三言目 ユーユテ、ハーレ!
大家さんは台所の冷たい床で、静かに倒れていた。
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「今日はローラちゃんに紹介したい人がいるの」
昼ご飯を食べ、居間でローラがひらがなの練習をしていると、大家さんが麦茶を持ってきてそう言った。
「私の息子なんだけど、中学校で国語の先生をしていてね。ローラちゃんの話をしたら、ぜひ会いたいって言ってたの。いいかしら?」
ローラは大家さんの言葉がほとんど分からない。だが、とりあえず彼女はうんうんと首を縦に振った。
どうせ予定はないし、大家さんは私が嫌がることは頼まないだろう。
ローラは大家さんに対して絶大な信頼を置いていた。
三十分近くひらがなの書き取りをしていると「ただいまー」と大家さんの玄関の扉が開いた。
(え、あの眼鏡。もう帰って来たの?)
銀色の眉をしかめながらローラが顔を上げる。しかし、立っていたのはフミではなく、四十歳くらいのおじさんだった。確かに眼鏡をかけているが、こちらは年相応といった感じで、加えてレンズの奥には優しそうな瞳がこちらを覗いていた。
男性は一瞬、母親の家に銀髪少女がいることを、少し驚いた様子だったが、すぐに状況を理解し、ニコリと、ほほ笑んだ。
「ああ。君がローラさんか」
「?」
突然名前を呼ばれ、ローラは首をかしげる。すると、のれんをめくって大家さんが顔を出した。
「おや章、おかえりなさい。今日は学校はないのかい?」
「おいおい母さん。その言い方だと、まるで僕が子どもみたいじゃないか。午前中は部活を見に行って、その帰りに寄ったんだよ」
畳に腰を下ろし、コップに麦茶を注ぎながら男性がにこやかに笑う。
「いるかい?」
「あ、……あり、がとうござ、います」
ローラがコップを差し出すと、コポポと音を立てて麦茶が入り、カランと氷が鳴った。
「母から色々事情は聞いたよ。日本語を勉強しているんだって? 僕でよければ文法とか、細かいとこまで教えられるけど」
「いぇら……はい」
ローラは、男性が何を言っているのか全く理解できていない。
しかし、とりあえず彼女は、大家さん達の言葉で肯定を表すのであろう「はい」をうなずきながら使った。
それから一時間ほど、ローラはおじさんと日本語の勉強をした。
勉強といっても、小学校低学年向けの本をローラが読み、時折分からない言葉や漢字が出てくると、本を読んでいるおじさんに尋ねる、といった感じだった。
おじさんは教え方が上手で、細かい日本語のニュアンスを絵を使って説明してくれたり、イントネーションも丁寧に教えてくれた。若干、おじさんの描く人物の目が死んでいたり、例え話が暗かったりと戸惑うこともあったが、大家さんがおやつを持ってきてくれた時には「ありーがとう、おばあちゃん」と、ローラは以前よりも流暢に日本語が話せるようになっていた。
「それじゃ母さん、このお菓子を頂いて、僕は帰ることにするよ」
机に広げられたキャンディーを一つ握っておじさんは立ち上がった。
「あら。そろそろ文ちゃんが帰ってくるのよ。あの子いつも、章さんはいつ来るの? って尋ねるのよ」
「ハハハ。フミと話すと長くなっちゃうからね。それに、今日は僕が家の料理当番なんだ」
「そう、なら長居はできないわね」
「きーようは、ありがーとう、ござます」
「いやいや。僕は何もしてないよ。ローラさんは飲み込みが早い。発音がしっかりしてるから、多分あと一か月もすれば、きっと日本語も話せるようになるよ」
褒めてくれているのだろうか。
おじさんの話す言葉を、ローラはまだよく分かっていない。だが、不思議と彼女の心は「フフン♪」と弾んだ。
早く喋れるようになりたい。
おじさんが帰ったあとも、ローラは本を読み続けた。ローラには辞書と呼べるものがない。知っている単語を見つけ、大家さんやおじさん、そしてあの眼鏡野郎が使っていた場面を思い出してパズルのようにはめていくのだ 。
「く、くるしい……」
台所の方から「くるしい」という言葉が聞こえてきた。大家さんの独り言だ。
「くーるしー♪ くーるしー♪」
ローラは「くるしい」を、大家さんをお手本にして練習し始めた。
くるしい、一体どういう意味だろうか。今まで聞いたことがない。
「ろ、ローラちゃん」
そこに折よく、大家さんが自分の名前を呼んだ。そうだ、直接聞いてみよう。
「おばあちゃん!」
タッタッ、と足早に台所に向かう。
大家さんは台所の冷たい床で、静かに倒れていた。
「おばあちゃーん!」
慌てて駆け寄り、大家さんの体をさする。良かった、まだ息はある。
ローラは固定電話の受話器を持ち上げ119番通報をした。
「はい、119番消防署です。火事ですか? 救急ですか?」
「…………………」
ローラは答えることができなかった。
彼女は容姿こそ異国の少女のようだが、日本生まれの日本育ちである。以前近所が火事になったときに通報したことがあったので、自分が今「火事か救急か」を尋ねられているのは理解できていた。
だが、ムッペリ語に日本語を奪われた今、助けを求める言葉は、彼女の頭に存在しなかった。
「あ…、あ…」
そうだ逆探知! と、ローラの頭に「発信地表示システム」が過ぎる。固定電話で通報した際は住所を言わずとも緊急車両が駆けつけることをローラは知っていた。
ならば、今自分が必要なのは言葉の通じる人間だ。
ローラは受話器を下ろし、フミの電話番号をプッシュし始めた。
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「ローラ……」
大家さんが搬送されたという病院に駆けつけると、暗い廊下の長椅子でローラは泣いていた。
「フミ君…」
隣に座っていた章さんが、暗い顔で立ち上がった。
「章さん、大家さんの容態は」
「……医者は今夜が山だと言っている。元々心臓が悪かったんだ。発作も今日が初めてじゃない。だけどね…」
そう言って章さんがローラを睨む。
「もっと早くに、救急車を呼ぶことはできたんじゃないか?」
「あ、章さん」
俺は慌てて事情を説明した。
「ローラは日本語が喋れないんです。だから救急車を呼ぶのが…」
「日本語が喋れない? ハッ、フミ君。君は将来、言語学者になるんだろう? それなのにインチキの一つも見破れないのかい?」
章さんは、酷く呆れたように肩を落とした。
「主語、述語の逆転。単語の置き換え。男性名詞も女性名詞もない。冠詞もなし。発音は日本語に酷似していて、加えてひらがなは読める。これがインチキでないなら、一体なんなんだい?」
「それは…」
俺が作った言葉だからです、とは言えなかった。信じてもらえるはずがない。
「母さんのお世話係かと思って優しくしたが、やはりただの詐欺師だったな。帰ってくれ。気分が悪い」
そう言ってローラの胸倉を掴むと、俺に向かって突き飛ばした。
「ちょ、章さん!」
「フミ君。君にはがっかりだよ。外見に惑わされて、そんな詐欺師に騙されるなんてね」
取り付く島もなく、俺たちは病院を追い出された。大家さんの顔を見ることも叶わなかった。
「ごめん、なさい。ごめん、なさい」
ローラは帰り道、泣きながらずっと謝っていた。
「謝るな。お前は何も悪いことはしていない。逆探知を頼るより、俺に通報を頼んだ方が早い。当然の判断だ。日本語が話せないローラに何も非はない」
「るりら!」
ガシッっと、服の袖を掴まれる。
「わたし…が、にほんご…だめ。おば、あちゃん、たおれた」
「それは違う」
「ちが…わない!」
「ユーユテ、ハーレ!」
俺がそう言うと、ローラは驚いたように顔を上げた。
「ゆじユーがらりユテ、ムニカ!」
「クラッ! ああ?」
涙を流しながらローラが目を吊り上げる。全く、ことばノートの罵倒のボキャブラリーが豊富で助かった。
「ローラは悪くない。大家さんは生きてる。章さんが全部悪い。俺はローラの味方だ。インチキじゃない。ちゃんと、ローラの言葉は、俺に伝わっている」
人差し指で俺とローラを交互に指す。
結局ジェスチャー頼りだが、きちんと伝わるはずだ。
「俺はローラの味方。俺は…」
タッ、とローラが駆け寄り、俺にしがみつく。彼女は小鹿のように震え、「ごめん、なさい ごめん、なさい」と何度も繰り返した。
「ローラ、心配しなくてもいい。話相手ならすぐに増やしてやる」
サラサラと絹のように美しい銀髪の少女を、俺は力強く抱きしめる。
「ムッペリ語を解読して、俺が世界に広めてやる」