表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『獣の王』  作者: 今野真芽
12/13

第十一章

 熊にも顔色があるというのなら、サリナは青ざめていただろう。

「アニス……」

「……『獣の王』よ。どうか、私に構わないで。子どもは村に預けた。後は、あの人を殺したこの猿を、あなたが殺してくれたなら、もう何も思い残すことはない」

 気丈にそう言うアニスの顔には、隠しきれない恐怖が浮かんでいた。

 猿はニタリと笑う。

「さあ、『獣の王』。歴代の王の中で、最もひどい暴虐を振るうこととなった女王よ。この女の命が惜しいのであれば、皆に動かぬよう言いなさい。そして、黙って私に殺されるのだ」

「王! 言うことを聞いてはだめ!」

 アニスは叫ぶが、サリナは目を閉じて俯いた。

「……皆、動かぬように」

 そう言うと、獣達は顔を見合わせながら、猿に飛びかかろうとしていたその脚を止めた。

 猿が一歩、また一歩とサリナに近づいてくる。

 サリナは静かな気持ちでそれを受け入れた。

「猿よ。お前に殺されてやる代わりに、最後の命令をします。契約しなさい。私がお前に殺された後、アニスは無事に村へと帰し、アニスにも村人にも手出しはしないと」

 猿は大仰な礼をして、それに応えた。

「おおせのままに、『獣の王』よ。あなたに従いましょう。誓います。王を失った王妃を、故郷へとお帰しし、未亡人となられた王妃にもその村の者にも手出しはしません」

 サリナの嵌めた『獣の王』の腕輪が輝き、猿の手に契約の印を結んだ。これで安心だ、とサリナは思う。

 アニスはそんなサリナを、黒曜石の瞳に涙を浮かべて見つめていた。

「どうして……」

 どうしてなのか。自分を犠牲にして誰かを助けるなんて、ずっと、理解できない感情だった。だが今、どうしてもアニスを死なせたくない。

 アニスと過ごした日々が、脳裏をよぎっていく。楽しかった。居心地が良かった。──そしてそこで得た感情は、アニスに言わせれば、サリナがずっと憧れていたというものなのだろう。

 サリナはアニスを見つめた。猿の爪がサリナの首にかかる、その直前、サリナは言った。

 アニスを見つめて、微笑みながら。

「──たぶん、きっと。あなたを愛している」

 アニスがハッとしたように息を飲んだ。

 その瞬間だった。サリナの腕に嵌めた腕輪が、人の悲鳴のような音を上げた。そしてそれは、まるで泥細工のように脆く崩れ落ちていった。その壊れた断面から、赤黒い靄が溢れ出していく。

 それと同時に、サリナの身体が燃える用に熱くなる。それはまるで、熊に変化したあの時と同じ。だが、その変化は、まったく真逆だった。分厚い毛皮が、つるりとした肌へ変わり、筋肉に覆われた太い腕が、少女のか細いものに変化する。巨大な身体は急速に縮み、豊かに伸びた長い髪が彼女の肩に落ちかかった。サリナは、人間に戻っていた。

「腕輪が──」

「腕輪が、壊れた!!」

 獣達が叫ぶ。それは、歓喜の叫びだった。

 ──獣が決して持たぬもの、『愛の心』を取り戻した時、腕輪は壊れ、その力を失う。それが古の定め。だが、今までの『獣の王』が、誰一人として為し得なかったことだった。

 獣たちの姿が次々に人間──老若男女の人間に戻っていく。そして呪いによって止まっていた時の流れが一気に襲いかかり、彼らの身体は一瞬にして老いて干からび、砂のようになって消えていく。

 そしてそれは、猿も同じだった。

 『獣の王』の首を捉えていたはずの爪は、ボロボロと崩れ落ちる。猿自身の身体も、その体毛を失い、人間の肌に戻ったかと思うと、急速に皺だらけになっていく。

 砂となって崩れ落ちながら、猿は思い出していた。

 猿は、初代の王の旅に随従していた大臣だった。王の第一子を『獣の王』として森に置いていくことを王に進言したのも彼だ。王の第一子は、悪賢いこの大臣を嫌っていた。大臣自身は、もちろん、王についていくつもりだった。だが、目が覚めれば森に縛り付けられていた。

『おまえは知恵が利くから、どうか息子を助けてやってくれ』

 王はそう言って去っていき、大臣は縛り付けられたまま、森に長く留まったせいで、猿の身体へと変化した。

 以来猿は、王家への恨みだけを募らせ、長い長い年月を生きてきた。『獣の王』を迎えては、王に暴虐を唆し、獣へ堕とす。そして新たな『獣の王』を。その繰り返し。

 猿──今や干からびた老人となった男は、サリナに向けて手を伸ばす。

 ──まだだ。まだ終わっていない。私の憎しみは、復讐は、こんなものでは終わらない──!

 だが、一気に襲いかかってきた時の流れは、そんな執念すらも砂に変え、後には何も残らなかった。


 大広間に残されたサリナは、あまりのことに青ざめ、座り込んでしまった。身体がひどく重く、力が入らない。アニスがサリナに駆け寄り、裸の身体に、被っていた煤けた布を巻き付けてくれ、サリナの肩を抱いた。

 サリナはポツリと言う

「……みんな死んでしまった。獣たちは、私を慕い、庇ってくれたというのに」

 否。獣たちへの裏切りはもっと前から、この森に火を着けた瞬間からだ。

 アニスはサリナを強く抱きしめる。

「私は怪我をした獣たちの治療をしながら、皆の話を聞いていた。皆、終わりを願っていた。あなたは皆の願いを叶えたのよ」

「それでもだ」

 サリナは、皆を解放してやろうとして行動したわけではない。ただ、アニスを死なせたくなかった。それだけだ。結果がどうあろうと、真実は変わらない。

 サリナの目から、涙が一粒こぼれ落ちた。それは、彼女が初めて知る、誰かを想う悲しみの涙だった。

 アニスは言う。

「ならば、墓標を立てましょう。皆の魂を弔ってやりましょう。この火が燃え尽きたら──」

 そうして二人、がらんどうになった大広間で寄り添いながら、炎がすべてを焼き尽くすのを待った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ