四言目 るーるーギーマカレー
「グラレ… グラレ… ユキ―シャ」
「おい、俺に包丁を向けるな。安心しろ、きちんと手は洗ってやる」
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パシッ
乾いた音が大家さんの部屋に響く。
「ユキャーシャ! クリアーネ!」
「……ローラ、お前の気持ちはよく分かる。だが、これが一番の解決策なんだ」
ローラに叩かれた部分がヒリヒリと痛み始める。叩かれて当然だ。彼女に対して酷い提案をしていることは自覚している。
だが、ムッペリ語を解読するには、あの人の力が必要だ。
「俺は章さんを説得する。ローラ。どうかそれを許してほしい」
あれから二日後、俺は章さんの家に来ていた。
「フミ君、どうしたんだい。その顔は」
「ここに来る途中に猫に引っかかれまして」
頬に貼った絆創膏をさすりながら答える。もちろん猫ではなく、ローラから叩かれたときに爪が引っかかってできたものだ。
ローラはあの後何も言わなかった。ただ俺に絆創膏を渡し、冷めたような目で大家さんの部屋を出ていった。
「僕の書斎に君が来るのは何年ぶりだろうか」
「五年です。いろはに荘に来てからは、大家さんの部屋で会うようになりましたからね」
十年前、俺はここに初めて訪れた。地球儀、世界地図、ブラウン管テレビ、ランプ。たくさんの道具が置かれたこの部屋で、俺が一番気に入ったのは分厚い辞書だった。
「十年前、俺はここで、章さんに言葉の面白さを教えてもらいました。……もう、研究はされていないんですか?」
「ああ。やめたよ」
シュボッツと章さんが煙草に火をつける。昔は本が傷むと言って、けして、ここで一服することはなかった。
「章さん、単刀直入に言います。ムッペリ語の解読に力を貸してください」
「……ムッペリ語?」
「はい」
俺は章さんに全てを話した。ローラは昔、日本語を話せていたこと。その日本語がムッペリ語と入れ替わってしまったこと。そしてムッペリ語は、俺が作った言語であること。
「つまり君は、言語が入れ替わるという非科学的な話を信じて、そのうえ彼女の話すトンチンカンな日本語を、正式な言語と認めている訳だ」
話を静かに聞いていた章さんは、そう言って俺の方を向いた。
「経緯は不明ですが、新種の言語障害だと今は認識しています。そして、聞き手と話者がいれば、どんなインチキな言葉でも、小さな子どもが作った言葉でも、俺は立派な言語だと思います。ムッペリ語は、言語です」
「聞き手と話者がいれば、か。それがフミ君の考えなんだね」
フウッ、と章さんが口から煙を吐く。
ふと、机の上に置かれた本に目を落とすと、表紙が埃被っていることに気づいた。もうずっと開いていないのだろうか。
「じゃあフミ君」
「はい」
「コミュニケーション目的なら、ネイティブスピーカーが一人しかいない言語を解読するより、ローラさんが日本語を覚えた方が早い、とは思わないかい?」
「それは…」
俺は言葉に詰まった。
ムッペリ語を解読できても、結局ネイティブスピーカーはローラただ一人だ。利便性から考えると、日本語しか使わなくなるのは必然だ。
「解読すれば、ムッペリ語→日本語のような単語帳もできて、ローラさんの勉強効率は上がるかもしれない。でも、単語帳がなくとも、すでにローラさんが日本語を使えつつあるのは君も知っているはずだ」
「…はい」
脳裏に、泣きながら「ごめんなさい」と繰り返すローラの姿が映った。
「話者が少数の言語というのは、遺跡や絶滅危惧種のように、コミュニケーションの道具としてではなく希少性に重きが置くんだよ。ムッペリ語を解読したいというのは、本当にローラさんのためなのかい? 自分の知的好奇心を満たしたいだけじゃないのかい?」
じりじりと灰皿で煙草を潰すと、章さんはフッと息を吐いた。
「今日はもう帰りなさい。なぜ自分がムッペリ語を解読したいのか、それをもう一度僕に教えてほしい。知的好奇心で言語を扱うことを、僕はもうやめたんだ」
「るーるーギーマカレー」
「『カレーを作るわよ』って、いきなりどうした」
午後七時。インターホンが鳴り玄関を開けると、銀髪の少女がカレーのルーを持って立っていた。
「しかし…、二日前に出会ったばかりなのに、この光景は懐かしいな」
大家さんの部屋の前で会ったときのことを思い出し、ポリポリと絆創膏の上をかく。
「ゆ、ユール……」
じっと顔を見ていたローラが、目を下げながら申し訳なさそうに呟いた。
もしかして、頬を傷つけたことを、謝りに来てくれたのか。
「……いや、俺が悪かった。もっと時間をおいて話をするべきだった」
ローラが首を横に振り、俺の頬をさする。
彼女は部屋で泣いていたのか、目が少し赤く腫れていた。
「きゃすっ!」
戸棚から鍋を出そうとしていると、後ろで野菜を切っていたローラが叫んだ。
「おい大丈夫か?」
指を切ったのでは? と心配して振り向くと、俺の足元を指さしてローラが震えていた。
「なんだ。ただのゴキブリじゃないか」
パシッと足の指でゴキブリを掴み、手でティッシュにくるめる。それからティッシュ越しにギュッと潰して俺はゴミ箱に捨てた。
「グラレ… グラレ… ユキ―シャ」
「おい、俺に包丁を向けるな。安心しろ、きちんと手は洗ってやる」
「……(キラッ)」
「待て待て待て。俺の手首を切り落とそうとするな。野菜を切れ野菜を」
そんなにゴキブリが苦手なのか。
ローラは日本人とユミリア人のハーフらしい。確かユミリア文化の中にはゴキブリを魔王の使いとする神話があったはずだ。そういう事も影響しているのだろうか。
ローラと俺の文化の違い? は料理にも現れた。
「なぜお前はネギを刻んでいる……」
家庭の味、という言葉があるがスパイスから作らない限り、市販のルーを使ったカレーはどの家庭でも似たような味になるだろう。
違いが出るのは、具材だ。
ローラの家では、カレーにネギと煮卵をトッピングするらしい。
「ラーメンかよ!」
「ひじき! ひじき! ひじき!」
「ひじきは話が別だ! いいかローラ、ひじきをカレーに入れると信じられないくらい美味しくなるんだ」
「おまえ の した こわれてる」
「わざわざ日本語で言わなくていい! 訳さない分、直接罵倒が耳に入ってくるだろ!」
結局、口論の末、煮卵とネギとひじきがトッピングされたカレーが机の上に置かれた。
「ムーニカ」
「何でこんなことに…」
互いに睨みあいながらスプーンに口を付ける。
「「!」」
カレーを口に入れた瞬間、俺とローラは、顔を上げて叫んだ。
「うまっ!」
「シャレッ!」
俺は二杯目を口に入れる。
うまい、うますぎる。
コクのあるカレー、味のしみ込んだ煮卵、彩と香りを添えるネギ。それを上回るひじき!
この感動を共有しようと俺はローラの方を向いた。
しかし、彼女は涙を流してこちらを睨んでいた。
「おいどうしたローラ。さっき『シャレッ』って叫んでいたじゃないか。美味しいという意味だろう?」
「まず、い! まずい! ひじき まずい!」
「ええっ⁈ ……そ、それは悪かった」
気まずさと申し訳なさで俺は思わず目をそらす。
「でも 食べる。ひじき あげる」
「わ、悪かった」
眉間にシワを寄せながら、ローラがひじきをこちらに移動し始める。
「そうか…シャレは『まずい』という意味なのか…」
今度から気を付けねば、と思いローラのひじき移動を手伝おうとする。
だがその時、俺の中で何かが一つにまとまった。
「そうか! だから俺は!」
突然の叫び声にローラが驚いて目を丸くする。
「ゆ、ユテ! ゆじキーウェ!」
「え? ああすまない! 食事中だが許してくれ」
マナーに反するが仕方ない。
俺はすぐに携帯を取り出し、急いで電話をかけた。
「もしもし章さん? JK二人と一緒に、遊園地に行きませんか?」