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十を超える次元の住人  作者: 蒼月貴志
1/3

生命

四、五年ほど前に書いた処女作になります。ご一読いただけますと幸いです。

 宇宙からあらゆる光が消え、いままさに、その重力によってこの世界は滅ぼうとしていた。

 そんな中、縮みゆく空間にこだまする声が一つ。

「さようなら。ごめんなさい」


 約六千光年の航海を終え、今まさに船は目的地に達しようとしていた。この、白鳥座X-1は連星であることが観測で明らかになっており、その伴星はブラックホールであると考えられてきた。今回の航海で、人類は初のブラックホールとの有人接触を果たすことになる。

 時空の構造の一部を明らかにした人類が、工学的に重力を操る術を手に入れたのは二千十八年のことであった。

 ただしその用途は限られており、地球上において物体を浮かせたり、逆に宇宙船の中で地球表面程度の弱い人工重力を作り出すのがせいぜいである。

 一方で、基礎理論の発展によって空間跳躍という一見似非科学にも見える技術が確立されたのは、驚くべきことであったと言えるだろう。

 その跳躍は比較的短距離に限られ、千光年単位の遠方に行くには複数回の跳躍を行う必要があったが、それでも、光年の距離を人間の寿命より短い時間の中で移動できるようになったことは、まさに革新的であった。

 この技術の獲得後、三十年のうちに各国がそれぞれの宇宙機を開発し、各々の関心のもとへ、調査団を派遣した。

 米国は、地球外知的生命体を求めてグリーゼ五八一へ、中国は資源を求めて木星の衛星イオへ、ロシアは技術的制約の許す限り遠方の暗黒空間へ、そして日本は、このブラックホールの探査を行うこととなったのだった。

 独自の有人宇宙飛行のノウハウに乏しい日本が、このような急進的な探査に出発したのにはわけがある。

 ブラックホールという、宇宙開闢の瞬間の対極に位置する、空間の特異点の数々の謎を解き明かし、時空の構造を完全に明らかにする。この、ニュートンやアインシュタイン以来の快挙を成し遂げることで、科学一等国という名誉を獲得し、科学先進国の地位に再び躍り出ることで、近年みられる国家凋落の兆しを一気に払拭しようというのである。

 短絡的ではあるが、周辺の国々に多くの分野で後れを取り始めた黄昏の国家において、これは国の命運を左右する一大事業であったのだ。

 第一探査隊に選ばれたのは二名の宇宙飛行士を含めた五名の博士たちであった。制服組のクルーがいないのは、目的地に知的生命体の存在が予想されないことが主な理由である。

 ここまでの半年間の航海は、トラブルの無い、いたって平穏気ままなものであった。

 いま、目の前にブラックホールが迫りつつある。コクピットに集まったクルーの緊張も徐々に高まってきている。

「時間のずれとかは、大丈夫なの? 一般相対論によると、重力が大きなところでは、時間の進みが遅くなるでしょう? 目標に近づいて、帰ってみたら地球には知り合いが誰もいませんでしたなんて……いやよ?」

 化学博士の吉田鈴子が不安そうな表情で問いかけてきた。

「大丈夫ですよ。時間の遅れといっても、事象の地平面から離れたところを移動する程度じゃあ一時間も遅れません。昔あった映画みたいに、何十年も遅らせるためには、本当に事象の地平面すれすれを飛ばなくちゃならないんです。そんなことをしたら、このサイズのブラックホールだと、潮汐力で船がバラバラになっちゃいますよ。それを覚悟して行ってみます?」

 物理博士の山田徹がおどけた調子で答えている。

 茶化されたことに気分を害した鈴子は、ふーんとだけ答え、コクピットから出て行ってしまった。

「あれま」

「ああいう答え方は感心しないな」

 天文博士で、乗組員のうちで最年長の斎藤裕氏が、いつもの調子で徹をいさめる。天文博士とはいえ、実際は宇宙物理学の物理博士であるため、斎藤が実質的にこの調査団のリーダーを務めている。

「さーせん」

 三人のやり取りを聞いていた船長の輿石一郎が、マイクを片手にアナウンスを始める。事の次第に関しては我関せずを決め込むつもりのようだ。

「みなさま、当機は十二時間後に、白鳥座X-1のブラックホール候補天体の周回軌道に入ります。機の安定確認等がありますので、調査はその一時間後以降に開始してください」

「そっけないっすね。船長」

 一郎の対応を副操縦士席で眺めていた折山達也が評する。

 達也の評価を気にもせず、一郎が後ろで漂っている二人に居住区に戻るよう促す。

「お二人さんも、吉田さんを見習ってさっさと居住区に戻ってください。ブラックホール見学は後で好きなだけできるでしょう?」

 保安上の規定に従順な一郎は、山田と斎藤を何とかしてコクピットから追い出したいようだ。

「ですって。斎藤さん」

「分かりました。部屋に戻ります」

「お邪魔しましたー」

 斎藤と山田はコクピットを後にし、居住区の自室に戻って行った。

 操縦士以外の三人は仮眠をとり、十三時間後開始の調査に備えることとなる。


 十二時間が経過し、船はブラックホール周回軌道に侵入を開始した。現在の速度では、船は双曲線軌道を描いてブラックホールを通過してしまうため、近日点にて逆噴射を必要とする。このタイミングを間違えれば船は宇宙の藻屑と消えるか、ブラックホールに落ちて量子情報として宇宙の終わりまで保存される運命となる。運が良ければ、遠い未来にこのブラックホールが蒸発して、再び宇宙空間に戻ることもあるかもしれない。

 とにかく、この作業に際して操縦士には集中力が求められるため、軌道が安定するまでは、アカデミック組の三人はコクピットに入ることができない。

「ひまっすねえ」

 三人は広間のテーブルを囲って座っている。山田は机に突っ伏し、手をパタパタさせている。

「この作業が失敗したら、我々の命運は尽きるわけか。自分の運命を他人に任せるというのは、どうにもなれないな」

 斎藤もいつになく緊張している様子だ。

「そうですか? なるようにしかならないですよ。そんなことより、調査計画の確認をしておきませんか? 時間がもったいないです」

「おお。俺たち以外の時間は速く進みますからね」

 山田を一瞥する吉田。口笛を吹いてごまかす山田。

「時間の遅れはともかく、確認するのはいい案だ」

 かくして三人は、作業の確認を始めた。その直後アナウンスが入る。

「乗組員に連絡です。当機は、ブラックホール周回真円軌道に入りました。これから、軌道の安定性確認を一時間行った後、自由時間とします。調査はそこからお願いいたします」

 ブツンというマイクの電源を切る音と共に、簡素なアナウンスが終わった。

「とりあえず、予定通り、かな?」

 山田が両手を挙げて首を傾げている。

「今のところ完璧だ。怖いぐらいにな」

 斎藤も嬉しそうだ。

「では、引き続き、確認していきましょう。まず――」


 調査は、きっかり一時間後から始められた。はじめに探査機をブラックホールに落とし、可能な限り近傍までのデータを採取する。さすがに近傍での有人探査はできないため、その後は他の観測衛星をホールの周りに飛ばしながら、物理量の時間進化を調べる地道な作業になる。

 ブラックホールは一定の輻射をしていると考えられるため、その調査も兼ねる。

 侵入位置から軌道を半周した地点で、最初の探査機が切り離された。進行方向に向かって噴射を行い、ブラックホールに対して直線的に自由落下できるよう調整する。探査機はゆっくりと高度を下げ始め、徐々に加速してゆく。

 これに加え、二つの小型衛星も放出した。これにより、ブラックホール後ろ側からも、探査機からのデータを正確に受信できる。ブラックホールの重力レンズ効果に任せるのもよかったが、データが劣化してしまう可能性も考え、安全策を取った。

 とにかく、探査機は落下しながら逐一データを送信してくる。初めのうちは予想通り。順調に速度を上げてゆく。予測では、事象の地平面に達する前に、探査機送信電磁波の波長が極端に長くなり、受信できなくなるはずである。そのぎりぎりまでのデータを採取する。

 予想通り、波長は徐々に伸び始めた。初めのうちは、無視できる程度であったが、事象の地平面に近づくにつれ、急速に波長が伸びて行った。小型衛星からの可視光映像では、極端に探査機が赤く暗くなり始めており、徐々に落ちてゆく様子が確認できる。

 そして、予想通り、データが途切れた。この先は何人たりとも立ち入ることの許されない禁断の地であり、あらゆる情報の採取が不可能な世界である。重力波天文学が完成していない現在において、これ以上の情報を得ることはできない。

 はずだった。


 フェーズを移し、周回衛星からのデータ採取に切り替えようとした時だった。ブラックホールに落ちたはずの探査機から信号を受信したのだ。

「は?」

 思わず固まる山田。

「計器の故障だろう」

 斎藤が冷静な判断を下す。

「そうかしら」

 この時は、吉田が正しかった。不連続な信号が、ブラックホール中心方向から続けて発せられている。

「シグナルの強さと継続時間を、とりあえずディスプレイに」

 斎藤がやや興奮気味に指示する。

 山田の前に置かれたディスプレイには、ブラックホールから発せられたとみられる信号が可視化され並んだ。

 数回の断続的なシグナルの受信の後、何も受信できない時間が数秒続き、またシグナルが再開する。

 五回目のシグナルの組み合わせが終わり、再びブラックホールからの送信が休止した時、山田がつぶやいた。

「素数?」

 信号は、素数回の断続的な変動の組み合わせであったのだ。

 しかし、これに山田が気づいてからしばらく後、信号は時間の経過とともに徐々に複雑なものに変わってゆく。

「これはどういうことかしら……」

 信号の変化に戸惑う吉田。

 山田もお手上げといった面持ちで背後に立っていた斎藤を見遣る。

 目があった斎藤に促され、山田が席を譲った。

 ディスプレイの前に置かれたキーボードをたたきながら斎藤が解説を始めた。

 斎藤には、考えながらその思考を口に出す癖がある。

「おそらく、初めの素数は人工的な信号であることをこちらに伝える意図があるのだろう。宇宙のどこに行っても、素数は一かその数自身でしか割り切れない……正確に言えば、一と自身以外に約数を持たない特別な自然数だ。一方で、その発生は自然数の軸上において、偶奇数や任意の数の整数倍などと比べて、ほとんど滅茶苦茶で、自然界においてこれが偶然発生する可能性はほぼ皆無だ。逆を言えば、これは高度な知性がなければ作れない羅列なわけだな」

 それに比べ、現在受信しているシグナルは遥かに複雑で、斎藤には、より多くの情報を送りつけられているように思えた。

「すでに全くパターンが読めないが……例えば、地球上で大容量のデータ送信をしたとして、その目的は何だと思う?」

 キーボード脇におかれたマウスの横で、苛立たしげに人差し指を机にたたきつけ始めた斎藤が誰にともなく質問した。

 これに答えたのは吉田である。

「映像や音声を送るときは、かなり大きな情報量が必要だと思うけど……」

「それだ」

 吉田のほうを振り向きながら一人合点した斎藤が山田に指示する。

「これを音声に変換できないか?」

 背後に立っていた山田が隣の解析用コンピュータの前に座り、斎藤から転送されてきた信号データを音声データに変換する。

 直近のシグナルまでを変換した結果をまとめ、スピーカーに出力する。

 しかし、聞こえてきた音声は比較的単調で、何らかの規則を持っているようには聞こえるが、それだけでは意味を解せるものではないように思われた。

「なんのこっちゃ」

 山田がお手上げとばかりに手を挙げる。

「これは、暗号の類かもしれないな……暗号解析の専門家でも連れてくればよかったかな……」

 座っていた席を離れ、音声が垂れ流されているスピーカーの前に立った斎藤がつぶやいた。

 吉田は半ばあきらめかけている様子で口を開く。

「とりあえず、このデータを地球に持ち帰って、専門家に委託してはどうかしら?」

 メモを取り出して、あきらめずに解読の努力をしていた山田が吉田を一瞥する。

 その時、後ろから声が聞えた。

「ちょっとよろしいかな?」

 ここで会話に入ってきたのは、船長の輿石だ。

 軌道安定後はコックピットでパック入りのコーヒーを飲んでくつろいでいたが、興味本位で調査の進捗を確認に来たところだった。

「なかなか面白いことになっているようだが、もしかすると、力になれるかもしれない。私は昔、あるところで暗号解読の訓練を受けたことがある。もしよければ、ちょっと聞かせてもらえないか」

 特に問題がないと判断した斎藤はこの申し出を承諾し、開始時点から保存されている音声データを再生する。

 ――沈黙する輿石。

「……我々の情報を欲しているようだ」

「ちょ、暗号解析ってすごいですね。メモとかペンとかいらないんすか?」

 山田が自分のメモを放り投げ、感嘆の声を挙げた。ついでに質問もしているようだが、それよりも重要な疑問を斎藤が口にする。

「情報……というと?」

「いや、情報というところまでしか分からないな。いくつか項目を挙げているようなんだが、さすがに文脈に関連のある単語じゃないと、推察できない」

「なるほど」

 沈黙する一同。決断を下したのはリーダーの斎藤だった。

「とりあえず、我々の言語記録と、文明の記録ぐらいまでなら問題ないだろう」

「敵対的な意思があった場合は?」

 吉田が問うた。最悪の事態まで考えるのが定石である。

「仮に、連中に日本語を解読されたところで、地球文明全体に影響はない。……文明の情報と言っても、文化遺産や特徴的な建物や芸術についてだけを流そう。軍事や政治形態について教えなければ、この手の交渉の性格的に問題が発生する可能性は低い」

 この言葉の通り、日本語の基礎と文化遺産や芸術のデータをブラックホールに向かって照射した。

 はたから見ると、何とも間抜けな行動である。せっかくまとめたデータをゴミ箱に放り込む知識人の図。

 四人が驚いたことに、回答はすぐにあった。しかも、片言の日本語で。声はこう返してきた。

「キミタチト、モットハナス。キミタチ、ドコカラキタ」

 四人は総出で次の返答づくりに取り組んだ。まず問題となったのが、どこまで明かしてよいかである。相手の意図が分からない今、明確な位置を伝えるのはリスクが高すぎる。

 また、相手が単語の組み合わせでコンタクトしてきた以上、こちらも音声でそれに応じるのが道理である。

 音声は代表して、斎藤が入力することになった。

「とても遠い、地球という惑星から来た」

「クレタ、シャシン、チキュウ、モノ?」

「そうだ」

「トテモタノシソウ。イロイロ、モノ、アル」

「君たちの惑星には、いろいろなものは、ないのか?」

「ワタシ、ワクセイ、ニ、スマナイ」

「確かに、ここは惑星ではないな。では、君が住んでいるこの星の上には、何もないのか?」

 ブラックホール内の情報を知る、最高のチャンスだった。

「ナニモナイ。タダ、アカルイ、ダケ」

「明るいとはどういうことでしょう?」

 吉田が首を傾げている。

「ブラックホールというのは、あらゆる光を吸収するから、暗く見えるんですね。つまり、中から見れば、あらゆる光が滝のように落ちてきている状態になって、極端に明るいだろうと考えられています。つまり、あちらが言っていることは至極正確です」

 思わず真面目に答える山田。斎藤が返信を続けようとするが、追伸が入る。

「ソレニ、ワタシ、コノ、ウエニ、スンデナイ」

「宙ぶらりんということかな?」

 今度は山田が首を傾げる。

「君はこの星の上に住んでいるのではないのか?」

 斎藤がすかさず返信する。

「アナタ、ワタシ、ヲ、ホシトヨブ。ワタシ、ホシ、ジャナイ」

 一同が一旦困惑した表情を見せる。

 暫くして、山田が合点がいったという表情をする。驚愕する斎藤。いまいち飲み込めていない吉田。まったく理解不能に感じている輿石。仮眠で不在の折山。

 五人が乗った船は確かに、星の周りではなく、ブラックホールの周りをまわっていた。そして、それを正した者は「自分が」星ではないと主張している。

 ここで、新たな事実が明らかになった。

 ブラックホールは生きている。


 驚愕の事実が明らかになった後も、やり取りは続いた。東京への報告は、どのみち太陽系圏内に戻らなくてはできないため、すべてが独断で行われている。

「つまり君は、我々がブラックホールと呼ぶ存在であり、思考もできると、そういうわけだね?」

「思考が、できるようになったのは、先ほど、です」

 徐々に言葉が流暢になってきた。会話の間にも学習を続けているのだろう。

「先ほど、とは?」

 斎藤が続ける。

「あなたたちの、探査機、落ちてきた。つぶれる前に、捕まえた。それで、学んだ」

「捕まえた? しかし君は高圧で、しかも一点につぶれているだろう? どうやったんだ?」

「私、点じゃない。それに、あなたたちが地平面と言っているのが、私の表面、です。探査機、その上を、周って、ます」

「つまり君は、事象の地平面以内にあるすべてを構成要素とした生命体なわけか?」

「私は、たぶん、あなたたちの定義では生命じゃない、です」

 山田が首を傾げている。

「あれ? 生命の定義ってなんでしたっけ?」

 生命化学も専攻していた吉田が得意げな顔をする。

「生命とは、自己の維持、増殖、自己と外界との隔離ができるものを言います。しかしこれは人類が定めた定義であり、必ずしも宇宙生命がこれに該当するとは限りません」

 吉田がどんなもんだとばかりに無い胸を精一杯張っている。

「なるほど」

 山田のそっけない反応にがっかりする吉田。

 斎藤が続ける。

「つまり君は、増殖ができないから生命とは言えない、といいたいわけだね」

 即座に、極めて流ちょうな日本語で答えが返ってきた。

「それもあります。私はどこにも寄生しませんが、皆さんの惑星にいる一番近い形態の実在は、ウイルスになると思います」

「なるほどな。君はいつから存在するんだ」

「分かりません。自我を持ったのは、皆さんの探査機の落下に気づいた時です」

「ということは、まだ生まれたて? 赤ん坊?」

 山田がおどけている。

「つまり、我々と話している君という自我は生まれたばかりということだね?」

「はい」

「なぜ、われわれが来るまで自我がなかったのかわかるかな?」

「必要なかったからだと考えます」

 なるほど。交渉相手のいないネゴシエーターは不要というわけだ。

 全員が即座に納得した。

「実を言うと、我々は君の学習の速さに驚愕している。どうやってそれを可能にしているんだい?」

「量子情報として吸収し、処理しています。一種の量子コンピュータを模擬しているのかもしれません。そういった意味でも、私は生命ではないと考えます」

 つまり、このブラックホールは、人類の反応を完全に模擬し、完全に応答できる究極の人工知能というわけだ。

「君は他に何ができるんだい? 話をするだけかな?」

「分かりません。何ができるのか以前に、なにをすべきなのかが分からないのです」

「なるほど、ではこれは要望なんだが、我々は今、真っ暗な空間に向かって情報を放出している。しかもお互いのやり取りは音声だけだ。もう少し、応答のやり方を分かりやすく変えたいんだが、何か考えはあるかな?」

 抽象的な要望であったが、結局のところ、内部の映像の一つでも送ってくれれば御の字だと考えていた。テレビ電話のようなものができると、ここにいた誰もが想像したのだ。しかし、事態はその予想をはるかに上回った。

「分かりました」

 それから短い沈黙があった。次の瞬間、だれもが目を疑った。

 船内に、乗組員でない人物が登場したのだ。これを見て、唖然とする四人。

 奥の仮眠室の扉が開き、折山が顔を出した。

「ふあぁ……おはようございます……。あれ? こちらはどなた?」

 彼女はこう名乗った。

「私は、皆様がブラックホールと呼ぶものです。よろしくお願いいたします」


「なんというか……不思議な感じですねえ」

 山田が女性をしげしげと眺めながらつぶやく。

「どういう原理なんでしょう……ホログラムの一種でしょうか。それにしても……」

 吉田の目線は、女性の胸の豊かなラインに注がれていた。

 自分にはない特徴に興味を惹かれるのが人間の性質だと、ものの本には書いてある。

「いろいろ聞きたいことはあるが、まず、あなたを何と呼ぶべきでしょうか」

 至極当然の質問を投げかける斎藤。

「先ほども申しました通り、私に自己認識の能力が備わったのはつい先ほどのことです。当然、自己を他者と区別する必要もありませんでしたので、いわゆる名前というものはありません。これまで通りブラックホールでよろしいのではないでしょうか」

「いやいやいや……」

 首を横に振る一同。

「ブラックホールさんとか……飲み屋で大活躍の大食いな後輩じゃあるまいし……」

 一瞬考えたのち、山田がかぶりを振る。

「もう少しスタイルが丸みを帯びていればそれでもよかったのに……」

 吉田が女性の腰のあたりを凝視している。

 男性陣は先ほどから吉田の発言に不穏なものを感じているが、特に言及しないことを暗黙の了解としたようだ。

「とにかく、その呼び名には我々は抵抗がある。他に何かないですか?」

「そう……ですね」

 一瞬考えるようなそぶりを見せた女性。

「高橋良子」

「へ?」

 返答は、斎藤が思わず声に出すほど唐突なものであった。

「なんでそんな普通な……しかも日本人名? 先ほど送ったデータには、世界的な人種の情報も含まれていたはず」

「皆様の船は、日本という場所から、その共同体の構成員を選んできたのですよね?」

「その通りです」

「つまり、この船にいるのは日本人名の人物が最適です」

「まあ、外国人さんが乗っていても別にいいけど」

 折山が肩をすくめて答えた。

「あなたがそれでいいなら……では、今後は高橋さんとお呼びします」

「はい」

「高橋さん。あなたは、先ほど吉田研究員が申したように、ホログラムの類なのでしょうか?」

「私はここに実在しています。よろしければ触ってみますか?」

「いや結構」

 斎藤が即答した。下手にあいまいな返答をすると、山田が余計なことをしかねないと判断したためだ。案の定、後ろでは山田が悔しそうな顔をしている。

「つまり、あなたは密閉された我々の船内に、人一人分の物質を送り込んだことになる。どうやったか説明してもらえますか?」

 一瞬宙を眺めるような表情をした高橋だったが、すぐに返答を始めた。

「はい。まず、人体の構成要素は、私の内部に落下してくる素粒子を用いました。あなたたちの言う、核融合で必要な元素を合成したということです。さらに、あなたたちの容姿や行動、睡眠の必要性などを考慮して、私なりに理解した人体構造を構築しました。そして……」

「ちょっと待ってください」

 斎藤が高橋の説明を制止する。

「あなたは、我々の容姿や行動を、音声だけからどのように得ることができたのですか? 送った情報には、人類の生化学的な情報は含まれていなかったはずです」

「見ていましたから」

 一同が顔を見合わせる。

「我々は船内から出ていないのに、どうやって……」

「私の意識は、特異点に丸め込まれた六次元の世界にリンクしています。また、そこからつながる高次元宇宙を移動できます。つまり、あなたたちにとっての三次元空間の概念は、私に何ら制約を与えないのです。例えるなら、紙に描かれた棒人間は、隣に描かれた円の中に、紙面を移動して入れませんよね。円という仕切りがあるからです。しかし、三次元を生きるあなたたちは、簡単に跨いで入ることができる。あなたたちの壁は、私にとっては、紙に書かれた線でしかないのです。だから、紙の上から俯瞰することで、紙に書かれたあなたたちを船の外から見ることもできたし、ここに製造した人体を書きこむことも可能なわけです」

 唖然とする一同。つまり彼女は、そもそもこの宇宙の住人ではないのだ。高次元の宇宙空間において、たまたま我々が住む三次元空間にその影を落としていただけなのである。

 これは驚くべき事実を孕んでいた。彼女自身が、人類が追い求めてきた超弦理論の体現者であるのだ。

「こりゃとんでもないひろいものでしたね……」

「失礼だぞ、山田君」

 信心深い斎藤にとっては、高橋が神々しく見えていたのかもしれない。実際、彼女は神の視点をもって、この世界を俯瞰できる、既知世界における唯一の存在である。

 続けて斎藤が問う。

「我々はあなたから多くのことを学びたいと思っています。協力してもらえないでしょうか」

「……一つだけ条件があります」

「なんでしょう」

「私をあなたたちの惑星に連れていってください」

 顔を見合わせる一同。

「構いませんが、理由をお聞かせ願えますか」

「単なる好奇心です。……単なる、とはいえ、もっとも原始的かつ強力な原動力ですわ」

 かくして、高橋良子こと、ブラックホールの意識を地球に連れ帰ることとなったのだった。


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