流るる
ハッと目を覚ましたのは、すでに陽が高く上った時間だった。4人男兄弟の6人家族だったものだから、小さな頃は家族全員で川の字になって一間で寝ていた。その習慣は今でも残っており、実家に帰ってきた際は和室に布団を敷いて寝ている。
ぐるりと回りを見回すが、枕元に時計がない。おっと、まだ寝ぼけていたのかな。あの時計はもうずっと昔にどこかにいってしまったんだった。恐らく母が捨てたのだろう。アラームを鳴らすと心地の良いメロディで起こしてくれるステキな時計が大好きだった。
もともと子供部屋だったその和室は、こども達が成人し家をでてしまったものだから、すっかり綺麗に片付けられてしまった。勉強机の下に敷いていたカーペットのあたりの畳だけが日焼けしたように少しだけ色が濃い。その子供部屋もいまでは客室にしているようだ。年に1回呼ぶかわからないお客様のために、カラオケセットまで揃えてある。
書斎机と小さなゴミ箱、衣装掛けがあるだけでガランとした部屋だ。しっかり掃除はしてあるのだが、古臭い匂いがするのは恐らく屋根裏に積もったホコリのせいだろう。
「あれ……メガネがないぞ。スマホもない。困ったなあ。」
俺の視力は右が0.1、左が0.08しかなく、メガネがないのは死活問題だ。メガネがなければスマホを見つけることも困難だ。
1階に降りて「おはよう。」と呟いたものの、返事は帰ってこない。どうやら家族は皆、出かけているようだ。今実家に住んでいるのは、両親と13歳離れた弟だ。
母はたぶん地域のボランティアに行っていると思われる。週に3回、火金日がボランティアの日なのだ。父は図書館だろう。俺がこどもの頃から隔週で図書館に通っていたのが今でも続いているらしい。父は最近、絵本を借りて読んでいるそうだ。こどもに読み聞かせした頃の記憶が懐かしく思い出されるのだろう。
弟は高校生なので、部活か塾か、はたまた遊びにでも出かけているのだろう。バイトはしないのかと尋ねたところ、やりたくないとぶっきら棒に返された。普通の子なら反抗期真っ盛りなのだが、いかんせん13も上のお兄ちゃんに反抗なんてできないから、とりあえず受け答えはしてくれている。
「久しぶりの実家だしな。ちょっと散歩でもしようか。」
どこを探してもメガネが見つからないから、仕方がなくそのまま外に出る。仮にも地元だから、視界がぼやけていても問題はなかろう。
白Tシャツにジーパン、素足にサンダルというラフな格好で玄関を後にする。日差しは眩しいが過ごしやすい気温でとても気持ちが良い。
とりあえず外に出たものの、行く宛を決めていなかったものだから、ただ足の向かうがままに任せよう。
俺が東京に出てしまったのも大きな原因だろうが、30にもなってしまうと仲の良かった友人達とも自然と疎遠になってしまう。今や小学校や中学校のころの友人とは一切連絡をとっていない。こんなところをぶらぶらと歩いていたら、ばったりと出くわしたりするかもしれない。
そんなことはあり得ないとしりつつも、もしかしたらと思うと心が踊る。
地元は日本でも知名度の高い市に所属しているが、それは中心街だけの話であって、我が家のまわりは田んぼや雑木林さえある。時折、思い出したかのように車が通り過ぎるが、歩いているのは俺くらいのものだ。
左右を見渡しても人っ子一人ないから、赤信号だったが小走りで渡ってしまう。2車線の大きな通りだが、普段から交通量はあまりない。サンダルがパタパタと跳ね走りづらいのだが、誰もいないのだからそう急ぐ必要はない。
ふと、横断歩道の中央辺りで足を止めたい衝動にかられた。
「もし、ここで転んだりしたら大変なことになるよな。」
もう一度、左右を見渡すが車が来る気配はない。
休日で外に出る人も少ないのだろうか。まるで世界に自分しかいないかのような感覚に陥る。
やがて信号が青になり、点滅し、また赤になる。横断歩道の真ん中あたりでじっと佇んでその様子をただ眺める。
もう一度、青になり点滅し、赤になる。そんなことを3回ほど繰り返したが、ただただ静かな時が過ぎていくばかり。
はじめはちょっぴりドキドキしたが、こうも何も起こらないと飽きてしまう。信号機もこんなときはバカ正直に仕事してないで休んだらいいのに。
急に興味が冷めたので交差点を後にする。街にでも繰り出そうか。昔通った専門学校に顔を出すのも良いだろう。もう卒業して10年にもなる。かつて毎日通ったこの通りは、夏は蒸し暑く冬は凍える風が嫌で嫌でたまらなかったものだが、今や懐かしく愛おしくも思えるから不思議なものだ。
昔は自転車通学だったが、今日は歩いて来てしまったのでバスに乗ることにした。このバス停を使うのはずいぶんと久しぶりだ。
最寄り駅に向かうバスの路線を確認し、ベンチに腰掛ける。いかんせん時計を持っていないものだから、あとどれだけ待てば良いのかわからない。
メガネもスマホも時計もないのはとても不便なはずなのだが、今はなんだか様々なしがらみから解き放たれ清々しい気持ちに満たされている。
目をつむり、両手を大きく広げ、おもいっきり深呼吸する。
日々仕事に追われ、せっかくの週末をだらだら過ごすまいとスケジュールを埋め、心と体を休めることを知らなかった。
こうして何もしないことをするのが、こんなに気持ちの良いことなのだとは。
しばらくそうしていると、待っていたバスが到着したようだ。
「え?」
扉の開いたバスに乗ろうと足をかけたのだが、運転席にはだれもいない。
「え?」
自分がどれくらい大きな声をだしていたのかわからないが、傍から見たら滑稽な姿だったろう。
「ああ、そうか。そうだよな。自動運転なんだ。」
いかんせん、バスなんて乗るのも久方ぶりだから、誰も運転しないバスに面食らってしまった。
数年前に自動運転が法律で認められ、バスやタクシー、運送業などのドライバーが大量リストラされ社会問題になったものだ。しかし、30歳独身で東京在住の俺には遠い世界の話のことだった。
「しっかし、凄いなあ。本当にひとりでに走ってるよ。」
俺が席に座ると、バスは静かに走り出す。
はじめは勝手に走るバスに年甲斐もなくはしゃいでしまったが、5分もすれば慣れてしまう。
バスは時折、誰も待っていないバス停で停車することに気がついた。乗客は俺ひとりなので、降りる客もいない。
どうしてだろう?としばらく考えた結果、どうやらこういうことだと結論付けた。
恐らくだが、バス停にはセンサーが取り付けられており、乗客がいれば止まることになっている。しかし、あまりにお客さんが少ないと、バスは予定時間よりも早く着いてしまうのだ。早く到着し、予定時刻よりもは早く発射してしまうとギリギリに来るお客さんが乗りそこねてしまう。
そこで、時間調整として特定のバス停で停車するようにしているのだろう。
そんなことを考えていると、あたたかい日差しについウトウトしてしまい、俺は眠りに落ちてしまった。
俺が目を覚ますと、景色は一転してバスは田舎道を走っていた。田んぼや雑木林がうっそうとしており、どこまで乗って来てしまったのかわからない。
これは自動運転の悪いところかもしれないなあ。気が付かないとどこまでも行ってしまう。まあ、俺が眠りこけてしまったのが原因だが。
周りを見回してみると、お客さんは相変わらず誰もいない。こんな田舎まで乗ってくる人はそういないだろうから。
「あっ」
と思ったら、後ろの方にひとりだけ乗っていた。
どうやら女の子のようだ。中学生くらいだろうか。最近、小学生も中学生も同じような年齢に見えてしまうようになった。俺ももう30だし、親世代ならこどもが何人かいてもおかしくない年齢なんだろうな。
さて、どうしようか。
このままバスに乗っていてもらちが明かないが、考えなしで降りるのも怖い。次の帰りのバスがいつ来るかもわからないのだから。スマホを持たないで出かけたのは失敗だったな。
困ったなと悩んでいたところで、バスが停車し女の子が席を立つ。
俺はどうしようかと迷ったが、もうどこで降りても同じだろうと、そこで降りることにした。こんな田舎でたまたま同じところで降りるなんて不自然だろうが、俺たち以外に客もいないし自動運転バスなので咎める目は周りにない。
「ちょっと、聞いてもいいかな?」
俺は駆け足で女の子に追いつくと声をかけた。
しかし、女の子は気づかなかったようで、そのまま歩き続ける。
「えっと、あのゴメンね。ちょっと道を聞きたいんだ。どうやらバスに乗り間違えたみたいで。」
もう一度声をかけると、女の子はやっと振り返ってくれた。
女の子はデニム生地のサロペットに、ベージュのつば広ベレー帽という格好だ。肩からななめに、小さなバックをかけており、とてもお洒落な出で立ちだ。
「あの、驚かせてゴメンね。つい寝過ごしてバスを折り間違えちゃったんだ。スマホも忘れて帰り方がわからないんだ。」
「どちらに、行きましょう?」
「えっと、〇〇ってところなんだけど、わかるかな?」
女の子は口元に人差し指を当て考えるしぐさをする。ちょっと待ってくださいといって、スマホでなにやら検索しはじめた。
迷子になって焦っていたせいで気が付かなかったが、周りを見回してみると本当に何もない田舎である。
山間の村落のようだが、田んぼと雑木林があるものの、家屋が見当たらない。どれくらい眠っていたのかわからないが、とんでもない田舎にきてしまったようだ。
女の子は両親が迎えに来てくれるのだろうか?それとも、歩いていくのだろうか。
昼日中とはいえ、こんな誰もいないところで女の子がひとりでいるのは危ないな。俺みたいな見ず知らずの男に何かされでもしたら……
「うーんと、検索してみたけれど、難しいわ。」
「あ、ゴメンね。どうしよう。あ、じゃあ、ちょっとスマホ借りても良いかな?」
女の子はうなずくと、スマホをつきだしてくる。俺はスマホを受け取ると、地図アプリを開く。
んん?おかしいぞ。
栃木?そんなはずはない。俺の実家は関西だ。いくらバスで寝過ごしたとはいえ、栃木まで来てしまうことはありえないだろう。
そもそも、市バスが栃木まで走っているわけがないし、眠っている間に500km近くも移動するのは不可能だ。
「ねえ、これ間違ってないよね。ここって栃木?」
「ええ、そうよ。間違いないわ。」
「あれ、じゃあスマホが壊れてるわけじゃないのか。うーん、どういうことだ。」
頭を捻っていると、目の端でキラリと光るものを捕らえた。
なんだ?
次の瞬間、目の前には大型ダンプトラックが飛び込んできていた。
まずい。
こちらを向いている女の子はまったく気づいていないようだ。
まずいまずい。
考えるよりも早く、体が動いていた。俺は女の子を全力で引き寄せ、勢いのままに投げ飛ばす。
オラァ!
中学生の女の子ならば40kgはあるだろうか。普段の俺ならとても無理だろうが、火事場の馬鹿力でも働いたのかうまくトラックから突き放すことができた。
俺は?まあ、無理だろうな。
でも、良かったよ。彼女は助かったんだから。
大型トラックが俺を通過すると、あたりの景色が一変し渋谷のスクランブル交差点に立っていた。
女の子はあたりをキョロキョロと見回すと、銀座線の走る高架橋の方へ歩いていく。喫煙所の前をとおると顔をゆがませごほごほと咳き込む。
女の子は道端で立ち止まると、鞄から一輪の花をとりだししゃがみこんで供える。目を瞑って両手を合わせると、ブツブツとなにやら口ずさんでいるがここからでは聞こえない。
瞬きをすると、女の子がいたその場には、いまや2歳くらいの子を連れた母娘がいた。2人はそこでやはり花を供えると、手を合わせる。小さな子供も見よう見まねで手を合わせる。
そういえば、あの時もこの子くらいだったな。危なげなよちよち歩きで渋谷をひとりでいるもんだから、つい気になってしまった。
大きくなって、嬉しいよ。もし孫がいたらこんな気持なんだろうか。
俺もそろそろ行かないとな。もう、思い残すこともないよ。ありがとう。