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沖縄の暗部


「私は沖縄で生活していると息が苦しくなる。」


男は独り言のように呟いた。


「え、信じられないわ。天真爛漫な人々。屈託のない笑顔。こんなに沖縄は素晴らしいのに。沖縄に居ることができないのは英次さんの心が卑屈になった性なのかしら。」


女はいたずらっぽく微笑んだ。


・・・物を与えてくれるのが私のご主人・・・

・・・命こそ宝・・・


この二つが沖縄の座右の銘。昔、沖縄は植民地だった。権力を奪われ。自治を奪われ。富を収奪され続けた沖縄。牛馬のように生きることを強いられた沖縄の民。自我の精神を骨抜きにされ、抵抗も戦うことも忘却した沖縄の民。沖縄の座右の銘は牛馬のように虐げられても生き延びなければならない悲惨な沖縄の民が考え出した人間として屈辱的な処世術の座右の銘。植民地沖縄で人間としてのプライドを捨てて牛馬のように生き延びることだけを肯とする沖縄の屈折した座右の銘。・・・

物を与えてくれるのが私のご主人・・・命こそ宝・・・悲しい卑屈精神の座右の銘。沖縄は人間として生きるプライドをとっくの昔に捨てた。そんな島だ。

貴女は「物を与えてくれる」よそ者と期待されているから沖縄は貴女に天真爛漫になり屈託のない笑顔を見せる。貴女が見た天真爛漫も屈託のない笑いも沖縄の卑屈の心がなせる現象。自立することをあきらめた沖縄のよそ者への物ねだり愛嬌。ギブミーエニーティング。ギブミーエニーティング。深い沖縄の卑屈。悲しい卑屈。


 男は溜息をついた後、女の側に座った。潮風がやさしく男と女の頬を撫でた。


「私は東京に一週間しか居られない。東京は人間の住む場所ではないわ。お金と出世、欲望する野獣たちが競争する世界。プレッシャーを撒き散らしストレスを増大させる魑魅魍魎の世界。人間の姿をした化け物達が上へ下へとひしめいている世界。英次さんは人間の姿をした化け物になりたいの。」

「化け物か。」

男は苦笑した。


西に傾き始めた満月は、さざ波が寄せる砂浜に、寄り添う二つの影をつくった。


「化け物なら沖縄にだっている。」

「ふうん。なんという化け物なの。」

「キジムナー。」

「ちょうんちょうんちょうんちょうん、キジムナーがちょうんちょん。」


女は最近覚えたキジムナーの歌を口ずさんだ。


「可愛い化け物だわ。」


それは貴女が東京から来た人だから。キジムナーは本土の人間には愛嬌を振りまくが沖縄の人間には残酷に振舞う。


「キジムナーは人間の体を鉛のようにして動けなくする化け物だよ。」

「キジムナーは木の精霊だと聞いたけど。」

「キジムナーに襲われたら体が動けなくなって終いには窒息して死んでしまう。」

「ふうん。」

「沖縄がキジムナーみたいなものだ。沖縄というキジムナーに覆われて人間の心は鉛のように重たく動けなくなる。そして、終いには人間としての心は死んでしまう。」


女は男の額に手を当てた。柔らかな女の手の感触が男の心を和ませる。


「英次さん、熱があるんじゃないの。変なことを言って。」

「変なことは言っていないよ。」

「言ってるわよ。」


男と女は顔を見合わせて笑った。二人の幸せな世界が永遠に続くと錯覚してしまうひととき。村から犬の遠吠えが聞こえてきた。女は思わず男に擦り寄る。満月は煌々と海の上の空に浮き。満月の周りを漂う雲は柔らかに白く輝いている。


「洋子さんは東京で服飾デザイナーをやっていたんだろう。」

「ええ。」


女は男の肩に顔を寄せて水平線を眺めていた。


「服飾デザイナーの仕事に未練はないのか。」

「さあ、あると言えばあるしないと言えばないし。それが私の運命と考えてしまえばいいこと。」

「そうかなあ。」

「そうかなあ。」


女は男の言葉を真似た。女はこのまま幸せな気分に浸っていたかった。


「人間と動物の違いはなんだろうって考えたことが洋子さんはあるかい。」

「ううん、深く考えたことはないなあ。」

「人間は火を使う。」


次の言葉を出そうとした男の唇を女の指が塞いだ。


「人間は道具を使う。人間は言語を使う。人間は直立歩行する。学校で習った記憶があるわ。」

「学生の時、カール・マルクスの経済学・哲学草稿という小冊子を読んだことがある。」


男は話を続けようかどうか迷った。


「マルクスというと過激な学生運動をするマルクス主義のマルクスなの。」

「うんまあな。」

「英次さんも過激な学生運動をやったの。」

「いや、やっていない。」

「マルクスという人は革命家なんでしょう。中国の毛沢東とかソ連のレーニンとかキューバのカストロみたいに。」

「カール・マルクスは哲学者だよ。革命家ではない。」

「そうなの。私は過激な学生運動の創始者だと思っていたわ。私は政治の話は苦手なの。」


男は苦笑いした。


「政治の話じゃないよ。マルクスの本にね、動物は腹がへった時に食べ物を獲るために働くが人間は腹が減っていない時に物を生産するために働く。動物は自分のだけの巣を作るが人間は他人の家も作るし小鳥や犬のなどの他の動物のためにも家を作る。」


女は水平線を見ながらあくびをした。


「人間と動物の違いは動物は自分と家族のためだけに活動するが人間は自分や家族だけではなく他の人間他の動物のためにも活動することなんだ。そしてこのことが肝心だが、人間が人間たる所以は物を生産したり創造することにあるんだ。」


女は眠気を催してきた。


「人間は子供を生んで育てるが動物も子供を生んで育てる。でも動物は洋子さんのように服飾デザインの仕事はできない。」


女は自分の名前が聞こえたので「え。」と言って男の顔を見た。


「子供を生んで育てるのは人間も動物も同じ。でも、美しさを創造したり、仕事に夢を持って働くのは動物にはできない。人間だけが仕事に夢を持ち働き生産し創造する。仕事をやっている最中に喜びを甘受することができる。」


動物だって病気の我子をいたわり治そうとすると言いかけて男は黙った。私はとんでもないことを言おうとしている。女が子供を愛し子供を慈しんでいるのは動物と同じであって人間的な行為ではないと言おうとしたのだ。

女が子供の喘息を治癒するために一大決心をして沖縄に移住したことをライオンやゴリラのような動物の母性本能と同じであると女を非難しようとしている自分に気づき男は話を止めた。


「御免ね。貴方の話は難しくてさっぱりわからない。」


女は欠伸をした。ザザーとさざ波が浜辺の砂と戯れている。


 女性が母親となった時、子供の育成のために自分の夢を犠牲にするということは正しいことなのか。女性が人間としての夢を犠牲にしてまで子供を育てるということが育てられる子供に女性の夢を断念させるほどの価値があるのだろうか。子供は断念した母親の夢を背負って生きなければならないのだろうか。


「人間として他人に後ろ指を指されるような生き方をしてはいけません。世間に尊敬されるような人間になりなさい。商売人は腹黒い。公明正大で他人様に尊敬されるのが公務員。沖縄県庁の職員か学校の先生になりなさい。」

それが男の母親の口癖だった。


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