夏の晩、花火の夜に
アパートの扉をノックする音が響いた。
時計を見ると19時だった。独り暮らしを初めて四年経つが、来訪者は少なく、誰かが訪れるのも随分と久しぶりだった。
「はい」
スコープを覗く前にドアを開けたのは、微かな予感があったからだ。
「ひさしぶり」
思った通りだ。肌が粟立つ。かつての面影が立っていた。
「こっちは相変わらずゴミゴミしてるね。いやになっちゃうよ。元気してた?」
彼女はため息混じりに「あがっていい?」と僕に尋ねた。
懐かしさが込み上げてくるのを我慢しながら、僕は「いいよ」と返事する。
「男の独り暮らしってかんじだね」
テレビも無く、ベッドくらいしかない部屋を見渡して、夏生は呆れながら呟いた。
彼女が来るのはこれで二度目だ。前は四年前。大学一年生の頃だった。
二ヶ月近い夏休みの予定がほとんど空白で、なにもせず引きこもっていた蒸し暑い熱帯夜。驚いて硬直している僕をそのまま、平然とした面持ちで部屋に上がり込んできたのだ。
世界から逃げていた僕を現実に繋ぎ止めるように、誰にも会いたくないと締め切ったドアや窓を開け放ち、吹き抜ける風と共に「きもちいい」と呟いたのだ。
お陰さまで大学を無事卒業し、高給ではないものの、そこそこの企業に就職できた。友達は少ないものの、死ぬことなく生きてきた。
とはいえ、社会人になっても、学生の頃と同じ部屋に住み続けるのは、大人に成りきれていない証拠かもしれない。
「今日はお仕事休み?」
ベッドに腰かけて、エクボをつくって、あの頃と同じ微笑みを浮かべる。
「お盆だからね。明後日からまた仕事」
「うわぁ。社会人ってかんじ。てか、空気淀んでるよ。換気してる?」
「クーラーはつけっぱなしの方が電気代かからないからね」
「うっわー。なんかそれ不健康。外も見ないでずっと部屋の中にいるんでしょ? カーテンぐらい開けなよ」
夏生は聞くよりも早く、カーテンを開けた。
真っ黒な空に花火が上がっていた。
夜空は彩りに溢れていた。パラパラと散っていく花火が夏生の虹彩をカラフルに彩る。
「綺麗だなぁ。なんで見ないの? もったいないよ」
「今日花火大会か。忘れてたよ」
「せっかくの一等地なのに」
僕の部屋は河川敷に面していた。
昼間に外出たとき浴衣を着た若いカップルがコンビニで買い物していたのを思い出した。
二重窓なので、騒音に悩まされることはない。おまけに遮光カーテンなので、夜はほんとうに外界から遮断されたような感覚に陥る。
「もう、キミはほんとうにイベントごとに疎いな。そんなんだがらカノジョができないんだよ」
「お前がそれを言うか」
「あっはは。たしかにそうかもね」
矢倉夏生と出会ったのは十四の春。転校してきた彼女に、隣の席のよしみで学校を案内していたら、仲良くなった。正式に付き合い始めたのは高校二年のスキー教室の時。白樺林を歩きながら、僕から告白してオーケーもらったのだ。
「いつまでも過去の恋愛引きずってんなよなぁ。女々しいぞ」
笑いながらカノジョは窓の外の花火に目をやった。
確かに彼女の言うとおりだ。別れて六年がたった。いい加減忘れるべきかも知れないが、夏生の横顔を思い出す度、それは不可能だと思い知るのだ。
「ねぇ。せっかく花火上がってるし、ちょっと散歩でもしない?」
断る理由も特にないので彼女と一緒に外に出る。
僕の部屋は花火をのんびり眺めるには格好のビュースポットだったが、活発な彼女にとっては退屈な場所に他ならない。
数時間前に降った夕立のお陰で気温はそこまで高くなかった。過ごしやすい夜半だ。夜空には太鼓のような音を響かせて、花火が上がり続けている。どこもかしくも人で溢れ、落ち着いて会話をすることができそうに無かった。
「初めてのデートもお祭りだったね」
河川敷に並ぶ屋台を見ながら彼女が呟いた。
「懐かしいな」
彼女はそう言って目を細めた。
「あのとき、ふふっ、一匹も金魚掬えなくてさ、おじさんがおまけで二匹、くれたんだっけ。いまでも実家で飼ってるよ。すごくおっきくなったの。鯉みたいにね」
「名前なんだっけ」
「メリーとジェーン」
心底おかしそうに僕らは笑い合った。
そんな曲あったな、と背伸びして夏生がつけた名前だが、大麻の隠語だと最近知った。
土手の石段に座り込んで見た花火を思い出す。彼女はあのときも同じように微笑んでいた。
「今年も来てくれてありがとうね」
彼女は僕の方を向いてペコリと頭を下げた。二日前に実家の墓参りのついでに寄ったのだ。じゃなきゃわざわざ東京にいるのに田舎に帰るはずがない。
「何だかんだで嬉しかったよ。毎年毎年、忙しいのに……」
「夏生だってわざわざ僕を尋ねてるじゃないか」
「私は先日のお礼を言いにきただけだもん」
盆提灯に照らされた彼女の頬が仄かに赤くなる。りんご飴を持った子どもが二人、はしゃいで走り回っていた。花火はクライマックスに向けてどんどん激しくなっていく。
「初デートの時も一緒に花火見たね」
夏生は目を細めて、色鮮やかに散っていく大輪を眺めていた。
みんな笑顔になれる花火の夜が好きだと、ずっと前に言っていた。今もその思いは変わらないのだろう。
初めて夏生と出会った中学二年生の一学期。「はじめまして」と頭をさげ、顔をあげた彼女のひときわ大きな瞳に、一番前の席の僕は射抜かれたのだ。あの時の心臓の高鳴りを、生涯忘れることはないだろう。
目の前にいる少女は老いることなくあの頃のままだ。
河川敷の花火大会は賑わっていた。出店は最後の稼ぎ時と声を張り上げている。イカ焼きのいい匂いが立ち込めている。呼び込みと花火の音に混じって、高架橋の上を特急電車が駆け抜けた。
右も左もわからぬまま、僕はあの電車に揺られてここまで来た。
東京に来て、六年になるのが驚きだ。いまでもまざまざと駅のホームに降り立った時に感じた不安や焦り、後悔や悲壮感を昨日のことのように思い出すことができる。
田舎を忘れようと都会の大学を受けたわけじゃない。
夏生と同じ大学にいこうとしただけだ。だけど、どうにも僕の頭のデキは彼女に比べてあまりよくないらしく、結局滑り止めのFランクのところしか受からなかった。
彼女は京都の、僕は東京の大学にそれぞれ進学することになった。
遠距離恋愛になるがなにも怖くなかった。はじめから最後まで全部が全部うまくいくと信じて疑わなかったのだ。
地元駅で見送りに集まった友達に、涙ながらに手を降る彼女の姿を今でもたまに夢に見る。
僕らを隔てるようにドアがしまり、そのまま彼女は遠くに行ってしまった。
「大好きだ」と呟いた僕の声は電車の轟音に飲み込まれて、きっと彼女には聞こえていない。
「もう終わりだね」
夏の夜空が静寂を取り戻そうとしていた。
観客は星を眺めるように一瞬の輝きに歓声を上げている。
「今年の夏ももう終わりだな」
感傷に浸るように呟くと、夏生は僕を横目でちらりと見て、
「次は秋が来るだけだよ」
と微笑んだ。
「もういい加減、次に進みなよ」
笑顔とは裏腹な辛辣な一言を告げられる。僕は戸惑いが表情に出ないように取り繕いながら、苦笑いを浮かべ、
「どうにもな」
とどっちつかずの返答をする。
「良い感じの人いないの?」
「全然そんなことないよ。社会人ってのは夏生が思うほど出会いがないんだ」
「それはキミが出会いを求めていないだけでしょ。ずっと後ろ向きに生きてるから。いい加減前を向きなよ。キミのことが好き女の子がきっとそばにいるはずだよ」
「なんでそんなこと言い切れるんだよ」
「んふふ。女のカン」
無邪気な笑顔を浮かべ、彼女は僕を挑発するように睨み付けた。
「私が次に来るのは六年後だけど、キミにはもう会いに行かないからね」
「なんでそんな先なんだよ」
「十三回忌だからね。気分だよ」
人差し指をピンと立てて、彼女は白い歯を見せて笑った。
堪えきれず僕は泣いていた。
彼女のいつもの癖に、僕は胸が締め付けられるような思いになった。
「キミならきっと幸せになれるよ」
根拠のないてきとーな励ましは、思うように伸びない偏差値に頭を抱えていた僕にかけられたものと同じ文面だった。
彼女のお墨付きをもらってもなお、僕は第一志望に落ちたのだ。
人生はそううまくいかない。
二十余年生きてきた僕の人生哲学だ。
なにかに本気になることもなく僕は中途半端に生きてきた、
不完全燃焼を繰り返して、人に自慢できる勲章も、表彰台に登った記憶すらなく、誰かに羨ましがられる青春も、誰かに憐憫されるような挫折も、誰かから尊敬されるような大人にもなれずに、ずっと変わらず子供のまま、今ここに立っている。
そんな中途半端な僕は叱咤しに、彼女はわざわざ来てくれたのだろう。
もうすぐお盆も終わる。
同時に僕の不完全な青春も終わる。
最後に上がった花火が今までで一番大きな花を咲かせた。
音だけでも泣いてしまいそうになる。
「キミならきっと大丈夫」
同じ事をまた言って、彼女は花火の明かりに溶け込むように影になった。
「夏が終わっても、また秋が来るだけ」
当たり前のことを当たり前に言って、彼女は再び僕のまえから煙のようにいなくなった。
また来年のお盆も会いたいが、彼女は二度と会いに来てくれないだろう。
彼女にはまた会えるときまで、死ぬまで生き続けよう。たとえ中途半端な人生でも、夏生と会えただけでもきっと価値があるものだ。
夜空に咲いていた大輪も散ってしまった。
波の音に似た歓声と拍手の音のなか、暗くなった世界に僕は黙祷を捧げた。