第十一章
熊にも顔色があるというのなら、サリナは青ざめていただろう。
「アニス……」
「……『獣の王』よ。どうか、私に構わないで。子どもは村に預けた。後は、あの人を殺したこの猿を、あなたが殺してくれたなら、もう何も思い残すことはない」
気丈にそう言うアニスの顔には、隠しきれない恐怖が浮かんでいた。
猿はニタリと笑う。
「さあ、『獣の王』。歴代の王の中で、最もひどい暴虐を振るうこととなった女王よ。この女の命が惜しいのであれば、皆に動かぬよう言いなさい。そして、黙って私に殺されるのだ」
「王! 言うことを聞いてはだめ!」
アニスは叫ぶが、サリナは目を閉じて俯いた。
「……皆、動かぬように」
そう言うと、獣達は顔を見合わせながら、猿に飛びかかろうとしていたその脚を止めた。
猿が一歩、また一歩とサリナに近づいてくる。
サリナは静かな気持ちでそれを受け入れた。
「猿よ。お前に殺されてやる代わりに、最後の命令をします。契約しなさい。私がお前に殺された後、アニスは無事に村へと帰し、アニスにも村人にも手出しはしないと」
猿は大仰な礼をして、それに応えた。
「おおせのままに、『獣の王』よ。あなたに従いましょう。誓います。王を失った王妃を、故郷へとお帰しし、未亡人となられた王妃にもその村の者にも手出しはしません」
サリナの嵌めた『獣の王』の腕輪が輝き、猿の手に契約の印を結んだ。これで安心だ、とサリナは思う。
アニスはそんなサリナを、黒曜石の瞳に涙を浮かべて見つめていた。
「どうして……」
どうしてなのか。自分を犠牲にして誰かを助けるなんて、ずっと、理解できない感情だった。だが今、どうしてもアニスを死なせたくない。
アニスと過ごした日々が、脳裏をよぎっていく。楽しかった。居心地が良かった。──そしてそこで得た感情は、アニスに言わせれば、サリナがずっと憧れていたというものなのだろう。
サリナはアニスを見つめた。猿の爪がサリナの首にかかる、その直前、サリナは言った。
アニスを見つめて、微笑みながら。
「──たぶん、きっと。あなたを愛している」
アニスがハッとしたように息を飲んだ。
その瞬間だった。サリナの腕に嵌めた腕輪が、人の悲鳴のような音を上げた。そしてそれは、まるで泥細工のように脆く崩れ落ちていった。その壊れた断面から、赤黒い靄が溢れ出していく。
それと同時に、サリナの身体が燃える用に熱くなる。それはまるで、熊に変化したあの時と同じ。だが、その変化は、まったく真逆だった。分厚い毛皮が、つるりとした肌へ変わり、筋肉に覆われた太い腕が、少女のか細いものに変化する。巨大な身体は急速に縮み、豊かに伸びた長い髪が彼女の肩に落ちかかった。サリナは、人間に戻っていた。
「腕輪が──」
「腕輪が、壊れた!!」
獣達が叫ぶ。それは、歓喜の叫びだった。
──獣が決して持たぬもの、『愛の心』を取り戻した時、腕輪は壊れ、その力を失う。それが古の定め。だが、今までの『獣の王』が、誰一人として為し得なかったことだった。
獣たちの姿が次々に人間──老若男女の人間に戻っていく。そして呪いによって止まっていた時の流れが一気に襲いかかり、彼らの身体は一瞬にして老いて干からび、砂のようになって消えていく。
そしてそれは、猿も同じだった。
『獣の王』の首を捉えていたはずの爪は、ボロボロと崩れ落ちる。猿自身の身体も、その体毛を失い、人間の肌に戻ったかと思うと、急速に皺だらけになっていく。
砂となって崩れ落ちながら、猿は思い出していた。
猿は、初代の王の旅に随従していた大臣だった。王の第一子を『獣の王』として森に置いていくことを王に進言したのも彼だ。王の第一子は、悪賢いこの大臣を嫌っていた。大臣自身は、もちろん、王についていくつもりだった。だが、目が覚めれば森に縛り付けられていた。
『おまえは知恵が利くから、どうか息子を助けてやってくれ』
王はそう言って去っていき、大臣は縛り付けられたまま、森に長く留まったせいで、猿の身体へと変化した。
以来猿は、王家への恨みだけを募らせ、長い長い年月を生きてきた。『獣の王』を迎えては、王に暴虐を唆し、獣へ堕とす。そして新たな『獣の王』を。その繰り返し。
猿──今や干からびた老人となった男は、サリナに向けて手を伸ばす。
──まだだ。まだ終わっていない。私の憎しみは、復讐は、こんなものでは終わらない──!
だが、一気に襲いかかってきた時の流れは、そんな執念すらも砂に変え、後には何も残らなかった。
大広間に残されたサリナは、あまりのことに青ざめ、座り込んでしまった。身体がひどく重く、力が入らない。アニスがサリナに駆け寄り、裸の身体に、被っていた煤けた布を巻き付けてくれ、サリナの肩を抱いた。
サリナはポツリと言う
「……みんな死んでしまった。獣たちは、私を慕い、庇ってくれたというのに」
否。獣たちへの裏切りはもっと前から、この森に火を着けた瞬間からだ。
アニスはサリナを強く抱きしめる。
「私は怪我をした獣たちの治療をしながら、皆の話を聞いていた。皆、終わりを願っていた。あなたは皆の願いを叶えたのよ」
「それでもだ」
サリナは、皆を解放してやろうとして行動したわけではない。ただ、アニスを死なせたくなかった。それだけだ。結果がどうあろうと、真実は変わらない。
サリナの目から、涙が一粒こぼれ落ちた。それは、彼女が初めて知る、誰かを想う悲しみの涙だった。
アニスは言う。
「ならば、墓標を立てましょう。皆の魂を弔ってやりましょう。この火が燃え尽きたら──」
そうして二人、がらんどうになった大広間で寄り添いながら、炎がすべてを焼き尽くすのを待った。