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幸せとはなんぞや



「雄太君に三割。私に三割。服飾デザインの仕事に三割。一割は雄太君に行ったり私に行ったり洋子さんの仕事に行ったりすればいい。」


男の唐突な話に女はえっと言って男の顔を見た。男は足元の砂を見つめ独り言のように呟いた。


「洋子さんの人生は雄太君に三割。私に三割。服飾デザインの仕事に三割。一割は雄太君に行ったり私に行ったり洋子さんの仕事に行ったりすればいい。」


女は唐突な意味不明の男の話に屈託なく笑った。


「英次さんは突拍子に変なことを言うわね。人生をそんな風に分けることができるかしら。」


男は暫く黙った。


「できないと思う。でもそんな気持ちを持ちながら人生を歩むことはできるしそのことが大切です。自分で考え工夫して作った作品。それは洋子さんの頭の観念から生み出た洋子さんの分身です。でも雄太君は洋子さんの観念から生まれたものではない。顔形が似ていても雄太君は洋子さんの分身ではない。作品は洋子さんの観念の結晶。雄太君はセックスの結晶です。洋子さんの人間としての活動は子供を産み育てることではなく仕事で作品を作ることです。雄太君を育てるためだけに働き、生活を維持する目的だけに仕事をするのは動物的です。仕事というのはより人間的な活動としてやるべきなんです。現実は色々困難なことがあります。実際は私の言っていることがうまくいくことは簡単ではありません。でも洋子さんは洋子さんの夢のある仕事をやるべきで雄太君を育てるためだけに仕事をするべきではありません。それは洋子さんの人間としての不幸です。」


女は母の人生が頭をよぎった。厳格で規律正しい銀行員の父の性格に合わせて生きた母。毎朝午前五時に起きておかず三品に味噌汁を作り皺と沁みひとつないワイシャツ、ネクタイ、スーツを父に着せ、兄と私の世話に専念してきた母の人生。父兄会は一度だって欠席したことはなく兄と私の学習塾選びに悩み、兄と私の不始末で父に叱責されても弁解しないで黙って聞いていた母。


雄太を身ごもり陣痛に苦しんで産んだ瞬間のこの上ない喜び。それは何日も徹夜して悩み苦しんで作ったコンクール出品の服飾デザインを完成させた喜びと似ているところがあるのは認める。しかし、貴方は男だから知らない。我が子の誕生と作品の創作は違う喜び。作品の創作とは比べ物にならないくらいに子の誕生は大きい。母は兄と私を産む喜びを二度経験した。あなたの言うようにデザインを作る喜びも「うむ」喜び。子供の誕生の喜びよりは小さいけど確かにそれは「うむ」喜びがある。私は服飾デザインで小さい「うむ」を何度も経験した。確かに「うむ」喜びというのが服飾デザインにはあった。服飾デザインの仕事はお金のためだけでなかったことは確かだった。

服飾デザインに三割か。露骨で品のない説明だけど、私を認めてくれる言葉。妙にうれしい。ほんわかとうれしい。仕事か。人間としての営みは仕事にありか。こんな理屈は初めてだけどなんとなく分かる。貴方は私が今まで認めていなかった私の大事なところを認めてくれている。妙な感じ。でもなにか開放された感じ。


母は母で幸せだったかも知れない。しかし、母は女としての喜び母としての喜びだけしか体験してこなかったに違いない。仕事を人間的な喜びとしてやるか。ううん、なんとなくいい言葉だ。母には人間的な喜びというものはなかった。母にあったのは夫のために妻として生きる喜びと子供のために生きる母親としての喜びがあっただけ。女と母だけの母の人生。

貴方の理屈は理解できないがなんとなく貴方に賛成。母のように生きることを否定している自分が居るのは貴方の理屈が私の心のどこかにあるからかもしれない。私は母のように生きることはできない。


「英次さんはどんな配分になるの。」

「雄太君に二割。洋子さんに三割。仕事に四割プラス一割。」


女は快活に笑った。


「私は仕事に三割なのに英二さんは仕事に五割なの、英次さんが男だからなの。ずるいわよ。」


男は困った。


「そ、そうではないです。私の現在は仕事に五割配分しなければならない状況です。気持ちは雄太君に三割。仕事に三割。洋子さんに三割。一割は雄太君に行ったり洋子さんに行ったり仕事に行ったりすることに変わりありません。」

「五割を仕事に配分するということは仕事のストレスが随分溜まるでしょうね。英次さんも仕事で溜まったストレスを解消するために私とセックスをするでしょうね。」

「正直に言ってするかも知れません。恥ずかしいが否定できません。」

「あなたのストレスで子供ができたら配分はどのように変わるの。」


男は恥ずかしそうに頭を掻いた。


「変わりません。子供二人で三割。」

「英次さんのストレスを解消するために私はセックスをしなければならないの。」


男の顔が赤くなった。


「こんな真面目な話をしている今でも私の心は洋子さんを抱きたくて抱きたくて仕様がありません。」


女は驚いた。


「ふうん。そうなの。それこそ動物的ね。」


女は意地悪な目で男を見つめた。男は恥ずかしくなってうつむいた。


「あ、いえ違います。あのうそのう。」


女はそうっと男の股間に手を伸ばした。男のそれは固く大きくなっている。


「違うの。」


女は意地悪な目で笑いながら男のそれを握った。男は恥ずかしくなって黙った。


「男って不思議な生き物ね。人間的なことについて話をしていながら動物的になっている。」


そう言いながら女は男が欲情していることを知り自分の体が次第に火照っていくのを感じた。女は顔を男の顔に摺り寄せた。男は女の顔から逃げて砂浜一帯を見回した。村の人に女と抱き合っているのを見られたら瞬時に村中に噂が広まる。噂は直ぐに母の耳に入り母は恥ずかしくて家から出ることができなくなるだろう。

浜辺に人影はなかった。男と女の唇は重なり口中の舌はもつれ合い男は女を抱きしめた。

バサバサッと言う音に二人は我に帰って体を離れた。見ると大きな白い海鳥が一羽二人の近くに舞い降りて波打ち際を歩いている。


西の水平線に浮かんでいる満月の上の雲が夜明け前の明るい空に白く輝いている。女は立ち上がった。


「英次さん、急いで。」

「え。」

「英次さんの荷物はどこに置いてあるの。」

「トランクに詰めて私の実家に置いてある。」

「早く英次さんの実家に行きましょう。」


女は歩き始めた。女が沖縄に留まると信じていた男は少しでも長い時間女と一緒に砂浜に居たかったから、女が側に戻ることを期待して座ったままだった。女は振り返り、


「英二さんの実家に行ってそれから私のアパートに行かなければならないの。私は準備していないわ。英次さんも手伝って。」

「え。」

「感が鈍いわね。私と雄太は英次さんと一緒に東京に行くことに決まったから、引越しの準備を急いでやらなければならないの。私ひとりでは無理。英次さんも手伝って。」


男は東京のプレッシャーを振り撒かない東京のセンスを持つ女に惚れた。女は東京の空気を吸いながらも沖縄の純朴を感じさせる男に心の安らぎを覚えた。


夜が明けた。

満月は水平線の彼方に沈み

西の空は茜色に染まり

海辺の岩は赤く燃え

砂浜は防風林の合間から射し込む赤い陽光で輝き

干潟の白鳥は赤色の姿で動き回り

波は静かに浜に寄せ返している。


新鮮な微風が砂浜を流れ

男と女の足跡が澄みきった朝の砂浜に長く続いていた。


男と女

幸せとはなんぞや。


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