別れは二人の運命
「あなたが好きだ。」
激しい思いを押し殺した男の声に男の愛を感じた女は胸が締め付けられた。
「私もあなたが好き。」
でも私は東京に行けない。あなたは東京に行くことを止めない。多分今夜があなたと私の最後の夜。あなたが再び沖縄に来るのは五年後かな、それとも十年後。きっと来年はあなたは沖縄に来ない。二年後も来ない。あなたの私への愛はそんなもの。そして、私はあなたの住む東京に行かない。来年もさ来年も行かない。私のあなたへの愛もそんなもの。あなたには仕事への情熱があり、私には子供への母性愛がある。あなたと私の人生は別々の世界を選んだ。それだけのこと。そう、それだけのこと。
どうしようもない二人の生き様の違いなの。
「だったら、私と一緒に東京に行こう。赤坂はあなたの故郷ではないですか。実家に帰ることはあるだろう。」
「今年の正月は両親と三日間過ごしたわ。三日間だけ。」
「私と東京に行こう。」
ああ、沖縄の空気は体の隅々まで吸い込むことができる。いつまでも吸い続けることができる。東京の空気を吸うことができるのは三日間。そう三日間。長くて七日間しか私は東京に居ることができなくなった。
ああ、あなたは東京で敗北する。五年後か十年後か、それとも二十年後かは知らないけど、あなたは東京でぼろ雑巾のようになってしまう。あなたは東京に行かない方がいい。私と沖縄で暮らした方がいい。
「お願い。東京に行かないで、私と一緒に沖縄で暮らしましょう。」
と女は哀願した。
女の哀願に男の心は迷った。「うん、そうしよう。」という言葉が激しく男の喉を突き上げた。でも男の決心は変わらない。「うん、そうしよう。」の言葉を強引に心の奥に封じ込める。男の決心は変わらないが、それでも男の心は女の魅力と東京の魅力が葛藤して悶々としている。東京で生きる夢を捨ててしまえば気持ちは楽になる。東京で生きることは苦しい。真剣な夢は苦しいもの。苦しくて楽しいもの。株の売買のスリリングな世界は神経をずたずたにするがしかし陶酔することができる世界。
「私と小さな幸せを生きていきましょう。この島で安らぎの生を過ごしていきましょう。英次さんはこの村の生まれなんでしょう。英次さんが東京ではなくこの村に住んでくれたら私にとってどんなに嬉しいことか。」
と女は言った。
女の言う通り、生まれ育った沖縄で生きるのは男の感性に安らぎをもたらしてくれるだろう。しかし、村で生活をすれば男の思想と情感は村の地に漂う暗く重たい陰気な空気に我慢ができない程に息が苦しくなる。男の夢は苦しくて涙する。男の夢は村で窒息死してしまう。女には見えない村の地に這う暗い呪縛。
「英次さんの神経失調症は故郷のこの村に来て治ったのでしょう。」
と女は言った。
男は返事をすることができない。女の言う通り故郷の村で過ごした半年は神経が安らぎ神経失調症は治った。しかし、村が男の神経を癒してくれても神経を癒してくれる村に男の夢と人生を投機する場所はない。男の人生を賭する空間がない。村の生活は男の夢を窒息させてしまう。
あなたは東京で傷つき倒れた敗北者。半年休養の社命はあなたへの敗北宣言。あなたはそのことに気が付いていない。あなたは再び東京で敗北する運命。
女はしかし、男が東京で敗北者になると男に言うことはできない。男のプライドを傷つけることはできない。
「神経失調症が治ったということは英次さんの心がこの沖縄に住むことを望んでいる証拠よ。ねえ、私と一緒に沖縄に住みましょう。」
と女は言った。
そうじゃない、そうじゃない。神経失調症が治ったとしても私の心が沖縄に住むことを望んでいることにはならない。しかし、男はうまく女に説明することができない。
「駄目だ。僕の夢は東京にある。」
「東京では英次さんはぼろぼろになるだけ。私と沖縄で幸せになりましょう。」
幸せ、幸せ、幸せ。ああ、なんて心地のいい言葉だろう。しかし、女の言う幸せは男と女の性の幸せ。家庭の幸せ。私の仕事への情熱を胡散霧消にしてしまう幸せ。あの株売買のスリリングな戦いの興奮と陶酔を捨てなければならない幸せ。
「ぼくは仕事を捨てることはできない。」
「仕事は沖縄にもあるわ。」
「いや、私の仕事は東京にしかない。沖縄では生活を支えるための仕事しかない。しかし、東京には私の情熱を燃やすことができる仕事がある。」
あなたは情熱を燃やして敗北者になり、東京という大都会に廃人にされてしまう。それでもあなたは東京に行くという。
神経をぼろほろにして。神経失調症になって。頭が円形に脱毛して。会社に半年の強制休養を命じられたのに。それでもあなたは東京へ帰るという。
「お願い。私と一緒に沖縄に住みましょう。」
「いや、それはできない。私と一緒に東京に行こう。」
東京に住みたい男と沖縄に住みたい女の話は平行線。女は男と女の平行線の心にいたたまれなくなった。もう、二人が一緒に住むのはあきらめるしかないわ。それがあなたと私の運命なのだわ。
女は部屋に居るのが辛くなった。
「浜辺に行きましょう。」
女は男との最後の夜を美しい浜辺で過ごしたくなった。
「東京にだ。」
男は部屋の中で東京に行くのを説得し続けたかった。
女は二人の別離は避けることができないと考えたから二人で部屋に居るのは悲しすぎていたたまれなくなっていた。
女は庭に出た。
「さあ、来て。」
と男を呼んだ。しかし、男は女の要求を拒否するようにじっとしていた、
女は、「お願い。」と言って男が女と一緒に浜辺に行くのを嘆願した。しかし、男はじっとしていた。男を見ていると涙が止めどもなく溢れてくる。男を見るのに耐えられなくて女は男に背を向け浜辺の方に消えて行った。満月に照らされた美しい後姿を男の残像に残したまま。
さざなみが聞こえてくる砂の村道。やさしい満月の夜の潮風。女は草履を細い指につり提げて裸足で砂を踏む。砂を踏んで歩く。足裏を砂が愛撫する。裸足で歩く快さ。ああ、足裏で幸せを体感するひととき。私はもう東京に住めない。
女はさざ波の音を聞きながら溜息をついた。
女の居ない部屋で男は、とてもさびしくなった。
男は女に会いたくなった。男は部屋を出た。男は浜辺に行った。
満月の光が白い浜辺を照らしている。
女は浜辺に立ち、沖を見つめている。
満月の冷たい光にやさしく映える女の美しい姿。青白い浜の砂の輝きに神々しく静かに立っている女の姿。
ザザーッと波音が繰り返される平穏な海の浜。男は女に近づいた。
男の砂を踏む足の音に女は振り返った。
男を見て、女は微笑んだ。月の明かりに女の頬の涙がさびしく輝いた。
「英次さん。」
男は黙って女に近づいた。