男として女として人間として 幸せとはなにか
二人の恋は今夜で終わろうとしていた。
沖縄のあるところで男と女は出会い、男は恋に落ち、女は田舎臭い不器用男の情熱に戸惑いそれでも男への恋が芽生え、女の恋心が次第に増していった。
二人は静かに燃え、次第に恋の炎は熱くなり。熱く燃えた男は女とひとつ屋根の下で一緒に暮らすことを望み、女も男と一緒の暮らしを望んだ。しかし、男は明日の朝に東京に行くという。女は沖縄に住み続けることを決心しているという。明日から二人の生きる場所は別々になろうとしている。
東京で傷ついてボロボロになった神経と精神を生まれ故郷の沖縄で癒し、再び東京へチャレンジしようとしている男。
東京で生まれ育ち、東京で傷つき、東京から沖縄に移ってきて沖縄で傷が癒え、沖縄に住み続けることを決めた女。
男と女。相手を愛し求めながら、しかし二人は今夜で離別しなければならない運命かも知れないと男も女も覚悟している。二人にとって最後になるかも知れない出会ってから九十九日目の静かな海辺の村の夜。今夜が男と女の最後になるのだろうか。二人に一〇〇日目の夜はやって来ないのだろうか。
愛しあっていながらも東京と沖縄に別れ別れになることが二人の選択ならば二人の恋は二人の人生を左右するほどの深さと重さがなかったということなのかも知れない。
三十一歳の男と二十九歳の女。
純粋な恋だけでは人生を変えることができない生活の重さと人生の目標を背負って生きなければならない年齢に男と女はなっているのかも知れない。
恋に流されて生きることのできない、三十一歳の男、二十九歳の女。生活の合理性を人生の基本としなければならない精神が芽生えてきた年齢かも知れない。
男は沖縄の小さな村に生まれ、沖縄で育ち、東京の大学に進学し、二十三歳の春に東京の証券会社に就職した。就職してから八年の間に、バブルの崩壊、テロリズムによるニューヨークの高層ビルへの激突、アメリカのアフガン攻略、イラク進攻と世界は暗くめまぐるしくうごめき。株の暴落。景気の長期低迷と、経済と政治が複雑に絡み合って先の見えぬ奈落のような株売買の世界で男は必死に生き、もがき傷つき、神経失調症を患い、病院から渡された大量の治療薬の効果もなく円形脱毛症になった。
男は精神科のドクターから長期療養を勧められ、会社からは半年の長期休暇を言い渡された。生まれ故郷沖縄の実家で高校卒業以来の生活。村の静かな生活で神経は癒え、活力は回復した。回復した男は再び東京に行く決心をした。今夜が最後の沖縄。明日は東京の空の下である。会社から半年の長期休暇を言い渡されたということは男が会社に必要のない者であると判断されてしまったのかもしれない。お前は東京の厳しい世界で生き抜くことのできない男であると三行半を突きつけられたのかもしれない。それでも大都会東京で生き続けようとする男。円形脱毛症はまだ完全には回復していない。
女は東京に生まれ、東京の空気を吸いながら育った。父親は大手銀行に勤めていた。高校を卒業した女は父親の意向に従わず大学には進学しないで、人生の目標もなくぶらぶらと生活をしたが、気まぐれに服飾デザイナーの専門学校に入り、二十二歳の時にプロの服飾デサイナーとなった。
二十四歳の時に大学の研究員と恋に陥り父の反対に逆らって結婚し、二十五歳の時に長男が生まれた。女は服飾デザイナーの仕事を迷うことなく捨てて妻と母親の世界に専念した。大学の研究室に閉じこもる日が多い夫は夜遅く帰宅すれば研究室で鬱積したストレスを解消するように女にセックスを強要した。
女は夫の薄給では生活ができないのでパートの仕事を始めた。子供を保育園に預けてパートで家計を支える毎日。厳しい生活を送る内に子供が重度の喘息になった。
教授になる夢以外に興味のない夫。喘息で苦しむ子供の側でストレス解消のセックスを強要する夫に失望した女は離婚した。父親はいきあったりばったりで生きている娘の離婚を冷たくあざ笑った。夫に従順な母親はおろおろするだけであった。父親と同じ銀行員の兄は心身とも疲れ果てた妹をいたわり傷心を癒すための一週間の沖縄旅行を勧めた。
一週間の沖縄旅行には傷心の娘が心配な母親も付いて来た。母親と息子と三人の一週間の沖縄旅行。一週間の沖縄旅行をした女は美しい自然に囲まれた沖縄が気に入り、喘息の息子も自然の中で生活すれば病気が治ると考えて沖縄に住むことを決心した。沖縄の澄んだ空気を吸い、透んだ青い海で泳ぐ息子はみるみるうちに元気になっていった。
女が沖縄で生活を始めて一年が過ぎていた。病んでいた心も治癒した女は二度と東京には住むまいと決心していた。
これから生きていこうとしている場所が違っている男と女。東京のストレスに負けて円形脱毛症になり神経がボロボロにされてもなお東京にしがみつこうとする男は哀れなのか、不幸な人間なのか。沖縄の青い海、緑の木々に囲まれて元気になった子供とストレスのない生活をするようになった女は幸せなのか。
人間の幸せとはなんぞや。
人間の幸福とはなんぞや。
男は半年の長期休暇を終えて東京の戦場へ明日帰らねばならない。
「私と一緒になってくれ。一緒に東京に行こう。」
三日前から男は女に結婚を申し込んでいるが女はさびしく首を横に振るだけだった。男は明日東京に帰らなければならない。今日が最後の夜。
「私には喘息の子供がいるわ。東京に住むとせっかく治りかけた喘息を悪化させてしまうわ。私は子供を連れて東京には行けない。」
女は子供の健康のために東京には行けないと言った。
「東京だって緑の木々に囲まれた田舎はある。空気のきれいな所だってある。なにも沖縄だけが喘息によくなる所ではない筈だ。」
男の強引な説得に女は黙った。そんな単純なことではない。子供の喘息が治る場所ならどこでもいいという問題ではないの。空、海、木々の緑、砂浜、岩、赤土それら全てを網羅した空気が喘息を根本から治癒してくれる。子供の身も心も浄化してくれる。この空気は沖縄にしかないわ。
「空気のきれいな所は日本にも沢山あると思うわ。子供の喘息が治る空気のきれいな所だって日本に沢山あると思う。でも。」
偶然沖縄に来て、偶然子供の喘息がよくなって、偶然沖縄の自然が好きになった。偶然の蓄積はもう偶然ではない。必然なの。
「でも、なんだい。」
男は怪訝そうに女を見詰めた。
「私は沖縄に住んで沖縄が好きになったんだもの。空気がいい所ならどこでもいいというわけにはいかないわ。」
男は困った。それは女の言う通りだ。空気がよければいいという問題ではない。そのことは男だって知っている。男は女と結婚したい。結婚したいから女の抱えている問題を男の都合のいいように解決しようとしただけだ。
「あなたの言う通りだ。でも私の気持ちを理解して欲しい。あなたと結婚したい。あなたと同じ屋根の下で暮らしたい。」
「私もあなたと同じ屋根の下で暮らしたい。」
女は涙ぐんでうつむいた。でもあなたは東京に行く。私は沖縄を離れない。東京と沖縄をひとつの屋根にすることはできない。女は沈んだ心を振り払うように顔をさっと上げた。長く柔らかな黒髪が軽く踊ったその顔は美しい。
「浜辺を散歩しましょう。」
女は男を見つめた。母としての我が子への慈愛の心と女としての熱い心が悲しい一筋の涙となって女の頬を流れていた。
「馬鹿ねえ、わたしって。」
恥ずかしそうに頬の涙を拭うと女は立ち上がった。
「ねえ、浜辺を散歩しましょう。今日は満月だから最高に美しい浜辺よ。」
女は男を見つめた。男も女を見つめた。
私とあなたの最後の夜を美しい月の浜辺で過ごしましょう。と女は心の中で呟いた。
男は浜辺を散歩する気になれなかった。
「お願い。私と一緒に浜辺を散歩して。」
女は哀願した。男は大きな溜息をして首を振り、コップ半分のビールを飲み干すとコップをテーブルに置き、コップから手を離さずに手の中のコップを凝視した。
「お願い。私と一緒に浜辺を散歩して。」
女は哀願した。男はコップを見つめたまま動かなかった。