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子は子、母は母それは別々の存在


「雄太ちゃんは洋子さんのお腹の中で育った。そして外界に出た。外界に出た時から雄太ちゃんは洋子さんではなくなった。いや洋子さんのお腹の中にいる時も雄太ちゃんは洋子さんではなかった。雄太ちゃんは雄太ちゃんの目鼻手足頭。洋子さんの目鼻手足頭ではない。洋子さんと雄太ちゃんは別々の人間。」

「でも母と子よ。他人ではないわ。」

「他人ではないが別々の人間。似てはいても別々の人間。同じ遺伝子であっても別々の人間。洋子さんの手は雄太ちゃんの手ではない。雄太ちゃんの足は洋子さんの足ではない。洋子さんの手が感受するものは雄太ちゃんの手が感受するものではない。雄太ちゃんの涙は洋子さんの涙ではない。洋子さんの笑いは雄太ちゃんの笑いではない。」

「いえ、雄太の悲しみは私の悲しみ。雄太の喜びは私の喜びよ。」

「いや違う。雄太ちゃんの悲しみと洋子さんの悲しみは異質で違うものだ。雄太ちゃんの悲しみは雄太ちゃんだけの悲しみ洋子さんの悲しみではない。」


男は自分の口から出て行く言葉が女への冷酷な言葉であることを知りながらしかし女への恋の高揚が女と一緒に東京行きたい必死さが次々と女と子供が別々の存在であることを男の口から飛び出させていった。女は自分と最愛の子供を引き裂こうとする男の意地の悪い言葉に不思議にも怒りの感情は湧いて来なかった。


「雄太ちゃんが喘息の発作で苦しむことと洋子さんが雄太ちゃんの喘息の発作を見て苦しむこととは違う苦しみ。雄太ちゃんが元気になって公園を走り回る喜びと洋子さんが雄太ちゃんの元気な姿を見る喜びとは違う喜び。雄太ちゃんは喘息の苦しみなんか忘れて単純に走ることを楽しむ。洋子さんは喘息の発作で苦しんでいた雄太ちゃんの姿を思い出しながら目の前で元気に走っている雄太ちゃんを見て喜ぶ。すでに洋子さんと雄太ちゃんの過去に対する記憶だって違ってしまっている。喜びも違っている。洋子さんの雄太ちゃんへの愛は雄太ちゃんの洋子さんへの愛ではない。洋子さんが雄太ちゃんを深く愛して雄太ちゃんのために沖縄に住んでも雄太ちゃんが洋子さんを愛することはないかも知れない。」


ああ、なんて馬鹿なことを言っているんだ私は。ますます貴女に嫌われてしまう。


「私はそんなこと望んではいないわ。雄太は雄太の望む人生を歩めばいい。母の愛は無償の愛よ。見返りは望んでいない。」

「望んでいる。」

「望んでいないわ。英次さんは私の母としての愛の深さを知っていない。」

「洋子さんは雄太ちゃんが健康になることを望んだ。」


女は頷いた。


「雄太ちゃんが沖縄ですくすくと健康的に育つのを望んだ。」


女は過去を確かめるように頷いた。


「沖縄ですくすくと健康的に育てたことを雄太ちゃんが恨みに思うことは百パーセントないと洋子さんは信じて疑わない。」


信じて疑っていないことを信じて疑っていないと男に言われて女は不安になった。


「人間は健康が第一よ。喘息を治すために沖縄に住んだことを雄太が恨むことはあり得ないわ。」

「洋子さん自身は子供の頃から今まで健康第一をモットーにして生きてきたのですか。健康であることは大事だけど健康第一で生きるなんて人間にはできない。夢欲望快楽幸福を求めて生きるのが人間。洋子さんが独身で子供がいなかった場合、喘息になった時に服飾デザイナーの仕事を捨てて健康になる目的で東京から沖縄に移り住むことを選んでいただろうか。」


女は返答に困った。


「私は母親よ。独身だけど。」

「子供が居ない独身の洋子さんだったら沖縄に住むことを選んだのかどうかということです。」


女は即答を避けた。


「私はすでに雄太の母親なの。それ以外の何者でもないの。雄太の居ない私は考えられない。」

「雄太ちゃんが大きくなった時、東京で育ててくれなかったことで母親の洋子さんを恨むかも知れない。」


男は禁句であると知りながら口に出していた。女は怒るに違いないと男は予感した。でも女は黙っていた。男は女が怒らないことに安堵した。しかし、女が怒らないことに不気味な不安もつのった。


「雄太ちゃんは東京の中学か高校を望んで洋子さんの両親を頼って東京に行くかも知れない。洋子さんを沖縄に残して。」


突然女は孤独感に襲われた。目の前の男が冷酷な存在に感じられた。子供の雄太が遠い存在に思われた。女の心がなにかで弾けた。


「東京東京東京東京。なにが東京よ。なにが世界でトップの都会よ。ストレスとプライドと透明で金欲の鋭い鋼が縦横無尽にはりめぐらされた世界だわ。ストレスで人の心はゆがんでいる。大企業や銀行や官庁で働く人だけでなく下町の人も東京で生活している人はみんな東京で生きていることに高いプライドを持っている。ホームレスでさえ東京で生活しているというプライドを持っている。ストレスとプライドだけの世界、それが大都会東京よ。秒針のように動き回り日本のどこの人間よりも鼻を高くして大量の薬を飲みながら生きているのが東京よ。ボロボロの神経をプライドと薬で騙し騙し生きることがそんなに素晴らしいことなの。」


女は喚いた。涙を流しながら喚いた。


「雄太は私の子供。雄太が東京へ行くことを私は許さない。雄太が私の嫌いな東京の人間になることは許さない。英次さん。あなたはひどい人。冷たいひと。私と雄太を引き裂きたいの。雄太は英次さんの子供ではないから。英次さんは私ひとりが欲しいから、そう雄太は英次さんの子供ではないから、雄太を私から引き離して私を英次さんのものにしようとしている。でも雄太は私の子供。私だけの子供。雄太と私を引き離そうとする英次さんは嫌い。私は帰る。私は雄太の居る所に帰る。さよなら。」


女は砂浜を乱暴に歩いて男から遠ざかっていった。男は遠ざかる女を見るのが辛かった。女を引き止める勇気もなかった。男は首をうな垂れ、頭を抱え、足元の闇を見つめ、女にさよならを告げられても仕方のないことを悲しんだ。

雄太ちゃんと貴女を引き離す積もりで話したのではない。そんな積もりはさらさらない。さらさらないがやっぱり私の話は雄太ちゃんと貴女を引き離すことになる話なのか。分からない。


男は満月に照らされた白い砂浜で仰向けになった。満天の星空。流れるのを止めた満月に照らされている白い雲。子供の頃から見慣れた満月の夜の空。むなしいだけの真夜中の物言わぬ空。男は空虚になった心のまま空を眺めた。暫くして起き上がり呆然と砂浜に打ち寄せる波を見つめていた。何気なく見た小さな岩陰に女が蹲っている姿が見えた。



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