一言目 いぇらぴームーアマーユ?
「い、いぇらぴームーアマーユ?」
「はい?」
俺は、文。高校二年、将来は言語学者になる男だ。今日は夏休み初日の7月25日。クーラーの効いた部屋で大家さんからスイカをご馳走になっている。
「ごめんねぇ。重かったでしょう」
「いえいえ。それよりよろしいのですか?荷物を運んだだけなのにこんな美味しいスイカを」
「昨日特売で買ったはいいけど一人じゃ食べきれそうになくてねぇ。なんなら文ちゃん、全部食
べちゃっていいのよ」
顔をくしゃっとして大家さんが笑う。ふむ、「棚から牡丹餅」。やはり人助けはするに限る。
言語学者になる俺は、言葉において常に完璧でなければならない。単語、文法、文脈、熟語、スラング、慣用句。どれをとっても俺の日本語に間違いは存在しない。言わずもがな、英語をはじめ、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、果てはスワヒリ語まで俺の操る言葉はガウディの建築物のように完成されている。え、サクラダファミリアが完成されていないだって?あ、あれは俺の中で既に建築済みだ。
ピンポーン、ピンポーン
スイカの汁に映った自分の凛々しい顔に惚れ惚れしていると、玄関のインターホンが鳴った。
「宅配便かねぇ」
痛そうに腰をさすりながら大家さんが立ち上がる。ふふっ、こういう時こそ若人の出番だ。
「大家さん、俺が行ってきましょう」
大家さんと俺は本当の祖母と孫のように親しい。大家さんの家で何度も御飯を頂き、何度も部屋の電球を取り換えた俺にとって、宅配便を代わりに受け取ることなど日常茶飯事だ。
渡されたハンコを手に玄関の扉を開く。
「はーい、…………」
立っていたのは三毛猫宅配の人ではなく、絵物語に出てくるような、美しい銀髪を持つ可憐な少女だった。
「え、え、え?」
てっきり中年男性が立っていると思っていた俺は思わず思考停止の単語、「え」を繰り返す。誰だ、大家さんのお孫さんだろうか。
「い、いぇらぴームーアマーユ?」
「はい?」
外国人?容貌のバイアスがかかり咄嗟にそう判断しそうになる。だが、落ち着け。いぇらぴー?なんだその発音は。明らかに日本語独特のものじゃないか。世界最大の検索エンジン、ゴーゴルに収録されている133の言語の発音を熟知している俺にそんな言語もどきは通用しない。
「いぇらっ、ヨーヨさめ?」
「さめ?はいはい、サメですね。サメは美味しく頂きました。どうぞお帰りください」
全く、悪戯をするにしても運が悪かったな。言語学者の卵に向かってそんな低レベルなハッタリ言語で騙そうとするなど。
俺は憐れな目を彼女に向けながらドアを閉めようとした。
「クラっ、まーゆ、アイユー⁈ヨーヨ!ヨーヨ!」
「!おい馬鹿、ご近所さんに迷惑だろ!叫ぶんじゃねぇ」
銀髪はなおも叫び続ける。なんだコイツ、本当に頭おかしいんじゃねぇのか?
ドアを掴む銀髪と、指を挟まぬよう配慮しながらドアを閉めようとする俺。両者の一進一退の攻防が繰り広げられていると、
「ちょっと文ちゃん、どうしたの」
玄関の様子がおかしいことに気づいた大家さんが、ゆっくりとした足取りでやって来た。
「お、大家さん!」
俺は事情を説明しようとドアを抑えながら後ろを振り返る。コイツ、なんて握力だ。金属の扉がミシミシと悲鳴を上げていやがる。
「ああ文ちゃん、その子はここの住人よ。どうしたのローラちゃん?」
ことん
丸いちゃぶ台の上に湯呑が二つ置かれる。正座をする俺とローラは、机を挟んでじりじりと睨みあっていた。
「大家さん、コイツは外国人なんかじゃないですよ。さめ?いぇらぴ?そんな言葉、聞いたことがありません」
「ヨーヨ!アイユテユテユー⁈ユテムーアぽんぷ?」
コイツ、まだエセ言語を喋ってやがる。大方、言葉が通じないフリをして心優しい大家さんを騙そうとしているのだろう。ふん、そうは問屋が卸さない。
「やっぱり文ちゃんでも知らない言葉なのね。私も最初、とても驚いたわ」
「いや大家さん。これは存在しない言語です。こんなに日本語の発音と酷似した言語があったらたとえ未開の部族の言葉だとしても何らかの文献に取り上げられているはずです。さあローラ、お前の母国語を正直に話せ」
「ちょっと文ちゃん!そんな怖い目で睨んじゃ駄目よ。それにね、ローラちゃんは元々日本語ペラペラだったのよ」
「…元々?」
大家さんは困ったようにゆっくりと頷いた。
「一週間前くらいね。泣きながらウチに来たの、日本語が分からなくなったって。最初は私も可愛いイタズラかと思ったんだけど、そうじゃなかった。ローラちゃんの日本語が、どこかの国の言葉と入れ替わってしまったみたい」
「え、ええ……?」
入れ替わった、だと?俺は思わず頭を抱えた。
大家さんはとても優しい。その人柄は言語の壁を超えるのか、俺たちの住む「いろはに荘」には外国人もたくさん住んでいる。しかし、「言葉が入れ替わる」という非現実的なことまで信じてしまうほど良い人だとは。
一方でローラは「まあ、そういうことなのよ」とでも言いたげな顔をしていた。確かに、騙すにしては用意周到なヤツだと思わなくもなかった。エセ言語には一応、規則性のようなものが見受けられるし、お茶を飲んだ時に発した「くわらっ」は恐らくエセ言語の「熱い」にあたる言葉だろう。咄嗟に出たのは少し感心。
だが、その程度で俺の目を誤魔化すことはできない。他の言語ならまだしも日本語を元にしたオリジナル言語などクオリティが低いにも程がある。
「それでローラちゃん。今日はどうしたの?」
「い、いぇらぴームーアマーユ?」
「あら、そういうこと?あいにく切れちゃってるから買ってくるね」
「???」
「ええっと、ムーア、ろろ、トット、すぱ。で、どうかしら?」
「!フリッテ!フリッテ!」
なぜ通じている?
エセ言語ではないのか。いやいや待て待て。きっと大家さんの言葉に適当に相槌を打っているだけだ。
「じゃあちょっとお買い物に行ってくるわ。文ちゃん、ローラちゃんをよろしくね」
「ちょっ、大家さん!」
バタン。
家主が外へ出かけてしまったため、俺は銀髪美少女と二人きりになってしまった。
「ソー、ユームーアふまユテ」
ため息のような声と愚痴のような言葉をローラがこぼす。大家さんがいなくなっても続けるのか。本当に隙のない詐欺師ではある。
「いい加減にしろよ」
碧く鋭い瞳がこちらを睨む。俺は自分のスマホを机の上に置いた。
「見ろ。文字起こしアプリでは日本語で文章が生成されている。どういう理由で大家さんを騙そうとしているのかは知らないが、もうやめろ」
画面にはひらがなで「いぇらぴーむーあまーゆ」と日本語が生成されている。
ローラは何も答えなかった。こちらをただじっと、睨んでいるだけだった。
「まったく…」
向こうに会話をする気がなさそうなので、しょうがなく俺はテレビをつけた。もちろん、見たいドラマがあったからとかではなく単に気まずかったからである。
するとさっとローラの手が伸び、俺からリモコンを奪い取った。
「おい」
なにをするんだ、と言う前にチャンネルが教育テレビに切り替わる。放送されていたのは日本語を題材とした幼児向け番組だった。懐かしいキャラクターの声で、思わず画面に見入る。ああ、コイツまだ頑張っているんだな。
「うー、どん。うー、どん。おいしい、おいしい。う、どんおいし、い」
ローラはたどたどしい発音で、にほんごのお兄さんが言った「うどんおいしい」を何度も繰り返していた。次は「やさいをきった」。その次は「おなべをわった」。
画面の前を陣取り前傾姿勢になりながら二十分。わき目も振らずにローラは日本語を勉強していた。
「それではみなさん、さようならー」
お別れの挨拶を、にほんごのお兄さんとお姉さんがしたことで、ローラはようやくこちらに目を向けた。「なに、あんた、まだいたの?」とでも言わんばかりに顔をしかめている。
「女優になれるんじゃないか」
眉間にシワを寄せながらそう言うと、ローラは悪口を言われたと思ったらしく、べぇ、と舌を出して再び俺に背を向けてテレビを見始めた。
「ただいまぁ。ごめんね、すこし遅くなっちゃったわ」
わぁ、と立ち上がったローラが笑顔で大家さんを出迎える。買い物袋にはネギ、肉、キャベツ、白滝などが入っている。
「はいローラちゃん、焼酎。これを借りに来たのよね?」
「フリッテ!フリッテ!」
「いえいえ。ローラちゃんはまだ買えないものね。でも飲んじゃだめよ?ところでご飯はまだ食べてないでしょう?」
そう言いながら大家さんがご飯を食べる仕草をした後に自分とローラと俺を交互に指さした。
「る、るるむっぺ?」
「ええもちろん。文ちゃんも食べていくでしょう?お鍋」
やはりあの食材は鍋用だったのか。もちろん、料理の手伝いを申し出る代わりにありがたく頂
戴することにした。
「あの、大家さん」
大家さんの隣で野菜を切りながら、俺は不思議に思ったことを尋ねた。
「どうして、ローラの言葉が分かるんですか?」
「え?」
大家さんは目をぱちぱちとさせながら俺の方を向いた。
「なんでかしら。考えたこともなかったわ」
「…本当のことを言うと俺はまだローラが話す言葉を、エセ言語だと思っています。大家さんは本当に、ローラが日本語を喋れないと思っているのですか?」
俺は包丁の手を止めて大家さんに向き合う。白い割烹着を着ている彼女は、ふふっとおかしそうに笑った。
「もしそれが本当なら、ローラちゃんはきっと大女優になれるわね」
「それは俺も同意見です」
「なんで言葉が分かるか。そうねぇ。それはローラちゃんが、私に何かを伝えたいと強く思ってくれるからだと思うわ」
「何かを伝えたい?」
「言葉はね。あくまで自分の気持ちを伝える道具だもの。心の会話に言葉はいらないのよ」
そう言って大家さんは再びエビの皮をむき始めた。俺は今日初めて、大家さんの言う言葉の意
味がよく分からなかった。