六言目 りろムーアゆうえんち!
だがローラは呆れたように首を振って、細く白い人差し指で俺の額を押した。
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「ぎょああああああああああああああ」
なぜだ、なぜこうなった?
血液が飛び散り、ギシギシと唸る木製の廊下。
赤い液体の付いた包丁を舐め、高笑いして襲ってくる覆面男。
窓ガラス越しにこちらをじっと見つめる女性の怨霊。
「ま まって フミ」と、俺の名前を呼びながら追いかけてくる銀髪の少女。
「で、出口はこっちだぞ」と、苦笑しながら誘導しようとするフランケンシュタイン。
幽霊もモンスターも殺人鬼も、言葉が通じない化け物は全て恐ろしい。なぜなら命乞いが通じないからだ。
「ら、らすけてくれぇ! 俺はただの平凡な人間だ! どうか、どうか命だけは!」
床に這いつくばり泣きながら、刃物を持った男と、銀髪少女と、フランケンシュタインに土下座をした。
「ムニカ…」
銀髪少女から軽蔑しきった声が聞こえる。
「あの、彼女さん? 余計なお世話かもだけど、別れた方がいいよ?」
と、殺人鬼とフランケンシュタインが少女にしきりに何かを説得していた。
「あー、あー、あー駄目だ。これは絶対夢に出てくるヤツだ」
ナメクジのようにベンチにへばりつきながら、俺は空を見上げた。
小学三年の夏。母と一緒に初めてお化け屋敷に行った俺は、人生で初めて人前で尿を漏らした。
あれから八年。強くなったのは膀胱だけで、精神面は全く強化されていなかった。
「ユームーア、れみる」
頭を押さえ、冷ややかな視線を送るローラ。
「…なんだローラ? お前お化け屋敷でどこ行ってたんだ。俺はずっと一人で怖かったんだぞ」
「フミ 私 おいて にげた 私 おいかけた が あきらめた」
はぁ、とため息をつきながらローラが銀の髪を耳にかける。
その時、俺は彼女の首に、何か赤い線がついていることに気づいた。
「おいローラ、お前、首から血が出てるぞ」
腕を伸ばし、彼女の首筋を指でなぞる。キメ細かい肌に付着した赤い液体は少し粘り気を帯びていた。
「ひゃうっ…」
唐突に顔を赤らめながら、ローラがギロっとこちらを睨む。
「なんだ。ただの絵具か」
さっきの場所で着いたのだろうか?
そう思いながら俺は指についた赤い絵の具をハンカチで拭き取ろうとした。
「まっ た」
パシッとローラが俺の手首を掴む。
「それ おちない てぃっしゅ」
ローラは俺にハンカチを戻すよう言うと、持っていたカバンからポケットティッシュを取り出して丁寧に拭い取ってくれた。
「あさ ついた かな?」
少し不思議な表情をしながらローラが首をさする。
「さっきのお化け屋敷でついたんじゃないのか?」
「これ 私の えのぐ」
「私のって… お前、絵でも描いているのか?」
そう尋ねると、ローラはこくんと頷いて、カバンから一枚の写真を取り出した。
写真を紙で見るのは久しぶりだな、と思いながらローラから受け取る。
そこに写っていたのは、
「おいおい… これ、確かこの間のニュースで言っていた…」
夏休みに入る少し前、「一千万円で女子高生の絵が落札された」とニュースで報道されていた。
真顔でこちらを見つめるローラの隣に飾ってある絵は、まさしくその「本を読む老婆」の絵だった。
「凄いな。お前… こんなに綺麗な絵が描けるのか…」
驚いた顔で俺がローラの方を向くと、彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「きれい? 私のえ きれい?」
「ああ。なんだか、このおばあさん。今にも叫びだしそうなくらいとっても迫力があって、だけど綺麗な印象を受けるから… スマン、どう言えばいいかが分からないが、俺はローラのこの絵、とっても好きだ」
そう言うとローラは、今まで見せたことのないような笑顔で、「へへへ」と照れていた。
「なぁローラ。何十年先になるかは分からないが、俺の肖像画を描いてくれないか?」
「しょうぞうが?」
「俺は将来、後世に名を遺す学者になる男だ。その偉大な男の姿を、お前に書いて欲しい」
「あ フミのえ ってこと?」
「そうだ」
彼女の顔を見つめながら俺は深く頷いた。
俺は小学校の頃、音楽室に貼られたバッハやベートーヴェンの肖像画に強い憧れを抱いていたのだ。きっとローラのことだ。俺がそれ相応の人間にならねば、モチーフとして描いてくれないだろう。
だがローラは呆れたように首を振って、細く白い人差し指で俺の額を押した。
「ムニカ」
「うぉ」
「フミの『え』なら もうなんかいも かいてるよ」
いこ?
そう言ってローラが俺の手を引きながら立ち上がった。
「むつみ まってる」
「……お、おう」
日差しのせいか、少し自分の顔が熱いような気がする。
手を繋いだまま歩くローラが、弾けるような笑顔で何度もこちらを向いた。
俺はまだ、ローラのことを何も知らない。
だが今日は少し、ほんの少し俺はローラと仲良くなれたような気がした。
「はぁーあ、あの章ってオッサン。なんてことしてくれてるのよ」
ブラックの缶コーヒーを飲みながら、山条が舌打ちをする。章から、娘のプレゼント選びを手伝ってほしいと頼まれた山条だったが、二人の姿が見えないことに不信を抱き、章に詰め寄ると「あの二人をくっつけようと思うんだよ。騙してすまない」と申し訳なさそうに言われたのだ。
とりあえず山条は章に「迷子センターで二時間正座」という罰を与え、フミとローラの帰りを待ちながらベンチでコーヒーを飲んでいた。
「今日の私、本当に運がないわ。一体何をしたっていうのよ」
人前にもかかわらず「ゲパァ」と山条は大きなゲップをかました。
その時、
「りろムーアゆうえんち!」
と、聞き覚えのある日本語のような日本語でない言葉が、後ろから聞こえてきた。
「あ、帰ってきやがった」
楽しかった? と皮肉でも言ってやろうと、山条が目を光らせながら振り返る。
だが、そこに立っていたのは、
「こらリリー。デタラメな言葉を喋らないの!」
「あー。ねーね、ごめんなさい」
セーラー服を着たポニーテールの少女と、
ムッペリ語を話す幼女だった。