱えている健太君への嗜虐心がいつもより早く家に私を運ぶ。
大学の敷地から出てすぐさまイヤホンをつけて家の様子を窺う。
『あっははは』
健太君が笑っている。その声の奥にバラエティ番組の音が聞こえてくる。健太君の為に録画した番組を見ているようだ。
「よかった」
大学に行っているうちに逃げられているかも。と少し心に不安があったがいらぬ心配だったようだ。
ホッと胸を撫で下ろし、落ち着いた足取りで早歩きに帰る。
※ ※ ※
「ただいま。いい子にしてた?」
リビングでテレビを見ていると柚木さんが帰ってきた。
「あ! お帰りなさい」
玄関に向かい柚木さんと向かい合う。
朗らかに微笑む柚木さんの顔を見て、朝見送った時と同じ感覚に陥る。理想としては逆の立ち位置だが。
「大学、どうだった?」
少しの沈黙も耐えられない俺は話題を取り繕う。
「うん。いつも通りだったよ。それより健太君、ご飯食べてくれた?」
「一応、食べたかな」
「そう。体は大丈夫だったかな?」
「う、うん」
顔を覗き込んでくる柚木さんの圧から逃げるようにリビングへと向かう途中、
「ご飯食べた後吐いちゃった?」
背後から聞こえてくる柚木さんの声に一瞬体が震えた。。
「……まぁ、ね」
「どうだった?」
リビングに入り、荷物を椅子に置く柚木さん。それを見ながら俺はテレビの電源を切る。
「どうって、よくなかったよ。吐いたんだから」
そのままこちらに向かって歩いてきた柚木さんにテレビの前に置かれたソファに座るよう目線だけで促される。二人同時に座った途端「嘘つき」と柚木さんが呟く。
「え?」
触れ合う太腿の感触を感じながら、俺は困惑する。
「どういう事……?」
「ふふ。そのままの意味だよ?」
可愛らしく小首を傾げながらこちらを見つめてくる。吸い込まれそうなその目はまっすぐにこちらを向いている。
「私は吐くの嫌だけど、健太君はそうじゃないんでしょ?」
「え?」
再び聞き返す俺に不気味に微笑む柚木さん。その目は俺の全てを知っているような優越感に浸っているようにも見える。
「正直に言ってごらん? こんな体になっちゃう前、健太君毎日吐いてたんでしょ?」
顔を近づけてくる柚木さん。長い髪が揺れ、ふわっと髪の匂いが香ってくる。
「え、なんで知ってるのっ……」
二人の鼻が触れ合う寸前にまで近づけられた顔をよける様に仰け反りながら、両手で柚木さんの肩を掴み押し戻す。
「なんでも知ってるよ? 健太君の事ならね」
押し戻した腕を振り払って再び顔を至近距離にまで寄せてくる柚木さん。
「ねぇ、答えてよ。私、全部知ってるんだよ? 毎日夜帰ってきたらトイレに吐いているのも、バイトが始まる前に吐いてるのも、今日のお昼に私が作った和食を食べたのも!」
俺を押し倒し、馬乗りになって俺の顔を見下ろす柚木さん。微笑んだままの妖艶な顔がくっきりと見える。
「っく……」
膝で腕を抑えられ胸板に乗る柚木さんは微笑んだまま「今日も吐いちゃった?」と問う。体に力を籠めるが、体重が込められた膝に抑えられた腕を抜くことが出来ず、観念した俺は静かに頷く。
「あぁぁぁぁ……やっぱり。どうだった? 気持ちよかった? それともいつもみたいにスッキリできた?」
膝に乗った体重を緩め、両手で自分の頬を抑え、目を輝かせる柚木さん。なんで俺のいつものルーティンを知っているのかは知らないが、幸せそうに身を震わせる柚木さんを見て否が応でも鼓動が早くなる。
「スッキリはできなかったよ……。気持ちよくもない。気持ちの悪いゲロだった」
柚木さんが俺の上に乗り、幸せそうな顔をしているからこそ、昼間の嘔吐への不満を吐き捨てるように柚木さんに叩きつける。
「あれ? そっか。なんで? 吐くの好きなんでしょ?」
一気に声色が低くなる柚木さん。それは俺に興味が無くなったと思わせる程に冷たく、俺を突き放すものだった。その声に反射する様に背筋に悪寒が走る。
「確かに俺は吐くのが好きだけど、ただ吐くのが好きって訳じゃないんだよ」
上体を起こし、柚木さんを体の上からどける。伸ばした足の上に座った柚木さんはキョトンとこちらを見ている。さっきまでの冷たい表情は一気に消え、大きな瞳を丸くしている。
「どうして? 一人で吐いたのに」
「それは……」
「それは?」
聞き返されただけなのに言葉が詰まる。自分の中ではハッキリ答えは出ていた。
柚木さんに見られて吐くのが好きになってしまって一人で吐くのがつまらなくなってしまった。と思う。言葉に詰まるのはそのことを柚木さんに伝えるのが恥ずかしいから。
だが柚木さんに見られながら嘔吐するあの感覚を覚えてしまった以上、もう後には引けない。
「柚木さんが、居ないと、ダメだから……」
自分でも気持ちが悪いほどにか細い声が出た。
柚木さんとお互いに見つめあう。今すぐにでも視線を逸らしたいが、ここで他所を向いてしまうと柚木さんに嫌われる気がして、どうしても目が離せない。ほんの少しの沈黙だが、永遠の様に長く感じられる。
目の前の柚木さんはというと、顔がみるみる赤くなって、真っ赤になった頬を両手で押え、口角を裂ける程上げて満面の笑みを浮かべた。
「ふ、ふふふ……。変態さん……」
「なっ……!」
その狂気的な笑顔を見せられた俺は言葉もなくただ心臓を速く動かくことしか出来なかった。
顔を赤くしたままの柚木さんはそう言い残して立ち上がり、そのままキッチンの方まで駆ける。
「柚木さん……?」
見るからにご機嫌になった柚木さんに俺は首を傾げる。
冷蔵庫の扉を勢いよく開けた柚木さんは中から昼に俺が選ばなかった麻婆豆腐や回鍋肉が盛られた中華料理、更にはハンバーグの種を取り出す。
俺の声を無視したまま鼻歌を歌いフライパンに成形したハンバーグを乗せ、中華の皿をレンジに入れる。
「えっ、何してんの?」
俺も立ち上がってキッチンのカウンターまで歩み寄り、京香と視線を合わせる。
「ん? ご飯、作ってるんだよ?」
視線を合わせたまま「健太君も食べるよね」と手際よく作業を進めている。
「お腹すいたの?」
壁に掛けられた時計を見ると午後の五時を指している。早すぎるわけではないが、夕食にしては少し早い。
「ううん。これは健太君の」
「え?」
「だって健太君吐いたから胃袋空っぽでしょ? せっかく残った人間の部分なんだから、喜ばせてあげなくちゃ」
「喜ばせるって……」
ところどころ出てくる俺を物の様に扱う言葉遣いに変な汗が出てくる。
「私の前で吐きたいんでしょ? うふふ。楽しみね?」
柚木さんの甘い言葉に息が詰まる。楽しみと言われてこの後の嘔吐への期待感に体が震える。
「ほら。もう出来上がるよ」
キッチンから香ってくるハンバーグの匂い。タイマーが鳴ったレンジからは中華独特の油と味噌の香りがやってくる。
「テーブルに座ってね」
「う、うん」
柚木さんの言葉に従ってテーブルに向かう。
次々とテーブルに皿が置かれ、ずらりと並んだ料理から昇る湯気が食欲をそそらせる。……この後吐くという事を考えなければ。
俺が座っている場所にしか箸を置かず、向かいの席に座る柚木さん。
ふと視界に柚木さんの指が見えた。
白く、細い陶器の様に美しいその指が俺の前にある肉を捏ね、野菜を刻み、俺の前に並べた。そう思うと下腹の辺りに力がこもる。気がする。
「食べないの?」
声に反応するように顔をあげると、小首を傾げた柚木さんがこちらを向いて微笑んでいる。この笑顔だ。この包み込むような笑顔に俺の心は惹かれた。
「ふふ。おいしそうでしょ? 健太君の事を想って作ったのよ」
「う、うん。ありがとう……」
苦笑いを浮かべ箸を取り、回鍋肉を口に運ぶ。甜麵醬の甘辛い味と、少しの豆板醤が良いアクセントになって、体が米を早く口に運べと騒ぐ。
「んっ! おいしい」
食べた料理はどれも美味い。
「ほんと⁉ 嬉しい……」
満足したように微笑み、柚木さんは立ち上がる。
「ねぇ、隣座って良い?」
「ん?」
俺が返事をする前に隣に椅子を持ってきて座る柚木さん。身を柚木さんから離すようにずらすが、柚木さんは肩が触れるまでピッタリと隣に座る。
「健太君、この人知ってる? あ、食べたままでいいよ」
微笑んだままの柚木さんがスマホの画面を俺に見せる。画面に表示されているのはどこかで見た事のある初老の男性。着ているスーツや画像の背景を見るに国会議員。
見たことあるだけで詳しくは知らない。
咀嚼したまま首を横に振る俺を見て柚木さんが更に画面を近づける。
「嘘。知ってるでしょ?」
声色が一気に低くなる。腹の底から冷えるような豹変ぶりに全身が強張る。
「ほら、違法オートマタが何とかって言ってる人だよ? テレビで見た事あるでしょ?」
いつもの高い可愛らしい声からは想像もできない程低く、不気味で、でも少し艶めかしい声色で問い詰められる。
「う……うん。見た事あるかも……」
ようやっと食事を飲み込み声を絞り出す。それを聞いて再び微笑む柚木さん。
「でしょ? もぉ。忘れんぼさんなんだから」
すっかり声色も心臓に優しい鈴のような声に変っている。心臓無いけど。
柚木さんの笑顔に少しほっとした俺は聞き返す。
「その人がどうしたの?」
「いや、些細な事なんだけどさ、健太君、自分が無認可なオートマタって事ちゃーんと理解してるのかなって」
「理解……?」
「そう。私もだけど、健太君捕まっちゃわないようにねって」
俺に目を合わせたまま俺の手から箸を取った柚木さんはハンバーグを箸で切り俺の口まで運ぶ。
「ここから絶対出ちゃダメだよ? どうされるか分からないんだから。はい。あーん」
柚木さんの言葉に俺は毎日の様に嘔吐が出来る柚木さんとの生活を反射的に想像する。
そんな想像をしたせいか、柚木さんの細い指が扱う箸と俺を見つめたままの柚木さんの顔を交互に見るしか出来ず、体は全く動かない。俺は言われるままに口を開ける。
俺の反応に満足したのか、にっこりと微笑んだ柚木さんは、そのまま俺の口に肉をねじ込む。
「……っ!」
「ふふっ。私との生活を想像したんでしょ? かわいい……。ほら、よく噛むんだよ?」
それからおままごとの様に柚木さんにご飯を食べさせられ、少し経った時、突然俺の腹がビクッと震える。
「……やばっ」
「あら? 健太君、もう来ちゃった?」
咄嗟に口を抑え立ち上がる。トイレへ走る俺を追いかけるように柚木さんが付いてくる。
それを気にする余裕もなく、扉を開け便器に顔を突っ込む。
「ぅおぇ……ごほっ! はぁ、はぁ」
止まること無い嗚咽と唾液交じりの咳で息を切らしていると、すぐさまトイレにやってきた柚木さんが俺の背中を優しく撫でてくれる。
「さぁ、全部出して……。出してるところ見たい」
腹の気持ち悪さと背中に感じる優しい柚木さんの手の感触に体が震える。間違いなく俺の体はこの状況を喜んでいる。
「ほら、苦しいでしょ? 早く出して……?」
顎を伝って垂れる唾液を柚木さんが指で優しく拭う。初めてかんじる感触にびくりと体を震わせ喉の奥から胃の内容物が込み上げてくる。堰を切ったように喉を押し広げ、さっき食べたばかりの生暖い濁流が溢れてくる。
「やばっ、出る……。ぅおぉぉぉぉえええ……」
柚木さんの手料理があられもない姿で口から一気に出てくる。ついさっきまで完成されていた綺麗な料理は咀嚼と胃酸でぐちゃぐちゃの汚物となって出てくる。
息が出来ない嘔吐の最中に柚木さんの気配をすぐ隣に感じる。
また見られた。柚木さんに嘔吐を見られた。
俺は人として感じてはいけない快感を圧倒的羞恥の中に見出してしまっていた。
「あはぁっ! 出たぁ……」
息切れする俺を横から覗き込む柚木さんが便器に跳ねた吐瀉物が当たってしまいそうな程顔を近づけ歓喜の声をあげる。
「気持ち良かった? もっと出そう?」
いまだに返事が出来ずにいる俺は必死に首を縦に振る。
未だに俺の背中を擦ってくれる柚木さんの優しさをまだ感じたいのか、再び俺の体がビクリと跳ねる。
首を縦に振り続けながら腹から込み上げる次の波を感じる。
「はぁ……はぁ……おぉぉぉぉぉっぉぉぉ!」
今度は肩を撫で始めた柚木さんが口を俺の耳元に寄せる。
「健太君は吐くことしか出来ないんだから、私のモノになっちゃいなよ。ね?」
涙を浮かべながら吐き続ける必死の俺に囁かれた甘美な蜘蛛の糸。うまく働かない今の頭には、その甘い糸を振り払える気力は残っていない。
吐き終え、全身の力が抜け、隣の柚木さんに体重を預ける俺はただ頷くことしか出来なかった。
頷いた俺を優しく、力いっぱい抱きしめる柚木さん。
「ふふっ。スッキリ出来たね? 大好きだよ。健太君」
第3話お疲れさまでした!
面白かったらいいねと評価、ぽちっとお願いします!
感想なんかを頂けるとモチベーション爆上がりでございます。ので何卒。