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十を超える次元の住人  作者: 蒼月貴志
3/3

騒動

「機長席から失礼します。当機は間もなく空間跳躍を終え、第一目的地の木星衛星ガニメデの第三基地に到着します。ここでは燃料及び物資の補給のみ行いますので、乗員の皆様はお降りになることはできません」

 ガニメデに補給基地ができたのは二年前。広域貿易協定加盟国の出資により、資源基地として開拓された。常に木星に対して同一の面を向け続けているガニメデは、木星最大の衛星である。基地は木星側に一つと、裏側に二つ。それぞれが各々の機能を有する。内側の一つはガニメデで消費される資源の採掘基地として稼働しており、外二つが居住用と船の離発着用とにわかれている。離発着用基地は第三基地。間もなく到着するのはここである。

「私も降りてはいけないのですか?」

 高橋が若干不満そうな表情で斎藤を問い詰めている。

「申し訳ありませんが、不可能です」

 いつになく語気を強める斎藤。

「なぜですか」

「我々には、ガニメデ第二基地、すなわち居住地区への入場許可が下りていません。いくらあなたがVIPといえども、規則を曲げてまでご案内することはできません」

 一拍おいて、斎藤が続ける。

「まして、我々はまだ太陽系に到着したてで、あなたのことを地球人類どころか日本の本部にすら報告していません。そんなあなたがここの居住地内で目立ってしまったとき、住民に何と説明するのですか」

 表情を緩めて、斎藤が高橋をいさめる。

「初めて遭遇する文明に興味が尽きない、気持ちは分かります。私たちも、あなたに出会ったときは質問攻めにしました……。しかし、我々は多くの個体を有する共同体で一つの文明をなしており、それぞれの個体は全体で決めたルールに従わなければならないのです。それが、この地球文明の基本です。ルールを守ることができない者は、この文明に存在してはいけないのです。分かっていただけますか?」

「……分かりました」

「ご理解いただき感謝します」

 後ろではらはらしながらやり取りを見ていた山田と吉田は、ここで胸をなでおろすこととなった。

 空間跳躍は、断続的に行われる。船内に貯蔵可能なエネルギーの総量では百光年を飛躍するのが精いっぱいであり、六千光年の航海のうち、六十回強はどこかの恒星に寄ってエネルギーを蓄えなければならないのだ。一回の跳躍に一日を要するとして、ここまで約二月を要した。

 この間、高橋は可能な限り多くの知識を吸収した。

 斎藤らによって、精神的な衝撃が予想される歴史等は閲覧に制限がかけられたが、文化や科学技術等に関する膨大な知識は、むさぼりつくしたと言っても過言ではない。

 その勢いたるや、まさにブラックホールが降着円盤を食い尽くすがごとしで、ほかの乗組員を驚愕させた。

 しかし一方で、精神的な若さゆえか、はたまたブラックホールとは元来そういうものであるためか、急激なエネルギーの放出、かんしゃくを起こすことがままあった。

 彼女が人を傷つけることはなかったが、そのたびに船内が小さな被害を被ることにもなった。

 その度に斎藤が高橋をいさめてきたのだ。ともあれ、今回はどうやら騒動なく終わりそうだ。

 船がガニメデ港に寄港し、ドック入りする。入港管理官が船内に立ち入り、入港に必要な書類の受け渡しを行う。

 太陽系の人々はまだ高橋の存在を知らないため、実質的な高度知的生命体との接触は今だなされていないと認識されている。そのため、深宇宙から帰還する乗組員は当然地球人であり、入国審査のような乗組員確認手続きがない。高橋のことについてどう説明しようか思案を巡らせていた船長輿石にとっては、これは幸運であった。

 手続きが済んだ一行は、船内の広間に集まり、ティータイムを始める。途中、高橋が花摘みに行くまでは、何もかもが順調であった。

 高橋が席を離れてしばらくたち、斎藤が不穏なものを感じ取る。

「高橋さんはいつになったら戻るんだ?」

「斎藤さん。それは不躾な質問ですよ。花を摘みに行って長時間かかるとなりゃそりゃあ……」

 山田の反応にすぐ切り返す斎藤。

「一時間以上もこもることがあるのか」

 確かに異常であることを認識した一同は、顔を見合わせ、代表として吉田に様子を見に行かせる。

 戻ってきた吉田は、まさに慌てふためくの一言であった。

「い、いません! 手洗いにも部屋にも!」

 騒動なく終わるなどありえなかった。高橋は、お得意の空間跳躍を用いて、船外に出てしまったのだ。

 輿石が急いでコクピットに戻り、無線で船外活動中のガニメデ作業員に問いかける。

「ドック内の皆さん。お仕事中すみません。どなたか、セミロングの黒髪で端正な顔立ちの女性を見かけませんでしたか?」

 しばらくして、無線に返事が来た。

「見ていません」「見てませんねえ。いたら見たいですねえ」

「見ていません。が、どういうことです? 本日は皆さんは船外にお出になる予定はないはずでは? それ以前に、いくら低重力といえども、タラップなしでどうやって船外に出たというのですか? 誰も用意していないと思いますが……」

 最後の一言は、ドック内の管制ルームからのものだった。

「説明は後ほど、改めてさせて頂きます! 今は何より、彼女の行方を追っております。ご協力いただけませんか?」

 しばらくして、返答があった。

「説明は必ずしていただきますよ。ともあれ、皆様を船からお出しするわけにはいきません。出奔した乗組員の情報を頂ければ、こちらでお探しします。基地間は防壁で区切られているので、許可証なしにドック内からは出られないと思います。ですので、この中の監視カメラで探れば……」

「ダメです。彼女には、セキュリティー防壁など無意味です。居住区域も含めて、全基地に捜索範囲を広げてください!」

 スピーカーの向こうからどよめきが伝わってくる。

「いったい何者か――ということも後ほど説明していただきますが、承知いたしました。捜索範囲を全基地に広げます」

 事態は次第に大事になりつつあった。これ以上の事件が起きないことを願いつつ、五人は広間で待機することとなる。


 居住地区の町並みは、高橋にとって新鮮そのものであった。映像で見てきた地球の壮麗なビルディングには劣るが、雑然と並んだ無機質な住宅の連なりは、これまで無構造あるいは限られた構造の世界で生きてきた彼女にとってはまさに別世界である。

 分厚い氷の下にくり抜いて作られた空洞都市であるガニメデ第二基地は、第一基地で働く技術者や第三基地で働く労働者、また、宇宙惑星研究者のための居住地となっている。天井の高さは百メートルというところで、広さは東京ドーム二十個分ほどである。その中に詰め込めるだけのモジュール住宅が詰め込まれている。天井および壁面はすべて高密度の氷であり、淡い太陽光が当たるときは天井や壁面が幻想的に輝く。現在はこの現象を観光資源にしようという案も浮上しているらしい。

 街の人々は、高橋の存在に気づいてはいたが、ことさらに問題視することは無かった。実際、一定の料金さえ払えば、ガニメデ寄港時に船外散策をすることも許されている。見慣れない船乗りが街にいても、不思議ではないのだ。

 居住者層の偏りから、女性向けの商店は、ほぼ存在しない。ブティックなどもってのほかだ。当然、コンピュータ部品や様々な工業製品の店がほとんどとなる。しかしそれでも、高橋にとっては宝の山だった。

 資源運搬車が行き交う大通りを進む道すがら、脇にあった貧相な部品屋に飛び込む。

「こんにちは」

 背中を向けて作業をしていたガタイのいい店主の中年男性が振り向く。

「お! こりゃまた別嬪さんが来たな! 何か入り用かい?」

「いえ、ちょっと街の様子を見ていただけです。こちらによったのはついでですね」

 鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を見せた店主。すぐに破顔した。

「がっはっは! 面と向かって冷やかしだといわれたのは初めてだ!」

「そういうものですか?」

「まあふつうは無いな。だがま、せっかく来たんだ。ゆっくり見て行ってくれ」

「ありがとうございます」

 しばらく店頭に並んだ部品を眺めた後、高橋が質問する。

「こう言った精密回路において、トンネル効果により生じる電気抵抗の問題は、どのように解決しているのですか?」

 面食らう店主。

「すまんなあ……そういった原理的なことはワシに聞かれてもわからんのだ」

「なるほど……では、すでに基盤等は動くものとして、一つコンピュータを自作するには、どういった部品を組み合わせればよいのでしょうか?」

 水を得た魚のように目を輝かせる店主。

「おう! そういう質問ならいくらでも答えられるぞ。まず必要なのはCPUだろ、マザーボードだろ……」

 店主の解説は三十分に及んだ。それでも、高橋にとっては地球文明の技術の一端を垣間見る好機であり、終始目を輝かせて聞いていた。

 途中、数人の客が黙って部品を見繕った後、自動会計機で支払いを済ませ、一度も店主と話さず帰ってしまった。

 こういった店に来る人間の多くは、自身ですでに知識を仕入れており、店主の助けが不要なことも多いのだろう。

 そんな中、まるで無知な、まだあどけなさを残した女性が自分の話を熱心に聞いてくれるという時間が、店主にとって特別なものであったのは確かである。

 解説が終わるころには、高橋は自作パソコンについての基礎知識と、部品についての最近のトレンドをざっくりと把握するに至った。

「つまり、クロック数は合わせないとだめだということですね?」

 的を射た質問をこれほどの短時間でできるようになった相手に対して、店主が感嘆のため息を漏らす。

「いやー。その通り。じゃないと、いくら計算速度が速くても、遅い方に足を引っ張られちまって、性能が発揮できないんだ。――まったく、お嬢さんは別嬪さんなうえに頭の中も特別製なのかねえ」

 ほめられていることに気付き、はにかむ高橋。

「そうだ。ちょっと待ってな。いいもの見せてやる」

 そういうと、店主は店の奥に入っていった。奥からは何かをひっくり返す音と「これこれ」という店主の声。

 戻ってきた店主の手には、水晶のような透明な物体が握られていた。

「おじさん、それは?」

 高橋が好奇心から尋ねる。

「おう。これはな、この前アメリカの大金持ちが道楽で開発させたっていう、新しい記録媒体だ。ひょんな事情からうちに転がり込んできてな」

「フラッシュメモリですか?」

 頷く店主。

「そうなんだが、これは特別製でな。このサイズで保存できるデータ量は千テラバイト。詳しい原理は知らないんだが、水晶の分子の性質をうまく使っているらしい。しかも、水晶だからめったなことがないと壊れない。何万年だかほったらかしにしておいても大丈夫なんだと」

 目を丸くしてその話に聞き入る高橋。これまでの知識では、現状市販のハードディスクに保存可能なデータ量はこの百分の一前後であったはずだ。どのようにこれほどの大容量を可能にしたのか、その原理が気になって仕方がない様子である。

「ふむ。やはり興味あるか。そこでだ……」

 店主が何やら提案しようとした、その時だった。

 視界の端で製品を眺めていたフードを被った人物が、大きなグラフィックボードの箱を抱え上げ、店外に走り出したのだ。

 それに気づいた店主は一瞬あっけにとられたが、すぐに制止すべく、大声を張り上げる。

「あ、おい! おまえ! 待て!」

 水晶を高橋に預け、警備団への通報ボタンを押した後、フード男を追って外に走り出す店主。

「待て! 泥棒!」

 高橋も店の入り口まで小走りに追ってゆく。

 泥棒は大通りを渡り切り、向かいの歩道に達していた。それを追う店主も大通りに飛び出す。

 高橋の視界の端に資源運搬車が映り込んだのはその時だった。

 採掘場の土をタイヤに纏わせた運搬車の通り道は、轍に沿って土が堆積しており、車が通るたびに土埃が巻き上げられ、辺りの視界を奪うことがある。

 店主からはこの運搬車が見えていなかったのだろう。

 通りに飛び出した店主の一歩分の距離まで、急ブレーキをかけたが速度の落ちていない運搬車が迫った。

通行人の中で、神経の反射速度が速い者たちは目を背ける。

 この後に起きたことは、高橋にとって、それは完全に無意識であり、当然のことながら、彼女にそれが可能であったことは、当人を含め、誰もが知らなかった。

 ただ確かなことは、次の一瞬、周辺のモノの動きが極めて緩慢になったことと、通常の物理ではありえない急激なカーブを描いてトラックが飛び上がり、車体全体が店主上空を通過した後に無事着地し停止したことである。

 この同時刻、ガニメデを中心とした木星衛星系全体の軌道に微弱な変化が起きたことが同系管轄の複数の宇宙機管制室により後に報告される。これにより、この日発着予定だった数本の便に遅れが出たらしい。

 事件直後、突然飛び上がった運搬車の運転手と、そこに腰を抜かして座り込む店主、そして呆然とその様子を眺める窃盗犯を含めた観衆のすべてが、まるで時間が止まったかのような静寂に包まれていた。

 そこに、何も知らない警備団が窃盗の警報に気付いて駆け付けたのは、それからすぐのことであった。

周りの人々が動き出し、そこかしこで大きな動きがあった。

 あっけにとられていた窃盗犯は、駆け付けた警備団員によって取り押さえられた。盗んだグラフィックボードは高価なもので発信機がついており、これが逮捕の決め手となったらしい。

 店主は気が抜けた後に気を失っており、付近の住民が助け起こし、店内に運び込まれた。

 事態がまるで理解できない運転手は、その後別の警備団員に事情を聞かれた時も「訳が分からない」とだけ話したそうだ。

 店の奥で風に当たっていた店主が目を覚ましたのは、その騒動が落ち着いた後であった。

 枕の横には水の入ったポットとコップ、そして例の水晶と手紙が置いてある。

 水晶はいまだに熱を持っており、想定されていた用途外の使用がなされたことは明白であった。

 上体を起こした店主は、何よりも先に手紙を手に取ったが、そこには日本語で何かがかかれており、カナダ出身の店主は読むことがかなわない。

 コップの水を一口飲んだ店主は水晶と手紙を握りしめ、店外の歩道に駆け出し、第二基地行政局へ向かった。


 五人が憂鬱な夕方のひと時を過ごしていると、突然、船内に警報が響き渡った。

 アカデミック三人組は安全のため居室へ戻り、輿石と折山はコックピットで状況の確認に追われる。

 警報の内容によると、微弱な地震を感知したということである。

 木星からの潮汐力で表層の氷がまれに砕けるガニメデにおいて、これは特筆して驚くべき事象ではない。

 ただし、高橋が行方不明になっている現状においては、どのような些細な出来事も、ネガティブな想像の材料となってしまう。

 非常事態下では、乗組員の安全確保と保安上の理由から、船長が許可するまで、居室から出ることは禁じられている。

 居室間を結ぶ音声通信で、斎藤、山田、吉田の三名はそのような想像を巡らせながら、不毛な議論を続けていた。

「どうしよう……。良子が地震でケガでもしていたら」

 吉田が心底心配そうな声で不安を口にする。

「体で感じない程度の地震だぞ? ケガなんかしないって」

 山田が明るい口調でその想像を否定する。この程度で不安が払しょくされるわけではなかったが、明るい意見が一つあるだけで、いくらか場の雰囲気は和らぐものだ。しかし、その山田の努力を斎藤が打ち砕く。

「それは心配ないだろう。むしろ、私はこの衛星のことが心配だ」

 吉田がこれに疑問を呈する。このとき、横で聞いていた山田には、先ほどよりいくらか声に熱を帯びているように感じられた。

「衛星が心配? どういう意味です?」

「そのままの意味だがな。彼女がここまでの船旅で我々に見せた力を忘れたわけではないだろう」

「あれは不可抗力よ。それに、衛星に地震を起こすほどのものではないわ。斎藤さんの心配は、想像できるけど、それは妄想よ」

 吉田の声がいよいよ大きく、とげを帯びてくる。

「だといいがな」

 これ以上の議論は無用とでも言うように、斎藤が接続を切断する。

「何なの……良子をまるで……」

 ここまでのやり取りを黙って聞いていた山田が口を開く。

「まあ、斎藤さんも、高橋が勝手に出て行って腹に据えかねるものもあるんだろうよ。ちょっとイラついてるだけだって。そんなに気にしなさんな」

 吉田がこれに対し反発する。

「確かにあの娘は自分勝手よ。でも自分勝手なよくいる女の子なの。斎藤さんの言いようだと、まるであの子が化け物みたいに……」

「吉田さん」

 至って真面目で、まっすぐ響く声がスピーカーから発せられ、吉田の胸を突く。

「そういうこといっちゃいけない。吉田さんが言った通り、高橋はちょっと出自が特殊な自分勝手なよくいる女性。ただそれだけだ。斎藤さんや他の人がなんて言っても、その事実は変わらない。それなのに、斎藤さんの言葉に影響されて、今吉田さんは彼女のことをそういうふうに表現した。口で否定していても、心のどこかで斎藤さんの意見を肯定しているからだ。それは彼女をそういうふうに見ているのと同じことだよ」

 その言葉に心を乱される吉田。

「そんなこと……そう、ね……。駄目ね私、全然だめ。いっていることと心が矛盾していて、そこにネガティブな感情が流れ込んできて滅茶苦茶。良子が帰ってきても、合わせる顔がない」

 今度は打って変わっておどけた声がスピーカーから流れてきた。

「いいんじゃない? 心って自分のものでもそんなに簡単に御せるものじゃないっすよ。それに、心で思った通りに話してばかりいたら、そこらじゅうで喧嘩になるって。吉田さんは至って正常。そんな卑屈になりなさんな」

 急に明るい声に戻った山田に、吉田は驚きを隠さない。

「山田さん。あなたって、意外と考えてるのね」

「その言いかたは、ひどくない?」

 その時、船内の警報が再び鳴り響いた。間髪入れずにコクピットからアナウンスが入る。

「非常事態態勢下で誰か居室から出ましたね?」

 輿石の声だ。これを受けて、斎藤との音声通信が再開する。

「吉田さん、山田君、二人とも居室にいるね?」

「はい」

「うい」

 居室間通信をコックピットに接続し、状況を報告する斎藤。

「全員居室で待機中です。ということは、外部からの侵入者ということになります」

 はあ、という盛大なため息とともに、輿石が警報が鳴った区画へ向かう。

 普段であれば、ドック内の保安要員の出動を要請するところであるが、ドック内はすでに高橋の大捜索態勢下、要するに非常事態にある。

 この状況下で、タラップも付けずハッチも開けずに船内に侵入できるものは一人しかいない。

 輿石がコックピットを出るときに、同時に管制ルームに対する状況の報告を指示された折山は、無線で事態の解決を伝えた。


 輿石によって広間に連行された高橋は、どこかぼんやりとしており、視線の焦点が定まっていないような印象を受ける。

 居室から飛び出してきた吉田と山田は高橋の姿を確認すると、急いで駆け寄り、吉田はそのままきつく抱きつく。

「鈴子?」

「良子! ああ、よかった。何かあったんじゃないかと、心配で……」

 吉田は、そこで言葉に詰まってしまった。先ほどまでの会話で、自分の心の底にある薄暗い本当の気持の一部が明らかになっていたためだ。

 その小さなどろっとした塊は、彼女の喉につかえ、心から出ようとする高橋を想う言葉のすべてを否定する。

 自分自身に嫌悪した吉田がわずかに高橋から離れると、後ろからつかつかと音を立てて登場した斎藤が、その隙に入り込み、高橋の頬をはたいた。

 乾いた音が広間に響き、高橋がふらふらとその場に座り込む。

「良子! 斎藤さん。何を――」

「吉田さんは黙っていてください。高橋さん。なぜ今ぶたれたか分かりますか?」

 ふらふらと上を見上げる高橋。斎藤と目が合い、涙がぽろぽろと目じりから零れ落ちる。

「ごめんなさい……」

 斎藤はそれ以上は何も言わず、高橋をぶった方の手首をもう一方の手でつかんだまま、居室のほうへ戻っていく。

「何もぶつこと……大丈夫? 良子」

 高橋を抱え起こし、立ち上がるのを手伝う吉田。

「違うの鈴子。斎藤さんは……」

 そこまで言うと、言葉が止まる。自身が犯してしまった予想を上回る罪と、その結果を理解してしまったが故の罪悪感が高橋を苛んでいた。

 高橋のすすり泣く声が、しばらくの間、静まり返った広間に響いていた。

 山田が両手をパンとたたき、努めて明るい声で話し始める。

「とにかく、各々居室に戻りましょうや。こんな所で辛気臭くなっていてもらちが明かないしね」

 軽く頷くと、涙をぬぐい、吉田に支えられながら山田の後をついてゆく高橋。

 三人は、斎藤の居室と反対方向、少し進んだ区画にある山田、吉田両名の各々の居室の前にたどり着いた。

 現在、高橋は吉田の部屋でルームシェアをしており、二人そろって部屋に入ってゆく。

 山田もその様子を見届けた後、自室に戻っていった。

 高橋は吉田に勧められるまま丸テーブル横の椅子に腰かける。

 「紅茶でも飲む? さっき運び込まれた補給物資の中にあったの。初めてよね?」

 先程広間であった出来事についてはあえて触れず、高橋を落ち着けることが先決と判断した。

 反応のない高橋をしり目に、粛々と紅茶の準備を進める。

 すると、後ろからかすれたような小さな声が聞こえてきた。

「私……軽い気持ちで出かけてしまって……皆さんに迷惑をかけて……」

 紅茶を入れたカップを二つトレーに乗せ、テーブルに向かう吉田。

 カップを高橋の前に置き、自分も椅子に座りながら答える。

「迷惑……確かに、あれだけの騒動になって、迷惑もかけたと思う。でもね良子。むしろ問題なのは、意味もなく周りの人を不安にさせたことよ……」

 高橋がこの言葉を聞いて、顔を上げる。高橋の目を見つめながら、吉田が言葉を紡いでゆく。

 まっすぐな高橋の瞳が、自身の心の奥底の黒い何かを見透かしているのではないかと、内心恐れもした。しかし、だからこそ、今ここで発することができる言葉は、この瞳で見られても恐れる必要がない、後ろ暗さを感じることがない、自身の本心であることに気付き、同時に吉田は安堵した。

「ええ、そう。とても不安だったわ。大切な友人のあなたを失うんじゃないかという不安。さっきあなたが現れるまで、いろいろなことを考えた。それでも、やはり、一番の不安の原因は、あなたの不在、あなたを失うことへの恐怖だったの……。この星に着いたとき、斎藤さんがあなたに言ったわね。人類は多くの個体を有し、その共同体として、文明を築いてきた。彼はこれらを結ぶルールについて強調したけれど、それとは別の側面もあるの。人と人とのつながり、身近な人と親しくなり、信頼関係が生まれ、一人では成すことのできなかったことにともに挑戦してゆく。隣に人がいて、自分がいて、そこに関係があって、各々出会わなければ見ることのなかった、新しい世界にたどり着く。これが、人類文明でしばしばみられる、非線形な進化の原動力だと思うの。心理学者のアドラーは、人間個人の悩みごとの原因のすべては人間関係にあるといったわ。でもそれはつまり、既存の自分に新しい価値観を与え、悩ませ、進歩させてくれる存在は、他者でしかありえないということじゃないかしら。……あら、私は何が言いたいのかしら。そう……。つまり、人間は、隣にいる誰かが必要で、その関係が親密であればなおさら、失ったときに自分の中で何かが欠落したように感じるの。私たちが、あなたがいなくなって、とても不安になった。それを納得できるかはわからない。でも、理解はしてほしいの……ごめんなさい。一人で長々と話してしまって」

 ここまで、ほとんどまばたきもすることなく話に聞き入っていた高橋が、黙ってうなずいた。

「大丈夫。分かります。納得もできる。さっき、斎藤さんが私をはたいたとき、不思議と怒りはあまり感じなかったの。感じたのは、裏切られた悲しみと、不安と、とても複雑ではあったけれど、安堵……だったと思う。それを感じた時に、普段あれほど冷静な斎藤さんの心理をそれほどまでにかき乱してしまった自分が情けなくなって、苦しくなって……」

 再び、下瞼の上に涙がたまり始める高橋。

 立ち上がった吉田は高橋に駆け寄り、その頭を少し強めに抱きしめる。

 彼女の腕の中で嗚咽を漏らす高橋。

「大丈夫よ。もうあなたも心配しなくていいの。きっとすぐに何もかも元通りよ」

 しばらく泣き続けた後、落ち着いた高橋が吉田の胸から顔を離し、顔を上げる。

 微笑みかける吉田。

「ほら。もう平気」

 頷く高橋。その目をまっすぐに見据え、高橋が続ける。

「でも約束して、これからはみんなに黙ってどこかに行かないこと。見知らぬ土地では特にね。約束できる?」

「約束する」

 高橋がまじまじと目前にある吉田の顔を見つめる。

「あ、あと、これのほうが重要かもしれないわ。嘘はつかないこと」

 あ、という表情のまま、口を開けて止まってしまった高橋。

「たぶん、斎藤さんは、これについてはちょっと怒っていると思うわ。嘘は、信頼関係を著しく損ねるの。人との約束を一方的に反故にしたり、人を心配にさせるような嘘は、絶対にダメ。たぶん、斎藤さんには、これについては謝っておいた方がいいわね。他にも何か心配事があるようだったし……」

 口ごもる吉田。それに対し、何度も首を縦に振る高橋であった。


 すぐさま居室を飛び出した高橋は、小走りに斎藤のいる別の区画に向かう。

 扉をたたくと、斎藤が中からいつも通りの無表情で現れた。

「ごめんなさい!」

 出会い頭に謝罪され、一瞬何事かと当惑する斎藤。しかし、顔を上げた高橋の表情を見て事情を察した斎藤は、扉を開けたまま固定し、眼前の美女を中に招き入れる。

 事の委細の説明を受ける斎藤。

 なるほど、と一言だけ言葉を発すると、しばらく考えたのちに話し始めた。

「私をだましたことについての謝罪は受け入れましょう。吉田さんの分析も大体あっているし、心配したことも確かです」

 ここまで話すと一息入れ、話を続ける。

「ですが、おそらく彼女も、山田君もあなたも、一つ考えが及んでいないことがあるようです。ついでにここで話してしまおうと思いますが、時間は大丈夫ですか?」

 頷く高橋。

「ふむ。たぶん吉田さんは特に著しく誤解していると思うのですが、あなたの例の能力についてです」

 それまで座っていた斎藤が立ち上がり、窓から見えるドックの透明な天井を通して、木星のない星々のちりばめられた暗闇を見上げる。

「私は、そのことを恐れています」

 え、という形の口のまま高橋が固まってしまったのを、窓に映った室内の様子から見て取った斎藤が振り向き補足する。

「いや。言葉が足りなかったようですな。これだから誤解されるのでしょうが……あなたの能力は可能性に満ちた素晴らしいものです。ですが、問題は、それを知った他の人間がそれをどう思うかです」

 きょとんとした顔で自分を眺める美女に対してどのように言葉を紡ぐか斎藤が逡巡する。

「実は私は、あなたがいない間、二人との会話の中で、その能力が発動した際にこの衛星に及ぼす影響について考えていました。このときに彼女に誤解されたようだが……実際、こちらでは微弱な地震を検知したのですが、あなたはどこかで能力を使ったのではないでしょうか?」

 一瞬戸惑ったのち、嘘はダメ、という吉田の言葉が蘇り、正直に首を縦に振る。

「やはり……。理由については、特に聞かないでおきましょう。あなたが人に害をなすためにあれを使うとは考えられませんので。とにかく、問題はその規模です」

 再び窓の外を向いた斎藤が遠くを眺めながら話し続ける。

「先ほど船長の輿石から聞いた話によると、木星の衛星の軌道が、衛星間の重力による摂動では説明できないほど変化したようです。――そうはいっても、系が破壊されるほどの深刻なものではないので心配は無用ですが……」

 顔が見る見るうちに青くなってゆく高橋を見て、安心のために最後の言葉は付け加えた。

「問題は、そのことが付近を監督する機関に察知され、情報が地球に送られたことです」

 一拍置く斎藤。

「地球の関係各所は、原因の究明に動き出すでしょう。ちょっとずれただけだし、まあいいか、とはならないのですよ。それに加えて、あなたも外からご覧になったと思いますが、このドック内では人一人失踪したとの情報で大捜索が始まり、ほぼ同時刻に第二基地、居住地を震源とした地震が発生。貴女がどれほど盛大に能力を使ったかに依りますが、これらを関連付けて調査され、この船とあなたに注目が集まるのは避けられないでしょうな」

 ドック内の騒動は、結局、確認不足で実際は誰も外に出ていなかったという凡ミスをでっち上げ、報告した副操縦士の折山が管制ルームからこっぴどく叱られるという顛末で沈静化した。

 しかし、おそらく、騒動自体は記録に残っているはずだ。

「……ごめんなさい。私、かなり大々的に使ってしまいました」

 ここまで聞いていた高橋が斎藤の心配を理解し、自身の体験について語り始める。話の終わりに、大きなため息をつく斎藤。

「いえ、その場合、能力の使用自体は人助けであって、まったく問題はありません……ですが、今頃治安部と行政局は大騒ぎでしょうね……」

 手を顎に当てて思案していた斎藤が、小さく頷く。すぐ横にある通信装置のボタンを押し、コックピットと他二人の居室につなぐ。

「乗船中の全員の意見を聞きたい」


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