[「青空に降る雪」]
那須高原へ行くのは二回目だった。四月の終わり、風の強い日で到着した時、白っぽい、ねずみ色の巨大な雲の塊がぐんぐん、連なった山々の上を移動してした。
那須塩原駅の西口出口に立つと空気は冷たく、きれいな雪を口に含んだ時のような感じがする。
バスに乗って、四十分。背ばかり高く、心細げに見える高原の木立の間をバスは走る。
今回も一度目と同じ、山水閣という旅館に宿泊した。そろそろ日が暮れようとしていた。
山水閣は東洋のテイストでまとめられた、こじんまりとしたきれいな旅館で、昭和初期のアンティーク家具とアジアの家具が置かれている。金属が使われている箇所はほとんどなく、木と硝子で構成された造りで、それは玄関の記帳代の壁にある「山水閣」という看板が象徴していた。渋い色合いに変化した木製の看板、「山水閣」と墨字で書かれた上に半円を描くように色とりどりの硝子のビー玉が埋め込まれていた。日が暮れると、和紙で包んである間接照明が燈り、ほの明るい光でビー玉が幽かに光る。ここは人の出す音がほとんどしない。その静けさを壊したくない私はここに来ると穏やかな、小さな声で話したくなる。
そして、この宿で私が一番気に入っているのは何もかも“小さい”ことだった。私は友人にコンパクトサイズと言われる。そしてそれは悔しいが正しい。
山水閣は一部屋がちょうどよく狭い。天井も低く、部屋の出入り口も小さい。そして、小さな扉があちこちにあり、その扉から旅館の人たちは少し腰をかがめて出入りしている。まるでこっそり造った小さな秘密の館みたいで、楽しい。
山水閣に来ると世の中のものが少し大きく、それと折り合いをつけて生活している自分にとって“合う”ということがこんなにも落ち着くという事に気がつく。
部屋に案内してくれた旅館の人がお茶を入れた後、140cmから150cmの小さめサイズの浴衣を持って来る。やっぱりちょうどいいのはうれしい。
お風呂の前に、夕食を食べる。少しずつ色んな素材が並ぶ懐石料理はあざやかで、残さず食べれる程度でほっとした気分になる。
新しくできたばかりの貸切風呂に入った。たっぷりと入ったやさしい、まろやかなお湯に肩までつかる。風がびょうびょうと鳴る。紺色の空に星が幾つか見えた。
少しのぼせて貧血となる。肌触りはやさしいが、温泉のお湯はやっぱり強いと思い知った。
木の枠組みの窓は風に鳴りやすい。春の嵐に、二十四時を過ぎた頃深い眠りが遠ざかる。小さな頃、風の音に心が騒いだ。しかし、風のおかげでよりこの空間に閉じこもっている感覚が際立つ。おびえながらも、意味なく大丈夫だと思った幼い感覚を思い出した。風の音を聞きつつ、うとうと眠った。
明け方、鶯の声で目が覚める。布団から起き上がると、空気がひんやりとしている。頭の芯がさえざえとし、自分が一人のように感じる。しかし、その感覚はすっきりとしていて、悪いものではない。ふと横にいる人の気配を感じてやさしい気持ちになった。
おいしい朝ごはんを堪能した後、小一時間ほど辺りを散歩した。雲は山の向こうに行き、空は青い。なのに少しだけ雪が降っていた。不思議な心地で一緒にいる人と手をつないでとことこ歩く。時々、吹く風は澄んでいて冷たいが、金色の光が背中にあたる。車ばかりが通り、道路を歩いてる人は私たちの他にはいない。
セブンイレブンでお菓子と飲み物を買って、余所の人の別荘地でくつろいだ。人影がまったくないので怒られない。私はこういう人のいない時期の別荘地が好きだ。家や郵便ポストや道など人が確かにここにいて、生活をした形は残っているのに、人の姿が見えない、からっぽの場所。
まだ少し雪を残した山が見えて、たんぽぽが咲き乱れる草地で醤油せんべいを食べる。心が突き当たってしまわない果てのない空。開けた感覚。
ふと腰掛けた石のわきに無造作にミントとつくしとぜんまいが生えているのを見つけた。驚いた後、一緒にいる人と喜ぶ。ミントをちぎると濃い香りがはじけた。
帰り道、少し体が冷えたので喫茶店に寄った。私の好きな、木と硝子の組み合わせで出来た喫茶店だった。硝子張りの店内にはいっぱい木製のおもちゃが並んでいた。キリンの目と胴体の空洞にビー玉が光っていた。心惹かれ、欲しいなぁと思ったけど値段を見て、この瞬間だけの観賞用と知った。小さなブリキの暖炉では薪が燃えていた。初老の男の人と中年の男の人が二人でやっていて、すっきりと愛らしいフォルムの紅茶カップが気に入る。サービスでつややかな大きな苺を出してくれる。横に添えられた生クリームもあまり甘くなく、苺と一緒に食べると本当においしい。
帰りのバスの時間が近づいてきたので山水閣へと戻るため歩き出した。青空なのにまた雪が降っていた。山に残ってる雪が風で飛ばされて舞っているのだと思い当たる。青空から金色の光に反射しながら舞い降りる雪。初めて見る、不思議な光景に懐かしさと希望を感じた。