よそ者には見えない沖縄の闇
男は立ち上がり砂を蹴散らして走った。
「洋子さん。」
女は跪いて海を見ていた。
「洋子さん。」
女は男の方を振り向かなかった。
「こんな悲しい別れ方はしたくない。」
「私は別れたくない。でも。」
男から次の言葉は出てこなかった。
「英次さんとは今日が最後の日だから、私は英次さんの話を最後まで聞くわ。私も話したいことは全て話す。悔いを残さないために。」
男は話せば話す程女に嫌われる度合いが強くなりそうで話せば話す程悔いが残るような気がして黙っていた。女は立ち上がって男と向かい合った。滝のように流れ出た涙が女の心を清々しくさせていた。女は男の腕を抱いて砂浜を歩き出した。
満月は
西の方角から
砂浜の男と女を照らし
寄り添う男と女の影は
ひとつになり
凸凹の砂の上を
軽く踊りながら
移動していく。
「私ね。英次さんと話している時、とてつもない孤独感に襲われたの。雄太と英次さんが一瞬の内に闇の彼方に消えていくように思えて。今までに体験したことのない孤独感だった。それで取り乱してしまったわ。でも雄太が中学生になるのは十年後。まだまだ先のこと。その時には私も四十近くのおばさんよ。今からめそめそしているのは可笑しい。」
女は男の腕から離れ男と向かい合った。
「ねえ、英次さん。私たちメル友にならない。」
メールを交わす毎に女への恋慕が募っていくだろう。会えない日々のメール交換は男には辛い。
「いいよ。」
「英次さんに彼女ができるまででいいわ。」
女は首を傾げ微笑んだ。一瞬女の顔が悲しい顔をした。
「私に彼氏ができるかも知れない。その時まで。」
二人は砂浜に座った。
「洋子さんは沖縄の風景しか見ていないから。沖縄の風景というのは沖縄の自然風景と言う意味ではない。洋子さんが沖縄で目にした全てのもののこと。洋子さんには東京の目に見えないものが見える。ストレス、プライド、貨幣の暴力。でも沖縄にも目に見えないものが沖縄の生活を支配している。コンプレックス、因習、無力感、閉塞感。洋子さんがいつまでも独身でマイペースで生きていくならそれらのものと軽く触れるだけで済むかも知れない。でも雄太ちゃんは違う。雄太ちゃんは沖縄の風土の内で生きていかなければならない。私と同じように。目には見えない沖縄の空気に浸りながら雄太ちゃんは生きていかなければならない。それがいいことなのか悪いことなのかは私は知らない。いやいいとか悪いとかという問題ではないと思う。」
女は黙って聞いていた。
「春になるとね沖縄の畑一面に赤いグラジオラスの花が咲きほこるんだ。私は綺麗な花だと感じたけど父には単なる雑草にしか映らなかった。憎々しげにグラジオラスを引き抜くとグオジオラスが再生しないように道の窪みに投げ捨てた。
グラジオラスは父にとっては取り除いても取り除いても畑に群れる憎い雑草なんだ。赤い綺麗なグラジオラスの花は父の目には悪魔のあざ笑いのように見えたと思う。洋子さんが感動した沖縄の空・海・緑の風景に私は感動しない。子供の頃から沖縄の風景を見慣れているからという理由だけではなくて沖縄に生まれ沖縄の因習の中で育ったから目に見える風景に沖縄の因習も見えてしまう。
私は東京に感動した。空を突き刺すような高いビルディング。大自然を跳ね除けた人工の世界。人間の創造のたくましさに否応なく私は感動した。東京には人間文化の偉大さを感じる。東京に生まれ育った洋子さんとは違う東京の風景を私は見た。風景とはそんなものだと思う。」
女は黙って聞いていた。男の心は落ち着いてきた。
「沖縄には沖縄の風景があり、東京には東京の風景がある。沖縄には沖縄の空気があり東京には東京の空気がある。」
男は黙った。女は次の言葉を待った。
満月は西の空に傾き柔らかな光で砂浜の男と女を照らした。
「沖縄の風景は自然美、東京の風景は人工美。沖縄の空気は古い因習が充満し東京の空気はストレスが充満している。」
男は再び黙った。女は東京にだって古い因習はあるわと言いかけたが口に出さずに男の次の言葉を待った。
祖先崇拝、ユタ信仰、門中の結束、村八分等々沖縄の裏に根強く潜む沖縄の因習。中国を崇め薩摩に侵略されアメリカに占領され常に他国に支配され続けられた沖縄の捩れた精神の乞食魂。人間としてのプライドを持ったことがない沖縄。男はうまく説明できないもどかしさを感じながら言葉を何度も詰まらせながら話した。
「洋子さんが見たおじいやおばあの屈託のない笑いは洋子さんが東京からやってきた人間だから。あの笑いの裏には洋子さんには見えない屈託と卑屈が秘められている。沖縄には日本に愛想を振り撒いて物をもらわないと生きていけないという精神が根強いんだ。洋子さんが東京の人日本の人間だから愛想笑いをする。もし洋子さんがフィリピン人なら軽蔑した目で見られていたと思うよ。沖縄の人間はフィリピン人をフィリピナー台湾の人をタイワナーと言って軽蔑する。フィリピンや台湾は貧しい国だったから沖縄になにも物をあげないと信じられていたからフィリピンや台湾には露ほどの興味もない。沖縄は資源もないし優れた知恵もない。金持ちの国に頼って生きるしかない。」
「沖縄の人がフィリピン人や台湾の人を軽蔑しているなんて考えられない。沖縄の人は屈託がなく全ての人々にやさしいと思っていた。」
男は話していく内に惨めな気持ちになっていった。私は一体なにを話そうとしているんだ。沖縄の惨めな部分を話す自分は何者なんだ。私は沖縄を捨てた人間なのかそれとも沖縄から逃げた人間なのか。そのどちらかだろう。そんな人間が沖縄を語る資格はない。愛した女を自分の元に引き寄せたい思惑で沖縄の惨めな部分を語っている。沖縄の惨めな話をすればする程自分も惨めになっていき自己嫌悪に陥っていく。もう、沖縄の惨めな話をするのはやめよう。
女は男の次の言葉を待ったが男は長く沈黙した。
満月は西の空で大きく柔らかく柔らかく輝いていた。どこからともなく大きな二羽の海鳥が沖の干潟に舞い降り長く細長い首を折り曲げで干潟をつついている。女は不思議な気持ちだった。なぜか知らないが男の話を聞いているうちに、生まれた時から緊張し続けていた女の神経がほぐれていき今まで感じたこともない柔らかな心になったような気がした。なぜだろう。不思議だ。