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東京のストレス沖縄のストレス

「英次さんお願い。私と一緒に沖縄で暮らしましょう。」

「それはできない。」

「なぜなの。」


男は黙る。


水平線の彼方から吹いて来る風がふたりをやさしく撫でる。砂浜は満月の光に輝き遠くの山の麓は闇に覆われている。みみずくの鳴き声が山の闇から聞こえてきた。

この人は純朴な人。この人は東京で再び神経がボロボロになる。この人はぼろぼろになることを知りながらそれでも東京に行く。なぜ、身も心もぼろぼろになる東京に行くの。私には分からない。


「東京に行けば英次さんの神経はぼろぼろにされるのよ。」

「そうかも知れない。」

「円形脱毛がもっと広がるかも知れないのよ。」

「そうかも知れない。」

「それでも東京に行くの。」

「行く。」


男の言葉に女はそっぽを向き、冷たい月光に煌いている海の沖を見つめた。


「不幸の淵へ自ら飛び込んで行くなんて、英次さんは愚かだわ。」


女は海に向かって呟いた。


不幸不幸不幸不幸。幸福幸福幸福幸福。

不幸幸福不幸幸福不幸幸福不幸幸福。


人間の不幸とはなんぞや。人間の幸福とはなんぞや。


「東京は不幸の淵ではない。厳しい苦しみのるつぼではあるが。」

「苦しむことは不幸なことだわ。」

「苦しみはどこにでもあるし苦しみを不幸と決め付けることはできない。」

「神経失調症になって円形脱毛になる程の苦しみはそうざらにはないわ。恐らく英次さんを円形脱毛になるまで苦しめる所は東京だけよ。沖縄ではそんなことにならないわ。」

「そうかも知れない。でも私は不幸ではない。」

「神経失調症が嵩じて精神が異常になるかも知れないのよ。」

「そうはならない。」

「精神病者にならないという自信があるの。」

「自信はない。でも精神病になっても不幸であるとは言えない。」

「不幸よ。」

「不幸ではない。敗北者になっただけだ。」

「敗北者は不幸だわ。」

「敗北者は不幸ではない。」


男の頭が変になったのかと女は一瞬疑った。敗北者ほど不幸で惨めなものはない。そんな単純明快な道理さえ理解できないの。もう神経が異常になっているのかしら。怪訝そうに女は男を見た。


「敗北は惨めだ。無念だ。でも不幸ではない。私はまだ敗北したのではない。確かに神経失調症になった。神経はボロボロになった。厳しい仕事だから。神経も思考も限界ぎりぎりの毎日だから。私の体が神経失調症になってしまうのも仕方のないこと。でも神経失調症は治すことができる。ボロボロになった神経も薬を飲み休養すれば治る。治れば仕事ができる。治しながら仕事ができる。それを繰り返しながら逞しくなっていく。私は敗北したのではない。神経失調症という病気になっただけのこと。大したことではない。人間として生き、人間として燃焼することが人間の人間としての幸福。本当に不幸なのは人間として生きることができないこと。だから、私は不幸ではない。」


 男は自分が人間としては不幸ではないことを件名に女に説明した。


満月は真上に。

白い砂は青白く輝き、

砂の上に佇む女は男の負け惜しみの話に男を哀れんだ。

女は切なくなった。

この男は強くない。

この男は自分の弱さを自覚していない。

この男は東京で敗北する。

敗北しても東京で生き続けるの、あなたは。ますます自分を惨めにしていくの、あなたは。

私には分かる。才能ある者たちが生き馬の目を刳り貫く争いをするのが狂都東京。あなたは狂都東京で惨めに敗北する。私には分かる。東京で生まれて、東京の空気を吸ってきて、東京で仕事をしてきて、東京の人間達を見てきた私には分かる。貴方には才能豊かなオーラが見えない。私には分かる。あなたは東京で敗北する。・・・

そう、あなたは敗北してぼろ雑巾のようになる・・・。


「自分の才能を信じて、自分の才能を発揮する場所で生きるのが人間にとって人間としての幸福なんだ。」


と、男は言った。

才能があればね、と女は男に目で言った。目で言われた男は女の憂いを秘めた眼差しに心を惹かれた。女の憂いを秘めた目に惹かれながら男は失望感に襲われた。ああ、貴女の目は私の言葉を理解していない。とても肝心な私の言葉を。

男は苛立ってきた。人間として生きるということは。人間が人間として生きるということは。動物としての本能を捨て、人間が築き上げた文化の先端で生きるということ。

いや、少しニュアンスが違う。動物社会にはない人間社会独自の世界で働き汗を流すこと。ああ、こんな説明は抽象的で貴女を理解させることができない。人間として人間らしく生きること。神経がボロボロになっても敗北者になっても人間の知恵が築き上げた経済社会の先端、証券や株の世界で生きることは人間の最高の幸だ。いや、駄目だ。まるで負け犬の弁明にしか貴女には聞こえないだろう。

 私が神経失調症を患い円形脱毛になっても決して私が不幸ではないことを貴女に分かってもらいたい。打ちひしがれて苦しんでいる私だが人間としては決して不幸ではない。悩み苦しむこともまた人間にとっては幸福。ああ、でも貴女は私の考えを理解できないだろう。どう言えばいいのだ。どのように説明すれば貴女は頷いてくれるのだ。


自分の考えを上手く説明できないことに男の苛立ちはますます強くなっていく。


子供を育てるのはライオンや熊やカラス、あらゆる動物がやっている。子供を育てることに生き甲斐を持ち、自分の人間としての仕事をやらないのは人間として不幸なことだ。貴女はそのことを知らない。貴女は貴女の子供を育てることを生き甲斐にしている。貴女は貴女の仕事の夢を捨てた。それは人間としての不幸。子供の喘息を治すために貴女は貴女の人間としての夢を捨てたのだ。

貴女の仕事を犠牲にして喘息が治った子供が大人になった時、貴女の夢を犠牲にした程の価値ある大人に貴女の子供はなり得るだろうか。そんなことはあり得ない。普通の大人になって普通に生きていく大人になるだけだ。貴女は貴女の夢を捨てたために子供に自分の夢の重さを託してはいけない。貴女は子供に貴女の望む将来を託してはいけない。子供も貴女も一個の人間。人間はそれぞれに一個の人間としての人生を歩むべき。


「子供のために自分の夢を捨てる方が人間として不幸この上ない。」


男は口にだした瞬間後悔した。口に出すべきではない。口に出すべきではないことを口に出してしまった。ああ、貴方を非難する気持ちはないのに。貴女を非難するようなことを口にしてしまった。女は「え。」と言って首を傾げた。


「いや、なんでもない。」


男は自分の言葉を打ち消した。「子供のために自分の夢を捨てる方が人間として不幸この上ない。」という話を始めたら私は貴女にきっと嫌われてしまう。


「子供のために自分の夢を捨てる方がなんとかって。」


幸いなことに女は話の途中までしか聞いていなかった。


「いや、なんでもない話だ。的がはずれた話だ。」


男は話を中断させた。女は満月に白い波が光る美しい海を眺めた。清んだ潮風がおいしい。


「青い海。原色の青い海。白い砂浜。小石の周りで戯れる小さな蟹たち。明るくて屈託のないお婆さん。偏屈だけど陰険ではないお爺さん。やさしい村の人たち。私は沖縄に来て人間の心を取り戻したわ。もう東京に戻る積もりはない。雄太が喘息になったのは東京の空気が汚れていた性だけではないの。東京の空気はストレスを一杯含んでいる空気よ。だから雄太はストレスを吸って喘息になったのね。沖縄に来て雄太の喘息は快方に向っているわ。素晴らしい沖縄。英次さんが沖縄を離れて東京に行くのが私には理解できない。」


沖縄の空気は沖縄のストレスを内包している。東京の空気が内包しているストレスとは性質が違うだけ。でもよそ者の貴女は沖縄の陰湿なストレスを感じることはできない。貴女がよそ者でいる間は沖縄のストレスを感じることはできない、永遠に。


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